長岡昇(校長) 報道最前線から故郷の校長に
30年間勤めた新聞社を56歳で早期退職して民間人校長として故郷にもどってきました
報道の第一線から教育の現場に身を転じた長岡さんに伺います
記者生活や転職の決断、校長一年目の話を伺います 山形県朝日町 大谷小学校長
杉の香りのする小学校 デザインも素晴らしい 2009年4月から先生になる
学校教育の指針 命は幸運の結晶 子供に送りたい言葉は何かと考えたら
30年の記者生活をしていて考えたらこういう言葉が出てきた (戦争 難民の状況)
今ある命は幸運による幸運の積み重ねによる
学校経営の指針にしようと思った
「命は幸運の結晶 君の命はおとうさんとおかあさんが出合って生れた どちらかが病気や怪我で倒れていたら君はこの世にはいない
お父さんとお母さんはお爺さんとお婆さんが出合って生れた
誰かが病気や怪我で倒れていたら二人はこの世にいなかった
お爺さんとお婆さんはひいお爺さんとひいお婆さんが出会って生れた
そしてひいお爺さんとひいお婆さんも昔、昔 若い二人が出合って生れた
沢山の 数え切れないほどの沢山の命が幸運にも生きながらえて、命を君に繋いできた
だから命は幸運の結晶 一つ一つ掛け替えのない存在」
理解できなくても心の片隅に残っていればいいと思っている
海外での生活は20年間(アジア担当) 最初東京で3年間 それから アフガニスタン インド タイ パキスタン 北朝鮮 中国 に出張
インドに3年間暮らす 周辺7カ国取材
インドの取材は宗教暴動はインド全土に拡大して数千人が殺されるという暴動が有った
インド社会の構造見たならば暴動を元に噴きだしてくる
インドの宗教暴動はヒンズーとイスラムの対立と言うように捉えられるが、実態はヒンズー教徒による 少数イスラム教徒の虐殺状態だった
同時に其の取材を通してインドのイスラム教徒の大部分はアンタッチャブルと呼ばれた差別でも一番厳しいと言われた
差別民がイスラム教徒になっているという状態 多数派による元不可触民に対する恐喝で有、虐殺であるということです
そういう現実を外国人の記者に隠そうとはしない
どんな現場でも取材を許す インドの懐の深さを感じた
論説委員をその後する(アジア担当) 社説を書くためにも現場に行って情報を取りフィードバックする
スマトラ大地震の時も東京から映像を見て書く事もできたのですが、実際に自分で目で見て社説を書きたいと言うので行きました
復興状況を見ながら1か月後、半年後、1年後 2年後 出掛けた 職人的な処がある 社説を書く事に対して辛くなってきた
山形で職探しをしたいと思ったが 新聞記者は使い道が無い 人に頭を下げるのが旨くない
お金を稼ぐのも旨くない お金を使うのは得意
たまたま知り合いから民間校長を募集しているので、応募してみる気はないかと話があった 人間を扱うので同じかなと儲けなくて良いので応募した
小論文を書く 1、土と緑に親しむ 2、多様性を愛でる 3、世界を見つめる 実際にやってみたいと思った
農民が社会の底支えをしている(インド) 日本の場合は余り大事にされていない
栗田浩一 土をベースにアートをしている
足尾銅山の現代に至る状況 等
インド 多様な民族で 異なる人間と付き合うには日本は足りない
均質の高い社会で今後世界と付き合ってゆくにはしんどいかなと思った
世界は繋がっている 噴火 アイスランドの噴火の影響
妻からは新しい仕事に関しては反対された
妻は親が教師だったので子供の頃から転々としていて 夫も記者で転々として 東京でようやく安定した暮らしに なっていた 何とか説得して了解を得た
校長になるに当って新聞記者に未練は無かった
書くことはずっと続けている (インターネットのコラム欄)
学区に500世帯がある 学校便りを送っている
平成11年に新しく建てられた学校できちんと運営されている
給食費の不払いは無いし 不登校は無いし 無理難題を言ってくる人もいない
山形の都市部では東京と同じような状態との事をしり合いからいわれた
ここは3世帯同居が多い
生徒は89人 その後若干減少 いきなり89人の孫ができた様な感じだった
先ずは名前を覚えるようにした
全校生徒と先生が一緒になって昼食を食べる 野菜を学校で作ってそれを給食に使っている 子供達が主役になる卒業式にしたいと思った 一人一人の語りかける挨拶にしようと思った 次に保護者に語りかけた 在校生に 最後に来賓のひとへの挨拶にした