2012年8月31日金曜日

中森邦男(58歳)        ・渾身のアスリートをひきいて

中森邦男(日本パラリンピック委員会事務局長) 渾身のアスリートをひきいて
162の国や地域から4200人が参加します
大学卒業後、大阪長居障害者スポーツセンターに就職、指導員として水泳を教え、日本障害者水泳連盟の設立に尽力しました
その間35年日本の障害者スポーツに対する意識や制度も理解が進み選手を取り囲む環境も大きく前進しました
選手は135名 前回の北京より若干少なくなった  
水泳の場合は見てても判らない 
水から出ると障害が判るというような感じだと思います

国枝慎吾君 テニス 主将の土田和歌子さん が注目  
土田さんは1998年長野の冬季オリンピック ソリで金メダル 2004年のアテネオリンピックでは陸上で5000m 車椅子レースで金メダルを獲りました 
彼女の一番の目標は車椅子マラソンで金メダル  
1960年が第一回  初めのうちの4回は車椅子の人達の競技大会 5,6回と重ねるに従って 切断の人、視覚障害 脳性麻痺 そういう人達も参加するようになった  
機能回復のリハビリ的なところから段々と世界中に広がり参加することによって競技性が高くなった 
2008年北京パラリンピックからオリンピック招致にパラリンピックが一緒に入るとの約束になった  すべてオリンピックの規則が適用される
事務が非常に増えてきた  選手を強化する環境も大きく変わってきた  
主催国は力を入れてきた  競技力が高まってきた 
イギリスは自転車、水泳等に力を入れている  
イギリスのアイレスべりーの街のストークマンデビル病院と言うところが発祥の地
第二次世界大戦で脊髄を負傷した兵士が集中して治療した所  
車椅子の生活を余議なくされた人達の車椅子訓練 それを終えると家に返される
社会生活が旨く行かなくてとじこもりの生活 人生が終わってしまう 

気持ちを高めるために先ずスポーツをと グットマン博士が(ドイツからイギリスに亡命
障害者スポーツの生みの親) リハリビにスポーツを取り入れた  
楽しみが出てくる  
スポーツフェスティバルを開催、海外からも参加するようになり、初めて国際大会として成り立った  
1960年のローマオリンピックの後に大会を持って行きたいと、実現した  
1989年に国際パラリンピックが設立された  
遡って1960年が第一回大会にした  1996年には知的障害者が参加する 
ロンドン大会には水泳卓球陸上に知的障害者が参加
昭和51年に長居障害者スポーツセンターに入って10年間過ごし、その後東京都の障害者スポーツセンターに勤務していました

水泳のコーチ担当した 
アメリカの大会で両手、両足が無い人が水泳をしているのに感動した 
バタフライに近い様な恰好で泳いでいた
昭和49年の時に永井障害者センターを設立した その3年後にそこに入った   
現在は指定都市を中心に24箇所、障害者専用施設がある
中国はナショナルトレーニングセンターを設けて合宿、強化している   
韓国もナショナルトレーニングセンターを作っている
アメリカでは双方で使っている(健常者と障害者)  韓国では予算が20~30倍に上がった
日本の状況 1964年 東京パラリンピックを開催した時に 当時車椅子に乗ってスポーツをするのが医学界から禁止されていた時代だった
自分の車に車椅子を持ち込むのに或る程度の筋力が必要 
 
パラリンピックが終わった翌年に日本身体障害者スポーツ協会が設立されて現在に至る
所管が厚生労働省、 一般のオリンピック が文部科学省  違う部署で日本ではオリンピックが所轄されている
北京大会では 金5 銀14 銅8  北京大会後強化費が毎年増額して貰っている  
(今年は5億円)今度のロンドン大会は 前回を越えるメダルを取りたい
海外は強化を一層強めてきている  
イギリスはスポーツの持つ力というのを政府の施策の中ですじが通っている様な気がする 
日本の方は見えていない様な気がする  
障害者ではなくて先ず日本の国民が自分が住んでいる身近な処でスポーツに参加出来る環境にあるかどうかが大事だと思う

ランニングコース 体操をするような環境があるか  運動の重要性  寝る事と食べる事と動く事動く事が少なくなると一番問題に成っている生活習慣病
先ず食生活がエネルギーを取り過ぎ  脂肪、塩分 の取り過ぎ  
不規則な生活は、生活習慣病が進む  
動けば 運動した日は直ぐに眠る すっきり感  
障害者は運動の必要性がより高い訳で、身近なところで環境ができて運動の重要性が、皆さんが理解して参加するようになれば、日本はもっと元気になれるのでは
オリンピックもそうですが、スポーツの科学的な取り組みはある程度限度に近づいているのではないだろうか  
90数%確立されているのではないだろうか
こういう部分を障害を持つ人に持ってくれば、競技の環境がいまいちなので良いのではないか
社会生活の配慮がもう少しあればいいなと思う    
オリンピック競技と 障害者の競技と競技団体間の連係が進んで、一般のオリンピックの選手強化の いろんなものは活用できるような、そういう取り組みはこれから具体的な動きが出来て来ると思う

2012年8月29日水曜日

的川泰宣 (JAXA名誉教授)   ・隼 あの感動をもう一度 2



的川泰宣 (JAXA名誉教授)  隼 あの感動をもう一度
雨谷 麻世さんが「夢を乗せて 隼の奇跡」の歌を歌っている
隼には88万人の名前とメッセージをはこんだ   
ターゲットマーカーに名前が刻んであり、永久に「いとかわ」に存在することになる
隼の事を兄のように思う子供がいたりした  里中満智子さん(漫画家)から応援のイラストを頂いたりした  
「隼物語」 的川詩の出版本 
2014年 隼2が発射される  技術的な隼のフィードバックはない (時間的なもの)  
「いとかわ」は地球ができた時にどういうもので出来たかを探るためのもの
隼2は水とか有機物を含んでいるもの 私達の生命がどう地球上で生まれたかを探るための大変いいヒントがそのサンプルから得られるだろうと思っています
命の問題に直接繋がるので、隼2のサンプルは大変魅力的なものを持って帰れることになると思っています

今現在 お金が無い状態 打ち上げまでは辿りつけると思います。  1999JU3という小惑星  「いとかわ」(1998SF36)打ち上げて3か月後に名前が付いた
どういう名前については検討中   形はいびつであろうとの想像はあるが判らない 
「いとかわ」よりも大きい  いとかわは540m 今度の惑星は1km弱
ほとんど「いとかわ」と同じような楕円軌道を描いている 行きに2年 帰りに2年の予定

子供宇宙・未来の会 KUMA 親子の絆をどう深めるか  
命の大切さ  学校 地域 とかの絆     家庭は学校と違う教育の場になっている  
例えばお風呂に入って熱いと感じて そこに熱の存在が有るわけで、親が気付いて子供と一緒にそれを知的な    処理ができるかどうかが物凄く大事だと思います  
家庭と学校は支え合いが有って初めて豊かな国に成ってゆくと思うのでそういう事を曲がりなりにも    お手伝いしたいというのが KUMAの眼目なんです
 
宇宙教育がライフワーク 隼 宇宙が   今 地球は閉そく感があるが  東西の冷戦が終わって何とかなると思ったがそうではない 
高い位置から考える意味で 宇宙と言うのは大事なキーワードだと思っている   
宇宙という視座から眺める事でいろいろ分断された縦割りの考え方を払拭出来るチャンスがあると思うので   宇宙と言う素材をそういう方向で生かすという事がこの星の上を一体化する為に
大変大事な契機だと思っているのでそれを教育に活かしてゆきたい  
地球という小さな星でああだこうだといがみ合ってもしょうがないと思う  
そう言うものを伝えるのに理論的につたえても人の心に響かない
雨谷さんの声が通じれば良いと思う

2012年8月28日火曜日

的川泰宣 (JAXA名誉教授)   ・隼 あの感動をもう一度


的川泰宣 (JAXA名誉教授)  隼 あの感動をもう一度
隼が7年の旅を経て帰還してから2年になります  今でも隼の人気は続いています  
隼が宇宙から帰ってきた6月13日は今年「隼の日」に指定されました
隼が持ち帰った微粒子は世界6カ国17のチームで詳細な分析が続けられています
的川さんは東京大学宇宙工学一期生として卒業後、大型ロケットの設計を始め、JAXAの宇宙教育センター長を務め、宇宙一筋に係わってきました
今回のプロジェクトでは重要な役割を果たされた後 隼の感動を詩に纏められました 
そして曲が付けられ 隼の歌が出来上がりました
宇宙に関心が無かった人も隼で引きつけられたと思う 
 
子供宇宙未来の会(KU-MA)と言うNPOをやっている 講演が多く忙しい日々を過ごしている
2010年6月13日に隼が戻ってきた 6月13日が隼の日に指定された
KUMAの会長でもある(宇宙教育) あらゆるものが宇宙だというような感じ  
宇宙と言うのは実際に私達の生命を繋いでゆく大切な舞台
子供の頃は夜釣りに行くと魚が取れるまでは星のみだった 
星は綺麗だと思ったが当時宇宙への関心は無くスポーツ(野球、テニス等)ばっかりやっていた
大学に成ってからもテニスは夢中でやっておりプロの選手になりたかった  
その間にも潜在的には宇宙の事も有ったと思うが 
小学校の子供のころに原爆の経験等の話を聞いて 世の中の平和 皆が幸せな社会が
出来ればいいなと小学校の終わりごろに強烈に思った時期が有った

心の底にずーっと沈んでた様に思う  
そういうものに役立つ人生と言うものを送りたいな、との気持ちがどっしりと有るようなイメージが有った
それがいま宇宙教育とかを考える基礎になっていると思います  
理科系に行ったが、専門を選ぶときに 自分が生きてきたプロセスを振り返った時に夜空の星だとか、スプートニクス(ソ連の人工衛星) 肉眼で見た 
ガガーリン が次々に浮かんできて 自分が生きているのは宇宙時代なんだと 宇宙に人間が
進出してゆくプロセスと自分が育ってきたプロセスと殆ど機を一にしてきていると思った  
強烈にその思いから よし自分は宇宙の仕事をしようと思った
天文学を選ぶかロケットを選ぶかは大きな堺目だったが、
自分としては天文学の様な向こうの方からやってくる、なんか受け身で捉えるよりも自分で作った物が飛んでゆく様な方が男の子みたいだなと思った単純な動機で選んだ  ロケット工学を選ぶ 
 
糸川英夫先生と出会う  大学院の時の指導教官だった
糸川先生からは2年指導して貰った  
殆ど指導らしい指導は教わらなかったが生涯あの人ほど影響が大きかった人はいなかった
独創的と言うか発想が違う方と言う様な感じの人だった  
何かを切り抜ける時に避けて行かない 
自分がやりたい事があると真っ直ぐにそこへ進んでゆく態度が非常に素晴らしくて、
その辺を非常にうけて、それから後障害が有った時にそういう場合は
糸川先生ならばどういう発想をするのかなと考えるようになった
考え方の変化がユニークだった 先生昨日は違う事をおっしゃいましたよと言ったら 人間、変化することを知らないのかと切り返された
自由自在な考えがありながら 自分がやりたいと思ったことを曲げない 

最後までやりたいという意志というよりも本能のようなもの
何でも独創的な仕事をする人はある種我儘と言える位、自分の意志をつら抜いてゆくのが素晴らしい
(私としては)ロケットは何百機も打ち上げているし、人工衛星は30機位は打ちあげている 
一番嬉しかったのは何と言っても一番最初に打ち上げた「大隅」という
人工衛星ですね   1970年に打ち上げた  中々旨く行かなくてようやっとたどり着いた 
僅か24kg の人工衛星 あれほど嬉しかった人工衛星は無い
隼を2003年に打ち上げた  1995年に宇宙開発委員会に認められた
私よりも一回り以下の人達で進められた  

対外協力室長(文部省、海外、漁業関係者等との交渉)を担当していた 
発射場の所長も兼務していた  雑多な仕事が一杯あった 
若い人達が頑張る外堀を埋めるようにした
隼の中心リーダーは川口淳一郎 (私より一回り若い 後輩)  
本当に楽しい事と言うのはうんと苦しまないと結局は苦しみを通じてからでないと判らない 
漁業交渉  5月9日打ち上げ マグロが取れる時期で一晩で2億円ぐらいが獲れると言われる とても保障はできない 我慢してくれとの交渉でしかない
  
日本の国が良くなるためにはどうしたらいいだろうという事を一緒に成って話す 
同じ日本人としての心根が通じない限りはそういったことは受けてもらえない  
10数年漁業交渉はやっていた
誠心誠意当らないといけない 何でもそうだが    隼の帰還の時はいろいろトラブルが有った
帰りは一つが片付くと新たに別のトラブルが出てくるが、若い人達の対処の仕方は見事だった  
どうしてあんなに見事に対処できたかと言うと「隼」自体が
あんまりお金が無かったのが良かったのかも知れない  
お金があると大きな会社に丸ごと宜しくお願いしますと頼めるが、お金が無いと出来るだけ自分の力でやってゆきますよね 

これ以上は大きな工場でないと出来ないとなってようやく頼むが、それ以前は
自分達の実験室とか、町工場、中小企業に頼んでテストもついでにやってよみたいな、
自分達の手足を使ってやっていたことが非常に広い範囲でやることが非常に良かった 
ある種の貧しさみたいなものがピンチに陥った時に、隼の当事者の幹部が数名集まるとそういう事を経てきているので、システムの隅から隅まで判っているのでアイデアが出る引き出しが一杯あるわけです  
それが乗り越える原動力になったという感じがしている
人間って、ハングリーが無いと駄目だという処がある程度私の中には確信と言うものがありますね 
と同時に日本の物作りの素晴らしさがある

アメリカから購入したものがあるが、大事なものが故障した  3年帰りが伸びたが、
設計寿命が過ぎたにも拘わらず、町工場とか中小企業が作った物が完璧に
働いた場面が一杯有って、恐れ入りましたという事ですね    
擬人化するというか 生き物の隼の様な感じだった  
末期がんの患者さんから隼が返ってくるまで
絶対に死なないというようなメッセージが有った
地球に戻ってきた時には感動的だった  
長い事隼に付き合ってきた人達にとって、本体が大気圏に突入してばらばらになって燃え尽きてゆく,そういう姿は直視できなかった人は大勢いると思います   
擬人化されればされる程そう思います

一般の人から見ればカプセルだけがびゅーっと生き抜いてゆく そういう様子を お母さんんが 
生き抜いてゆくのは自分の息子でばらばらになってゆくのが自分の
身体みたいな錯覚に陥ってゆくんだそうです  
女の人の感じと言うものは男の人には判らない感じ方があるなと知りました
殆どのお母さんから聞いた  
今までの宇宙開発には無かった質のものだと感じました
人の心に訴えるとか、人の命の問題に還元して考えてゆく等ような、今までの科学技術ではなかったような要素が随分撒かれた様な感じがする
科学技術ではなくて日本を元気にするとかそういう方向に役だったと思っている

リアルタイムで講演をした(広島の呉)  講演を終わって拍手が鳴り止まなかった
宇宙と音楽の融合みたいなことをやらないかと服部克久氏から言われた  
伊奈谷を見て詩を書き上げた
出来上がった詩    夢(未来(ゆめ))を乗せて(のせて) 隼の(はやぶさの)奇跡(軌跡
カノウプス(カノープス)に導かれ
君の翼が羽ばたく(はばたく)
孤独なる光の海を
ひたすら目指すは(めざすは)
いにしえの星よ目指す(めざす)その星よ
心(こころ)心(こころ)燃え立つ
太陽の光受けて
輝く君のシルエット
遥かなる(はるかなる)未踏の大地へ
隼(「はやぶさ」)は(が)今(いま)
揺れて舞い降りつ(る) 揺れて舞い降りる
命(いのち)命(いのち)燃え立つ
一人(ひとり)ぼっちの冬も絶望の春も
君は信じ続けた(つづけた)未来を
そして今(いま)蘇り(よみがえり)の時 ああ
帰りましょう待ちわびる人々の元へ(もとへ)
南十字星の懐へ(ふところへ)
ひた走り行く(ゆく)玉手箱
君は夜空に花(華)と散り
かくも懐かしき(なつかしき)
故郷の(ふるさとの)星へ 懐かしき(なつかしき)星へ
炎(ほのお)炎(ほのお)燃え立つ
心(こころ)心(こころ)燃え立つ

(隼が宇宙を旅する時にどっちを向いたらいいか判らないときに基準になる星がカノープスという 
南半球の一番明るい星) 
(隼がオーストラリアに来る時にちょうど南十字星が輝いており 隼を迎えているがごとくに感じた)
(玉手箱 太陽系ができたころのサンプルを持ってくるという事なので 太陽系を研究するカプセルが玉手箱)
服部克久さんが作曲してくれた

2012年8月25日土曜日

北河原公敬(東大寺別当69歳)   ・蓮華のごとく生きる



北河原公敬(東大寺別当69歳)   ・蓮華のごとく生きる
平成22年に東大寺第220聖住職に就任しました 祖父、父親も住職を務めました  
東大寺が建立されたのが今から1260年前の天平時代 聖武天皇の願いに    よるものです  
奈良の大仏として知られる蘆舎那仏は巨大な蓮の花びらの上に鎮座してます 
蓮の花は仏教では蓮華と呼ばれ、浄土 理想の仏の国や清浄、解脱等を象徴します  
祖父が若いころから晩年まで蓮をこよなく愛して、沢山の金魚蜂に何種類も植えてきた 
植え替えの時期に行き合わせた時に お前は花に興味はないのかとか、蓮をやってみないかと言われたが若かったので興味が無かった  
晩年体調を崩して入院してほったらかしの状態だった  

知り合いから蓮の根をいただき、はちに植えてそれっぱなしの状態だった 
2年したら一つつぼみが出てきて花が咲くのかなあと思っていた
祖父の容体が悪くなり病院にいったが間に合わなくて 戻ってきたらつぼみだったものがたまたま咲いていた  亡くなった日に咲いた
蓮をやってみようと始めた  
毎年毎年植え替えをして、きちっと蓮に対しての想い 世話をするので花が咲いてくれる
気品のある高貴な花を咲かせる 自分の世の中で生きて行くうえでの蓮が私に教えてくれるのかなと思った

世の中の汚泥  欲望だとかむさぼりだとか いろいろなしがらみだとか 世の中の汚れ 
けがれの中で生活しなくてはいけないので そういうような状態に身を任せて仕舞って、いきてゆくのも一つの生き方かもしれないけれども、そうじゃなくて矢張りきちっとした生活をするのも大切なことじゃないかと思う  
そういう事を蓮は示してくれるのではないかと思う 
聖武天皇は何故東大寺をつくったのか 飢饉 疫病が有ったり 藤原博嗣の乱が有ったりして ある意味不安定な世相であった

為政者の聖武天皇は国民が出来れば幸せな、安泰な生活を送れるような社会を実現したいという思いが強かったんだと思う
そういうようなことの表れとして大仏の造立を考えた  
大安寺の「審祥(しんじょう)というお坊さんが、日本で初めて華厳経と言うお経を口舌された
自らお聞きになって お経の中から出てくる蓮華蔵世界がとかれていて それが非常に素晴らしい世界 人々の生きとし生けるもののすべてが幸せな生活 が送れるような世界であるならば、
なんとか実際の世の中に実現したいと その為にはこの華厳経の教師と言われる蘆舎那仏 (光明遍照)を作って蓮華蔵の世界をこの世の中に実現しようと思った 
慈悲の光 そういうようなものが宇宙の果てまで行きわたる 
 
普通光は障害があればそこは陰に成っちゃうが、そういうものも全部通してしまうというそういう光と言われる  無辺際 宇宙の隅ずみまで光が行きわたる
そういう事をかんがえればもっともっと大きくてもいい 
お水取り 修二会(しゅにえ)  二月堂の御本尊が十一面観音像 十一面観音像の前で行を務める僧侶の事を錬行衆と言われる 今は11人でつとめている
錬行衆は日ごろ意識するしないに係わらず犯してしまう罪 トガ 穢れ だとか 多くの人達のそういう穢れ 罪だとかを代表して 11人が代表して懺悔をすると 共に人々の幸せ、国家の安泰、五穀豊穣を祈る 
   
十一面観音像の前で私達が犯す罪、穢れ (とん・じん・ち)と言うが  私達はむさぼりという欲望があるが あるいは怒ったりして人に対して怒鳴りつけたりする 
あるいは無知からくる欲望 そういうものを含めて懺悔をする   
懺悔するとともに 人々の幸せ、国家の安泰、五穀豊穣を祈る    
時の政府 大臣の名前を読み上げたり 県知事の名前を呼びあげたりする(国家の安泰) 
行が終わったら宮中、国にお札を届ける 
今年で1261回目を数える  一度も途絶える事が無くきた
 東大寺が火災に遭ったりしても途絶える事が無かった
3月11日は修二会 の行のさなかであった  地震であると気が付いた 

TV等で大変なことであると判った
大震災に対しての呼びかけを行った  震災で亡くなられた方々に対してご冥福を祈る  
被災された方々、被災地に心を寄せて欲しい
それぞれ各々の方がそれぞれの立場で被災地に力を尽くしてほしいとお願いした 
通常呼びかけはしていなかったがお願いした(支援金、救援物資、等)
神仏霊場会(150)が近畿にある 東大寺でおこなわれたが 亡くなられた方のご冥福、と早くの復興を願った

ボランティア 慈悲の心 菩薩の心 対価を求めない  無償の施し  
宗教的情操教育は有った方がいいのではないかと思う  
宗教心が養われていれば、相手に対しての慮る気持ち  心配り 相手の立場に立って物事を 考えたりする  そういう意味で宗教的情操教育はあると良いなと思っている  
東大寺は華厳宗  華厳経は世の中のあらゆる存在は我々の心の現れである  
といわれる 我々の心の計らいでできている    
お写教  「唯心偈」(ゆいしんげ)100文字  百字心行とも言われる 
唯心偈の最初に 「心はたくみなる画師の如し」と言う言葉が出てくる 「譬如工畫師」と書く  心は上手な画師のようである  

心の中では何でも上手に書ける  だからと言って描き方を一つ間違ってしまうと我々の心は仏にもなるだろうけれども、悪魔にもなりうる
最後の言葉に 「心造諸如来」と言う言葉がある  心はもろもろの如来を造る  心の描き方、持ち方、で持って我々の心は仏様にもなるし 鬼にもなる
と言いましたが、その仏様がそれぞれの私達の心の中におられる  
あるいは私達の心の中で持って仏様が作られてくる
私達の心の中はあっちに行ったり、こっちに行ったり移ろうものですけれども、しかし 心の持ちようによって仏になりうる

我々には仏になるための種子(しゅうじ)がある と言われている  我々は意識していない 
知らないだけ  人間だれしも種子がある
その種子を丹精かけて育てたならば、お釈迦様のように仏様のようになれるわけです  
ところが我我は悲しいかな、なかなかできない
我々が持っている種子もむさぼりだとか、怒りだとか、そういうような欲望 煩悩を無くす 煩悩から離れる為の丹精さを持っていかなとその種子は育たない
丹精さが必要 そうすればお釈迦さまになれる可能性がある

初発心時便成正覚」 初めて心を起こす たちまちに悟り 正覚を得たと同じような事 我々が悟りを得ようと思って発心したら 悟りを得たと同じくらいの想いが有るんだという事を教えている
我々が生きてゆく中で、欲望やむさぼりや、煩悩と如何に旨く付き合っていけるか  
例えわずかであろうともお釈迦さまに近づけるような努力をするのが有ってしかるべきではないでしょうか  
我々は混とんとした世の中で生きて行かなければならないので、どうしたって避けて通れない 
混沌とした中でありながらも、自分というもの自己と言うものの確立というか 自己と言うものを
良く見つめてそして、先ほどの「譬如工畫師」ではないけれども 心の持ち方  仏にもなるし鬼にもなると言いましたが、心の持ちようと言うものをそれぞれが自覚をして、出来るだけ私達皆が泥に染まらず、汚濁に流されるのではなくて 正しい心 清い心 そういう想いを 大切に生きて行って貰う事が必要と思う  
 
自分の心が正しくなれば他者に対しての想いも良くなるとおもうんです 
自分の心がむさぼり、欲望、怒りで固まっていたら 相手に対しても自分のそういう思いが出てしまう
自分の心持を正しくして 正しい心で正しい行いをして生活してゆく  
そうすれば他者も対応して応えてくれる  そういうような連鎖 繋がり がある意味
私達のこれからの平安な穏やかなぬくもりの有る 
そういうような社会、生活に繋がってゆくのだと思います

2012年8月23日木曜日

南研子(熱帯森林保護団体」代表)  ・アマゾンの自然保護にかけて



南研子(熱帯森林保護団体」代表65歳)   アマゾンの自然保護にかけて
昭和22年生まれ NHK ひょっこりひょうたん島 お母さんと一緒等の美術制作に携わってきた25年前に英国の歌手スティングさんがアマゾンの自然の危機を世界に訴え日本にも来ました 先住民のリーダーの自然破壊の報告に胸を打たれ何とか支援したいと熱帯雨林の保護団体を結成しました  
25回アマゾンを訪れて訪問の都度 ジャングルで2か月ほど共に暮らし自然保護と先住民の生活支援の活動を続けています

1992年に初めてアマゾンに行く  日本からブラジルまで24時間かかる  
支援対象地域の一番近いところまでは日本から4日掛る 日本の面積の23倍
国立公園の保護区で日本の半分の面積になる 17、8部族が2万人ぐらい住んでいる
最初行った時、同じ星の処とは思えなかった 赤ちゃんも蒙古班がある  火 をあち という  足の事をてとう 水の事をみすという
我々日本人と近い思いがある  電気 ガス 水道が無い  トイレ 風呂も無い  川がトイレ  
髪の毛以外は毛を剃って殆ど真っ裸の状態だった   立ち振る舞いは近いものがある 
500年前までは先住の民が1000万人いたが、ポルトガルが500年前に侵略してきた 
 どんどん奥地に逃げ込んで38万人になってしまった
以前は森が有ってだんだんと開発の元に森が無くなってきた  
周りが開発されると生態系がくるってしまって本来狩猟採集で食べていたものが無くなり
シングウ川の流域に世界でも3番目の大きさのベロモンチダムの建設がある
25年前にイギリスの歌手スティングさんがその事でワールドツアーを部落の長老と一緒に世界16カ国を回って訴えた

一旦その話はポシャッたが又20年後に浮上した  ダム建設着工し始めた  
必要性が明快ではない 日本の1960年代の高度成長期と似ている状況
彼らが普通に生きていけない状況になった 
自然は惨憺たる有様 四国の面積分ぐらいが1年間で無くなっている状況です
一番大きな原因が大豆畑  大豆の95%以上は日本は他国に頼っている   
アマゾンの森を壊す加担をしていることになる
便利で豊かな生活を支えているのはどこかの国の誰かを悲しませて私達は便利で豊かなものにまい進してきちゃったのかなと思いますね

NGO RFJ熱帯森林保護団体を作るには大変な決断が有ったと思いますが(スティングさんの活動)握手をしたときに川の流れ 豹の鳴き声 アマゾンの風とかを感じた
我が有る人は人にそういう事を伝えられない この長老(ラオーニ)は無我の人だなあと思った  世の中にもこういう人がいるのだなあと思った
私は一番大事にしているのが人との出会いと御縁を大事にしている  
この人だったら何か手伝えられるかなあと想った  これがきっかけだった
コロッケ位のゴキブリ  30cm位のバッタ に出会う    人間は絶対偉くない 
人間も一種の動物だと感じる  行って無形なものを一杯頂く

アマゾンの森を象徴している様な人 長老のラオーニ氏   
ジャングルに居ても都会にいても変わらない人  その人の生きざまであり力ですね
5月~9月は乾期 10月~4月が雨期  だがジャングルでも世界的な異常気象で乾期に大雨になり10時間雨にぬれっぱなしになった
寒くなる 眠気が出てくる  体重が落ちてゆくのが判った  3kg位痩せた 
岸についてから4km歩いてお祭りの前夜で眠れずに過ごした
RFJ レインフォレスト ジャパン  広島 長崎 新潟に出来た それぞれに支援している  
支援活動の内容  学校 医療 乱伐伐採に対する植林   
昼間は54℃ 夜は14℃になる 1日に40℃差がある 
 
地面が暑い  自然発火 含め火事が1万500箇所あった(1月~5月)  
植林の前の段階 どうしたらいいかとか 支援している
私達が抱えている負・・・ いじめ 自殺 殺人 ノーローゼ 認知症 寝たきり 等は  皆無です
私達の社会は何故かという事を考えないといけない  
一つの集落が500位になると新たに別の集落を作る 人間の暮らせる集落が500位が限度
食べ物、排泄  等 500位がちょうどいいと思われる  
彼らの知恵から学ぶべき事が有るのでは  地球に合ったテンポで暮らすのがいいのではないか ジャングルでキャラメルを食べるのが僅かな楽しみで、持って行ってたべたが、或る時に子供に見つかってしまい残った1個を3歳ぐらいの子供に与え、残りの2人には部落に戻ってから他の何かを与えればいいかと思っていたが、その子は3等分にして残りの子に分け与えた 
自分の至らなさと感動が有った
 
子供に問題が起きた時には大人の合わせ鏡なのではないか
足る事を知る  それぞれの尺度 が有る  自分の尺度でものを測らない  
他人の物差しを認める心の広さが必要  違いを指摘するのではなくどこが一緒だろう 
ということで同じことを探し、相手の違う処を認める心の広さがあればそこで戦いは無いと思うんです  競争意識が有ると大きな問題が有る
痛いものは痛い  自分が痛いと思うことは他人も痛い 
自分の痛みと人の痛みを同じとして受け止められるのであれば必ず平和に成ると思う
見えないもの 本当に大事なものは目に見えない 

自分が謙虚になれば周りがいろんなことを教えてくれる
見えないものも 見えるものもひっくるめてすべて認める心の広さが今こそ大事に成って来たんじゃないかと思います
これをしたい、あれをしたいというんじゃなくて 流れに任せてその中で自分で選択してなるべく間違ったことに手を染めたくない 当たり前のことに当たり前に やっていけたらそれが幸せと思いますね

2012年8月22日水曜日

長岡昇(校長)         ・報道最前線から故郷の校長に 2


長岡昇(校長)        報道最前線から故郷の校長に 2
今農村では子供は農作業等は手伝わない 土にあまり触れたがらない  
英語の授業が入っている 朝日町はコロラドから英語の為に雇っている
小学校1年生から英語学習を始めている  
祖父母学級 祖父母は学校に来る機会が無いので学校に来て貰って授業参観をして貰ったりしている
3世代同居率が高いため 竹トンボ、お手玉作りなどやって好評  
学校便り  意志疎通の為大事だと思って実施した  
文章は出来るだけ少なくして子供達の事が沢山登場出来るようにしたいと思った
どの子にも良いところがあるので 褒めるのを学校便りを通してやりたいと思った 
ドキドキ探検隊 作ってくれている 子供達をいろんなところに連れて行って 春は山菜とり 夏はカヌー遊び 冬は雪の中でのキャンプ 年間10回ぐらい計画
40年ぶりに故郷に戻ってきたので 子供も半分ぐらいになって仕舞っていて地元を元気にしたいと思った

リサーチしたら朝日町の財産は朝日連峰と最上川だなと思いました   
朝日連峰は登山道は他のところにあって朝日町を通って行く道は有利ではない
最上川を眺めてみたらカヌーで遊んでいる人達が結構いる  
フリースタイルでやっている人達が良いポイントがあると言ってくれている
カヌーで何かできないかと考えたら カヌーで長い距離下るのが日本では無い 外国ではある カナダでは1600kmを何日もかけて下る  
イギリスでも200km、300km  最上川でカヌー川下りができないかと企画書を書いたら 町の人達も面白いねと言う事でスタートした
2年目の3月にNPOを立ち上げた  東日本大震災が起きてカヌーどころではない隣の県を何とか援助したいと 休止して 去年の秋に再立ち上げして
昨年の夏に2日間で50kmの川下りをすると云う事で実現しました  
来年も7月の最後にやりたいと計画している

1日目(24km)が21人 2日目(29km)が22人参加した  
東京、埼玉の人達も参加してくれた
参加した人は非常に喜んでくれた  (今まではサポートしてくれる人がいなかったので下れなかったとの事)
農業に対しても潜在力はあるが、後継者がいなくて 専業農家も6世帯しかない 
リンゴか付加価値の有る野菜
水田稲作ではやっていけない  
山の中の畑は採算が合わずに放棄されて荒れ放題になっている   山の荒れ方がひどい
来年退職するので時間が出てくるので 山の方、 畑に何とか力を入れたい  
農業を若い人にやってもらいたいが初期投資が必要であり之がネックになっている 
いろんな形でのサポートをしたいと思っている  
荒れ地が多く勿体ないと思っている

NPO「村の森」 あれもこれもと出来ない状態  若い人の農業活動支援をしたい(地域おこし)
教育が大事にされていないのに吃驚した   
美辞麗句を掲げているのにもかかわらず パソコンを導入されていない 全国で62%しか導入されていない
民間では10数年前から働く大人はネットワークで結ばれて仕事をするのは当たり前だった  62%は高校も入れての数字なので高校を優先的に行ったので、小中学校は後回しにされた 
半分まで至らない パソコンを先生は自費で購入してやっている状態    
一番ひどい大阪では去年3月の統計で65.5% 千葉県70.3% 奈良県70.4% 京都府72.5% 山形県80.1%5番目に悪い 
学校給食 美味しいものを、安全なものを 給食にお金を使って、先生の環境を良くしていかなければいけない
年寄が身を削って我慢をして若い人 子供の環境を良くしていかなくてはいけない
新聞記者はプロの野次馬 正確でなければいけない 突っ込まなくてはいけない  
新聞社を止めても変わらない
新しい風を吹き込むのが私の役目だと思っている  

2012年8月21日火曜日

長岡昇(校長)         ・報道最前線から故郷の校長に


長岡昇(校長)           報道最前線から故郷の校長に
30年間勤めた新聞社を56歳で早期退職して民間人校長として故郷にもどってきました 
報道の第一線から教育の現場に身を転じた長岡さんに伺います
記者生活や転職の決断、校長一年目の話を伺います  山形県朝日町 大谷小学校長
杉の香りのする小学校 デザインも素晴らしい  2009年4月から先生になる 
学校教育の指針  命は幸運の結晶  子供に送りたい言葉は何かと考えたら
30年の記者生活をしていて考えたらこういう言葉が出てきた (戦争 難民の状況)  
今ある命は幸運による幸運の積み重ねによる
学校経営の指針にしようと思った

「命は幸運の結晶  君の命はおとうさんとおかあさんが出合って生れた どちらかが病気や怪我で倒れていたら君はこの世にはいない
お父さんとお母さんはお爺さんとお婆さんが出合って生れた  
誰かが病気や怪我で倒れていたら二人はこの世にいなかった
お爺さんとお婆さんはひいお爺さんとひいお婆さんが出会って生れた  
そしてひいお爺さんとひいお婆さんも昔、昔 若い二人が出合って生れた
沢山の 数え切れないほどの沢山の命が幸運にも生きながらえて、命を君に繋いできた  
だから命は幸運の結晶  一つ一つ掛け替えのない存在」
理解できなくても心の片隅に残っていればいいと思っている

海外での生活は20年間(アジア担当) 最初東京で3年間 それから アフガニスタン インド タイ パキスタン 北朝鮮 中国 に出張
インドに3年間暮らす 周辺7カ国取材  
インドの取材は宗教暴動はインド全土に拡大して数千人が殺されるという暴動が有った 
インド社会の構造見たならば暴動を元に噴きだしてくる  
インドの宗教暴動はヒンズーとイスラムの対立と言うように捉えられるが、実態はヒンズー教徒による 少数イスラム教徒の虐殺状態だった 
同時に其の取材を通してインドのイスラム教徒の大部分はアンタッチャブルと呼ばれた差別でも一番厳しいと言われた
 
差別民がイスラム教徒になっているという状態 多数派による元不可触民に対する恐喝で有、虐殺であるということです
そういう現実を外国人の記者に隠そうとはしない  
どんな現場でも取材を許す インドの懐の深さを感じた
論説委員をその後する(アジア担当) 社説を書くためにも現場に行って情報を取りフィードバックする 
スマトラ大地震の時も東京から映像を見て書く事もできたのですが、実際に自分で目で見て社説を書きたいと言うので行きました
復興状況を見ながら1か月後、半年後、1年後 2年後 出掛けた  職人的な処がある  社説を書く事に対して辛くなってきた
山形で職探しをしたいと思ったが 新聞記者は使い道が無い 人に頭を下げるのが旨くない 
お金を稼ぐのも旨くない お金を使うのは得意
たまたま知り合いから民間校長を募集しているので、応募してみる気はないかと話があった  人間を扱うので同じかなと儲けなくて良いので応募した

小論文を書く  1、土と緑に親しむ 2、多様性を愛でる 3、世界を見つめる  実際にやってみたいと思った
農民が社会の底支えをしている(インド)  日本の場合は余り大事にされていない 
栗田浩一 土をベースにアートをしている  
足尾銅山の現代に至る状況 等     
インド 多様な民族で 異なる人間と付き合うには日本は足りない 
均質の高い社会で今後世界と付き合ってゆくにはしんどいかなと思った
世界は繋がっている  噴火 アイスランドの噴火の影響  
  
妻からは新しい仕事に関しては反対された  
妻は親が教師だったので子供の頃から転々としていて 夫も記者で転々として 東京でようやく安定した暮らしに    なっていた  何とか説得して了解を得た    
校長になるに当って新聞記者に未練は無かった  
書くことはずっと続けている  (インターネットのコラム欄)
学区に500世帯がある 学校便りを送っている   
平成11年に新しく建てられた学校できちんと運営されている  
給食費の不払いは無いし 不登校は無いし  無理難題を言ってくる人もいない
山形の都市部では東京と同じような状態との事をしり合いからいわれた   
ここは3世帯同居が多い  

生徒は89人 その後若干減少  いきなり89人の孫ができた様な感じだった  
先ずは名前を覚えるようにした
全校生徒と先生が一緒になって昼食を食べる 野菜を学校で作ってそれを給食に使っている 子供達が主役になる卒業式にしたいと思った  一人一人の語りかける挨拶にしようと思った 次に保護者に語りかけた  在校生に 最後に来賓のひとへの挨拶にした

2012年8月19日日曜日

志村ふくみ(染色家)      ・時代を作った女たち

志村ふくみ(染色家)           時代を作った女たち  
1924年滋賀県生まれ  31歳の時に本格的に染色の世界に入り 草木染めによる独自の作品を生み出してこられました
平成2年1990年には紬織りの分野で重要無形文化財保持者 人間国宝に認定されています  
80歳の時に何もしたくなくなった        なぜ突然なったのか判らなかった 
とうとう病院に入って治療を受ける     何かやりたくなってきて編み物をした
そのうちによくなってきて退院した  
布をいろいろいじっているうちに夢中に成ってすっかり戻ってきた
何か目標を持って自分が好きなことを何かするというのが一番からだによかったと思った 
布が私を励ましてくれた,慰めてくれた 
積極的にきれがこうやんなさいと,語りかけてくれた   
やっぱり自分の意志が無いとできなかった  
糸も命があるもの 色も命があるもの  小布になると語りかけてくる 不思議に思った  
布は使命を持っている      使った後 布、自分自身が主張してくる

水色を使った布を展示 
くさき(臭木)と言う植物の実を摘んできて(ほんの少ししか枝から取れないが)たきだして染めると、あさぎ色の綺麗な色がでる 
天の色を頂いた様な色   老いて童女に還る  拘らない 型にはめない  
ありのままに季節の旬の色を染める(散歩で染める色を想う) 
焙煎剤 同じ植物でも焙煎によって色が違ってくる (5種類ぐらい)   
糸は動物(蚕) 色は植物  焙煎は鉱物  3種類の恩恵で色が出てくる
織物は殆ど下ごしらえ  織る時には仕上げの段階と思っている 
織りあがると湯通しをして しんしばりを張る  仕立てをする 尺でおこなう

仮縫いをして終了する  身にまとった時にあっと思うような綺麗さがある  
着物を若い人に着てもらいたいと思っているが,抽象的な考えを織りに託している  
直線で表現しなくてはいけない 
ぼかし 嵯峨野は朝もや しぐれ  織物ではぼかしは殆ど無かったがぼかしを行った  
染めのぼかしと違い ぼかしに深みが出てくる  
一本一本の糸でのぼかし 微妙なグラデーションを出せる
緑 紫 色はそれぞれ主張がある  
糸で紫と緑で混ぜて微妙な色を作りましょうと それだったら濁った汚い色しか出ない

処が緑と紫を上手に一本一本微かに濃淡を付けながら入れると、えも言われない ある種の 邨辱色? 色が混ざらないで張り合いながら第三の色を作ってゆく 
澄み切った美しさがある     自然界のリズム 働きを持っている  
植物に対する畏敬の念が無いといけない(生きているものをつぐむ行為があるので)
同じ赤でも受け入れる赤と突っぱねる赤がある  
(苦労した人間とそうでない人間とでは内面から出てくる違いがあるように)
学んだものを生かす場が無い  苦難です 大きな悩みです  
 真面目に一生懸命やるほど出費が多い
染色の仕事を何とかして伝えたい      大事なのが日本的色彩 (精神) 
今は自然そのものが無くなってきている  
染めを織りを体験してもらう (親子)       直に触れていただきたい
自分でものを作るという事がなかなか無いので体験してもらいたい

2012年8月18日土曜日

林啓介(78歳)         ・奇跡の友情 板東俘虜収容所

林啓介(78歳)           奇跡の友情 板東俘虜収容所  
第一次世界大戦の際 日本が中国チンタオで捕虜にしたドイツ兵を収容するため現在の徳島県鳴門市大麻町に作られたのが坂東俘虜収容所です
大正6年から3年間多い時で1000人を越えるドイツ兵が捕虜として過ごしました 
しかしその暮らしぶりは捕虜の収容所というイメージとは違って,自主的な運営が認められ文化的な活動も行われました 
捕虜によるオーケストラがベートーベンの第九の日本国内の初演を行ったことでも知られています  
周辺住民との活発な交流によってドイツの優れた技術や文化が伝えられ住民たちは捕虜たちとの友情と思い出を1世紀経ったいまも語り継いでいます
収容所で働いていた父からドイツ兵との思い出を聞かされたと言われます 
教職を退職した後 ノンフィクション作家として活動する林さんはライフワークの一つとして,坂東俘虜収容所について調べてきました  
日独友好にも努めています 
人道的な管理はどのようにして実現したのか,奇跡の友情は現代の私達になにを語るのかお聞きしました  

ビールの大ジョッキー 大谷焼きの窯元で作った  
80店ぐらいの店も出した(捕虜の人達) 収容所内に入れて見学ができた
バター、チーズの作り方も教えてもらった 
パンの作り方 6カ月学んだ (修了証書を発行) 
5年による発掘調査が終了した  測量図が見つかり実に正確だった  
捕虜たちによる自主的な運営  段々といろんな生活をいやっていけるようにした  
いろんな技術者、酪農家等 優秀な人達がいた
第九の演奏 いろんなクラシック、オペラ等200曲ぐらいが演奏された  
楽器はチンタオの沿岸警備隊の楽隊があり,自分でも好きな人は楽器を持っておりチンタオから来る時に持ってきた 
不足はドイツから来ていた企業が救援組織を作って買い足してくれた
   
第九の演奏には捕虜が聞いていた 出来るだけ気概を持って健康で帰れるようにいろんな活動がされた  
スポーツは恵まれていて ここは陸軍省が借り上げて 自由に作らせた  
テニス、サッカー場 音楽の野外演習場 等捕虜たちが作り上げた    
商店街 での購入のお金  勤めていた会社から出向と言う形で支給された 
全体でプールしていろいろな経営に役立てた
薬局、パン屋、等々  ドイツの村を作ろうとの意識であった   
捕虜同士の文通もできるようにした  新聞も発行した (日刊から週刊に変わってゆくが)
情報が無いので彼ら自身が集めた情報 日本の新聞を翻訳したもの等を記載
強制労働は無い スポーツ、勉強する人もいるしいろんな工夫をしていた  
散歩は弁当を持ってゆく 殆ど自由に水泳大会をやったりバーベキューをやったりした
大事にして貰ったことを忘れられずに訪ねて来てくれた人がいた  
捕虜の身でアルバイトをしていた人もいた(洗濯屋)  
85人がこちらで亡くなったが慰霊碑が建てられた  
トラブルは?  異民族の人とは旨く行かなかった  
別に隔離するようにした事が好評だった  地元民とのトラブルは無かった

所長が敗れた人の辛さが判る人だった(会津のひとで戊辰戦争で負けた人)  
ここは刑務所ではなく捕虜を預かっている場所なのだという考え方
他の収容所はトラブルが無いようにと自由は与えないようなやり方だった  
軍からの考えは 甘いとの指摘があったようだが信念は曲げなかったようだ
2006年「バルトの学園」 松江所長の役を松平健が演技  
松江所長への感想は 本当に彼のもとで幸せだった 
彼に迷惑をかけてはいけない(信頼関係)

地元の人達はドイツさんと呼んでいた  親しみを込めて付き合っていた  
1番札所と88番札所の間にあった、お遍路さんをもてなす文化が既に地元にあった
気の毒な人だとの思いが地元のひとにもあった   
交流しましょうとの誘いは捕虜の人から必要にせまられてあった(日本の事を知りたがった) 蚕、餅つき ・・・碁 いろんな形で交流  散歩道の橋を作ったりしてくれた    
別れの時は地元の住民とプレゼントの交換をした 涙を流す人達がいた
第二次世界大戦の時に 引揚者の住宅にしていた  
ある人が草ぼうぼうの中にドイツの人の墓を発見する 
そこの掃除をずっとしていたことが、やがて新聞に報じられるとドイツの方から大使がお礼に来る帰ってからドイツの人に教える事になり実際にお墓参りに来る人達も居て交流が復活する
 
姉妹都市となる リューネブルク市と鳴門市  ルーダザクセン州と徳島県との姉妹県   
第九演奏会1917年6/1に行ったので6/1に行っています
捕虜と住民の間に友情が芽生えて珍しいケース 
戦争は国同士の関係でやっているが庶民同士は判りあえる
言葉が判らない同士で身振り手振りでコミュニケーションを取ったが 判りあえるのは心である 相手を尊敬する 相手の立場を尊重する 
互い大事にし合う それさえあれば民族、宗教を越えて人間って一つに繋がりあえる  
人間って本当は判りあえるのではないですかね
相手がどんな立場に置かれているかどんな気持ちだろうか 
それを考える事が一番大事なんではないでしょうか

2012年8月17日金曜日

野田大然(喝破道場理事長66歳)  ・喝破道場・若者自立塾 2

 野田大然(喝破道場理事長66歳)     喝破道場・若者自立塾 2  
岡田元監督(サッカー) 必勝祈願に来ていた 御祈祷していた 急に寺に来る  
宿泊場所が決まっておらず道場に泊りに来る その後座禅にくるようになる 
勝負師でないときは人間的なところがある   子供達には何時も冗談ばっかり言っている 
引きこもり  イメージを持ってしまっている  気が弱い 自己主張ができない 
それは本質ではない  
ここに何しに来たんと聞くと 変わりたいという  
如何変わりたいのかと聞くと和尚さんみたいになりたいという 
貴方が一番大切なのは貴方になりなさい
自分探しをする  守・破・離  守:形をまねる 師匠のいわれた通りにする(教育の根本)  
とりあえずここに来たら徹底的にここのやり方をまねる
例えば座禅の仕方 食事の仕方 お経(意味が判らなくても大きな声を出す) 
声が変わることが人が変わること 自信が無いから大きな声を出せない

自信ができたら大きな声は出せる 大きな声を出すとするのは呼吸なんです  
腹式呼吸 お腹から出る声が本当の声なんです
座禅は先ずお腹から声を出す お腹から呼吸をする 
呼吸だけでは駄目だからお経の時に、その呼吸に声を添えるとそうするとお経になる
1か月半は親御さんとは電話させない  はがきでおこなう  
その後電話を掛けられるようにする  母親から掛かってくる  声が変わっているのに気付く 自信ができて来ると声、姿勢、顔が変わってくる イエス、ノーがいえるようになる 
   
朝は5時起き 洗面 ここから修行が始まっている 寝る所は個室  
起きた時の起きたくないなあと思ったらダメ  鐘がなると何も考えずにガバっと起きる
起きて10分後に45分間座禅  座禅はリラックスさせる(オフ状態にする) 
お経を大きな声であげる  呼吸を伸ばす
守をしっかり教える   破:先生を抜かなければいけない 弟子が先生を上回る
離:自分らしい生き方をする  本当の自分の生き方 自分にかなった生き方 (悟った)  
読経7時  食事 玄米のおかゆと 野菜を主にしたおかず 煮干し3匹
噛む習慣がついてくる   
部屋の掃除  体操  コーヒータイム  朝の作業 ハーブの為の草取り 5000平米やっている  ハーブの香りがいい
ハーブの販売をしようと思っている  社会に出る中間施設   
帰る怖さがある(帰ると元に戻るのではないかと言う不安)  残りたいという
総持寺 (本山) で修行僧を教える   
少子高齢化 檀家さんが亡くなって減ってゆく方向にあり お寺の運営が厳しくなってくるのは目に見えている

昔ながらのやり方では駄目だと思う  時代は変わってきている 
原点に戻って生きている人達を相手にする  カウンセリング
檀家が寺に来るようにしないと駄目  社会で何かをするために修行してきたのではないか  
説教するが そうではなく 悩みを聞かなければならない
聞く事をしなければならない(カウンセリング)  溜まり場になる  お寺に人が集まる  
若い修行僧に聞く事を教えている
子供から教わることは社会を教えてもらう  子供を見れば社会が判る(見えてくる)  
私は社会が必要としていることをしてきたと思う

2012年8月16日木曜日

野田大然(喝破道場理事長66歳)  ・喝破道場・若者自立塾

 野田大然(喝破道場理事長66歳)     喝破道場・若者自立塾  
40年前 山腹に大きな醤油樽で暮らしていた野田さんの元に オートバイに乗った行く宛の無い一人の少年が尋ねてきました
以来不登校、非行少年、引きこもりの若者を受け入れるようになり 自立する為の道場として多くの人が巣立って行きました
今この道場には若者が寝泊まりする施設や座禅堂 研修室 情緒障害児の治療施設 若竹学園等があり 生き生きと暮らしています
醤油樽から始まった若者道場 喝破道場理事長に伺いました

彼らが一番不得意なのは人間関係 それをスムーズにしてやらなければならない  
道場内に喫茶店があるがそれが会話のきっかけになる(対応の)
社会生活の基本ではないかと気が付いた  彼等にとっては緊張    
喝破道場 38年前 醤油樽が伏せてある そこに2年間生活した  
道場を作ろうとした建物を作れなくて なにがなんでも住まなくてはいけない
そこで考えをめぐらして 大昔は横穴を掘った そこで孔を掘ったが上から土が落ちてきて諦めたふっと思い出したのが漫画 その中に土管に寝ている状況を思い出した  
私も出来ると思った 土管を探すが土管はもうない(コンクリート製) 
たまたま醤油屋さんに行った時に大きな樽があり住めると思った

醤油樽を貰う事になり分解して今のところに樽をさかさまにして組んで窓を作ったりして住めるようにした
ランプの生活なので眼を悪くしてしまった  2年間は誰も来なかった 
人と言うのは自分が願う あるいは目標を作る その通りに生きて行っているだろうか と言う事 私は坊さんになろうとはつゆほど思っていなかった
両親は中国からの引揚者 開拓者として入植した 20歳で父親は亡くなった 
土地を売却して家族は街で生活していた
高校まで地元にいた  医療機関係の仕事に従事する  
社長が変わっていて人を紹介すると言って坊さんを紹介してくれた
医療機で病気を治すことが凄いと思ったが接骨院に行ったり、鍼灸院に行ったりすると指一本で直してしまう事に吃驚する( 医療機を使わない)

医学の勉強もする 医者には成れないので鍼灸の学校に行く  
人間は元々四足なので首と腰に弱点がある事を教えてもらう
機械をを販売する会社を友人と起こそうかと考えた 
師匠と酒を飲み交わして出家の約束をしてしまったようだった 
そのことは判らなかったが断れなかった
松山まで行く事になる(家族は猛反対だったが)  そこで人生ががらりと変わった  
修行に出された 他の人はお寺の後継者 どうしたらいいのかと考えた
皆が集まれる場所をつくろうと思った (共同体)   父が残した土地に戻ってくる(32歳頃)  
ここしか落とし所が無いと思った

2年間誰も来なくて バイクに乗った少年が来る 小児麻痺の少年  ツーリングが趣味  
段々彼の友人が来て集まってきた
週に1度 道場を作りたいという事で座禅をして呼びかけていた 
その中の一人が医者で 友人の子供が学校に行けないと悩んでいるとの事
それで預かって生活し始めたら(バスをもらって 椅子を取っ払って床に畳を敷いてそこが座禅堂兼本堂 にして受け入れができた)直った
学校に行けるようになった  そうすると口コミで多くの人があちこちで来だした  
プレハブの中古があるからと次々と生活するように出来た
必要が生ずれば形は出来てくる  社会が必要だからいろいろな人が応援してくれる
喝破道場  河童の絵を書いてくれた 募金の為に絵を売っていて 喝破道場の名の由来となる
20~30名の子供達が来るようになる 秩序が保たれている  
靴が整然と並んでいる処はほかに無いとこれを見て子供を入れる事があった
報四恩(父母の恩、社会の恩 古里の恩 大自然の(仏)の恩)精舎  
四つの恩によって私達は生かされている  恩に対して報いなくてはいけない
先ずは知ること 知ったら恩返しする人間にならなくてはいけない  
自分の事をするのは当たり前   人の事を考えよ と言っている
命令ではできない 一緒にすること (草むしり 汗をかき 涙を流し )

洗面所は蛇口が付いていない  蛇口をつけると子供達は水を出しっぱなしで洗面をする  
人間の命と言うのは水から誕生した だから水を大事にしなければいけない
水は命である と教える  教育の切り口  変わるという子供達に再認識させる  
生きてゆく基本をしっかり教えてゆく
尽くすことは自分を除外しなければいけない  気持ち、頭だけで変わっても駄目  
形で変らないと駄目(声の大きさとか姿勢とか)
座禅をすることによって 呼吸法 自分で判ってくる   
随流去」 流れに従って行きなさい  さからっても良いことは一つも無い  
流れの中で如何に自分が生きてゆくかということ

2012年8月15日水曜日

宮田昇(83歳)          ・予科練の記憶を語り継ぐ

 宮田昇(83歳)      予科練の記憶を語り継ぐ  
海軍甲種飛行予科練習生の略 戦争が悪化した昭和18年以降は年齢を下げて募集して14歳の少年も志願しました
旧制中学3年 15歳の時に予科練を志願して三重海軍航空隊に配属されました  
飛行訓練は行われず飛行場の造成や穴掘り作業の日々を過ごした
16歳で終戦 復員しますが、中学3年中途までの為、学習期間が短く 上級学校に行くのに苦労しました
又予科練帰りと呼ばれ 職も無く様々な職業を経験をしましたが 大学の恩師の紹介で雑誌の編集に就く事ができました 
その後早川書房でミステリーシリーズの創刊に係わった関係で海外作品の翻訳権や著作権の専門家として活躍しました  
戦後昭和52年 配属された航空隊の後を訪ね歩き当時の記憶を史記に纏め自分の終戦としました
「敗戦33回忌 予科練の過去を歩く」を出版しました

玉音放送は大津の坂本町 7000~8000名の収容できる 1割にも満たない数しか残っていなかった 特攻隊 でいなくなる  陸戦隊に変更された
本土決戦は近づいてきていると感じた   
原子爆弾 ソ連の参戦で 勝つとは思えなかった  自分達は死ぬであろうとは考えていた
玉音放送を聞いたときに張りつめていたものがスーッと気が抜けてゆくものを感じた  
ぼんやりしていた  
一般の人達との乖離を感じた(比叡山に灯火管制されていたものが灯りを付けたことによって )
戦後33年間、予科練での事を忘れよう忘れようとしていた 予科練であることを隠していた
最後まで戦うと言っていた人達は如何しているのだろうかと思った   
姉が結核をこじらして亡くなった (終戦の年に)

33回忌と重なっている 同時に私が50歳だった 
この辺で過去を振り返っても良いのではないかと考えた
15歳~16歳で一体何があったのかと尋ねてみようと思った  
無性に泣けた 文章に纏めた 纏めた途端に自分の重しがスーッと抜けたように感じた
自分に衝撃を与えた事は書き残すことでおもりが無くなる ということだったのではないかと思う
一昨年 周りからの出版の勧めもあった  友人で予科練を受けた人がいた 彼は落ちた  
3年前に亡くなった その葬式の時に 彼の義兄に予科練に一緒に受けた事を口を滑らした  彼は軍国少年だったのかと言われた  
義兄は学徒出陣 で止む無く行ったのにと 軍国少年だと言われたときに 戦後の事が一遍に出てきた 
俺たちは予科練崩れ 軍国少年であるというレッテルはいまだに剥がされていないなのだという事  が判った  

だったらあの史記を世の中に知らせた方がいいと思った
(軍国少年という言葉さえ聞かなければ本は出さなかったと思う)  
予科飛行練習生  甲種 元々は旧制中学とは無関係 海軍が募集した 

海兵団に入った人達の優秀な人が抜擢されて飛行の方に回された
太平洋戦争でかくかくたる武勲をあげたり日中戦争で大活躍したり撃墜王と呼ばれたり そういう人達が飛行予科練習生なんです
戦争が激しくなって 足りなくなって 旧制中学からも優秀な人材を入れて飛行兵にしようとしたのが昭和12年からです
中等学校を卒業した人を入れた  (甲種)  それでも人が足りずに昭和16年から卒業したら志願できるという風に変えた 
昭和18年に中等学校3年1学期を過ぎれば志願できるようにした
   
その人達が予科練と呼ばれた  13万人が配属  
訓練は厳しい 一番走らせられた 体操 鉄棒  手旗信号 モールス符号  
9か月間操縦になるのは半分   飛行訓練の前に飛行場建設 防空壕 飛行機の 
隠す為にもっこ担ぎ 穴掘り等をやる  罰直:体罰  バッター (バットの様なもので尻を叩かれる) たるんでいるとかでやられる
徹底的に命令に従わせるために体罰を行う   「一歩前へ」と言う号令  
水中特攻の志願の時に一歩前に出ろという(私は前に出たが)
一人だけ一歩前に出なかった 
自分は飛行機に乗るために予科練に入ったのでこの様なものに乗るために入ったのではないという
東京大空襲で一家全滅(祖母だけは疎開で助かった)に遭った人だった(前に出なかった人) 
その人が特攻に選ばれてしまった
走るのが遅れたりミスをいろいろしたりする人が第一回目の特攻に選ばれた  
大変それにショックを受けた 組織の無情さを感じる
深刻に受け止めたのは復員して帰って来てから 成長してゆく中でその怖さが判ってくる   
33年間だまらした原因だと思う
戦後の苦痛はあまり話したくない位  職業を転々とした  雑誌の編集にようやくたどり着いた近代文学 野間宏 椎名麟三 梅崎春生  平野謙    本田 秋五のやっている雑誌を手伝ったのが非常に勉強になった

戦争を知らない人達が既に定年になっている  そうではないよと もっと過酷だった 
過酷さがにじみ出てきていない面が多い
具体的には 原発の時の対応 原発は地震の多い日本でこしらえる以上はそれなりの対応しなくてはいけない
地震が起きた時にどうしたらいいか原発を建てた時点から考えておかなくてはいけない  
地震が起きてからの問題がクローズアップされて それまでの何十年間はどのように対応してきたのか 責任の追及がなされないと 戦争中と同じ事になるのではなかろうかと思う  
目の前の事だけで判断するのではなく よって来るところまできちんと責任や対応の仕方を考えないとこれからの日本は又戦争の時と同じような経験をするんではなかろうかという恐れがあるわけです  
つつましいかも知れないけれども凛として平和に徹する  責任もきちんと取る 
それぞれ他人のせいにするのではなく逃げないで真正面から取り組む事
自己主張だけするのではなく自己犠牲も払う  逃げない そういう日本であってほしい

ジョン・ダワー 突然の事故や災害でその国にとって何が重要か気付く事がある 今回の大震災 かつての戦争がそうではないかと思う   
物質的な豊かさを求め続けてきたのではないだろうか  享受してきたのではないだろうか
私達の場合は物質的な貧しさを知っていたが 今豊かに暮らしている人達がもう一度踏みとどまって自分達の生活を考え直す 
小さな国であっていいと思っている   他人と競争して勝とうとしない国であっていいと思う  
心の豊かな国であった方があの戦争を戦った我々としては よかった事ではないだろうかと思う 平和に徹する国 どこの国とも親しくする それが大事だと思う

2012年8月14日火曜日

小林朋道(鳥取環境大学教授)   ・生き物と心通わす環境教育

 小林朋道(鳥取環境大学教授)        生き物と心通わす環境教育  
大学では生物学をまなび 平成13年から行動動物学を生かした環境教育を進めています  
環境保全のためには今自然と人間が共に生きているという共生の感覚をよみがえらさないといけないという強い思いがあります  
山羊は学校の一人であるという  潤いがあればいいなと   一頭のヤギを連れてくる  
現在3頭いる  好奇心が旺盛な動物
羊の群れの中に山羊を入れるとリーダーとして行動する   
色んな生物が住みかが無くなって個体数が減少している   
多くは50年前には人間が生きていた周りには一杯動物がいた

自然とのかかわりを人間が止めてしまった 生態系自身が脆弱に成る  
環境問題を机の上だけで語っているだけだと何でもできるように感じるが実態体験をすると身を持って判る
野生生物たちのにぎわいに充ちた持続可能な生態系の創造に向けてそういう行動をすることの大切さをいう
環境問題の基本  生物多様性 生態系から豊かさを与えてくれる  
地球上の生物の種類は5000万~8000万と言われているが それがある程度多い方が生態系が強固である  
種類が少ないと脆弱に成る   多いと遺伝子も多い  それから未知の病気も増えてくる 
そう言った時に治療として遺伝子が重要に なってくる  
食糧問題で環境も激変する中で 状況が悪くなった所でも実らせるような穀物も 野生種の遺伝子を貰って作らないと出来ないだろうと言われている   
生物は多様でなければいけない  にぎわいの有る生態系でなければいけない  
持続できるような環境でなければ言えない

現在減少傾向にある 生命が誕生以来 過去大絶滅が起こったのは4回有ると言われる  
現在の絶滅は5回目と言われているが過去起こったどんな絶滅規模よりも大きいと言われている  
1年間に数万種が絶滅していると言わている 明らかに人間が関与している 
人間活動のせい 自分の首を絞めている  
都市にいると自然に触れなくても生活ができる  
自然からの恵み 自然に生かされているという事が理解できない
食べ物がどこからきているのか すべて生態系の中からきているが 知る機会が無い
持続的に日常で体験しないと判らない  
種が絶滅 知られていないような種がドンドン減っている  
その結果結局自分達の生活が危うくなってきている

知識でも知らない人がいるだろうし、頭でわかっていても実感としても判らない 
そういう人がほとんどだと思う
自然と人間と言うのは 人間も本来野生生物  狩猟採集等でいろんな知識を貯めて必要な動植物を 必要なだけ採集出来た
海岸を歩くといろんな生物の痕跡が残っている  
そこに生き物の姿をいろんな形で教えてくれる 
接することによって本来眠っている脳の特性が活性化される
レイチェル・カーソン センスオブワンダーと言っているが似たようなもの  直観として理解できる 
そういう感覚を彼等に感じてほしい 言葉では伝わらない

生き物の習性を自分の頭で考える  
そこで彼らがどんな生活をしていたかが理解できるようになる
今の環境問題の本質的な原因  単純と言えば単純  快適さ  食べ物、温度、そういう状況を求める 
自然の開発 木を切って 資源を掘って  その時にはエネルギーも必要    
水俣病 そこまでは劇的ではないにしても 少しずつ蓄積してゆく被害を与える物質
が沢山出来ている  直ぐには気付かないので直ぐに対策が取らない 取れない  
気が付いたときには大変な広がりになってしまう
その一つが二酸化炭素  それが生態系が循環出来る量を越えてしまった 
そういう量を人間が作り出してしまった
その結果 大規模の地球レベルの気候変動であって 人間が住みにくい状態 生態系をそれ自身が破壊してしまうような力 ダメージを与えてしまう
他にも一杯ある 鉛とか   進むべき道  生き物としての根源的なこと  
環境問題は人類にとって大きな問題 

生きかたを設定できるか その人がどのくらいいるか 間に合うか   
自然を資源としてみるか 動物を擬人化してみる 擬人化と言うのは人間が本来持っている特性だと言われ始めた
動物と接する人間は激しく擬人化する  
擬人化する事によってアイデアが生れたりインスピレーションとかが 生れてくる
シマリスが蛇と出会った時には 蛇が動いて元気な時には周りで様子を見ているが なぜ逃げないかと言ったら蛇がどんな存在かと言う情報収集しているのでは
良い仮説が生れる事がある   
接すれば擬人化がより高まってくる  

擬人化と生物の生態を知ると云う事はマッチしていた  
自然と言うのは擬人化してみると資源ではない
どちらかと言うと同朋  11歳までに自然との体験が多い人ほど大人になってからの自然の保全の意識が強い(カナダでのアンケート調査結果)
自然と接することの重要性  擬人化する  

2012年8月9日木曜日

河野次男(84歳)         ・被爆体験を語り継ぐ

 河野次男(84歳)   被爆体験を語り継ぐ
東大和市原爆被害者の会を作って被爆体験を語り継いでいる  
会員は30名あまり 河野さんは長崎で被爆
若い人に語り継ぐ被爆体験記を昨年発行した・・・広島、長崎で被爆した13名の方の体験記と昭和の歴史も判り易く描かれている
結成20周年になる  当初44名の会員でスタートした 
お互いが被爆者だと云うことで体験の話が出た
年齢は80歳代になる  「若い人への昭和史と広島、長崎での被爆体験記」昨年11月に纏める
次々に被爆者がなくなってゆくし、こういう大事なことを若い人たちに伝えてゆきたいと云う気持ちがあった
私が講演をしていた時に中学校の若い社会科の先生が じつはこういう事実をじぶんは全然知らなかったと 学校で習わなかった
社会科の教員をしていて、中学校でこの様な事を話をし、教えなければならない立場にあるのに非常に困っていると云う話を聞いた
日本は何故そんな無謀な戦争をしたのか、若い人はちゃんと歴史を踏まえなければいけないと思った

「歴史を知らないと云う事は盲目だ」 ドイツのヴァイツゼッカー大統領の言  
第一部が若い人への昭和史 ・・・なぜ日本は戦争に向かったのか? 概略をかいつまんで記載第二部が広島、長崎の被爆体験記 各8人、5人   
東京都内には多い時には1万人以上の被爆者がいた 
今は約8000名 東友会が取り纏め2カ月に1回理事会がある
最初は東友会から声が掛り、各地区に被爆者がいるので、私にも連絡があり、是非地区の会を発足させようと立ち上がった

被爆者団体協議会・・・全国に各支部がありその統卒をしている 各都道府県にある
私は長崎で被爆した 18歳 昭和20年3月にとうりょう中学の第一期卒業 海軍の航空隊に行く 東京で厳しい訓練 後残り半年の命だから郷里の墓参りをと帰郷
長崎に帰ったところ被爆する 母と私は木造家屋だったので大変な被害を受ける 
父は安田銀行鉄筋コンクリートだったので被害は少ない 兄は河野造船でこちらもOK
家は爆心地から2.5kmの距離にあった 伯父が爆心に近いので探しに行く 皆焼けただれてボロボロの状態でいえまで行ったが一家全滅 真っ黒焦げの死体がごろごろある 
家に帰ってきたらそのまま失神してしまう 何カ月も寝たきりになる 少しずつ元気を取り戻す 放射能の事は一切知らなかった

その後も次から次に病気をする 昭和24年に新制高校にゆく 第1期卒業後 長崎大学に行く 
昭和28年学校の先生になる 鶴鳴学園その他を歴任
先生の時代は被爆体験の事は話していない 半分以上はお互い同士は話せるが他の人に話すのははばかられる(話すことに抵抗がある)
被爆の語りべとしての自覚が湧いてきたのは講演した時に若い社会科の先生からの 若い人に話を伝えてほしいとの要望があり少しずつ対応していった
平成16年米国に行く  被爆体験の講演 スミソニアン博物館別館に行きB29をみる 
広島に原爆を落とした飛行機が展示してある 
この飛行機こそ「もう誤ちは繰り返しません 安らかにお眠りください」を書きたいと思った 
一週間遊説した 共感する人がいた
ラジオでも放送 いろいろと共感してくれた 

ガラスの破片が体につきささる 距離の近いところはガラスが溶けてしまっている しばらく経つと化膿してきて、ウジがわくと云うような事が髄所にある
廻りの人が亡くなってゆく 自分自身の体の不調 が続く 
13人書いているが殆ど癌で ここで新たに4人が亡くなっている
私も昨年心筋梗塞になる 太ももの処からカテーテルを入れて心臓のところまで行っている 
その時先生は可能性として5分5分だと云われた(一命を取り留める)
二度と戦争をしてはいけない 昭和29年の3月 第五福竜丸事件 久保山愛吉さんが亡くなられる ビキニ水爆実験場から160kmもある 性能の巨大さが知れる
25年 チェルノブイリ 何年も何年もたってから後遺症が出てくる 
福島原発事故から 自然エネルギーへの転換が必要
若い人には是非読んでほしい