岡崎朋美(スピードスケート オリンピックメダリスト) ・〔スポーツ明日への伝言〕 スマイル!で滑り続けるスケート人生
1998年長野オリンピックスピードスケート女子500メートル銅メダルを獲得して、そのさわやかな笑顔が朋美スマイルと言われて一躍人気者になった岡崎朋美さん。 長野オリンピックの後、椎間板ヘルニアなどに苦しみながらも、合わせて5回のオリンピックに出場、結婚出産を経て42歳まで第一線で競技を続けました。 氷にのる機会は減っても今なおスケートへの愛情は変わりません。
ソチオリンピックに向け2013年12月28日が最後のレースとなる。 子供を産んで体調を戻すところまではいかずに選考会でオリンピックに参加する夢が途絶えてしまった。 その時娘は3歳でしたが、いまは小学校6年生です。
今年10月に小平奈緒選手が最後のレースを長野で行う。 500mでは金メダルを取った選手。 元々彼女は1000,1500mが得意でしたが、500mのスペシャリストになると決めた時からスケーティング、身体の作り方、いろんな人に聞きまわって自分の身体を改善して超スプリンターになり、結構稀です。
ソチオリンピック選考会の時には42歳になっていて、体力を維持しつつテクニックを磨く方向、子育てとかで大変だなとは思いました。 体験できたのでこういったことにチャレンジしようとする人にアドバイスはできると思います。
1971年北海道斜里郡清里町出身。 実家は酪農家。 野山を駆け巡っていました。 同性の転校生が来てスケートで自分の不甲斐なさを感じました。 小学校の校庭には330mのリンクがありました。(400m取れなかった。) 手作り的なリンクでした。 当時はマイナス20,25℃はざらでした。 釧路星園高校のスケート部に入りましたが、2年生の時に富士急スケート部の監督だった長田照正さんに見いだされることになる。 富士急行に入社。 回りからはなんで富士急行に行けるんだと羨ましがられて、このチャンスは逃してはいけないなと思いました。 先輩には橋本聖子さんがいました。 練習はきつかったです。
リレハンメルで初めてオリンピックに行きました。 長野オリンピックの前にスラップスケートという新しいスケートが登場する。 衝撃的でした。 ノーマルスケートで頂点に行っていたので、ワールドカップでも優勝していて、長野オリンピックでは金が取れると思っていた矢先にスラップスケート(踵が離れるタイプ)が出てしまって、後1年もなかったのでそれに合わせるしかなくて、ずーっとそのスケートに乗っていました。
1998年長野オリンピックでは最終組で、インスタートで相手はカナダの女性で日本新記録を出しました。 2回目はアウトからのスタート、同タイムで銅メダルを取ることが出来ました。 ホッとしました。 そのさわやかな笑顔は「朋美スマイル」と呼ばれ全国的な人気者となりました。
2000年3月突然に腰に激痛が走る。 椎間板ヘルニアになってしまった。 2002年ソルトレークシティオリンピック500メートルに出場する。 医師からは競技を辞めれば手術をしなくても大丈夫と言われていた。 手術を希望する。 ソルトレークシティオリンピックでは500m6位で入賞。 2006年トリノオリンピック 500m 4位入賞。 2006年12月の全日本スプリント選手権では9年振り3度目の総合優勝を達成。 表彰状授与式で橋本聖子さんが「表彰状・・・優勝、岡崎朋美。35歳!」と、岡崎の当時の実年齢までアドリブで読み上げ爆笑となる。 結婚の予定もあり彼が駆けつけてくれたりもありました。 2010年バンクーバーオリンピックにも出場しました。 プロポーズはカラオケボックスで言われて、夢と現実の違いを感じました。
主人も野球でピッチャーをやっていてプロを目指したが怪我で断念してサラリーマンになりました。 私に対してはやれるだけやっていいよと言ってくれました。 海外遠征とかもおおくて、離れ離れになることも結構ありました。 結婚式は氷上結婚式(リンク)でした。 私の人間力を高めてくれたのはオリンピックだと思っています。
2020年3月にカナダで第12回マスターズ国際スプリントゲームズに出場。 F45(45歳以上50歳未満)のカテゴリー500m・スプリントサマリー(4種目総合ポイント)で世界新を記録、金メダルを獲得しました。