山中しのぶ(若年性アルツハイマー型認知症患者・高齢者介護施設経営)・〔人権インタビュー〕 家族で向き合う若年性認知症
若い18歳から64歳の間に発症した認知症を若年性認知症と呼びます。 患者数はおよそ全国で3万6000人、1万人当たりおよそ5人が発症すると言われています。 高知県南国市の山中しのぶさん(45歳)はいまからおよそ4年前、41歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 当時シングルマザーとして3人の息子を育てていましたが、認知症の診断に絶望し子供たちを残して命を断とうと考えたこともあります。 周囲の人たちの支えで前向きに生きようと気持ちを切り替えた山中さんは、今年10月自身と同じ認知症患者や高齢者が働いて社会に居場所を作るデーサービス施設を開設しました。
最初違和感を感じたのは40歳の時でした。 私がシングルマザーで長男が高校生、中学生の次男、小学生の三男と寮母をしていたので5名、合計8名で暮らしていました。 携帯ショップの営業で働いていました。 子供を学校に行かせるのに時間が早かったり、スケジュールの段取りが狂っているのに気付いておかしなと思いました。 月一回の朝のミーティングが8時からでしたが、全くわからなかったです。(遅刻してしまった。) 好きなもの(マヨネーズとか)をいつの間にかたくさん買ってしまう。
おかしいと思って近くの脳神経外科に行きました。 鬱で認知症である境界線だと言われました。 1年後に違う病院に行ったら若年性アルツハイマー型認知症と言われました。 診断結果を伝える時には親と一緒に来てくれと言われて母親と行きましたが、母が「ごめん、こんな身体に産んでしまって。」と言って泣き崩れました。 今の医療では完治する,直すことが出来ませんと医師からは言われました。 工夫することで今までと変わらず生活することはできるという希望を教えてくれました。 長男、次男には伝えましたが、三男には中学生になってから伝えました。
ネットで検索すると重度の情報しかなくて、怖くなり、絶望的になりました。 迷惑をかけるなら死んでしまった方がましだと思ったりしました。 仕事は休んだり出勤したりしていました。 休むときにはずーっと布団の中でふさぎ込んで、そうすると体調も悪くなりました。 心理的におかしくなっていたようで、虫と話をしていたとか、ぼーっとしていたとか息子から言われました。 長男が大学が受かりましたが、学費をどうやって払えばいいのかとかいろいろ考えました。 大学に行くために長男は家を出て、次男は学校に行くために家を出ていましたが、転校して家に戻ってくれました。 鬱がひどくて家事(食事、洗濯など)もままならない状況でした。 次男はヤングケアラーの状況でした。 担任の先生が生活に対して助けてくれました。 途中で次男は野球部も辞めて支えてくれました。 外出時も手を握って一緒に歩いてくれたりしてくれました。
仕事にも疲れて転職しようと思って、或る高齢者施設に見学に行きました。 介護、支援とはかけ離れた現場でした。 私はまだ認知症と診断される前でした。 おばあちゃんが椅子に座っていた時に、スタッフの人がスリッパでおばあちゃんの頭を叩いたんです。このおばあちゃんは認知症の中期なので判らん、というんです。 トイレに外からの鍵があり、夜中に暴れたり寝なかったりしたら、そこに閉じ込めるという事でした。
検索すると、39歳で若年性アルツハイマー型認知症になった、車のトップセールスマンの丹野さんの人のことが出て来ました。 連絡を取ったら、これは負けて居られないと思いました。 丹野さんが講演する事になっていたが、体調を崩してこれなくなって、その文章を代読させてもらいました。 最後に私も同じ病気ですと、皆さんの前でお伝えしました。 そこからいろ色な部署(行政とか)の人と話を聞いていただけるようになりました。 自分が元気で明るく前向きに過ごしている姿を見せることで変ってゆくのかなと思います。
4年経って、高齢者向けのデーサービス施設、古民家を改装した施設を立ち上げました。 今までのような決められたデーサービスはしないです。 車の洗車、薬品会社の清掃、ミカン狩り、マンションの清掃などです。 働いた分を対価としていただくというシステムです。 農業も考えています。 メンバーの方は好きな仕事を選べます。 私は営業が得意なのでいろいろなところに契約をしに行っています。 自分自身体調も良くなりました。 記憶力も良くなっているような気もします。 ここまで立ち直れるようになった一番は家族のお陰ですね。 高齢者向けのデーサービス施設では4人の高齢者の方が得意なことを通して対価を得ようと取り組んでいます。
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