2023年1月12日木曜日

林家正蔵(落語家)           ・円熟の落語をみてもらいたい

 林家正蔵(落語家)           ・円熟の落語をみてもらいたい

1987年真打に昇進、54歳で亡くなった昭和の爆笑王父三平さんの年齢を越えて、去年12月で60歳になりました。  2005年43歳の時に正蔵をを襲名、祖父7代目正蔵、初代三平、弟二代三平と3代に渡って真打、そして長男たま平、次男ぽん平と4代にわたっての落語家は落語界の快挙と言われています。

父親が亡くなった54歳を超えた時には胸がざわつきました。   その後も生きていたら父親の漫談調の話はどうなっていただろうなあと先輩たちと話をするんですが、結局自分が生きていてフィードバックできればいいのかなあと考えています。  2005年43歳の時に正蔵をを襲名。  今年で18年になります。  父のもとに入門してこぶ平という名前で、これが厭で、父に言わせると物に当たるとこぶができ大きくなる縁起がいい、昆布はいい味が出る、喜ぶのこぶで、言われたのがこの名前を大きくしなさい、と言われました。  2002年の終わりぐらいに鈴本の席亭さんがお見えになって、襲名を考えているとのことでした。  三平かなと思ってこれは厭だなと、思いました。  父は高座返しをするだけで客席がざわついたり笑ったりするわけです。   亡くなった枝雀師匠の理想は高座に座って何もしゃべらず無でもって笑いが取れたら、それが理想だとおっしゃっていましたが、高座に姿を現していない、めくりが返っただけでワーッと受けるんです。  2年間父のもとで修業していましたが、その凄さたるや。  襲名と言われた時に、正蔵を継いでもらいたいという事でした。  しかし、落語家として悩んでいた時期でした。   「父の様にやるか父から離れるか」、と言ったら、「だから駄目なんだ。 基準が全部父じゃないか。・・・お前は何がやりたいんだ。」と言われました。 当時志ん朝師匠に憧れていました。(14,5歳)    自分がやりたいのは古典落語だと思いました。  或る時志ん朝師匠との対談があり、「お前は三平にはなれないよ。  俺は志ん生にはなれなかったから。 文楽、正蔵のような硬い語り両方を持ちたい。 ・・・お前はね、すじの方に向いてるよ。 一生懸命稽古すればいいと思う。」と言われて、どんなことを言われてもゆるがなかったです。  見ていてくれて、席亭さんから正蔵を襲名することの話があり受けることにしました。   坂東三津五郎さんに相談した時に、「「とにかく真摯に受けなさい。 その名にふさわしい芸が出来るなんて思っちゃいけない。  兎に角自分だけを磨きなさい。」と言われました。  名前がその人物を作るという考えはなく、自分を高めるしかないんです。

二ツ目が1981年19歳、1987年25歳で真打昇進。  2003年 「六人の会」で活躍。 東西の壁が 崩れて行き来が出来るようになりました。  「六人の会」のメンバーは春風亭小朝笑福亭鶴瓶9代目林家正蔵春風亭昇太立川志の輔柳家花緑。  落ち込むことが多かったです。 無我夢中でした。 当時のことが糧になっています。  長男「たま平」、次男「ぽん平」です。  落語家にはならなければならなかったでいいと思っていました。   二人ともラグビー、野球とスポーツマンだったので。  

弟子が11人いるので、「たま平」、「ぽん平」もこの子たちと同じようにしていないと、緩い修業になるような気がします。  もし真打になったとしても楽屋でとかで、多分話はしないでしょうね。  家族だけの場合だったら、本名で呼ぶかもしれないです。    60歳になって何をやりたいのか、自問したことがありますが、60歳に成ったら何がやりたいのかなかったです。  ただコツコツと次の課題をこなしてゆくだけかなあと思います。  柳家 さん喬師匠から「60代をちゃんとやらないと70代の扉に行けませんよ。」と、メールをいただきました。  有難かったです。   家に戻って来て、「寝る前にいいことを思い出しなさい。」と書いてあって、楽しかったことを思い出すようにしています。