鈴々舎馬桜(落語家) ・昭和の寄席のお正月
馬桜さんは長年にわたって落語をはじめとする伝統芸能の楽しみ方や昔の落語界の様子についてご自身の独演会や大学市民講座などで語っています。
入門した昭和45年ごろの寄席の年末年始の雰囲気は一言で言うと、「いい時代でした。」と言うしかないですね。 不便な中でやっていたのでそれが良かったんじゃないかなあと思います。 入門したころの70歳以上は志ん生師匠と文楽師匠ぐらいで、圓生師匠が60代で、小さん師匠も50代前後、談志師匠が30代でしたから。
昭和24年(1949年)東京都台東区の生まれ、昭和44年立川談志師匠に入門、前座名談吾で楽屋入り。 昭和50年二ツ目の時に談生と改名、昭和57年真打昇進、昭和60年10月に五代目鈴々舎馬風の門下に移籍し、鈴々舎馬桜と改名。
当時圓生師匠が会長で新しい人は入れるなというお達しがあり、見習いは何人かいました。 談志師匠の方針として寄席に行って覚えろと言う事で、昼席などにも出ましたが、御給金はゼロでした。 小さん師匠の代になった時に、見習いにもいくらか上げろと言う事でしたが、落語を覚えなくてはいけない、師匠の癖を覚えなければいけない(お茶の好みを理解しないといけない。)着物の畳み方もいろいろありました。 年末に談志師匠のところへ掃除にいって奥さんからうな重をご馳走になりました。 奥さんから口止めされましたが、あのうな重はおいしかったですね。 元旦の挨拶に伺うんですが、談志師匠の師匠が柳家小さん師匠で目白に住んでいて、上野の黒門町に住んでいた8代目の文楽師匠がいてそこへ全部行かなければいけない。 着物で来いと言われて談志師匠に行った時にはまだ明けてなかったですね。 その後新大久保から目白に行って小さん師匠のところに行くわけですが、弟子が沢山いましたから、僕らみたいな孫弟子もいたので大所帯でした。 小さん師匠のところでお雑煮で祝って、その後黒門町に行きます。 噺家が朝一番早いのは元旦ですかね。 今は緩くなって来ました。
元旦の正月興行があり、前座は開場時間の少なくとも30分前にはいきました。 開場は9時でした。 一番太鼓をやるのが前座でした。 お茶の用意などもそれまでにやっておかなければいけません。 お正月は皆さん着物で来るので、着せたり、たたむ世話はなかった。 お世話の見返りとしてお年玉があるという事で、お年玉は当時は100円でした。(板垣退助の100円札でした。) 名前が売れていた林家三平さん、江戸や猫八さんが500円でした。 前座の給金が150円ぐらいでした。 落語家だけでなくて出演者が20人いれば2000円になりました。 帯を新しくした方がいいと言われて帯は当時で8000円でした。 今は3万5000円ぐらいしています。 山手線の一駅が当時で30円でした。
元旦から10日までが初席で、11日からが二の席で、21日から通常興業に戻って下席となります。 お年玉の時効はいつなのか質問したら、立春迄だそうで、それ以降は新しい年という事でした。 今残っているのが上野、浅草、新宿、池袋です。 親席があり、新宿、池袋が山の手地区と上野、浅草の下町地区があります。 10日間ずつ落語協会と落語芸術協会が替わりばんこにやっています。 そこに立川流と圓楽党さんは出られない。 昭和45年ごろには人形町末広があって、人形町末広で前座をやったのは私より上の人たちです。 でも一人だけ若手がいてそれが今の林家正蔵です。 林家三平師匠が初席のとりだったもので、小三平という名前で出ました。(小学校上がるかどうかのころ)
人形町末広は畳敷きだったので通常は2人ぐらいですが、初席は混むので6,7人が座らせられていた。 浅草は凄かったです。 入るところがなくて、お客様を上手に10人、下手に10人と高座にいれました。 奇術だと横から見ると丸見えになってしまうという心配があったが、アダチ龍光さんは普段と全く変わらなくやっていました。 下手の人たちが何とかタネを見ようと首を伸ばしているのを覚えています。 コロナになってしまってお正月の寄席らしくないと思います。 志ん朝、柳朝、圓楽、談志は当時四天王と呼ばれていました。 でも「めくり」で拍手の大きさは三平師匠にはかなわなかったですね。 月の家圓鏡も人気が凄かったですね。 志ん朝、圓鏡、圓楽、談志が四天王だと言う人もいます。
楽屋では初席では酒は飲まないです。 池袋演芸場は初席は圓生師匠がとりで、本来もっと短いのですが30分ありみっちり元日からやっていました。 柳家さん生師匠は酒が好きで高座に上がって15分の持ち時間なのに降りないので、前座二人で降ろそうとするが降りない、このやり取りが面白いという事で話題になったが、飲んで高座に上がることを禁じられて、その年はしらふで高座に上がり、前回見たお客さんがなんで酔ってないんだと、あれが正月の風景じゃないかと言ったそうです。 そのようにおおらかでしたね。
桂文楽師匠は黒紋付に袴でしたが、元旦から3日間だけは小紋のおついでした。 えっと驚くぐらい派手でした。 今ではそれが一般的になり黒紋付が珍しいという時代になってしまいました。 二ツ目からはお年始に行くという事があって、お世話になった方のところに行くわけです。 昭和51年、 稲荷町、先代の正蔵師匠が住んでいて、行くと手ぬぐいと牛めしを頂けます。 3日間すじ肉を煮込むそうです。 アクとか油をマメにとります。 それは美味かったですね。 志ん朝師匠がその牛めしのやり方を継ごうという事で奥さん弟子がやったそうですが1年で音を上げて、カレーにしましたが、カレーも美味かったですね。 先代の金馬師匠は魚河岸のおせちで美味しかったです。 うちの師匠はローストビーフなんです。 食い物の話は切りがないです。