矢萩春恵(書家) ・私の書へのまなざし
今年の10月には銀座で「まなざし」というテーマで個展を開き、多くの人が訪れ話題になりました。 矢萩さんは昭和3年東京神田生まれ、94歳。 共立女子薬科大学を卒業し、東京大学医学部薬科選科を1年で終了、父の会社の運送業を手伝いながら書道を続けました。 その後かなの町春草さん、漢字の手島右卿さんに師事して、めきめき腕を挙げました。 1974年に初の個展を開き、海外でも個展を開いてきました。 1989年にはハーバード大学で書道を教えるなどワールドワイドで書を表現してきました。
特にこれといった運動はしていませんが、考え方を前向きにとらえようとしています。 今年の10月には銀座で「まなざし」というテーマで個展を開き、作品51点を展示。 全部初出品で、140×40~50cmぐらいのが大きいほうです。 「まなざし」というテーマに合わせて言葉を捜しだすのが、第一の問題ですね。 一文字から四文字熟語、文章などいろいろです。 国、桜、鴎、笑う、急転直下、求める、・・・等々。 10日間毎日会場に行きました。 どう感じていただけるのかとか、張り合いがあります。
兄弟5人で長女(姉)、長男、(弟)を二人亡くして今3人です。 父が49歳で亡くなりました。(20歳の時) 矢萩家を何とか守って行かなくてはいけないという思いがありました。 長女が亡くなったため、私が一番上です。 運送業の仕事を続けて行かなくてはいけなくて、合間にお花、書を習ったりしました。 共立女子薬科大学を卒業し、東京大学医学部薬科選科を1年で終了しました。(薬学は父の意向でした。) かなの町春草さん、漢字の手島右卿さんに師事しました。 手島先生はとっても深いものをお持ちでした。 目の付け所、運筆が先生としての風格と気迫に圧倒されました。(23歳ごろ) 先生は無口でここが悪いとか一切言いませんでしたが、目が言っていました。
線質をしっかり学ばないといけないと思います。 どう違うか、自分自身で会得して行かなければ、書の線というものにぶつからないと思います。 それを感じるのは自分が苦労しないといけない。 美しく書くという事はやっているうちに誰にでも出来ると思いますが、相手に訴えるような線質にならなければいけないと思います。 手島先生から教わった唯一の宝物です。 これは経験しないと判らないものだと思いまう。
色がなくても美しいと感じてもらえるような豊かな表現ができる様な線質になることが大事だと思います。 それが人によって感じ方が違うと思いますが、だから書は難しいと言えば難しいし、表現はまちまちだと思います。 墨を使うという事は、墨のどういう線でどういう風な薄さにするか、濃さにするかによって、墨の美しさを、墨を主体にして出すかという事だと思います。 紙と墨で書を表現するとすれば、それをどう表現してゆくかという事ですが、書くものは別として、表現の仕方として。 紙などもいろいろ広がって来て、それはアートになってきたと思います。 最初書はアートではなかった。 書の線とか表現方法とか線質、間、とかが本来最も基本的なものですね。 最近はアートも入って来て、変わって来ました。 しかし、書の本質はそういったものではないと思います。
1964年の東京オリンピックの時に選手村でいろいろな先生と共に、海外の選手の前で書道を披露しました。 選手は驚いていただけでした。 平成元年から3年までハーバード大学で書道の指導をしました。 招いてくれた先生は書に対して興味のある方でした。
薬学を学びましたが、自然と書道の方に向かっていきました。 臨書と言って昔のものを習うということです。 何故こういう風なものをこうやって表現して、勉強しなければいけないのかという、自分自身の方法をちゃんと見極めてからやりなさいと言っています。 この書を書いてどんな表現をしたらいいのか、線質はどうか、そういう事を見極めなさいと、それを練習によって会得しなさい、良いものを多く見なさい、そういう方法です。
書の線質をどう感じていただけるか、それの追及をやっていきたい。 思いを表現する、表現の仕方をどうするかという事に繋がってゆくと思います。 美しいという事はどう書いても美しいんだという風に言われてしまえばそうなんですが、本当の美しさというものは一つとか二つとかしかないと思うんです。 そこまで見極められる自分を育てたいと思います。 チャレンジ精神、それだけです。 やっていた方が、生きている甲斐がある。