2022年12月5日月曜日

結城亜輝菜(トランスジェンダー女性)  ・〔人権インタビュー〕 いつまでも自分らしく生きたい

 結城亜輝菜(トランスジェンダー女性)  ・〔人権インタビュー〕  いつまでも自分らしく生きたい

レズビアンやゲイ、トランスジェンダーといった性的マイノリティーを表す総称LGBTQ、近年地方都市でも当事者によるパレードが開催されるなど理解が深まりつつあります。   71歳の 結城亜輝菜さんは山形県出身、生まれた時の性別は男性でしたが、中学生の頃に自らの性自認に違和感を感じました。  中学卒業後に上京、男性として就職しますが、その後東京のキャバレーでホステスになります。  そして20代のころ海外で性別適合手術を受けました。  女性として地元の山形県に戻り、旅館や介護の仕事を経験した後、今年4月山形県新庄市にスナックをオープンさせました。  性に関する情報もない周囲に同じような悩みを抱えている人とも中々出会えない、そういう環境で育った結城さんがどのように自分が自分らしく生きてきたのか、そして70歳を越えた今何を思うのか、伺いました。

結城三郎という名前でしたが、子供心に物凄く嫌でした。  ままごと、着せ替え人形とかの遊びはよくやりました。   物心ついた時には父親はいなくて母親に育てられました。   小学校2年生で母親が肺結核にかかって、5年生で母親が退院してきました。  中学2年の時に先生から「結城お前は男なんだから男らしくしなければ駄目だ。」とみんなの前で言われました。  「男らしくという事はどういうことですか。?」と聞いたら先生も判らなかった。   女性らしい仕草が自然と出て来ていました。   男のままで生きてゆくことは自分にはしんどい事だと思いました。   母親には相談できませんでした。  

母親に楽をさせたいと思って東京に上京して京成電鉄に入りました。   18歳で辞めて赤坂のキャバレーでホステスとして働き始めました。   女としていられるのかなあと思うと楽しかったです。  3か月して男であることをばらしましたが、あっさりと認めてくれました。   そこで情報共有できる仲間が出来ました。  ホルモン注射をして段々女性っぽい身体になって行きました。   女性になるための手術をしました。  母親には話しました。  母親は昭和55年に亡くなってしまいました。   手術を終えてやっとこれから自分の思い通りに生きられると思いました。   

7人でメンバー組んで踊りをやっていたので、キャバレーでショーをやるために全国を回りました。  そのころから自分らしく生きようという考えが芽生えていきました。     平成7年の時にお酒が原因で4か月ほど入院して、アルコールは絶対にダメだと言われました。  平成9年の時に田舎に休養に帰りました。  同級生から旅館の仕事の手伝いをしてほしいと言われて、店をたたんで秋に帰って来ました。  自分のことをオープンにしていれば大丈夫だと、受け入れてくれると思いました。   57歳からは大堀温泉の女将となりました。   

コロナ禍で退職しようと思ったら、介護事業もやっていたので、介護施設に職員として働きに行きました。  今後、性的マイノリティーの人たちが介護される立ち場になった時に、どう受け入れてくれるのか、どう扱ってくれるのか心配なところは有ります。(隠している人もいると思うので)   

今年4月にスナックを開業しました。   お客さんと話ができる事が楽しいからやっています。   動ける間はやっていたいです。   いつまでたっても自分という個性を活かせていければ幸せだと思います。   堂々と胸を張って生きてゆくことだと思います。