2012年8月28日火曜日

的川泰宣 (JAXA名誉教授)   ・隼 あの感動をもう一度


的川泰宣 (JAXA名誉教授)  隼 あの感動をもう一度
隼が7年の旅を経て帰還してから2年になります  今でも隼の人気は続いています  
隼が宇宙から帰ってきた6月13日は今年「隼の日」に指定されました
隼が持ち帰った微粒子は世界6カ国17のチームで詳細な分析が続けられています
的川さんは東京大学宇宙工学一期生として卒業後、大型ロケットの設計を始め、JAXAの宇宙教育センター長を務め、宇宙一筋に係わってきました
今回のプロジェクトでは重要な役割を果たされた後 隼の感動を詩に纏められました 
そして曲が付けられ 隼の歌が出来上がりました
宇宙に関心が無かった人も隼で引きつけられたと思う 
 
子供宇宙未来の会(KU-MA)と言うNPOをやっている 講演が多く忙しい日々を過ごしている
2010年6月13日に隼が戻ってきた 6月13日が隼の日に指定された
KUMAの会長でもある(宇宙教育) あらゆるものが宇宙だというような感じ  
宇宙と言うのは実際に私達の生命を繋いでゆく大切な舞台
子供の頃は夜釣りに行くと魚が取れるまでは星のみだった 
星は綺麗だと思ったが当時宇宙への関心は無くスポーツ(野球、テニス等)ばっかりやっていた
大学に成ってからもテニスは夢中でやっておりプロの選手になりたかった  
その間にも潜在的には宇宙の事も有ったと思うが 
小学校の子供のころに原爆の経験等の話を聞いて 世の中の平和 皆が幸せな社会が
出来ればいいなと小学校の終わりごろに強烈に思った時期が有った

心の底にずーっと沈んでた様に思う  
そういうものに役立つ人生と言うものを送りたいな、との気持ちがどっしりと有るようなイメージが有った
それがいま宇宙教育とかを考える基礎になっていると思います  
理科系に行ったが、専門を選ぶときに 自分が生きてきたプロセスを振り返った時に夜空の星だとか、スプートニクス(ソ連の人工衛星) 肉眼で見た 
ガガーリン が次々に浮かんできて 自分が生きているのは宇宙時代なんだと 宇宙に人間が
進出してゆくプロセスと自分が育ってきたプロセスと殆ど機を一にしてきていると思った  
強烈にその思いから よし自分は宇宙の仕事をしようと思った
天文学を選ぶかロケットを選ぶかは大きな堺目だったが、
自分としては天文学の様な向こうの方からやってくる、なんか受け身で捉えるよりも自分で作った物が飛んでゆく様な方が男の子みたいだなと思った単純な動機で選んだ  ロケット工学を選ぶ 
 
糸川英夫先生と出会う  大学院の時の指導教官だった
糸川先生からは2年指導して貰った  
殆ど指導らしい指導は教わらなかったが生涯あの人ほど影響が大きかった人はいなかった
独創的と言うか発想が違う方と言う様な感じの人だった  
何かを切り抜ける時に避けて行かない 
自分がやりたい事があると真っ直ぐにそこへ進んでゆく態度が非常に素晴らしくて、
その辺を非常にうけて、それから後障害が有った時にそういう場合は
糸川先生ならばどういう発想をするのかなと考えるようになった
考え方の変化がユニークだった 先生昨日は違う事をおっしゃいましたよと言ったら 人間、変化することを知らないのかと切り返された
自由自在な考えがありながら 自分がやりたいと思ったことを曲げない 

最後までやりたいという意志というよりも本能のようなもの
何でも独創的な仕事をする人はある種我儘と言える位、自分の意志をつら抜いてゆくのが素晴らしい
(私としては)ロケットは何百機も打ち上げているし、人工衛星は30機位は打ちあげている 
一番嬉しかったのは何と言っても一番最初に打ち上げた「大隅」という
人工衛星ですね   1970年に打ち上げた  中々旨く行かなくてようやっとたどり着いた 
僅か24kg の人工衛星 あれほど嬉しかった人工衛星は無い
隼を2003年に打ち上げた  1995年に宇宙開発委員会に認められた
私よりも一回り以下の人達で進められた  

対外協力室長(文部省、海外、漁業関係者等との交渉)を担当していた 
発射場の所長も兼務していた  雑多な仕事が一杯あった 
若い人達が頑張る外堀を埋めるようにした
隼の中心リーダーは川口淳一郎 (私より一回り若い 後輩)  
本当に楽しい事と言うのはうんと苦しまないと結局は苦しみを通じてからでないと判らない 
漁業交渉  5月9日打ち上げ マグロが取れる時期で一晩で2億円ぐらいが獲れると言われる とても保障はできない 我慢してくれとの交渉でしかない
  
日本の国が良くなるためにはどうしたらいいだろうという事を一緒に成って話す 
同じ日本人としての心根が通じない限りはそういったことは受けてもらえない  
10数年漁業交渉はやっていた
誠心誠意当らないといけない 何でもそうだが    隼の帰還の時はいろいろトラブルが有った
帰りは一つが片付くと新たに別のトラブルが出てくるが、若い人達の対処の仕方は見事だった  
どうしてあんなに見事に対処できたかと言うと「隼」自体が
あんまりお金が無かったのが良かったのかも知れない  
お金があると大きな会社に丸ごと宜しくお願いしますと頼めるが、お金が無いと出来るだけ自分の力でやってゆきますよね 

これ以上は大きな工場でないと出来ないとなってようやく頼むが、それ以前は
自分達の実験室とか、町工場、中小企業に頼んでテストもついでにやってよみたいな、
自分達の手足を使ってやっていたことが非常に広い範囲でやることが非常に良かった 
ある種の貧しさみたいなものがピンチに陥った時に、隼の当事者の幹部が数名集まるとそういう事を経てきているので、システムの隅から隅まで判っているのでアイデアが出る引き出しが一杯あるわけです  
それが乗り越える原動力になったという感じがしている
人間って、ハングリーが無いと駄目だという処がある程度私の中には確信と言うものがありますね 
と同時に日本の物作りの素晴らしさがある

アメリカから購入したものがあるが、大事なものが故障した  3年帰りが伸びたが、
設計寿命が過ぎたにも拘わらず、町工場とか中小企業が作った物が完璧に
働いた場面が一杯有って、恐れ入りましたという事ですね    
擬人化するというか 生き物の隼の様な感じだった  
末期がんの患者さんから隼が返ってくるまで
絶対に死なないというようなメッセージが有った
地球に戻ってきた時には感動的だった  
長い事隼に付き合ってきた人達にとって、本体が大気圏に突入してばらばらになって燃え尽きてゆく,そういう姿は直視できなかった人は大勢いると思います   
擬人化されればされる程そう思います

一般の人から見ればカプセルだけがびゅーっと生き抜いてゆく そういう様子を お母さんんが 
生き抜いてゆくのは自分の息子でばらばらになってゆくのが自分の
身体みたいな錯覚に陥ってゆくんだそうです  
女の人の感じと言うものは男の人には判らない感じ方があるなと知りました
殆どのお母さんから聞いた  
今までの宇宙開発には無かった質のものだと感じました
人の心に訴えるとか、人の命の問題に還元して考えてゆく等ような、今までの科学技術ではなかったような要素が随分撒かれた様な感じがする
科学技術ではなくて日本を元気にするとかそういう方向に役だったと思っている

リアルタイムで講演をした(広島の呉)  講演を終わって拍手が鳴り止まなかった
宇宙と音楽の融合みたいなことをやらないかと服部克久氏から言われた  
伊奈谷を見て詩を書き上げた
出来上がった詩    夢(未来(ゆめ))を乗せて(のせて) 隼の(はやぶさの)奇跡(軌跡
カノウプス(カノープス)に導かれ
君の翼が羽ばたく(はばたく)
孤独なる光の海を
ひたすら目指すは(めざすは)
いにしえの星よ目指す(めざす)その星よ
心(こころ)心(こころ)燃え立つ
太陽の光受けて
輝く君のシルエット
遥かなる(はるかなる)未踏の大地へ
隼(「はやぶさ」)は(が)今(いま)
揺れて舞い降りつ(る) 揺れて舞い降りる
命(いのち)命(いのち)燃え立つ
一人(ひとり)ぼっちの冬も絶望の春も
君は信じ続けた(つづけた)未来を
そして今(いま)蘇り(よみがえり)の時 ああ
帰りましょう待ちわびる人々の元へ(もとへ)
南十字星の懐へ(ふところへ)
ひた走り行く(ゆく)玉手箱
君は夜空に花(華)と散り
かくも懐かしき(なつかしき)
故郷の(ふるさとの)星へ 懐かしき(なつかしき)星へ
炎(ほのお)炎(ほのお)燃え立つ
心(こころ)心(こころ)燃え立つ

(隼が宇宙を旅する時にどっちを向いたらいいか判らないときに基準になる星がカノープスという 
南半球の一番明るい星) 
(隼がオーストラリアに来る時にちょうど南十字星が輝いており 隼を迎えているがごとくに感じた)
(玉手箱 太陽系ができたころのサンプルを持ってくるという事なので 太陽系を研究するカプセルが玉手箱)
服部克久さんが作曲してくれた