頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 ショパン
5年に一度開かれるショパン国際ピアノコンクールで去年日本の反田恭平さんと小林愛実さんがそれぞれ2位と4位に入賞しています。 今日は「ピアノの詩人」ショパンを取り上げます。
「僕はかつて誰の役に立たなかったことを、僕は承知している。 最もあまり自分の為にも役立ったことはないんだ。 僕の身体を作る土からは子猫のための小さな小屋くらいしかできないだろう。」 フレデリック・ショパン
ポーランド出身の作曲家でありピアニスト、代表的な曲には「英雄ポロネーズ」、「子犬のワルツ」、「舟歌」、「葬送行進曲」、「幻想曲」など多数あります。
「ショパンの本当の魅力は小さな音で、小さな音では聞こえなくなるから大きな音で演奏するが、そうするとそれはすでにショパンの音ではない」、と言っている人がいます。
「後ろの席の人々は僕が小さい音で弾き過ぎたとつぶやいている。 僕があまりに柔らかく弾く、むしろ繊細に弾き過ぎるとどこでも言われているようです。 当然の非難が新聞に出る事と思っています。 しかしそんなことは一向にかまいません。 僕に取ってやかましく弾き過ぎたと言われるより、むしろ好ましいのです。 彼は僕の弾いたピアノの音が弱すぎると言ったが、それは僕の弾き方なのだ。」 自分自身も小さい音が自分の音だと言っているわけです。 ショパンは余り大ホールではやっていない。
「僕は永久に我が家を忘れるために立ち去るだろうと思う。 死ぬために立ち去るだろうと思う。 それまで暮らしてきた以外の土地で死ぬのはどんなにか物寂しい事だろう。 死の床の傍らに家族のものの替わりに、冷淡な医者や召使を並べるとはどんなに恐ろしい事だろう。」 フレデリック・ショパン
ショパンは20歳の時にポーランドを出てオーストリアのウイーンに行く。 その直前のお別れ演奏会でショパン自身がこの曲(ピアノ協奏曲第一番ホ短調作品11)を弾いて共演された。 ショパンは性格もあり、ショパンは大きい決断は苦手だったようです。
「いつも僕がどんなに決断力がないか、皆さんがご存じでしょう。」と家族への手紙にも書いている。 ショパンは身体も丈夫ではなかったので他の土地に行くことにも不安だった。 ポーランドに対するロシアの弾圧もあった。 ショパンがウイーンに向かったのが1830年11月2日ですが、同じ11月29日に11月蜂起と呼ばれる革命が起きる。 その後一生ショパンは故郷に戻ることはできなかった。
1810年3月1日にショパンは生まれた。 1812年にはナポレオンのロシア遠征、ロシアに負ける。 ウイーンに行ったがうまくいかなかった。 音楽の流行も変化した。(陽気に踊るワルツが大人気) ショパンの音楽とは違っていた。 ポーランドの革命によってポーランド人はウイーンでは冷たくあしらわれるようになる。
「外国に来てから今までも見たものは全て厭わしく思われ、我が家をその値さえ知らなかった祝福された瞬間を恋しく思い、ため息をつくばかりであの頃抱いたと思われたものが今は平凡で、平凡だと思っていたものが比類がなくあまりに偉大で高すぎる。」 フレデリック・ショパンの日記より。
ショパンは生活費にも困るようになり、散々迷ってパリに行くことになる。 そこでショパンの運命は大きく変わってゆく。
「この瞬間世界に新しい死骸が出来ているだろう。 子らを失う母親たち、母親を失う子供ら、死者への多くの悲嘆と多くの喜び、悪しき死骸と良き死骸、徳も悪もひとつであり、死骸に成れば終いである。」 フレデリック・ショパン
ウイーンからパリに向かう時にワルシャワがロシア軍の総攻撃で陥落したという悲しいニュースを聞く。 革命は1年ももたずに失敗に終わる。 多くの市民が虐殺された。
「僕は時にただ唸り、苦悶し、絶望をピアノに傾ける事しかできない。」 フレデリック・ショパン
*「革命のエチュード」
*「幻想即興曲」 24歳の時の作曲で未発表の作品で遺言で破棄されるはずだった曲 友人が遺言に背いて発表した。 ゆえに現存している。
ショパンは曲を完成させるためには何度も何度も推敲を重ねたらしい。
「たとえ誰かと恋に落ちたことが出来たとしても、僕はやっぱり結婚しないだろう。 食べるものも住む家もないだろうから。 そして金持ちの女は金持ちの男を、又もし貧しい男にしても少なくとも病人でなくもっと若くて立派な男を期待する。」 フレデリック・ショパン
ショパンは生涯独身で子供もいません。 恋愛をしてプロポーズしてOKをもらった事もある。(26歳) 健康問題で貴族のマリアとの婚約が駄目になった。 ジョルジュ・サンド(6歳年上)との恋愛もある。 当時子供も2人いた。 ショパンが28歳から37歳まで9年間共に過ごす。 体調を崩してマヨルカ島に行くが、大荒れで悲惨だったマヨルカ島での冬でさらに悪化する。
「一人は僕がくたばったと言った。 二人目は死にかけているといい、三人目は死ぬだろうと言った。」 マヨルカ島の医師が言った言葉。 死にそうになったが、その後何とか回復する。 その後何度も体調を崩すが、ジョルジュ・サンドが介抱をする。 この交際期間中に名作が一杯生まれている。
*「雨だれ」 前奏曲作品28の15
「なぜ私はこんなにも酷く苦しまなければならないのでしょうか。 こんなふうにみじめにベッドで死ぬのなら、この苦痛に耐えることが一体誰のためになるでしょう。」 フレデリック・ショパン 亡くなる前月に弟子に言った言葉
ショパンは39歳の若さで亡くなる。 いつから結核になっていたかは諸説あるが、7,8歳からかもしれないという説もあり、30年以上身体が辛かったことになる。 血を吐いたのは27歳の時。
「不幸な人の何故にはいかなる応答もない。」 シモーヌ・ヴェイユ
答えのないことが余計に辛さを増してくる。
「何故神は僕を一思いにでなく、こんなふうに徐々にまだらっこしい熱で殺さなくてはならないのか。」 フレデリック・ショパン
ショパンを語るうえでずーっと病気だったという事はとっても大きなことだったと思います。
ショパンが34歳の時に父親がワルシャワで結核で亡くなる。 ショックで寝込んでしまって命も危ないと思って、ジョルジュ・サンドがショパンの母親に手紙で知らせて、姉がやって来て段々元気を取り戻して、作曲したのがピアノソナタ第三番ロ短調 作品58です。
ジョルジュ・サンドと別れた後、イギリスに行きます。 気候が合わなくて益々体調を崩してしまう。 パリに戻ることになるが、知り合いに部屋を用意してほしいと頼んで、寝込むのですみれの花を買っておいてほしいと頼む。 ささやかな詩に会いたいと言いました。
*エチュード 「別れの曲」 ホ長調 作品10ー3
ショパンは「別れの曲」について、「一生のうちに二度とこんな美しい旋律を見つけることはできないだろう。」と言っています。
「居間に良い香りがするように金曜日にすみれの花束を買わせてほしい。 帰宅した時に何かささやかな詩に会いたいから。 長い間寝付くに決まっている寝室へと居間を通り抜ける時に。」 フレデリック・ショパン