2023年1月13日金曜日

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・心を励ます声~昔話と我が人生 前編

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・心を励ます声~昔話と我が人生 前編 

昭和5年(1930年)中国長春の生まれ、92歳。  昔話の世界的大一人者で、筑波大学名誉教授。  大学時代に出会ったドイツのグリム童話の研究から始まり、口承文芸である昔話の研究者となった小澤さん、以来70年以上の間日本と世界の昔話について、研究を重ねてきました。  小澤さんは昔話大学の活動のほか、福岡のFMラジオ番組で月に一度の昔話のレギュラー番組を担当するなど、92歳になった今も昔話の魅力を広く伝える活動をしています。

「小澤昔ばなし研究所」を開いてやっています。  主な管理は僕がやっています。   コロナになるまでは出かけて行って講演をしたり、研究会へも出かけてやっていました。    今はインターネットでつないでやっています。   全国で38か所やっています。    起きるのは8時、8時半とか遅いです。   夜は12時半ぐらいまで仕事をしています。 弟(小澤征爾)は朝型です。  真似したんですが、眠くなってしまって全然駄目でした。  一日の遅い時間でアイディアが浮かんできたり、走るのも遅くていつもビリです。    初めて本を出したのも40歳ぐらいですから遅いです。 

2022年1月に「昔話の扉をひらこう」を出版。  昔話は実はとっても大事なことを語っている。  知ってもらうための出来るだけ広く読んでもらうようにしています。   話の内容としては駄目な子供の話が多い。 しかし話の展開のなかで段々力を出して、幸せを獲得してゆくという、そのプロセスを語っているという事が大事です。  人間の生の声というのは大事です。  声はすぐに消えてしまうが、耳に中にいつまでも残ります。  おじいちゃんおばあちゃんがあんなことを話してくれたなあと思うと、自分のことを愛してくれていたんだなあという事に気が付きますね。(大人になってから。 子供のころは気が付かないが。)  それが大事なんです。  字で残してくれてもいいが、声はもっと直接的ですね。  

おふくろが絵本とか話が好きだったから随分読んでくれたりしました。 中学3年の時に敗戦なんです。  中学1,2,3年生の時には敗戦末期でした。  軍歌を歌わせられたり、話も「敵中横断三百里」とか「肉弾三銃士」とかそんなふうな絵本でした。  平和は大事だと思います。    中学2年の時には立川にいましたが、陸軍の飛行場(今は昭和公園)があり、始終爆撃されるわけです。   怖かったです。 ウクライナの状況を見ると思い出してしまって辛いだろうなあと思います。   3月10日には東京大空襲がありました。  夜になると東の空が真っ赤になって、立川にいて新聞が読めるぐらい赤くなっちゃいました。   3か月後ぐらいに阿佐ヶ谷、杉並、荻窪あたりが空襲されたがこれも凄かった。    自分の命を守るのが精一杯でした。  だからああいう戦争は絶対やっちゃあいけない。   逆に言えば今の時代は本当に有難い。   平和が長く続ているから当たり前のような気がするが当たり前じゃないんです。  大変な人が死んで命を取られてやっと獲得した平和、日本の場合は絶対守らなければいけない。

昭和5年(1930年)中国長春の生まれ。  4人兄弟で、兄が彫刻家、二番目が私、三番目が征爾、四番目が俳優。   北京時代は僕らにとっては良い時代でした。  親父は中国と日本が民間人が政治的に一緒に仲良くやりたいという、そう言う思想の人だった。 新民会という政治団体を作ってその中心人物でした。 中国人とは仲良くやっていました。しかし日本人全体は中国人に対して物凄く傲慢だった。(占領国)    子供心に厭だなあと思いました。  民族というのは大きな問題と思いました。  昭和16年初めに日本に帰国して立川に住みました。  

その年の12月8日に真珠湾攻撃がありました。   小、中学校には配属将校がいて校長より権限を持っていました。  軍の学校の様でした。中学2年の時に日本が危なくなり、中学、大学は閉校になって、大学生は学徒出陣で出された。  僕らは火薬工場に動員されました。   僕らが頑張らないと日本は負けるという事で頑張ろうという気持ちだけでした。    国全体が狂気でした。  仕事は出来上がった火薬を箱に詰めて火薬庫に納めるという仕事でした。  手りゅう弾に入れる前のものでした。  肩に担いでいて落ちそうになっても絶対に手を離すなと手が潰れても手を離すなと言われました。  本当に怖かった。  

玉音放送は家族全員で聞きましたが、何言っているんだかわかりませんでした。  戦争に負けたという事は判りましたが、とてもショックでした。   親父は、「でもこれはいいことだ。  日本人は長い事涙を忘れてしまっていた。   涙を知ることは良い事なんだ。」といったが、それが凄いショックでよく覚えています。   あの時点でよく親父は言えたなあと思いました。   親父を尊敬しました。

勉強には憧れていました。 音楽に憧れていて、アルベルト・シュヴァイツアーという神学者哲学者オルガニストでもある巨人がいました。  彼の弾いているバッハのト短調のフーガのレコードがあり、彼の名前は知っていて彼の神学者としての本があり、それを読んで感動して心酔しました。  原書で読みたいと思ってドイツ文学をやろうと思いました。

今の茨城大学の寮にいたんですが、仕送りがないので全部自分でなんでも仕事をして稼ぎました。  働きながらドイツ語とフランス語二つを始めました。  必死だからよく覚えます。  ドイツ語の先生がグリム童話を教材に使ってくれました。  ちょっと違う雰囲気を感じて先生に聞いたら「グリム童話は昔話だからな。」と言ったんです。  グリム童話を卒業論文にしました。   民族の集合的な文化が読み取れるかもしれないとおもって興味がありました。  それは兄の影響かもしれません。  兄が読んでいた文化人類学の本を読んだりもしました。   中国に住んでいると日本人とは違うなあという事は色々ありました。  夫婦喧嘩も全然違います。 道路へ出てきてうちの亭主はこういう悪い奴だと喚き散らすと周りから寄って来てそうだそうだとにぎやかにやるんですが、日本ではそうはやらない。  民族の違いって何だろうなあという気持ちがありました。

東北大学大学院でもドイツ文学を学ぶ。  その後もグリム童話を研究、そのときに柳田國男氏に出会う。  修士論文でグリム童話の成立史を書いて、その後もグリム童話を研究をしていて、ドイツ民俗学雑誌を見なくてはいけないことになり、調べて行ったら柳田國男先生のところにあることが判りました。  研究所でノックをしたら本人が出てきてしまって、吃驚しました。   ドイツ民俗学雑誌がありました。  何を調べているのかを聞かれ、グリム童話の成立史を調べていますと答えました。  先生を前にしてベラベラしゃべりました。  そのうち僕のしゃべることをメモし始めて、吃驚しました。  僕から見たら神様のような人で、身分とか年齢の違いではなくて、知らないことは全部吸収するという、学問とはこういうものかと思って感動しました。   最後に「君、グリム童話をやるなら日本の昔話もやってくれたまえ。」と言いました。 これには吃驚しました。 

    それで日本の昔話も本格的にやりだしました。   両方やって違いが判ってよかったです。  仙台に戻って、堀一郎という宗教学者(柳田國男の娘婿)の日本の民族宗教の授業に出始めました。  3年後に柳田國男先生が堀一郎さん宅に来ることになり、そこでお会いすることが出来ました。  講演が終わった後「僕は本にはサインはしない。」と30、40人いるなかで言っていましたが、後で僕が挨拶に行くと「改定日本の昔話」を堀先生が取りに行って「君は日本の昔話の比較研究をしているからサインをしてあげよう。」と言ってサインを頂くことになりました。 日本の昔話を引き継ぐ、という意味合いがあると思います。 宝物です。  昔話を実際に日本の昔話としてもっと子供たちに語ってもらいたいという、そういう仕事を今しています。