遠藤誉(筑波大学名誉教授) ・死線を越えて74年 前編
1941年、満州国新京市(現:吉林省長春市)生まれ、81歳。 中国共産党軍と国民党軍との長春包囲戦を体験し、1953年(昭和28年)に日本に帰国、一橋大学、千葉大学、筑波大学などで教鞭を取り中国社会科学院社会学研究所研究員、上海交通大学客員教授などを兼任しました。 2019年に中国問題グローバル研究所を立ち上げ、ウクライナ戦争における中国による対ロシア戦略、世界はどう変わるのか、もう一つのジェノサイド長春の惨劇、チャーズなどを執筆しています。 チャーズとは検問所という意味です。
中国がゼロコロナ政策を取っていて、民衆が爆発してましたが。 習近平が何故ゼロコロナ政策をしているかというと、医療資源が不足していて、もしゼロコロナを解除したら3か月で160万人ぐらいは死ぬだろうとシュミレーションが出て居たり、100万とか、200万とかいろいろシュミレーションがあります。 2年以上たっているので、ゼロコロナを解除していたら累計で数100万とか1000万人近く死亡していたという可能性もあるかもしれない。 人口減少がとても怖くて、労働力不足が中国でも問題になっていて、一人っ子政策を解除しても全然出生率が上がらない。 大都会程一人当たりの医療資源が少ない。 デモ隊と一般の人との乖離があり、争っている場面もある。 11月11日に新しい20項目の改善案を出したが、まだ間に合わない。
私は歳を取ればとるほど仕事量が増えてきて、4月に『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』という本を出して、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』を復刻して、『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』を書き終わったところです。
『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』の内容は、習近平は何のために三期目を狙っているかというと、父親の仇討ちをしているわけです。 鄧小平が1962年に事実無根の罪をでっちあげて、父親の習仲勲を失脚させて16年間牢獄に軟禁させた。 毛沢東が凄く習仲勲を可愛がっていて、後継者にしようと思っていた。 中国西北部の革命根拠地を築いた人で、毛沢東が逃れることが出来た唯一のところで、そこで毛沢東は救われて革命を進めて、中華人民共和国が誕生したわけですが、毛沢東にとって習仲勲は大の恩人で後継者にしようとしたわけです。 しかし鄧小平にとっては気に入らなかった。 2012年に習近平は総書記になる。 1962年から50年経っているが、その間、心の中に復讐してやるという強烈な気持ちが爆発したということで、トップに立ったら絶対降りないぞと、3期目が実現してしまった。 死ぬまでやるのかというと、後継者を考えているようです。 チャイナ・セブンというのは、中共中央政治局常務委員が7名で、胡 錦濤政権の時には9人でしたが。 実はこのチャイナ・セブンの中に後継者がいるという事を発見しました。 『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』はそのことを追いかけていった本です。
ロシアのウクライナ侵攻についてですが、ロシア軍の侵攻は小さいころ味わいました。 ソ連軍が満州国に侵攻してきました。(1945年8月) 私は4歳でした。 機関銃をもって毎日のように襲ってきて恐ろしい目に遭いました。 PTSD((Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”)の症状になってしまいました。 今は回復しつつあります。
1941年、満州国新京市(現:吉林省長春市)生まれ。 父親は製薬会社を経営、宗教家でもありました。 父は他人の役に立ちたいと思っていました。 麻薬中毒者の治療薬の特許を持っていましたので、中国に渡りました。 父は中国人の孤児を養っていました。 その中の一人が私たちの命を救ってくれる役割をすることになります。 父は教育が大事だという事で、若い朝鮮人の従業員を夜学に通わせていました。 3時のおやつには私たちには粗末なおやつでしたが、母は若い朝鮮人の従業員にはごちそうを食べさせていました。 朝鮮人の学校の校長先生も朝鮮人の方ですが、やがて後になって私たち一家を救ってくれることになります。 麻薬中毒者の治療薬はどんなにインフレになっても値段を上げることはしませんでした。 父は蓄財をせずに関東軍に戦闘機を17機を献上しました。
1945年8月9日ソ連が日本に宣戦布告、長春にもソ連兵がやってきました。 関東軍は南の方に逃げて行ってしまって長春は空っぽで、ソ連軍の蛮行はすさまじかったです。 その後1946年4月に中国共産党の八路軍が攻めてきて、その年に流れ弾が私の腕に当たって、身障者になってしまいました。 開拓民の人たちを私たちの家に引き取って、一緒に生活していました。 その中に結核のお姉さんがいてうつってしまって、骨髄炎になってしまって、厳しい状況になりました。 1946年5月に八路軍は北の方に行ってしまい、蒋介石の直系の正規軍が入って来て治安が保たれるようになって、百万人戦争という事で中国に残っている日本人を帰国させるという事が起きました。 父の工場は国民党軍の政府に接収されていたので、中国のために尽くせと言う事で帰国は許してはもらえませんでした。
1947年に2回目の日本人の引き上げが終わって、突然、長春の電気が消えて、ガス、水道も出なくなり、食料も入ってこなくなり、八路軍によって食糧封鎖されたことが判りました。 餓死者が出てきて、道路に這い出してきた幼児を犬が食べたり、その犬を人間が殺して食べるとかそういう状況がありました。 家でも餓死者が出て来ました。 長春市を中国共産党軍が鉄条網で包囲して、中には国民党軍と一般庶民がいて、外には共産党軍がいるという状況でした。(長春包囲戦) 卡子(チャーズ。 検問所というような意味、包囲網と解放区の間の緩衝区域)で国民党軍の二重になっているという事を知ったのは卡子(チャーズ)を出た時でした。 父が市長に解除して貰うようにお願いに行って、軍用の食料を貰って脱出することになりました。 脱出前夜4月19日に一番下の弟が餓死しました。 「ごめんね。 まーちゃん。」と父が言っていた記憶があります。
朝から歩いて夕方に国民党軍の卡子(チャーズ)に着いて、門をくぐれば解放区(共産党)があり豊かな食べ物があると思っていたので、門をくぐったのですが、本格的なこの世とは思えないような、地獄のような光景がありました。 地面には餓死体でうまっていて、腕、足は完璧に肉がなくなってしまっていて、お腹だけが大きく緑色に膨らんで、腐乱している。 銀蝿が黒くなるほど群がっていました。 八路軍によって、二重にある中間地帯に追い込まれ餓死体のなか野宿しました。 それからは正常な神経ではいられませんでした。 お小水を餓死体のないところを捜して済まそうとしましたが、浅く埋められた餓死体の顔が出てきて、泥が流されてここで用をたしたんだと、恐怖と罪悪感で、何十年も苦しみました。 もっと決定的だったのは、夜中になると地面を這うよな唸り声がするんです。 父がお祈りをするという事で一緒について行って、八路軍の鉄条網の近くで吊るされていた死体の山に向かって、父が「どうか救われてくれ。」とお祈りを奉げるんです。 死体と思われた手が動いたんです。 その瞬間に私は限界が来て、記憶喪失にかってしまって、言葉が出せない子になってしまいました。 わからなくなることによって人間は生き延びるという力を持っているんだなという風に、後から思いました。
4日目に卡子(チャーズ)を出る事になりました。 解放区には技術者がいないので、技術者が欲しいという政策があり、父は麻薬中毒者の治療薬の特許を持っていたので、そのお陰で門をでてもいいという事になりましたが、父は私たち家族だけではなく、父を頼りにして生きてきた人達も一緒に連れて出ました。 その中に面倒を見ていたが、亡くなってしまったご主人の遺族、奥さんと子供がいましたが、技術者ではないので駄目だと言われてしまいました。 父は「この家族が出れないなら私も残る。」と言ってしまいました。 母には子供が5人いて、一番下は餓死してしまって、私もいつ死んでもおかしくないような状況でした。 母は「この子たちの父親でもあるので、どうかそのことを考えてください。」と言って頼んで、父は断腸の思いで、その卡子(チャーズ)を出る事になりました。その家族の「裏切者。」という声が私の耳に残っています。 記憶を取り戻した時にそういったことがよみがえってきました。 そういったのは妙子?ちゃんと言いますが、後日、日本に帰ってから成人して一生懸命探しまくって、ついに再会をすることが出来ました。 父は臨終のときに母の手を取って、「母さん 卡子(チャーズはつらかったのう。 本当に申し訳ないことをした。」と母に最期の言葉を言いました。 私はそれを聞いてどれほど父は悔しい思いをして生涯生きてきたのか、という事を初めて知りました。 絶対この史実を残すことによって、仇を取るという、強烈な気持ちを抱きました。