2026年6月7日日曜日

ヒダオサム(造形作家・マリオネット作家)  ・あそびは無限大~造形は“いのち”を吹き込む手作業

 ヒダオサム(造形作家・マリオネット作家)  ・あそびは無限大~造形は“いのち”を吹き込む手作業

 ヒダさんは長年、NHK子供向けテレビ番組に造形作家として携わってきました。 Eテレ「できるかなぁ」の、ノッポさん「つくってあそぼ」ではワクワクさんが作る工作を考えた人です。 現在も全国各地で講演会や工作教室を開催するほか、マリオネット作家としても活躍しています。 ヒダさんに工作の楽しさや今後の夢などお話を伺いました。

ノッポさんやワクワクさんが作る工作を考えた人です。 造形作家と言われますけれども、本当はマリオネットの作家です。 マリオネットは糸で動かす人形です。今年76歳です。 形を作る前に命を作る段階があると思います。 形と言うのは命と言う言葉に通じているんです。 子供たちは形を表現しながら命を創造しているんだと言う認識が大事だと思います。

私は76歳のおじいさんですが、心の中では3歳、4歳、5歳の元気な子供がいるんです。 1970年代ノッポさんとゴン太くんでお馴染みの「できるかな」の立ち上げにも携わりました。 「できるかな」は3歳の幼児向けに始まりました。 大変に喜んでくれましたが、ノッポさんの作るものは非常に上手く、子供たちは真似して作ると言う事はしませんでした。 その後20年も続いた人気番組になりました。 21年目に新番組としてバトンタッチすることになりました。 ノッポさんは本当はとても不器用なんです。 ノッポさんが自分で作るように仕立てました。

「つくってあそぼ」は4歳、5歳の主に5歳児です。 ゴン太くんに代わってゴロリくんになって工作が大好きな5歳と言う設定です。 ワクワクさんは本気でやっていて、ゴロリくんに負けちゃいます。  工作の番組が終わった週に、子供たちは材料をちょうだい、僕も作りたいと言うことになりました。 それが「できるかな」と「つくってあそぼ」の違いですね。  23年続きました。2つ合わせると43年間になります。 「できるかな」はアイディア担当が4人いましたが、「つくってあそぼ」では私1人でした。 台本も担当したようなものでした。 ゴミになるような品物をいっぱい貯め込んで工夫しました

生まれは満州です。 工作が大好きな子供でした。 私の父は満鉄のエンジニアでしたので、いろんな道具がありました。 その道具を好きなように使っていました。手に豆ができるほどハサミを使いましたし、怪我などもしました。 ロボット、飛行機、船などをたくさん作りました。 木なども削って、チャンバラもしました。ブリキのおもちゃをばらして、また組み立てるのが遊びでした。 

3歳の時に、日本の鹿児島に戻ってきました。 父の仕事の関係で2年おきに小学校を転校するような状況でした。  小学校の頃は絵描きになることを夢見ていましたが、高校1年生の時に先生から夢がない絵だなぁと言われてあきらめました。  東京芸大の工芸科があるのを知って受験して合格しました。 芸大では金属のマリオネットを作り始めました。フーフーという人形劇のサークルがあり劇団に入って夢中になりました。 目が動いたり口が動く。軽くに夢中になりました。人形が命を吹き込まれていくような感じになるのが面白かったです。 卒業後フーフーのサークルの仲間で、人形の劇団を作って、マリオネットの仕事を始めました。   公演にはこぎつけず解散しました。 

テレビ番組の「できるかな」に出演するようになりました。 転機になったのは、それから7年後位に、鉄のマリオネットの上演をしました。 そこの養護学校の子供の作品がすごかったです。 綿のロープを3本を切っただけのものを額に川の字に並べてあるだけでした。  障害のない人には何でもないかもしれませんが、養護学校の生徒にはロープを挟みできると言うそれだけの事が大変なことだと言うことがわかりました。 じっと見ていると、お父さんとお母さんと僕が手をつないでいるところと言うふうに見えてきました。 

考えもつかない驚きの作品でした。 そこで作ったものを大切に扱うと言うことを学びました。 それが私の工作の原点です。 それで43年も続けたこられたと思います。  子供たちと工作遊びをするときに大切にしている事は作ったものの、世界を大切に扱うということです。  工作番組は作った後の遊びが大切なんです。  作った作品の物語を考えて感じること、それが作ったものの、世界を大切に扱うと言うことなんだと思います。 工作って子供そのものなんです。 その工作の物語を大切に扱うことがその子供を大切に扱うことと同じことだと思います。 その工作が世界中でたった1つの宝物なんだよと言うこと、あなたにはそれだけの値打ちがあるんだ言うことを伝えることが大切なことだと思います。 作ったものの世界を大切に扱うこと、それが僕の座右の銘です。 

工作は自分を実現する鏡だと思います。 小さい頃にものを作る喜びや生み出す喜び、そして作ったもので遊ぶ喜びを知ることが大切だと思います。 遊びを共感できた喜びを感じて、自分自身の存在に喜びを感じられること、それが積み重ねられたときに、その子が他の世界と繋がり、自信を持って自立していく助けになると思います。 それが人への思いやりやイメージができる創造力や命をいつくしむ心、ものを大切にする心、真の創造力を生むんだと思っています。

54歳の時に小腸出血をしました。 3年半の闘病生活がありました。 その闘病生活から希望を持って、希望は忍耐を助ける、忍耐は希望を育むと言うことを学びました。 去年から毛皮で作った15センチ位の3本の糸で動かすマリオネット毛虫くんを作って、人形屋さんで販売しています。 糸の数の少ないマリオネットを広めていきたいと思ってます。


2026年6月5日金曜日

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」 

中村あゆみさんは、1966年大阪府で生まれ福岡県で育ちました。 198418歳の時にシングル「ミッドナイトキッズ」でデビュー。 1985年には3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」がコマーシャルソングに採用され大ヒットしました。 その後シンガーソングライターとして活躍されるとともに、2021年からは女性アーティストたちによる音楽フェスティバルを主催しています。 

スーパーレディフェスティバルとなってますが、オーガナイザーを担当しました。 2回目からは立川になりました。 昭和公園があって、緑と街のバランスが良くて、子供も一緒にと言う環境にいいと言うことになって、3年ほどお世話になりました。 メジャーにしていこうという事で、そしてNHKホールでやるようになりました。 3500人ほぼ満席でした。来年もまたここに聞きたいです。 

「翼の折れたエンジェル」が大ヒットとしたときに、NHKから紅白出場の話がありましたが、出ないほうがいいと言うような声もありプロデューサーが断ってしまいました。  紅白出場できずじまいになってしまいました。 今年60歳になります。デビューして今年で42年になります。 10年間ほどは子育て等で歌わない時期がありますが、38歳から復帰して現在に至ってます。 10代の頃に六本木で遊んでいたら、女性から声をかけられて、今のマネージャーを紹介されました。 

母親は中州でクラブの大ママで著名な方が来ていました。 平尾昌晃さんと知り合いで、平尾さんの元で内弟子し的に暮らしました。 その後一人暮らしを始めて六本木で遊んでて声かけられました。 あるとき泥棒を入られて、マネージャーの母親の経営しているところに駆け込んだところで、後のプロデューサーである高橋研さん(「翼の折れたエンジェル」を作った。)と出会うことになりました。    そして、その後、加山プロモーションに入ることになりました。  「翼の折れたエンジェル」(19853枚目のシングル)が大ヒットすることになりました。 

私は反骨心で生きてきました。 3、4歳で親が離婚して、父が私を連れて行くわけです。 しかし父は育児ができず、親戚のおばさんに預けられました。 自分の居場所がなくなり、その後義理の母親が来ました。 ストレスが溜まる中で弟ができました。 親は弟を可愛いがるわけです。 そして私は家出をし、実の母親のところに戻りました。 母親はクラブで大成功していまして、新しい父親と新しい家族がいるわけです。そうするとそこ入っていけないところがありました。 それで平尾さんとの出会いがあり、東京に出てくることになりました。  面倒が見られないと言うことで、私の一人暮らしが始まるわけです。 

芸能人がいっぱいいるような定時制高校へ行き、そこに行けたことが、今になってはすごく良かったと思います。 学歴以上の違う宝物がその学校にありました。  今でも仲良しで時々連絡を取り合っています。 高校へ入って2、3ヶ月してから母親が倒産してしまって、仕送りができなくなりました。 バイトで工事現場の警備員をやりました。 その後毛皮と貴金属の営業して、数百万円の売り上げを上げていきました。 今後少し作品つくり、スーパーレディフェスティバルの下準備をやっていきたいと思っています。







2026年6月4日木曜日

吉備カヨ(人材派遣会社社長)        ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」

吉備カヨ(人材派遣会社社長・元フィギュアスケート選手) ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」 

吉備さんは横浜市出身で60歳。  1990年代フィギアスケート選手として国内外で活躍しました。 引退後は母が作った人材派遣会社を引き継ぎ、ビジネスの世界に入りましたが、2020年からの新型コロナウィルスの爆発的な感染拡大が経営を直撃し、会社は危機的な状況に陥ります。 そんな大ピンチの中、吉備さんは従業員の雇用を守るために、全くの異業種に挑む決断をしました。  母から受け継いだ会社のビルの中で野菜などを育て、それを材料にスイーツやお弁当などを作って販売し、さらにケータリングを展開しようと食を提供すると言うチャレンジです。  この事業は今、新たな都市の農業の形として注目されています。  フィギュアスケート時代の経験がチャレンジに生かされたと話す吉備さん、コロナ禍にどんな思いでどう立ち向かたのか、都市での農業のこれからの可能性、そして今も関わっているフィギュアスケートについても伺います。

アイスダンスで1993年に全日本で優勝しました。 世界選手権にも出場した経験があります。 リクリュウ、三浦 璃来さんと木原龍一さんのペアが大逆転の感動の金メダルでした。  10代前半の三浦 璃来さんと出会いがありました。 12年前、中京大学ののスケートリンクで、未来の選手の発掘合宿と言うのがあって当時、三浦 璃来さんは12, 3歳だと思いますが、1人で淡々と動いていくような人でした。   ペアをやるべくして生まれてきたような子だと言う印象でした。  まさか金メダルを取ると言う事は想定外でした。

私はスケートは7歳から始めました。 アイスホッケーをやりたかったのですが、フィギアスケートをやることになりました。 高校1年生の時にイギリス出身の今でもフィギュアスケート界のカリスマと言われるアイスダンスの素晴らしい選手がいました。 すべての審判が6.0と言う得点を叩き出して金メダルを取りました。   それを見たときにこういうアイスダンスを目指したいと思いました。 高校2年生からアイスダンスに種目変更しました。  フィギアスケートは27歳で引退しました。

 母親の人材会社を引き継ぎました。 2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大で会社の危機を迎えました。 母が残した人材事業と不動産事業を何とかさせたいと思いました。 ビルのフロアの3階を野菜の栽培、2階ではそれを使ったケーキ、スイーツ、弁当などの調理加工、1階のレストランショップで販売を手がけました

手がけられやすいのは食品だろうと思いました。 原材料から持っていれば形の安定につながると思いました。 もともと食に関する興味がありました。  フィギュアスケート時代のパーティーに関することでいろいろ勉強できました。 海外の食を通じたコミュニケーションと言うのは、日本における食を通じたコミュニケーションと言うのはちょっと違うと言うことを感じてました 。それを経験していなかったならば会社を創造すると言うことができなかったんではないかと思います。 やりながら軌道修正しながら楽観的な思い込みでやってきました。

ビルを活用した都市農業についてですが、農業人口がどんどん衰退していくと言う中で、建物が空いていると言う実態があります。 日本の食料自給率が低い中でどんどん挑戦していくと言うと言う事はいろいろなところが登場している来ていると思います。  学校も廃校になってきて、どのように活用するのかと言うこともあります。高齢者、障碍者などの人材活用もセットで考えていくと言う事はまだまだ伸びしろがあると思います。 小、中学生の修学旅行の一環としての見学とか、あるいは海外台湾、ベトナム、シンガポールからも訪問団を組んで見学に来ました。

まずは飛んでみる、逆境があっても、まずは飛んでみると言うような気持ちが、やはり大切なんではないかと思います。 普段とは何かちょっと違う工夫の積み重ねの中で、大きな今まで自分が見てこられなかった景色に出会えるかもしれないと言う可能性は秘めているのではないかと思います。


2026年6月3日水曜日

五木寛之(作家)             ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木寛之(作家)        ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木さんはこれまで様々なジャンルで活躍する人たちとの対談を重ねてきました。最近では対談のお話をまとめた本も出版しています。 対談の面白さ、魅力などについて語っていただきます。 

対談を50年間ぐらいやってきましたけれども、その中で1番印象に残ったと思われるような対談をピックアップしました。 吉行淳之介さんとの対談から始まって5 、60年間やってきて数え切れないほどです。 選び抜いて3巻にまとめました。   作家としては珍しいシリーズになりました。 外国人ではカシヤス・クレイから始まりました。 対談と言うのは言葉だけでなくて、身振り、手振り、その時の表情などをひっくるめての対談ですから、むしろそっちの方が本音みたいなものが出てきます。 ですから2人でやっている演劇みたいなものです。 

インタビューっていうのは、聞き手が対象とする相手の思想、考え方、感受性とかを汲み取ろうと思って努力しますが、対談はお互いに交換します。 自分の心の中の贈り物を交換しあって成り立つものです。(相互作用)インタビューは片道切符。 石原さんは日蓮を尊敬してる方です。 自力の方です。 自分で難局を切り抜けてやっていくんだと言う方です。 僕の場合には親鸞と言う先達がいて、親鸞の思想に共鳴しているものですから、手のひらに乗りながら自分で生きていくと言う他力の思想がありまして、他力本願と言うのはあなた任せと言うふうに誤解されがちですが、そうではないです。 石原さんとは誕生日が全く同じです。  

石原さんとの対談も面白かったですけれども、長嶋さんとの対談も面白かったです。  長嶋さんもすごく理論的です。 女性では、作家の塩野 七生ん、イタリアに住んでいて、色々と歩きながら対談をしました。 色々と臨場感のある話をして面白かったです。 松永伍一さんと言う評論家と対談をしましたが、その時には地方の旅先で温泉に入って、録音機を湯船に浮かばせながらやったこともありました。 ぶっつけ対談もやったことがあります。  塩野 七生さんは男っぽいような気がしますが、非常にデリケートな繊細な気遣いのある人で、歴史上の人物を切るときに薙刀でバッサリ切ると言う、そういう感じはありますけども、繊細な神経を持った方です。 

*「インディアンサマー」 作曲:いまなりあきよし 作詞:五木寛之 歌:麻倉未稀

音楽関係の人との対談もたくさんあります。 作曲家の武満徹さん、映画が縁になって知り合いました。 武満さんは国際人でありながら、日本人の意識の強い人でした。  女性作家の林真理子さんとの対談も多いです。  林さんとは対談を9回やっています。 テレビ、ラジオでの対談は消えていってしまって、活字だけの対談になってしまうのは残念に思います。

戦争中などは、ものを大事にすると言う意味で捨てない時代でしたが、戦後一時期捨てるのが美徳みたいな時期もあり、世の中は繰り返しですね。  対談は、人間の生の姿が出てきますから、大きくうなずいたと言うな事は、活字にできませんから、そこでは本当にそうだねと言う風な書きたすことがあります。  言葉にならない言葉と言うものを対談を活字に起こすときには、作っていかなければいけないので、勝手わがままに作ってるわけではないです。 本当のことを伝えるために言葉を挟んでるわけです。