2012年2月29日水曜日

司修(作家、画家)         ・私を捉えた賢治の心 2

司修  私を捉えた賢治の心
絵だけ書いていただけでは食えないので挿絵等を描いていた 
宮澤賢治の作品の挿絵を頼まれた  それが初めての賢治とのであい
童話全集の時には賢治のフアンになっていた  絵を描く事に絶望していた時 「作太郎」の詩が
有ったから絵を描けるようになった
賢治の童話を読んでゆくと 例えば『雁の童子』 ある意味でとっつきにくい難しさが有るが、
何か引っ張られるものが有って 何度も朗読するように
読んでゆくとですね、童話を理解するんじゃなくて なんども読んでゆく事によって 訳の判ん
なかった枠の中に自分が入ってしまって 読んでいる時は
外からそれを眺めていたんですけれども 中に入ってしまうと理解する必要が無くなるので、
その物語を絵にしてゆくと云う事が凄く自分で楽しみになったんです 

賢治の作品はどれもこれもそうだと思うんですが、「銀河鉄道の夜」にしても、決して優しいとは
言えないところが有るんですけれども なんだか判らないなあと思いながら読んでゆくうちに
引きこまれてそれこそ銀河鉄道の一乗客の様になってしまうと、もう読者ではなくなって、内側から
窓から銀河を見ている様な
そういう感覚にされてしまうんですね
多分私の経験では、良い感じにお酒に酔った時がそんな感じなんですが
賢治の挿絵を描いてゆくと云う事は自分の気持ちを表してゆくと云う事になる、凄く救われるし、
嬉しくなる
挿絵という自分の生活を守ると云う仕事の概念があって苦しい部分もあるんですけれど、自分が
絵を描いていると云う喜びの中に浸れる
描いている間、自分が存在しないんですね 

賢治の童話を一つ一つ絵にしてゆくと云う事は、それが生きるための仕事だという事になるんですね
『雁の童子』 という作品が絵を描くのに一番悩んだ 20年以上絵にできなかった  
最初に頼みに来た編集者が、自分が『雁の童子』を選んだ理由が 結婚してすぐに生まれた子供が
 生まれてすぐに亡くなってしまった
『雁の童子』 という作品は 亡くなった幼い子供に近づく要素のある物語なので それでこれを絵本
にしたいとおっしゃたんですね  
重い言葉であったが、しかし、それは素晴らしいと思った ただ賢治の童話を絵本にするのではなく
て、本当に切実な自分の思いを本にしたかったという
それを編集者が持ってくるんですからね

それを引き受けたんですが、編集者が色んな資料を持ってくる  その資料を見ながら、『雁の童子』
 を描いていこうと思ったんですが
絵ができるんですけれども、生まれてすぐに亡くなった子供の魂に伝えると云う事がこれで出来るの
だろうか と思うとできないんですよね
悩んでいるうちに トルファン ウルムチ?に旅行する集団が有って 一緒に行く事になる 
ほとんどシルクロードの寺院や廃墟が『雁の童子』 そのものの風景が有るんですね 
そのままを描けば『雁の童子』 を描けると思ったんです 
写真を撮ったり、スケッチしたりして帰って来たんですが、帰ってきて『雁の童子』 を読みながら
その絵を模索してみますと、最後に生まれたばかりで他界した子供に魂にこの絵を伝える事が
可能だろうかという問題が起こって来るんです

できないんですよね それが 絵ができてもその問題がネックになって 自分の中でOKが出せない
んですよ
かれこれ20年以上その編集者を待たしたんですけれど、私が遠くで個展等を開くとその人がふっと
現れて、展覧会を見て帰ってゆくんですよ
私が「まだできなくて・・」と謝る前にさっと帰って行ってしまう  
そういう事を22~23年かもっと続きましたかね 
或る時 私が胆のう炎で全身が痛みを持ってすぐに手術をしたんですけれども 手術は簡単で麻酔
に掛けられて眼が覚めた時には手術は終わっていたのですが
自分がどっかで死んで生き還ったような感覚がベッドの上でするもんなんですね
その時、体中チューブだらけで私が思ったのは、こういう風に描けたら『雁の童子』 を描けるんじ
ゃないかと思ったんです

死という事と 生きると云う事と 一つでなければ人間とはあり得ない  理屈で絵を描こうとして
いた様に思うんですよ
自分が手術をして助かったわけですから 問題ない場所にいるわけですけれども 
自分が生き還って来たと云う思いの中で何か浮かんだんですね
包帯した状態で『雁の童子』 を描いたんですよ もうこれ以上描けないと云う思いで本にし
て出したんですけれども 
賢治の童話と編集者の思いとですね 20数年という月日を経て絵本になりました
出来上がった絵というのは当初描いていた絵とは全然違うものになった 
その時には資料を見るとか全然いらないんですね

私としては『雁の童子』 を20数年間繰り返し考えてきて、生と死の問題だとか 
生きるという意味についてとか 『雁の童子』 とは無関係に 自分の問題として
生きたわけですから そのきっかけを与えてくれたと云う意味で時間がかかったと云う事は決して
無駄ではなかったと思うんです
宮澤賢治の作品は生きると云う事だとか、沢山そういういろいろな人間の事をテーマとして描かれ
ていますよね
賢治の作品は 今という時代を考えるテキストになっていると思う

真壁仁 農民詩人がいたんですけれども ちょっとしたきっかけが有って親しくして頂いた
その方が『グスコーブドリの伝記』を読んで、自分が山形の飢饉を受けて どう仕様もなくその飢饉を
外すことができなかったと云う悩みを持っていて
もし賢治の『グスコーブドリの伝記』を読んでいたらその時の山形の飢饉を外す事ができたんじゃない
かという反省を持っておられて、『グスコーブドリの伝記』という童話は
単に童話じゃなくて農民を救う言葉で充ちていてたと云うんですね
  
賢治の実際での東北に飢饉問題 歴史的にも相当ひどい飢饉を受けていて
賢治の家の庭先か 近くに遠い昔の飢饉を表わした石碑が有りますけれども、賢治が花巻で
生きている時に 東北が受けてきた問題抜きには童話も考えられなかったと思うんですね
賢治の作品は こうですよと、仏教の教えでは描いていないけど、仏教で謳われた教えというか
、救いというか それは物語として文学として伝えているのだと思いますね 
ある意味では新しい聖書とかお教とかと言えるのではないでしょうかね  
「注文の多い料理店」 
賢治は一人で歩き回り 動物と話したり 木や花やいろんなものと話ができると ある人が書いて
いたが、最初そんな事は無いだろうと思っていたが
人間てそれを願う人に取ってそれが可能になると思うんですね
この木と話したいとずっと思い続ける事ができたら、木は黙ったままだけれども 
その木にずっと話続ける人が居たらならば その木が或る日答えてくれる

答えた事に対してずっと待ってた様に木に話しかけて行く 
樹木に話してゆく事がその人以外は嘘みたいな事だけれども その人にとっては真実になってゆくと
思うんですね     
猫や犬に声を掛けている時にはその人に取ってみては動物と会話をしているのだと思うんですね
賢治が樹木や動物と会話をしていたと云う事を今は信じていますね  
童話にも色んな作品にちりばめられている
特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である
   
それは作品に極めて個性的な魅力を与えた
人間が思い続けることで 死者と会話することもそうですが、人間が思い続けることであり得ない事
が起こって来て、人間の心はあり得ない事を一杯占めている
と思うんですね  有りえないものだらけが心だと云ってもいいぐらいに 生きている苦しみ、喜びと
いうのも 人間て皆 判らないまま一杯胸に秘めて行くと思うんですね
これが人間の謎だと思うんですよ
一人一人にしか宿らない謎 その謎を解いてゆくのが「想う」と云う事なんじゃないんですかね
宮澤賢治と言う人は小さい頃からずっと自然にそういう事をしてきたんでしょうね

色んな情報であったり、理屈で考えるようになって来ると、それは理屈に合わないとか 
そんなことがあるはずはないと云う事で排除してゆくし 人工的なものの中で
暮らしているので 五感の部分が発揮しにくいですよね
人間の心は変わってゆくが同じものを読んでゆく時に変わった内容を見方を見せてくれる 
読者の心が反映する事によって見えてくるものがある(文学の中に)
宮澤賢治は絵も残している  姫神山 日輪 
質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮
するたびに 家財道具などを売って当座の生活費に
当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる
(また父親の対する嫌悪感もあり)

18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる  
法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いで、父親との対立を深める
賢治は啄木からの影響を受けていた  啄木は貧困の底の底に生きていた 
貧困の末に亡くなったが豊かな生きかたをしたと思う
今後 大先輩の画家の昭和史を書きたいと思っている

2012年2月28日火曜日

司修(作家、画家)        ・私を捉えた賢治の心

司修(作家、画家)  私を捉えた賢治の心
1936年6月25日 - )は、日本の小説家、画家、装丁家、エッセイスト。法政大学名誉教授。
群馬県前橋市出身
1936年生まれ 賢治の全集や絵本を描くようになって 賢治に心を惹かれるようになり 
花巻市をにたびたび出かけて 「雨にも負けず」のコーナーも
手掛けました  
東日本大震災から間もなく1年 阪神淡路大震災からももうこんなに経ってしまったのかと思われるが
 戦争から負けて半世紀経っているのに、えっと言うほど
の時間で過ぎ去っているというか在ってはならない事がやってきて 人間はこれを乗り越えなくては
生きてゆけないんではないかと思うんですよね 

大人はなんか考えを膨らましたりなんかしてゆけると、思うんですが 子供達って或る被害うけた
まま表に出せない子供もいると思うんですよね
そういう子供達のケアが大変大切だと思うんですよね  
大人の理解できる言葉を100とすれば子供は10かもしれないし30かも知れない
言葉で表現できない 言葉で痛みを感じられない子供達は自分で表現できないぶん、
自分の記憶の中にイメージを貯め込むと思うんですね 
貯め込んだ痛みというのは 表現力になってゆくと思うんですね  
悩みも痛みも表現できないまま 大きくなっていったときに その子供達のおおきな力
表現力になってゆくと思うんですね
  
 地震や洪水は大自然の行いですから、それを避ける事は出来なかったけれど 
そこで生き延びた人達が
亡くなった人たちの事を心にして永遠に死者の魂を語ってゆくと云う形で生きてゆく 
そういう中に小説だとか絵を描くと云う表現ではなくて
ひとが生きてゆく表現として表れてくるんではないかと思うんですよね
賢治の妹さんが 家族にあてた手紙 「人の身体は無くなり候ても 自分の魂はいつまでもあると
私は信じおり候」 
賢治の心にもはいって行った言葉であると思う  
 
生きると云う事は亡くなった後も宗教的な意味だけでななくて 生きると云う事は死後もいきている
という事に私は、なるんだと思うんですね
生きている人が伝えてゆくことで魂は永遠に生きながらえてゆくと私は思っているんですね
生きている人がその人の事を忘れてしまったら その人の魂は消えて行ってしまう 
「雨にも負けず」 の詩を読むときに自分の悲しいときとか嬉しいときとか こまったときとか 
賢治の詩はそのたびに違う感情を抱く 
大震災が有って、追悼の式が世界各地であって、その時に賢治の「雨にも負けず」の詩が詠まれ
たようです
日本人だけが感じるのでなくて、生きている人達が誰でも何かを感じるものが「雨にも負けず」の中
に有るんじゃないかと思うんですね

私は「雨にも負けず」の一行、一行を絵に書いたんですね
会場に来た人が書いた絵に色を塗っていただく 遊んで観てもらいたいなあと思って線のみで描いた
賢治の童話の一つ一つを取りこんで描いたので 読んでいる方がいたら その童話を思い起こし
て描いていただいたらと思います 
賢治の童話は読者がどんどん心を膨らまして 読む事によって自分の中に有るイメージを物語に
投入されて 説明されただけではなくて 自分の物語が生れて来ると云う
そういう力を持っているんじゃないですかね
ずーっと読んでゆくと音楽のようにも聞こえるんですね  自分が想像するメロディーを
「雨にも負けず」の詩を朗読している時に 自分の心の中に有る音楽
で読んでいける気もするんですね

だから世界の人にとってもこの内容が伝わるし、こういう日本の詩が有ったんだと云う気持ちに
 国境を越えて、時代を超えて共有できると云うのが大変な力が有るんですね
賢治が書いたときに これは自分を救うとして書いたと思うんですね 自分を救うと云う言葉は 
だれでも 大人でも子供でも含めて或る救いというか 癒される
のではないかと思われる
「銀河鉄道の夜」とかいろいろ未完なものが多い 未完というのは未完成ではなく
「よく見、聞きし 良く判る」(詩の一節)  賢治が描いたフクロウと月があるかも知れないけど 
四つの建物を描き 福島原発の思いも込めて私は描いた
「良く見」 旅行したりして写真はシャッターを押して一杯取ってきたんだけれども 見ていない 
スケッチは1枚かもしれないけれど 景色を見てきている
「良く見、聞く
続く一行は 「そして忘れず」  忘れないでいる 嬉しかった事は忘れてもいいが 悲しかった事 
苦しかった事は忘れずにいるべきだなあと思う

これには猫が描かれているが下の方に津波が描かれている  
明治29年に大きな地震が起きている(賢治が生まれる2カ月前)
「人は自分の思い通りにしたがるけれども 結局人間のエゴイズムで生まれる事であろう」と妹の
文に書かれている
妹が亡くなった時に賢治は押し入れに頭を突っ込んで号泣したと云われている 
お互いの魂の理解者
木偶の坊と呼ばれ・・・  「そういうものに私はなりたい」  最後の絵に石ころを描いた  
少年時代 石に興味を持ったので
俳句とは よね 野口が説明   俳句という文学は読者が俳句を詠んだ時に、未完の俳句が完成
するんだと云っている

5 7 5 は説明するのではなく、無関係な言葉が三つ重なってできているが それを読んだ人が
その想いを完成させるんだというんですが
私の絵も多くの人が参加して色を塗ってくれたりして 書いてくれたりして完成させるものだと思っています
猫の目に4つの時間が記されてあって 1つは広島原爆が落とされた時間 2つめは長崎に原爆が
落とされた時間 3つ目は阪神大震災が起きた時間
4つ目は東日本楕震災が起きた時間を記している    
私達が忘れてはいけない時間であると思っている
朗読したCD   「雨にも負けず」 絵を見せながら朗読をしたらいいなと思い録音した

童話のような絵もたくさん書いていた 
『無声慟哭』 詩 妹の死を抽象化できなかった 方言は最初判らなかったかもしれないが 
方言以外では伝わらないものが読者の胸に伝わるのではないかと思う
判んなくても入っちゃう 迷路をさまよいながら 私の場合は視覚的なイメージで救われる 
色だとか形が見える事によって言葉の難解さを理解できるのではなく
感じる事ができる  五感を想像して感じる

2012年2月26日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(高知県)


五木寛之            歌の旅人(高知県)
高知と聞くと 気持ちが和らぐ   山は多くて 89%山地率    
四国山脈が横たわっている   四万十川 清流
日本を動かすような人材が多い  坂本龍馬 
立志社が明治時代に生まれる  板垣退助  安岡章太郎
独特の癖のある人間像  いごっそう
  
歌 「南国土佐を後にして」 ペビー葉山   原形は古くからあったようだ 

カツオの一本釣りが有名 皿鉢料理 豪快さ  酒も好きな人が多い  
作曲家  広田竜太郎    「叱られて」 「浜千鳥」   平井孝三郎  「ならやま」
「足摺岬」映画   切ない物語だった   
作家 田宮虎彦 宮尾登美子 大原富枝  上林 暁 小山いと子  倉橋由美子 坂東眞砂子 山本一力 安岡章太郎 三浦朱門 畑中恵  
漫画家  やなせたかし はらたいら 黒金ひろし(歴史をベースに)  横山隆一 西原りえ  
明治時代の漫画は政治に批判的だった

中岡慎太郎  自由民権運動  反骨精神がある  
歌「酔ってそうろう」「手のひらを太陽に」
土佐日記  紀貫之 男でひらがなで日記を書いた初めての人
スポーツも多くの人を輩出

2012年2月25日土曜日

森末慎二 (元体操選手)       ・体操から学んだ人生

森末慎二 (昭和32年生まれ)  体操から学んだ人生             
(1957年5月22日 - )は、元体操競技選手。タレント。落語家
落語が趣味で、友人である金原亭世之介に入門し、金原亭慎之介の高座名を貰うが、金メダル亭慎二を名乗り2008年7月下席で池袋演芸場の高座を務める
子供の頃から鉄棒が大好きだった  夢はオリンピックに出る事でした   
高校に入ってから本格的に体操に取り組むようになり 昭和59年ロサンゼルスオリンピックの 
鉄棒競技で3回連続の10点満点を出して 金メダル、跳馬で銀メダル 男子団体で銅メダルを貰いました

引退後はスポーツキャスターやタレントとして後進の指導にもあたっています
小学校3年の時に目立ちたかったと思う時に TVを観てたら大車輪をやっていた  
これを小学校の鉄棒をやれば目立つなと思った
昭和40年代なので体操教室なんてないので自分から体操競技の本を買ってきて砂場で鉄棒をやったのが最初  小学3年生で逆手大車輪が出来た
周りは全員野球だった  実家の裏が小学校だった 毎日鉄棒をやっていて、ご飯だよーと声が掛るとハーイと言って帰っていた
そんなに鉄棒が面白いのかと母から言われ、面白いと答えると それなら大きくなったら オリンピックに出なさいと云われ「よし 出られるように頑張ろう」と思った

小学校の卒業文集にオリンピックに出たいと書いてあった    
中学までは体操部が無かったので、高校で初めて体操部に入る
男子は体操が6種類あり初めて別の種類をやる様になる 筋力トレーニング(しごき)をやる 
腕立て伏せ 600回やる (できるまで)  殆ど泣いている
腹筋 Vの字保持 1時間 途中で倒れたりするが先輩にしごかれた   
363日練習する 大みそかと元旦が休みのみ
夏合宿は学校に宿泊施設が有り そこに泊ってしごかれた 手の皮がボロボロに剥ける 
一晩すると薄い皮ができるが 鉄棒に飛びつくとプチっと切れる

その状態で鉄棒でぐるぐる、ぐるぐると回る 滑り止め(炭酸マグネシウム)を付けて鉄棒が白くなるが、夏合宿ではエンジ色になる
体操をやめたいなとは思わなかったのか?→鉄棒が好きだったから 鉄棒をできなくなるのが辛かったので
日本体育大学に進む 転機 2年生 レギュラーになろうと頑張った 床運動でアキレス腱を切る  
最高の入院生活だと思ったら 具志堅幸司さん(1年先輩))が練習中に    アキレス腱をきってしまう同じ病院、同室に来てしまった 真面目な方 体操の事だけを考えている
 
具志堅さんが手術を終わってから、1週間してから 漫画を読んでいたら 後ろでギシギシ ギシギシ と音がする  
ぱっと見るとベットに座って 自転車のチューブを使って両手で持って大腿四頭筋を鍛えている  眼と眼が有って チューブをポンと投げてきた   「お借りします」と言って受け取る  
私もギシギシと始めた 鉄アレイ でもやった  朝から晩までやったいた 
入院時170cm 58kgだったのが2か月後 退院時 66kg 上半身に8kgの筋肉が付いた
力瘤を作った時の腕回りが48cm  かっぱい(闊背)筋も発達 
立って「きおつけ」しても手がまっすぐ下に降りない
最初いやいややっていたが 筋力が付いてくるのが解り 退院したらそのまんま体育館に行った 
釣り輪の十字懸垂がどの程度楽にできるのか と思って試してみたら いとも簡単に止まってしまった     力を入れたら自分の身体が上がって行った 
力が付いたので 失敗をしなくなった 技が安定してきた 人のやらない事をどんどんやって行って どんどん上にあがって行った
84年のロスアンゼルスオリンピックで金メダルをとれたのは具志堅さんのお陰なんです

当日は38度の熱を出していた 着地だけがどうかと思ったが 記者にもう一回十点取れば大丈夫でしょうと言ったが 大変な事を言っちゃったなと後で思った
寒気がして宿泊所に帰ってきたら 体温を測ったら39度有った 最終日(金メダルが掛っている日) 39度 おかゆを食べ サウナに行って 熱を下げて会場に行った
練習終了時は38.5℃ 床から始まって最後が鉄棒   
持ち点上位 8名 出てくる(私は最終演技者) 落ち着けいつも通りやればいいんだと思っている人はパニックている人  落ち着けと云ってもできるものではない  凄い緊張している 凄い事になっているぞ  火事場の馬鹿力 頭のセンサーは切れる  
いつも通りのことをやろうとすると逆に筋肉が緊張していて失敗してしまう 
(力が入り過ぎてしまう 鉄棒を握ろうとすると速く反応してしまう)

10点を取る  パーフェクトとのアナウンスが有り其の途端に泣きだしてしまった  
帰りのバスで気が付いたら 半袖 体温を測ったら36℃ 腹減ったなあと思った
極度の緊張感で熱がでて、食事が喉を通らなかった  これがオリンピックだ
体操が好きで眼の前の目標を一生懸命やって行ったことが段々大きな大会に出られるようになり オリンピックにでられるかも知れないと思う様になった
好きだったのが一番だと思った  なにが有っても鉄棒は止めたくなかった   
オリンピックにでることが夢だった 金メダルは怒られるかもしれないけどおまけみたいなもの

2012年2月21日火曜日

河合浩樹(果樹園経営)        ・貴方の知らないレモンの世界

河合浩樹(果樹園経営47歳)       貴方の知らないレモンの世界  
レモン栽培22年間している 皮まで食べられるレモンに拘り無農薬栽培を実現する 
レモンは皮まで食べると絞って食べるよりも5倍の栄養分が得られる 
17年前から皮まで食べられるレモンの販売を始めて 甘いレモンの栽培にも成功しました 
レモンの木が1100本ある 4人でやっている(奥さんと研修生2人) 
最初ねぎを作ろうと思っていた 農業機械を買わなくてはいけないので購入費用が大変 ミカンをやっていたのでレモンができないかというのがきっかけ
この地域でレモンを作っている人はいない

レモンの皮には栄養が良い事は解っていた 農薬を使わない栽培に気付いた
病気が出たり虫に食われてしまう事が多い  善玉菌 害虫を食べる虫を使う事で克服
ハウスの中に木を入れて 鉢に植わっている 
土壌の条件がよくないと難しい柑橘類であるのでこの様にした 水やりが大変  
自分で模索しながらやってきた  レモンなら鉢植えが大丈夫 マイナス4℃までは耐えられる 豊橋では殆どこの温度になる事は無いので暖房はしていない
大学では農業を専攻 当時は農薬を使って綺麗なミカンを作るのが時代の流れでした 
害虫は農薬をどんどん使っているうちに対応してどんどん強くなってしまう 
病原菌もどんどん強くなっていってしまう 
そいうのを見てたらはたしてそうのようにやってていいのか疑問が生じた

17年前には皮までたべられるものができた 
3年前には甘いレモンができるようになった このレモンは土に直に植える
最初は農協を通して東京のスーパーに卸していた 人が変わると半値にされてしまい(売る側に相談はない) 採算が合わないのでどうしようか考えていたら,直接消費者に販売しないと駄目だと思ってホームページを作って段々知られる様になって現在に至った  
インターネットはなにも解らなかったので、本を買って読んで毎日勉強して何とかホームページを立ち上げる事ができた
もっと農業を認めてもらいたい 私が就農した27年前は農業は3Kと云われていた「 きつい、汚い、かっこ悪い」 農家にお嫁さんは来ないよと言われていた

一人勝ちではいけないと思い 地域のコラボレーション  
横のつながりで豊橋を活性化したい 
「豊橋百儂人」グループをつくる  認知される様になって販売が楽になった 
通知表を貰う様になっている 年に2回 私達も向上しようと思っている(150項目)
三段階に分けて三段階を下がると脱会してもらうような厳しい制度になっている 
評価をする人は自分たちと事務局とサポーターの人達  ,農林水産大臣賞を2009年に取る  
無農薬 天敵虫 (30数種類) テントウムシは捕まえて入れる アブラムシを食べてくれる  
カマキリは近所の人が持ってきてくれるので捕まえなくてもいい
餃子(レモンの皮入り)等食べ物のバリエーションを考える   
行政がやっている農業指導は単発的 継続的にやって行くのが必要である
冷凍して保管 夏にはレモンがない レモンのすりおろし 「ためしてガッテン」に出さしてもらった
果汁を搾るよりは皮もと食べる方が相乗効果があり栄養価が高い 
レモン100gに100mgのビタミンCが入っている   
実は皮に半分、果汁に半分なんです  皮にはビタミンEが含まれている 
体内に取り込まれたビタミンEは活性酸素と結び付いて効力を失う
そこに同時にビタミンCを摂取するとビタミンEがもう一回働く事ができる
レモンはビタミンCとビタミンEを同時に取ることができるので,ビタミンEが二度働く事ができるので非常に効率的になる  
レモンの香りの成分が皮にはある  
レモンポリフェノールとヘスペリジン(皮の内側の白い部分に有る)を同時に取ると肝臓の解毒作用が有る 
レモン100g中にカルシウムを60mg含んでいる  他の果物に比べて断然多い
カルシウムが定着するにはビタミンCが必要らしい 
したがって皮ごと食べる事によって栄養価が高い 相乗効果が有る
(大学での研究発表を纏めたもの)
無農薬で綺麗なレモンができる   木を休ませなさいと云うのが一般的だがそうしてはいない
発酵した肥料をやっている 
辛かったこと 茶色いレモンを作った事 虫に食われてしまった事 (全滅) 販売に苦労した 
情報発信型農業が必要  お客さんとの繋がり 情報を育てる
日本の農業の技術力は世界一だと思っているので 自給率が下がってゆく事は大変だと思うが 消費者にファンになって貰うこと、横一線の農業ではなく地域に個性が有る農家が地域に沢山いる事が地域が潤ったり、将来的に自給率が上がったり、フードマイレージが下がる  
個性派そろいでいくというのが楽しい 今までは一定の規格でなくてはいけなかったのが色んな規格があっても消費者は受け入れてくれると云う事が解ったので、多様な販売をして行けば その地域、地域が伸びてゆくんではないか

2012年2月20日月曜日

増田明美(スポーツジャーナリスト)     ・山あり谷ありそして見えてきたもの 2

増田明美(スポーツジャーナリスト)   山あり谷ありそして見えてきたもの 2  
大震災後 真っ先に被災地に行く 
仮設住宅でももんもんと、考えているよりも、動いている方が気持ちが前向きになる
一緒に歩いたり体操したりしてそういう風に感じた 
そうしているうちに前向きな話をしていると心も健康になる
一生懸命前向きな言葉を吐くようにしている  気持ちの面では後ろ向き だと思うんですよ   
瓦礫が撤去されるとこうなんだろうな そうするとこうあるとか、人が喜ぶ事 私がやったことで相手が笑顔になってくれる、喜んでくれる それが凄いたのしい、嬉しい  
ラオスに2年前に行く NGOの人と一緒に行って 大きな声で挨拶しても 笑顔を見せても 少女たちは反応しなかった(警戒しているせいか)
「あの丘まで一緒に走ろうか」と言って、一緒に走ったら 全員が笑顔なんですよ
それまではスポーツで走ると云う事はしてなかったんだそうです 
走るのは移動としての行動だった
邪心の無いあの笑顔を観た瞬間 改めて走るスポーツはこの様なものなんだなと思った

今はマラソンブーム  ゲストランナーで10km走る 
其の時にゼッケンに「増田明美」と書かれており 標的になる 
追い抜いてゆく時に 「私は○○歳です」「私は75歳です」と行って追い抜いてゆく  
いつからでもマラソンは始められる  
始めるには大事なことが5つあります  
①体形チェックします 走りやすい体形作りをする(食事等注意して) 
②ウオーキングをする(体脂肪が落ちてゆく) 自分の好きな時間でこなす 
  足作り(足が強くなってくる)  
③早く走らない (1kmを10分ぐらいで構わない) 
④コース作り(景色が変わらないと飽きてしまう  飽きない 楽しくなるような種類を作る) 
⑤大会に出る(いろいろな大会が有り 温泉付きとか 地域様々な特色の大会が有る
 付随する大会) 

地元(いすみ市)でのマラソン大会に参加 地域地域の表情が見える(観光とスポーツが融合)  昨年は全国から4800人来てくれる 臨時電車を出してくれたりしてくれる  
応援する方も楽しみにしてくれている  
今はマラソンが文化になってきている 身障者の方の大会も開催するようになった   
自由に5kmを走る 自分のゴールに向かって走る (八丈島 皇居で開催) 
女子は歴史が浅い 男子は世界の層が厚い  
女子もアフリカもやりだした 今後は女子も大変になる
ロンドンオリンピック 今年ある  
マラソン選手は我が強い(そうでないとずっと苦しい中は走れない) 素直(自分を見つめている)
増田さんは選手に温かい解説→練習風景を観ている 
それを観ていると褒めても褒めても褒め足りない 
練習をやり過ぎてしまいスタートラインにたてない人もいる 練習量も多い、質も高い  
私の時代 走る事以外は言わなかった いろんな事をしゃべってほしかった  
話すバランスが大事 (解説)
取材したノートを放送用に主人が作りに来てくれる  
解説のほかに 講義をしている スポーツ文化論  昔の夢が叶えられた 
10代の感性は違う 大人が思っている以上に物事を考えている
1対1で話すとしっかりして考え方を持っている事が判る 
日本の事 どういう母親像がいいのか  教育の事等
大阪で教えているが 笑いのセンスが必要     「希望」 という言葉が好き 

どんな落ち込んでいる時でも、迷い 迷いの雲が晴れないような時でも 言葉に希望が有れば 心にも希望が有れば 自分の中の力を引き出せる
周りに元気のない人が居たら その人に希望のある言葉 ポジティブな言葉を掛けてあげるとその人だって少しずつ元気を頂ける
希望を持とうよという事を自分にも、人にも言い続けていきたいですね
マラソンという良いスポーツをやっていて良かったなあと思うのは 走ると云う行為そのものが前を向いて一歩一歩自分のペースで進むじゃないですか、非常に前向きですよね 
難しくないので 歩きながら 走りながら 喋ったりして 一歩一歩進む  
焦らず 自分のペース 一歩一歩前に進む

2012年2月19日日曜日

増田明美(スポーツジャーナリスト)     ・山あり谷ありそして見えてきたもの

 増田明美(スポーツジャーナリスト)    山あり谷ありそして見えてきたもの  
現在の本名・木脇明美 (1964年1月1日 - )は、元女子マラソン・陸上競技長距離走選手で、現在はスポーツジャーナリスト・レース解説者・タレント
高校3年生の時に日本記録を次々に塗り替えて 2年後のロサンゼルスオリンピックでまさかの途中棄権 冷たい言葉が浴びせられた
山あり谷あり見えてきたものが有りました
昭和39年生まれ 昔から人と戦うのが好きではなかった 
マラソンは自分との戦い マラソンで良かった

41歳で結婚 結婚後心の状態が安定している 現役を離れて20年になる 
講演会で都はるみの物まねをして受ける
(連絡を受け着物を都はるみさんから貸していただいた 数千万円する衣装)
みかん山で育った 千葉県房総 両親が作った山 ミカンの木を植えた
小学校では遠かった 家から小学校まで2.5kmあった その道を走った 
物忘れが多くて1回で学校に行った試しはなかった
小学校の4年生の時に5年、6年生と一緒に走ったが 長距離は早かった 
マラソンの魅力は風を切っている時 風をまとっていると感じた時は駄目  
中学生になってから駅伝の大会があり 校長先生から朝礼で全校生徒の前で褒めてもらった
臨場感たっぷりに褒めてもらったのが嬉しかった 
苦しくても褒められる嬉しさを思った時を思い出し頑張った
小学校6年生の時から学校の先生になりたいと思った  
壺井栄 の「24の瞳」を読んで先生になろうと思った
中学校3年の時に800mで県体で優勝とか全国大会で4位になって 成田高校の先生から勧誘が有った 2時間余り離れている学校であった(高校は決まっていた)
身長150cmだったが 瀧田詔生さんは「俺と一緒に富士山のてっぺんへ登ろう」と言われて 両親は大反対 だが先生はオーラが有る方で都会からきた印象をうけた
先生の弟さんは俳優の瀧田栄さん いままで会ったことのない素敵な先生だった 
成田高校に行く事にした

先生の家に下宿する事になったが 千葉県大会で800mで2位になった人も隣の部屋に下宿する事になった事を知る(聞かされてなかった 吃驚した)
練習の量の多さ 厳しさは半端でなかった 
1年生 朝練習の前にトンボかけ 靴の掃除 朝練習 30km練習(本練習)新勝寺でお坊さんの御説教を聞く
クラスにはお化粧、おしゃれしたりする人がいたりしたが、そういった方面には興味はなかった 
先生から吉川英二さんの「宮本武蔵」を進められ、夢中になって読んだ 暗記しているほど  
自分の価値観というのが 生きていて楽しい道と苦しい道の選択肢が有った時に 苦しい道を選んだほうが自分自身が高められますよ と一貫して語っている  
苦しいのが大好きで競技している私は何て幸せなんだろうと思ってしまった  
ライバルとの競争は嫌だった (競技、勉強)

高校3年間で 全部日本記録を塗り替えた(トラックでは3000m、5000m、10kmロードでは、20km、ハーフマラソン、フルマラソン)
天才少女と新聞に書かれて踊らされた 
自分で軸がしっかりしていないと駄目 先生も若かったので一緒に乗せられた
1984年 当時20歳 ロス五輪 初めての女子マラソン競技となる 半年前から準備をする 
途中棄権
暑いから熱さ対策をする事になる それが良くなかったと思う  
ニューカレドニア 40km走ったり 沖縄で走っているうちに (瀬古 佐々木ななえ 宗兄弟等) みな 本番前に疲れ切ってしまっていた   
今は発想が逆になった きつい練習は身体の疲労を溜めないように涼しい中でおこないましょうという事になった(ロスオリンピックの経験が生きている)

マラソンて(42.175m)其の時の自分が出てしまう 
 走りたくないなあと自分に負けてしまった(今から思うと)
其の時、ななえさんに抜かれた事が一番ショックだった 未熟さだったと思う
ななえさんに抜かれた時 今の私だったら 抜かれてしまったが私の分まで頑張って走って、私も何とか完走するから と思える
今のアスリートは凄いと思う 自分というのが有ると思う 
指導者の力なのか、自分が持っているものに場数を踏んだのか

2012年2月18日土曜日

小嶋悠司(日本画家67歳)      ・縄文人の明るさを

 小嶋悠司(日本画家67歳)          縄文人の明るさを  
小嶋さんはこう書いている
「生命に対する祈り 毎日を生きる祈り 地球上にある古代に有る彫刻をみる限り明るさで共通するものが有る この明るさがこれからの社会には必要と思う」
長く母校である京都市立芸術大学で教え 平成12年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています
父は友禅染の図案家であった 白生地から着物に仕立てるまで、仕事ぶりは良く見ていた 
本も沢山有った (絵描きさんの本)
職人さんが毎日毎日 馬だとかいろいろと絵を描いてくれて、それを見るのが楽しみで、自分でも興味を持ったのが始まりかと思う
3つ、4っつの頃 小学校の頃には先生からもうちょっと子供らしい絵を描きなさいと云われた
(既に小さい頃から絵を描いていたので其のようには書けなかった)  
そんなわけで小学校の高学年になった時には絵を描くのが嫌になった 
高校に行って美術部に入る 大学は日本画を選択

二回生で入選した 1969年卒業し その年にヨーロッパ旅行をしている  
石本正という先生がイタリアのフレスコと云う教会にある壁画を観に行かないかと言われる
かつて日本画家の入江波光 村上華岳 30歳代に出掛けた イタリアまで勉強に出掛けた 
ジョットチマブーエの 絵を見せられて 一回見に行こうという
ヨーロッパ旅行が実現した 
古い彫刻 紀元前5世紀の時代のお棺の上に彫刻が有り にこっと笑っている 
日本の観音様と同じような微笑みでありこれに魅せられた
フレスコ画を見に行ったつもりであったが彫刻への興味があった  
文化庁在外研修員としてイタリアのフェレンツエに行く 考古学博物館に半年出掛けた
 
そこでスケッチした ジョットの壁画等 エトルリアの彫刻、塑像    
1970年代 「凝視」シリーズ 人間の自分の赤ちゃんと野生の猿の赤ちゃんを観る目を比べる
と 猿の方が純粋ではないか 
人間の親の目はよその赤ちゃんと見比べてないかと  もっと純な目で見た方が良いのではないかと
幼児の目はきらきらした眼をしている おもちゃを見る目 綺麗なものを見る目 それを観る大人の目もいい
「生 凝視」 がっしりした人物像及び 動物の親子を描く  
昨年2月の作品  大震災の前に書いたが何か附合するところが有る
  
法隆寺の玉虫厨子密陀僧(みつだそう)使う 松ヤニで絵具を作る にかわも使っている 
仏教画には動物のものは使わない 植物から得られる物を使う
絵具は岩絵具と フレスコ画と同じもの 
(フレスコ画はガラス質が上に有って雨が降っても水から守ってくれる)
緑青も自分で作る 1980年代 「穢土」 源信と云う人がおられて「厭離穢土、欣求浄土」唱える 「往生要集」にて
私はこの穢土の中に全て浄土も含まれていると思う 全て生き方一つですからね 
わざわざ浄土浄土と探す必要はないと思う

訳してくれと言われた場合は「地球」と思ってくれと言っている  
戦争が有ったり、子供を親が殺したりだとか テーマと係わりながら書いていると思われますが? 1978年 「大地 穢土」 これはコインロッカーで子供が殺されたときに描いた   
1991年「穢土 黙」 5m近くある作品 中央の白い筋 純粋な道 これを描きたかった 
回りの太い構築物は悩み  抽象画のようにも見えるが、描いている本人は全部一緒  
具象 抽象     強い色を出せるのがピカソ 力を与えるのは難しい  ミロにも力強さはある  
38歳の時に絵具の事について書いた文章に 「空間から湧きあがる絵具自身の強い意志」 
絵具が意志を持っていると 絵具との戦い
日本画の絵具というのは 天然の鉱物 それを使わないと駄目 
不純物というのは混ぜない けんかをしてしまう 
塗ったら意味を持たす 絵具は意志が有る 何故塗るのか どうして塗るのか 
絵具の塗る面積にはデッサン力がないと駄目 
面積によって絵具は輝くから デッサン力が凄く大事にますね 
   
ウイリアム・ブレイクは私の心の支え
イギリスの人 イタリアに行って勉強している   産業革命の時代 「切られた虫は鎌をも許す」(何で犠牲になってゆくのか 切られた意味さえ解れば許す)
段々機械文明になってゆく 機械文明になってゆく意味さえわかればいいんだが どうしてそうなってゆくのか解らず、許せないところが有る
公害とかいろいろと、まるっきり間違いがある
   
広島と長崎に落とされて日本は世界に物言える国ですよ   
原子力発電は持つべきではなかった 
50歳の時に 「私は縄文人で在りたく思う 私が求めるのは古代縄文人の明るさである」 この言葉の思いは、縄文人は次々に物を捨ててゆくわけね 
物を残していかないのが良いと思う 持って歩かない 定着しない ・・・気持ちの明るさが有る 縄文時代は一万年続いていますよ 縄文時代に生きた素朴な心 格差社会がない 
共に分け与えて命を大事にする精神です 

2012年2月17日金曜日

石川直樹(写真家)        ・素顔のブータンに魅せられて



石川直樹(写真家)  素顔のブータンに魅せられて
石川 直樹(いしかわ なおき、1977年6月30日 - )は日本の探検家・写真家   作家・石川淳の孫にあたる
学生時代に文化人類学 民族学を学び 写真家の道に進みました
その後 世界各地の最高峰に登頂し 23歳の時に世界最年少で7大陸の最高峰に登頂するという記録を打ち立てました
石川さんはブータンには3度訪れ ヒマラヤ山脈に通じる自然や素朴な国民性に魅了された
とのことです

今回は行ったことのない 南 ブータンに有る温泉地に行ってきました 車が有る道から歩いて
4から5時間歩いて行く
所謂昔の日本の湯治場ですよね  宿屋が有るわけではない テントを持って行って 
3か月 浸かり病気を癒して帰って来る
食事は自炊 そばに暮らすみたいな感じ  源泉かけ流し 熱いお湯 ぬるいお湯 があり適温はまずない
西側は空港 首都が有ったりして開けているが 、東側奥の方に行くとは電気が来ていない場所が有ったり外国人が入れないような場所が有ったり
辺境の地 南は国境がインドと接しており 雰囲気が異なって来る
ブータンの国王が昨年来日 2回目に帰って来る時に同じ飛行機に同乗することができた 
親しみが湧いた

最初のブータンとの付き合いは?→山登りが好きで本を読んで昔からヒマラヤ周辺の文化に興味が有って ブータンの方には未登の山があるとか    中尾佐助さんという植物学者がいるんですがその人の本を読むとすごく興味が有ってブータンに行ってみたいと思った  
気軽に立ち寄ることができなかったが 雑誌の取材を兼ねて昨年行くことができた
一回目は西から東まで横断した パロと云う街から色んな街を旅をした(昨年夏)
ブータンの人達は「ゴ」という着物のような衣装をまとう 下はハイソックスに革靴を履いている 女性は「キラ」という着物をまとう
きらびやかな服装をしている 
ゾンと云う場所が有って ブータンも県に相当するものが有り県庁がある 
「ゾン」は坊さんが修行したり、県庁としての役割もする

ブータンに入る前に工程を決めておかなくては行けなくてガイドとドライバーの人と一緒に
行かなければいけない 気軽にヒョこっと行く感じではない
二回目は秋口 東の方に行く 数年前までは外国人が入れない場所があり それが入れるようになったと聞いて行こうと思った
道路が有る場所から更に二日歩いていかないと着けない場所だった (メラク村)  
取材をかねて行く
村は本当に昔ながらの生活 電気がない 基本的にブータンの建物はあまり窓がない 
昼間でも真っ暗
男性は牛、羊の皮を身にまとって 女性は独特な着物が有るんですが、エンジ色した着物に
フェルトのような素材の丸い帽子をかぶって5本の房が
ついていたりする非常に見た事のないような服装をしている  
特殊な民族  ブータンの東側に残されている

都市部は「ゴ」と「キラ」を着ている人達が多い 
「ヤク」 日本の獅子舞に似た舞うお祭りがあり、日本の文化の源流が有るのではないかと思った
旅を始めたのは高校2年生の時から インドとネパールを一人で貧乏旅行したのがきっかけで それ以降ずっと旅をしている 
大学院(東京芸大)から写真を取り始めた 23歳で各大陸の一番高い山に登る
 (世界最年少記録)
山は旅の延長線上で 新しい世界をみたいと云う旅を続けているうちに 山に登って行ったという感じですかね
エベレスト2001年5月 去年も行きました 南極大陸最高峰ヴィンソン・マシフ山(4897m・南極)に登頂 難易度はあまりないが寒かった 

南米大陸最高峰アコンカグア山(6960m・アルゼンチン)に単独登頂  オーストラリア大陸最高峰コジウスコ山(2230m・オーストラリア)に登頂    2001年、チョモランマ(8848m・チベット)に登頂 海も山も川も隔たりなく好きで ガイドブックに載っていない場所だとか未知の場所を求めてゆくと山だとか海だとか自然のフィールドになってしまう  
早稲田大学の時は文化人類学をやってまして 星を見ながら海を渡る技術 (スター ナビゲーション) ミクロネシアの島々で受け継がれていて    それを研究していたんですよ 
それは文化人類学の立場で研究していたのですがそれは芸術に近いのではないかと思いました  
GPSとかカーナビが有る時代に近代的な計器を一切使わずに星を見て海をわたってゆく其の事はもう芸術の領域ではないかと思いました
各地のお祭り 民族舞踏とかにも関心を持って勉強していた(文化人類学と芸術との融合)
旅をしながら写真を撮って来て 取っているうちに写真家になった
先史時代の壁画を撮る 風土建築を撮影 ヒマラヤでの文化、シェルパ族 北極圏の村等々
 興味を持って写真を撮ってきた
文書も書いている 言葉でしか表現できない事を描いている

ポリネシア 「コロナ」 賞を頂く  島々を巡って写真を撮った 
土門拳賞 (土門拳賞はよく、写真界の直木賞と呼ばれることが多い)
3回目のブータン旅行から帰って来たばかり 王制、 仏教の国 宗教と生活が密接にかかわっている 動物の殺生をしない
インドから肉を輸入 蚊が腕に止まったら 普通叩いてしまうが、そういったことは一切しない 虫なども一切殺さない 輪廻転生  
そこにいる野良犬がもしかしたら死んだお爺さんかもしれないし 飛んでいる蝶が死んだお婆さんかも知れないということで一切殺さないし大事に扱う
子供から大人まで有って吃驚させられる 宗教が身近にある
 
幸せかと聞くと幸せと答えるかもしれないけど 幸せのハードルが低い 日本では欲望が肥大化していて 多少の事では幸せを感じないかもしれないけれども
ブータンの人にとっては例えば作物が良く収穫できたとか 今日は晴れていて仕事がはかどったとか そういったことで 生きている事が幸せというか  
そういった感覚がもしかしたら有るのかも知れな い 
先進国の幸せのハードルよりもだいぶ ちょっとしたことで幸せを感じる風土が有るのかも知れない
日々食べて家族が有って 日々を過ごしていけるのが幸せであると云う事 お祈りができる 
のが幸せなんでしょうかね
GNH(国民総幸福量) 打ち出している 素晴らしい考え方だと思う 教育、政治含め    
物質的な豊かさではなく精神的な豊かさ 彼らなりに実感として判っていて国民の隅々までじっくりとしみわたっている
勿論苦しみとか悲しみとか沢山有るわけですけれども それとは別に 日々生かされていると
云う事を感謝する様な風土が有る

日本にも関心を持ってきている(国王来日して)  顔立ちも似ているので親しみを持っている
北部のトレッキング(山歩きのこと)ルートを辿ってみたい  未登峯がある(7000m級)  
驚き続けて行きたい 自然に近いところで暮らしている人達からは学ぶことが多い
仏教の思想というものを私は形としてしか知らなかったが 隅々に滲みだしてくるものを見ると
こうした生き方もあるんだなと強く感じますし、それと自然と共生すると云う言葉とかも、日本で
使われているのは体に良いと云うか かっこいい というかスローガン的な言葉としてではなく  
本当に密接に自然とともに生きていると云う事を強く感じましたから そうした生き方を一部でも自分に取り入れられたら良いなあと思います

2012年2月16日木曜日

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) ・最愛の妻の死を乗り越えて2

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) ・最愛の妻の死を乗り越えて
悲しみのどん底からどのように立ち直れたのか、同じような苦しみのなかにいる人達が悲しみを
乗り越えるためにはどんな事が大切なのかを中心に伺って行きます
身体を鍛えたり、規則正しい生活をするようにして 心身が良くなってくる
10月ぐらいから遺影の前で線香をあげながら、話していた時に、妻が亡くなる前15年前ぐらいから
 油絵、木炭画(人物が多い)を描いていた
ふっと観ていて、遺作展をやったらどうだろうと思った 暗いトンネルにちょっと灯りがともったような
感じになった  妻と共同作業をするような感じだった

当時の絵の先生だった人に40点ぐらい選んでいただいて 1年後に銀座の画廊で一週間 
遺作展をやった
一週間を仕事をキャンセルして見に来て下さった人と妻の話を交わした 
こういう葬儀のやり方もあるのですねと言われて嬉しかった
妻の病歴、経過や私の苦しみの状況などを毎日文章にして行った 
それが私の苦しみや悲しみの心を消失させるような感じがして
まるで練達なカウンセラーに傾聴してもらっている様な感じがして、書く事にはこういう効用があるのだと思って
、ひたすら書いたんですね

友人(嵐山光三郎)にこれを送ったら これはものになると云われ「妻を看取る日」という本になってでた
これは私が立ち直れた非常に大きな意味が有ったと思います
本の中にあるグリーフケア→ 配偶者を失うのは其の人にとって物凄く精神的に大変な衝撃ですけれども 
そこから残された遺族がどのように立ち直ってゆくかという
支援する事だと私は思っているんですけれどもね
看護師さんが中心にして熱心に展開されている事は知っていましたし、論文もいくつか読んだこと
が有るんですが、自分の場合は自分で立ち直ってゆくしかない
自分の身体を鍛えたり、規則正しい生活をしたり、アウトドア活動に戻ったりしたんですが 
最初の三カ月はどう仕様もなかったが、何とか1年で立ち直ることができた

世の中には対処の仕方がご存じなくて 連れあいの方、家族の方を亡くした人が一杯いるのだと
思うんですね
この本を読んでいただいて全国から沢山の手紙などを頂いて 世の中にこんなに配偶者を亡くして
苦しんでおられる
多くの方が 癌の専門家でも奥さんを亡くしてこんなに苦しんでいる つまり苦しんでいるのは
自分だけではないんだと 大変勇気をもらったと、前向きの手紙等を沢山貰った
グリーフケアを知らない人にちゃんとそういうものが有るんだともし支援を求められればしかるべき
専門家につなぐ体制が必要だなと
医療システムの中に或は社会体制の中に持ち込むにはどうやったらいいか ずっと考え、
努力し続けている

欧米で発達している 日本でもようやく動き始めている NPOでもグループができている
グリーフワーク→本人が立ち直ってゆく事 (私のように他に救いを求めるのではなく自分自身で立ち
直ってゆく)
女性は御主人を亡くしたらひたすら泣かれると云う事が有ると思うんですが、男性の場合 
妻を亡くしたぐらいでは泣かないと云うような
片意地張った意識が有って人前では泣きませんが、じっと悲しみを抑え込む傾向が有ります
私は家ではこんなに涙が出るものかとひたすら泣きましたね  
とことん泣いたと言うのが3か月ぐらいでしたけれどもね 
それが十分悲しんだと言う意味があると思います

3/11の被災者が避難所に逃れてきて回りは知らない人のなかで、泣きたくても泣けない状態ですよね
一家6人のうちに5人失なったとか 想像を絶するような体験をした人が沢山おられるのに 
泣くに泣けないと言うのは辛い環境だし、辛いご経験だと思っていました
苦しいとか悲しいとは言葉に出していい (文章をかくのもいい) 心理療法士 カウンセラー
、精神科医等に話して助けてもらう手立てもある
「悲しみの中にいる貴方への処方箋」をその後に出版する  
悲しみを具体的にどのように対処してゆけばいいのかを記載
積極的に涙を流すとか、人に話して苦痛を吐きだすとか 一人苦しまないとか
 そういう事を纏めたんです

私の知り合いの中で亡くなった所に手紙と一緒にこの本を送ってやると凄く喜ばれますね 
 今回の被災者に随分送りました
私は仏教徒ではないんだけれども 区切りのセレモニーは必要だと思う  
四十九日があり 百カ日があり(これが泣き納めだと云われる) 生活のメリハリをつける
意味で意味のあることだと思う(先人の知恵だと思う)  
長い歴史の上に成り立っている仏教の上での一つのシステムなんだなあと感服しました
身体を鍛えて肉体的にしっかりしてくると精神のほうも前向きになって、自分の生活を見直して
規則正しい生活をするようになるとか栄養のバランスをとって
食事する様になるとか非常に良い効果が有りました  
さらに山登りだとか川くだりだとかに、繋げて行って身体を鍛えた事が実感する様な後で
丸一年経ってから居合抜きまでしました
  
今も週2回通っている まったく新しい事をやると夢中になってやる  前向きの効果はある
遺作展は心の繋がりがある 本を書いた事も良かった  妻の写真を手帳の中に入れている
 一緒に山に登っていると思うような繋がりを感じる
東日本大震災 被災者だけでなく 日本全体が改めて生死観見直すように死生観を持ったのでは
ないでしょうか 危うい基盤の上に生きているんだなあと私は感じました
死への準備教育が大事 →今120万人が年間亡くなっていますけど8割は病院で亡くなっている  
1950年代初めはまったく逆で8割が自宅で亡くなっていた
お爺さん、お婆さんが亡くなるのを子供さん、お孫さんがみている
 死というものはこんなものなんだ 段々身体が冷たくなってゆく それを見ている 
それが当たり前だった 病院で亡くなると心臓マッサージなどの治療をするのに家族は隔離されてしまう  
死が隠されている様な状態ですね

中学校、高校生に人の命は有限なんだと いずれ人は死ぬんだし 生きてる間は大事にすると
云う 「デス エデュケーション」 を学校教育に取りあげて行くべきだと思う
死について日ごろから勉強しなくてはけないのではないかと思う  
若い頃そういう考え方を持つと言う事は非常に重要なことだと思います
妻が亡くなって半身無くなったような感じですが、4年経って外見上はしっかりしているが心の中では
もういつ死んでもいいと思っている
以前に遺書は書いたあって 遺産は対癌協会と癌研振興財団という公的機関に寄附する事に
している 葬儀、お墓は要らない お骨は粉にして中禅寺湖伴に散骨
しても問題がないだろうと 葬儀社に頼もうと思ったら私の山の3人の友達がそれは私達が
やってやるよと言ってくれた

遺品は(妻と私の)遺品を整理してくれる会社が有ってそこに契約済みとなっている  
私が亡くなったら跡形もなく消え去りたいと思っている 着々と準備を進めている
私は死が怖く無くなりましたね 本当に自分を突き放して生きていますね
私は癌と付き合ってきて40年 妻と付き合ってきて40年 妻は78歳で亡くなって 
私もそこまでは生きたい 
年間35万人が癌で亡くなっている 男性は1/2人 女性は1/3の割合 は癌で亡くなっている   
亡くなる人の1/3は癌で亡くなる

癌の予防 煙草を吸わない 止めてから効果が出るのは10年~15年はかかる  ワクチンでの予防  
癌の怖いのは癌が発生してもその時点では何の症状もない 
症状が出ると運が悪いと進行癌で助からない
検診をきちっと受ける  癌になっても簡単に治せるので 早期発見早期治療が大事 
予防と検診これが本当に大事なことです 
在宅医療 日本では点状になっている 段々面のようにするといいのでは 在宅で亡くなりたいと
いうのは6割が希望 実際には数% 医療体制の問題 家族に迷惑を掛けられない
この二つ  団塊の世代が亡くなる2030年ごろになると その8割が病院で亡くなると云う事は
あり得ませんから
これから10年、15年は希望者は在宅の体制を整えなくてはいけない 

病院と在宅 在宅が出来ない場合は それを繋ぐ施設だとかの体制を整える必要がある
これをやっていかないと大変だと云う事で 在宅医療を医療制度、社会制度として実現できるような
取り組みをするのが大変大事だと思っている
あと亡くなった後のグリーフケアも又大切だと思います 
残された10年ぐらいの内にどうしてもこの二つはやりたい
癌検診を国の責任でやる 検診率50%を掲げているが実際は20数% 低迷している  
早期発見で救済できる方が沢山亡くなっている  医療に従事した者にとっては大変辛い事ですから 
検診を自分の事と認識していただいて 受けていただく事が大事
日野原先生の終末医療に関して?→亡くなる以前から医師や看護師がずっとグリーフケアをスタートして
いるんだと云っている 患者さんだけでなく家族を含めて
ケアをしてゆく事が大事  亡くなった後もグリーフケアをきちんとする 事が大事  
(100歳を先生は迎える)
  
ほんのちょっとの事でいいから日々希望を持って行けるような手助けができるようなケアが大事
だと云っています 
例えば冷たい綺麗な一杯の水を飲むだけでも人は生きる勇気が湧くんだと言ってますよね  
生きられないとしても日々なんか希望を持って生きてゆくような
手助けをするというのが大事だと言われますね
現職の頃患者さんが亡くなるという悲しい体験 (特に若い人が亡くなる)をしましたが 
伴侶を亡くした体験は本当に異質な強烈な体験でした
私は医師としてがん医療に40年携わって来て がん基礎研究に15年本当に一生懸命のめり込みました 
私も早期がんですけれども大腸がんと腎がんを経験している
がん経験者であり 癌患者の家族であり 癌の遺族である
 
15年~20年我が国のがん対策に行政的にも深くかかわってきましたから
がんの側面に深くかかわってきた人間ですから それだからこそ自分の経験を如何に癌の患者さん
や家族、国民に活かしてもらうかという事に
在宅医療 在宅死を希望する方々にそれを届けるシステム、グリーフケアを届けるシステムを我が国で
充実する必要がある 
がん検診とか其の受診率を高める事をやっていかなくてはいけないと思っている 
最大限努力してゆきたい

2012年2月15日水曜日

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長)  ・最愛の妻の死を乗り越えて

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) 最愛の妻の死を乗り越えて
<概略>
(1941年4月10日 - )は、日本の医師。学位は医学博士。称号は国立がんセンター名誉総長
大阪市住吉区出身。42年、東京大学医学部卒業。同泌尿器科助手、国立がんセンター手術部長
、病院長、中央病院長
患者さんと家族のための がんの最新医療』『妻を看取る日』など著書多数
国立がんセンター総長の定年を迎え、これからを2人だけの人生をと思っていた矢先に 
最愛の奥さんを癌でなくされました
長年医師として患者の死に接してきた垣添さんですが、最愛の奥さんを亡くした悲しみは想像を
絶するものでした
その苦しみ、悲しみを乗り越えるのは大変だったと云われます 一回目 最愛の奥さんとの出合い
、結婚生活、癌との壮絶な闘病生活
奥さんを亡くされて 悲しみのどん底に突き落とされるまでを話して貰います
2007年の12月31日に妻が亡くなる  亡くなった直後の3か月に比べると楽にはなったが 
心の深い処では悲しみはずっと続いていると思います
奥さんとの出合い→医学部 卒業して インターンと云うのが有ったんですが それを拒否する
学生運動をやっていたので 医師免許のないまま
アルバイトで院長の指揮下で働くわけですが、そこの患者であった妻と知り合って 
それがきっかけです
退院後も往診があり、その中の対話で打てば響くような事で非常に面白かった 
対話が全てのきっかけだったと思う  脳波が一致するそういう思いであった
妻は12歳上で 私は年齢差は気になたなかった 妻は既婚者で離婚調停中だった
  
私の両親は仰天して大変な騒ぎだった 理解してもらえず家を飛び出して
彼女の家に転がりこんだ 1年同棲してその後に結婚した 1969年 結婚指輪もなければ、
パーティーもなく書類を提出しただけでした
3年間は両親とは音信不通で、それから母親から一度2人で家に遊びに来なさいと云う電話が
有って和解する事になる
兄弟にも紹介され普通の付き合いになる  結婚することに関しては彼女の方が悩んでいたと思う
当然両親から反対される事は判っていたので
生活は苦しかったが 彼女が英語、ドイツ語が出来るので教えてその授業料と 私のアルバイトと
その費用で何とか生活費を支えた

奥さんは→頭の良い人だった 打てば響くような会話が出来た 津田塾大学を卒業して英語は出来る 
後年、東京外語大学にも行ってドイツ語もできる
最後に東大の文学部のドイツ科に学士入学して当時ストライキが有、中途で退学した  
語学に堪能 北朝鮮の舞姫と言われた最小季?に付いてダンスを習ったとの事
ダンスが非常に好きで全て形から入ると言う   ファッションが好き 洋服を着て棒立ちになって
いるのは駄目だと ちょっとボタンを外すとか、左右の足の位置を考えるとか
論文等はサポートしてもらった 最初の論文は英語  妻に助けて貰い一発で通った   
私はアウトドアが好きで信州へのドライブとかハイキングは随分出掛けた
奥日光にて カヌーにのめり込んだ  春夏秋常に行くようになった 
  
奥日光は忘れられない地になった  
1995年 声がかすれてきて調べた結果 喉の甲状腺右側に癌がみつかって、リンパ線に転移して
神経を圧迫してそれが声をからした
甲状腺の半分を取る手術が有った 2000年に左の肺に小さな影がみつかってくさび状に切り取った
ら線癌だった
2006年に右の肺に4mmの影ができる 3か月後は変わらなかったが半年後に6mm変わってきた
 増殖してきている 治療に踏み切る (肺小細胞がん)
陽子線治療(先端医療なのでお金はかかった)で影が綺麗になくなった

 2007年3月右の肺に又でき 3,4,5,6月と治療して
退院して9月にCTとかPET、MRIとかいろいろ検査してみた 完治しているかと思っていたら 
全身に転移してしまっていた(脳、内臓等)
聞いた途端に妻の命は2,3カ月と思った  彼女自身も長くて数カ月と自覚したのであろうと思いました  
冷静に受け止めた 科学療法しかないのでそれを受ける 
11月からどんどん体調が悪くなった ベットに寝たきりになった その年の3月から国立癌センター
の名誉総長になっていたので
小さな部屋を貰っていたのでそこから朝、昼、晩 妻の病室に行って面倒見たり、私がいると排泄
の世話なども頼みましたから
本当に一緒に過ごす   、濃密に対話したりケアしたりする時間だったと思う

抗がん剤の治療は非常に辛いと窺っているが?→最初 新しい抗がん剤を使ったらよく効いて
 病巣も小さくなって私も妻も担当医も非常に喜んだのですが
2回目以降は効果がなく下痢だとか、お腹が痛いだとか、髪の毛が抜けるだとかいろいろ副作用が
出てきてしまった
全然別の薬に替えたらこれは副作用ばかりで 口内炎とか食道炎が起きてしまい水を飲むのに
苦しみ痛み止めを飲んでから、身をよじる様にして水を飲んでいた
一度だけ「こんなに苦しんで抗がん剤を飲んでいるのは貴方の為によ」と言った 
協力しなくてはいけないと思ったのでは(私は癌の研究組織のトップにいたので)
12月に入ると明らかに死を覚悟していた様で、葬式はしないでくれと 家で死にたいと云っていた
家でこまごました事をやりたいのに外泊はできないのよねと 一回だけ泣いた 
 
これには私も絶句しましたけれども
世間はクリスマスへの華やかなにぎわいの中 病院に行ったり来たりするとき華やかな雑踏を抜けて
ゆく時 自分の周りだけ冷たい風が吹いているので
本当に苦しかったですね  28日から6日まで外泊届を出して家に連れて帰った 
(外泊届を出してはありましたが、家で亡くなる覚悟でしたね)
最初は家に看護師さんを頼むつもりであったが、気心の知れない人に入って貰うのも気ずつないと
思い お断りして その代り私が点滴のポンプの扱いだとか
点滴のセットだとか 現職を離れて長いので 看護師さんからやり方の教育を受けて 医療器具を
一杯買い込んで 28日から 指示書に従ってやる様にする

数日前から酸素吸入器等を用意しておいた 2Fには運べないので1Fに寝かせるようにした
食べたいと云った、あら鍋を用意して在宅の奇跡かもしれないが、口内炎で食べるのは大変かと
思ったがおいしいおいしいと云って食べてくれた
本当に家に連れて帰って良かったと思った 病棟と自宅とは全然違うんだと思った  
29日は意識が切れ切れになる
31日はもう昏睡状態 午後から余りにも呼吸が苦しそうだったので先生を呼んだが
 間に合わなくて 午後6時15分ごろ 突然半身を起して ぱっと目を開いて
確実に私の方を見て私を認識して、自分の右手で私の左手をぎゅっと握って がくっと顎が落ちて
呼吸が止まった 

言葉はなかったけれどもあれは確実に私に対して「ありがとう」と言ってくれたんだと思います  
最後の瞬間に意識が戻って 私に意志をバッと意志を伝えてと云うのは 本当に何という人なのだろうかと私は号泣しました
その瞬間を経験したのは、私がその後辛い時期を過ごしましたけれども、立ち直ってゆくのに 
非常に意味が有ったと思いますね
「感謝の気持ちで人を別れる事が出来ると云う事は非常にすばらしいことだ」と 日野原重明先生
と講演で何度かご一緒したことが有るが 先生からそういわれた
いくら覚悟してたとはいえ、骨になって返って来ると一切話はできない 
話ができないと云う事は本当に辛かったですね

死後膠着があるので タオル10本 お湯で浸して身体を拭いて綺麗にして死装束と思われる用意
してあった好みのブラウス、パンタロンを看護師さんと一緒に着せてあげた
紅をさし顔が明るくなったように感じた 医者、葬儀屋さんとの打ち合わせがすみ 後三日間
 一人で泣いて過ごしました
完全に鬱状態だったと思います どこまで落ち込んでゆくのか 
10日までどんどん落ち込んで行ってその後 深い処に岩盤みたいなものが有って
そこから先は最低精神 人間の肉体の最低条件でそのまま3か月ほどずっと移動していったように
思います

6日からは公職が沢山あるので、責任があるので夢中でこなしていると その間 
ふっと気が付くと一瞬忘れる事が有るので仕事にのめり込む事はいみがあることかも
知れないと それから舞い込む仕事は一切引き受けて猛然と仕事をしていた 
日中はいいが 家に帰ると話相手はいない
食事もうまくない 砂を噛むようなという表現がるがおいしい物を食べても何の味もしない 
噛んでも飲み込めないから酒で流し込む 酒は私は好きなんだけれど
酒も旨くない  ウイスキーとか焼酎をロックで飲むが酔えない眠れないので睡眠剤を飲む 
無茶苦茶な生活をしていた  3か月くらい
良くアルコール依存症にもならず、肝機能も壊さなかったなあと思います
  
死ねないから生きていると云うような状態でしたね
お寺の住職さんに100日法要はした方が良いと云われて 法要を済ませ 一人で生きていかな
ければいけないのでこんな生活をしていたら
妻が何ていうのだろうかと思うようになり、それからすこしずつ腹筋運動やら腕立て伏せをやるよう
になり 身体がしっかりするようになり食事もだいぶ食べられる
様になり、生活も規則正しくなってきて万事が上向きになってきた  
(今では腕たせ100回出来るようになったけど  続ければ出来るようになるんですよ)
身体がしっかりしてくると精神的にも良くなってきて やっぱり肉体と精神は一体のものだなと
その時に強く思いましたね
5月になってカヌーもやる様になった 山登りも一生懸命するようになる  カヌー 新しい事に
チャレンジするようにした 
9月ごろには心身共に良くなりだいぶ前向きに生きられるようになった

2012年2月14日火曜日

斉藤俊一(酒造会社)       ・100年ぶりに酒蔵を再興する

 斉藤俊一(酒造会社、57歳)        100年ぶりに酒蔵を再興する  
港区芝に100年ぶりに酒蔵が復活しました  
雑貨店を営む斉藤さんが復活させる 
1812年先祖が作り酒屋を開業 薩摩屋敷の出入りとしてにごり酒等を作っていたが明治42年に廃業する それから100年 7代目として復活させる  
株式会社若松屋 東京都港区芝4-7-10 TEL.03(3451)2626  
かつては、この地に約200坪の土地と酒蔵や住居があり、酒造りを行っていたという
1Fをそれに当てる 10坪を酒蔵としている 
 
先ずタンクで醸造 約3週間かかる できた酒を瓶に入れてできた酒を「ひいれ」という作業をする65℃ 30分間 発酵を止める作業  冷やしてシール張りをして出荷する   
酒はどぶろく (其の他の酒) 現状は月1000Lを目指している  
長野の飯田から出てきた 紙問屋の人と農家の人が出てきた2人で1812年から酒を作る様になった どぶろくと芋焼酎(薩摩藩に対して) 明治に入って清酒を作った  
1868年の数年まえからこちらに来て要人が飲んでいたと云われる 
裏座敷があり西郷隆盛、勝海舟 高橋泥舟 山岡鉄舟がいつも集まり、無血開城に向けての話をしていたと云われる  
書も残っている 西郷隆盛の書いた書一枚残っている 
「人を皆 炎熱に苦しむ 我夏の日の長きを愛す」  
「人は皆熱い夏の地獄を苦しむけど 私は夏の長い日を愛す」 
(夏は長い日が有るから長く働ける)

明治42年に廃業 日本酒の税金が高く4代目が亡くなり酒蔵を止める 
食堂をその後やっている 昭和23年に戦争から帰って雑貨屋を始める(父)
酒蔵復活の経緯→商店街連合会の役員になり、商店街の事をいろいろ考えるようになり 港区も商店街が衰退してしまうのではないかと危惧、消費低迷 前年対比確保が厳しくなってきている  バブルがはじけて以降厳しい(売上半分になる) 
港区住民は20万人 昼間人口は100万人と言われる  
昼間人口をターゲットにした業種は結構うまく経営ができている (飲食業) 
コンビニエンスストアーも多い 物販業は厳しい
8:2の法則 昔こういう法則が有った 8割の小売店が2割の売り上げを取って 2割の大手が8割の売り上げを取る  それが今は 1:9の法則と言われている

1割の大手が9割の売り上げを取って 9割の小売りが1割の売り上げを取る  
そうなると物販業は非常に厳しい 廃業する人が多くなってきている 
インターネットでの注文 配達が多くなってきてしまっている さらに厳しい状況になりつつある
平成15年ごろ 金融危機が有り 借り入れが多く 金融機関から調査が入る 限りなく不良債権に近いと判断される
50歳ではもう次の世代への事を考えなくてはいけないと云われる 
どうやって次に伝えてゆくかを考えるようになった
地方は土産物屋が有り 酒もあった 家でもそうだったと思い起こす  
息子に酒作りの事を話す 息子も了承してくれる
京都のある大手酒造メーカーがお台場に狭いスペースながら醸造所を作っておりそこの杜氏から話を聞く機会が有った

そこから交流が始まる 赤字でそこも閉まる事になり 杜氏からもしやる気が有るのだったら協力するとの想いを得られる
現在もその杜氏とその下で働いていた人がここで働いてもらっている
免許取得から入る 息子も修行にゆく 2年掛る(10~15cmの書類の厚さになる) 
設備がないと免許が取れない
借入金 免許の番号がないと借入できない (金利も高い)  
店舗 内装等は自分たちでおこなう
去年の7月8日に免許が降りる 第一回の酒作りは失敗に終わった 
ホースが新品で臭いが付いて買ってもらえなかった
東京の御土産として売りたい 飲食店向けに生の酒を近くの店に売っている

2012年2月13日月曜日

村田直樹(日本武道学会理事長)  ・海外へ武道の心と技を伝える

 村田直樹(日本武道学会理事長62歳)    海外へ武道の心と技を伝える  
1949年埼玉県生まれ。1973年東京教育大学体育学部武道学科卒業。同大学院体育学研究科修士課程修了
香川大学助教授を経て現在、財団法人講道館図書資料部長  
2008年7月、日本武道学会理事長に就任

中学生はテニス 友人から誘われて柔道をするようになる     
大学では柔道を通じて日本の武道の研究に取り組んでくる 
37年前アイスランドに派遣され柔道の普及に努めて来られました
以来 海外十数カ国で柔道の技と心を伝えて来られました
姿三四郎(富田常雄の小説の柔道家) モデルになった人がいて講道館創設時に西郷四朗 大活躍した 三船久蔵 十段等 有名な人が育った
嘉納治五郎 講道館創設者 世界に普及された柔道 競技スポーツとしての柔道 と 武道としての範疇で捉えられる処の柔道と 2種類に取り組んでいる
一般的には柔道とはオリンピックでの競技スポーツとしての柔道が知られていると思う

乱取り(従来からこれだけ肥大化したと思われる)に対し、型がありこれが広がってきている 
型と乱どり 講義と問答 この4つが柔道の必修科目 (加納先生が提唱した) 
この乱どりだけが広がってゆき 競技スポーツ化した   型も治めて行く 
これも競技化した方が判りやすいだろうと云う事で、これも世界に広めてゆきました  
型というのは 投げ技が有る(投げの型)  抑え込む(固めの型) 柔の型  決めの型(当て身 危険ではあるが)  
加納先生はこの4つを定めた 講道館護身術 天神真楊流柔術 古式の型 剛の型(現在は行われていない) 勢力全容国民体操 の9つの型が講道館にはある  
型に関する世界大会(7つの型) が3回行われた  
「道」 日本の伝統   「術」 剣術 柔術   柔道へと変化

子供の頃は相撲が広くやっていた 中学に入学して軟式テニスをやる 
3年になると柔道部の友人から誘われて柔道を始める
高校になった時に柔道を選んだ 大学でも体育学科に入り柔道を続ける
大学院の時には講道館の指導員を務めるようになる  世界に柔道を広めようと思うようになる アイスランドから柔道の指導員の要請が有り これが私の最初の海外体験であった 
飛行機にのるのも最初 国際線 半分不安だらけ  (25歳)   
3月17日 真冬の出発となった 
着陸時 真っ白いと思っていたら窓から見えるのは真っ黒だった(溶岩) 
大きさは北海道ぐらい 人口は30万人ぐらい 柔道そのものは普及していた 
当初柔道人口は多くない 
彼らが求めている柔道と 講道館が拡げようとしている柔道 誤解に危険性がある 
重なり合う部分も多々ある

正しい技術のあり方を教えると云う事で 講道館が教えるものと、現地での要求するものとがうまく合致しましたので特に問題は発生しなかった
彼らも良く理解してくれた 
モリオントールの年  良い選手に恵まれ北欧選手権大会で2人優勝してくれた 
柔道を認めてもらえてモントリオールに柔道も入れようと云う事になってくれた  
コーチと云う事で私が行く事になった  
フランスでは60万人が柔道をやっている 力を入れている  日本でも小学校でも教える 
伝統  中学校で武道を必修科目として取り入れる事になる
人の在り方 世の中の道理 支え 体育 勝負 修身(道徳 心身の力を最も有効に使う) 
お互いが栄えるようになる
加納先生はそもそもの動機は身体が小さく単純に強くなりたいとの思いがつよく 柔道をやりたいと思い始める 

ルーズベルト大統領にホワイトハウス内に特別に道場らしき場所をこしらえて山下義韶 という師範がアメリカに渡り大統領に柔道を教えたというそうです
外国への働き掛けをして柔道が広まっていった
加納先生はIOC委員として外国にゆく際にその繋がりのなかで合わせて柔道の普及に努める タイへの普及では仏教徒の国なので入りやすかった(礼一つとって見てもアイスランドでは何故礼をするのかという事から理解してもらうのに苦労したが)  
国際柔道連盟でも柔道を通した教育に対して高く評価している

2012年2月12日日曜日

又野 龍也(墨絵画家70歳)     ・私の絵画人生

 又野 龍也(墨絵画家70歳)       私の絵画人生  
日本昔話での絵で数多くの作品を残した  古里の熊本には「島原大変 肥後迷惑」という言葉で伝えられてきた大津波の歴史が有ります
東日本大震災のショックで一時創作意欲が落ちますが 画風を初期のメルヘンの作風に戻す事で自らを明るい夢の世界に置き、再び活動ができるようになりました 
今創作活動に新たな意欲を燃やす 又野さんにメルヘン画、水墨画、仏教画 のそれぞれうちにある心と、又野さんの古里の原風景について話してもらいます

大震災時 全身の力が抜けてなにを書いていいか判らず 1カ月ぐらい精神的にショックをうけた
最初はメルヘン画がスタートだったが 子供達を描き 子供と遊ぶ良寛さんを描くうちに(和歌) 山頭火(俳句)へ、彼は全国を歩く 特に九州を放浪してあるく  
昔書いたメルヘンの絵を引き出して見た  
これも面白いかな 自分自身でも気分転換になると思い そういう感じになってきた
明るい絵を書けるようになり個展で感動したと評価された
私の生まれた時の又野家の墓が山の麓にある 亡くなった方が沢山埋葬されたと聞く 
調べてみると長崎と 熊本の沿岸だけで15000人ぐらいが亡くなったと、言われている 
吃驚する 高いところでは20m 最大50m 1792年の津波が襲った  

少年時代 夕日がきれいな場所だった 何回もただ立って見ていた 三角線 SLが走っていた
生活の為に700mあるトンネルを行ったり来たりしなくてはならず 夜に其のトンネルを通るのに棒きれをレールに当てて真っ暗な中を歩いた(4年間)
身体に当たる水滴、物音等で凄く緊張して色んな事を想像したりした 
暗いのは怖いが後々の創造力の源になった
私の日本昔話は怖いものが多い  中学、高校とノートには可愛い絵を書いていた
設計事務所に就職したが面白くなかった 
スケッチブックを持って20歳の時に鎌倉の横山先生の家にいき 売り込んだ
3か月ぐらい通って採用してもらう 7000円ぐらいの給料でアパートに住み3500円が家賃 残りで生活した(生活自体はきびしかった)

手塚治虫先生のところで鉄腕アトムのシリーズをやると聞いて すぐ売り込みに行った 
直々に面接有 働かしてもらう事になる 給料が3倍になる
その後フリーになる 下請けでいろいろな作品を手掛ける  発想を大事にしている
メルヘン画 若い人しか買わない 水墨画 幅が広い  
描くと紙に滲む 和紙は何百種類とあり 和紙への絵は描けないと思っていたが 、段々と描くうちに面白くなってきた  墨は色はないが 描いていると色を感じる 
色んな表現ができる事が段々判ってきた  
(観る人もいろいろと絵の色を想像する) 山頭火は俳句をしながら旅をする  
自由気ままに生きている 

漫画日本昔話 特殊なアニメーション その都度主人公が変わる 自分一人で出来る 
自分の個性が出せる 
親と子供が見れる 学校で見せれば良いのになあと思う
農具は資料館に行けば分かるが使い方は判らない人が多い(石臼、脱穀、くるりん棒、とう箕等)、後世に道具はこの様にして使うのだと云う 働きを伝えるものが日本昔話にはある  
天女の絵等は仏教画というよりはメルヘン画の世界
絵の学校には行った事がない しかしそれが良かったかもしれない 独学なので自由に描ける 制約がない 自分のスタイルはある
仏画はお寺に掲げるのではなく、玄関、居間等に掲げるような仏教画を書きたい 家に帰ってきてその絵を見てホッとするような仏画を書きたい

2012年2月11日土曜日

今森光彦(写真家57歳)      ・里山と虫たちを愛して

今森光彦(写真家57歳)        里山と虫たちを愛して   
今森光彦は滋賀県大津市出身の写真家   
熱帯雨林から砂漠まで旅をして写真を撮り 海外からも高い評価を得る 
今森さんはホームグランドは琵琶湖近い里山です    
平成7年 写真集 里山物語は大きな反響を呼びました  
里山にアトリエをかまえ自ら一員となって 里山をテーマに撮影を続けています   
まだだれも里山に注目していなかった30年前何故里山に注目したのか 
 里山が何故重要なのかを伺いました
  
外は雑木林 と棚田が有る この建物で21年になる 
以前はここはひのき林だったが、購入した時に伐採してクヌギ等の広葉樹を植えた   
どんぐりがなるので すると生き物が一杯集まって来る    
こういった風景様を自分が参加しながら裏からみてみたい 
写真でも同じだが裏から見ないと見えてこないものが有るような気がする   
表から見るのは他人行儀で 表面ずらを見ているようで そこに一歩でも二歩でも入りこんで 
それで中の事を良く理解して 一回出て行ってそれから撮る   
子供の頃から所謂生き物が好きだった 虫 魚 鳥 生き物に触れ合う機会が多かった 
琵琶湖の大津市はバランスが取れた環境だった
  
小学生の頃は日本の良い環境がかろうじて残っていた時代だった (田んぼ 小川 雑木林等) 大学では土木工学を専攻 適当に選んだ 道を間違えたと思う 
当時は自分の進む道が判らなかった    
写真に20歳で出合い この道に進む   
生物への興味は?→いろいろな種類があること 生物の多様性というんでしょうか 
姿形がいろいろ違う 形が違うと云う事は生き方が違う   
ライフスタイルが何百万種とあると云う事 それを地球の環境が支えている
  
26歳でフリーになる 昭和63年  昆虫記を出版 琵琶湖周辺の生き物に限って写真を写す
(九分九哩ここのアトリエの周りで撮っている)    
1988年に1976年から琵琶湖周辺で撮影してきた写真1700点を収めた   
小さな区画でも一杯の種類がいる    
卯化 孵化を何百回と見ているがその都度感動する(殆ど夜に孵化して朝には旅立つ)   
だんご虫の卯化 殻が真っ白 栄養が有るので自分で食べる   
平成6年 世界昆虫記 20年掛けた集大成  花(ラフレシアの花)の中から眺めるような写真    
ふんころがし ソフトボールぐらいの大きさ 1kgぐらい 世界で一番大きなふんころがしを作る   
幼虫が段々大きくなって来るふんころがしの成長過程を写真に収める
(世界初 学術的にも貴重な写真  8年間掛る)   
里山物語を平成7年に出版 四季折々の風景 棚田 そこに生きる生物   
里山 昔の農業環境 人と自然が一緒に暮らしている世界 山はマウンテンではなく狩猟する場所 或はエネルギーをまかなう場所    
里は野良   里山は水田が核になっている 里山は生き物に良い影響を及ぼしている 
程よい開墾 生き物を活性化させる
  
里山環境は連続しているべきであるが 断片的になってきてしまっている  
今の里山を駄目にしてしまっている   
水田環境の変化が最近は悪くなってきてる  
保水型の田んぼが 一回からしてしまってから電動で水を入れる
(水の分断が有り生物にとっては最悪)   
雑木林も人の手が加わらなくなった 
定期的伐採が以前はあっって風が通ったが 伐採が無くなり風が通らなくなってきた   
生まれ育った里山の良さを判って貰う事がそこに住む人にとって大事 
  
昆虫合宿 200名ぐらいになる 昆虫を取る環境がない    
自然環境との共存が必要 人の健全な暮らしが有ることが一番大事です 
人の暮らしが健全でないと生き物は絶対暮らしていけない   
ひとも自然から貰っている 広い意味で里山は全部だと思っている 
人がいて生き物がいる   
これからは深く見ないで 浅く広く一旦みてみたい
(現在北海道から日本中の里山を撮っているところ)   
それから又元に戻ってみたい  (又ここの場所の見方が変わって来るかもしれない)  

2012年2月10日金曜日

高橋由美子(社会支援ボランティア)   ・国際援助と被災支援

 高橋由美子(主婦・社会支援ボランティア)     国際援助と被災支援  
宮城県仙台市に住んでいる 有志と「震災宮城からの発信」というプロジェクトを立ち上げる 
石巻市牡鹿地区の被災者の自立を支援をしようと活動している
インドネシアの隣国 東ティモールのパンド基金を設立 無担保でマイクロクレジットを実施している    インドから独立した翌年2003年からスタート 戦争により多くの孤児が発生 
3人の孤児の里親として学資援助などで子供達を支えています
今後どの様に活動してゆきたいのかを聞く

大震災を経験して今の気持ち?
ある意味では非常に悲惨な事ではあったが 取り戻したものもある 
緊密なお付き合いをする様
になった 
牡鹿地区 鮎川との繋がり 音楽の先生で同市泉区の同学院教諭、鈴木優子さん(59)が前からの知り合いだったのですが,近くの教会で牧師さんが震災者の支援をしていて,報告が有り其の時に聞きに行っていて、鈴木さんとご一緒した 
何か支援したいのだけれどもと声を掛けて鈴木さんも同じ思いであった   
鈴木先生の親戚が鮎川に居て其の親戚の方の人脈を通じて支援の輪を広げてゆきました
牡鹿地区は5m太平洋側に動いた
  
172万円以上 エコタワシの活動で収益を得て 支援に回して自立への支え資金とした  
東松島市では 観光客の体験学習 と海苔の佃煮のアイディアがありそれに取り組んでいる  
効果 編み物してエコタワシを作るのが楽しみだった 収入が少しはあった 
避難所にいて退屈だったときに心の張りになった 知り合いが増えて友達ができた
東ティモールへの支援の係わり 主人が独立運動に支援していた 
そういう関係で東ティモールに行ってみた
経済を何とかしないといけないと思った グラミンバンク 父の遺産を利用した 
凄くお金がかかるのでマイクロクレジットを立ち上げる 
無担保奨学融資 貸しつける相手は女性 CRS(キリスト教の慈善団体)がマイクロクレジットをはじめた その責任者と知り合いだった  
98%の回収率でも金利24%でも赤字であったとの事(やり方での経費がかかる)
 CRSマイクロクレジットも活動が無くなってしまった

36%の金利でやっていても厳しいとの別のマイクロクレジット運用部署からも声が有る
私の場合には経費がかからない 
各地方にマネージャーを置いておいてその方に3%のコミッションがある 金利は10%でやっている  7%で経費を払う 事務所も無い モーターバイクも無い 
人(マネージャー)もサイドワークを持っているのでサラリーは払わない  
128グループある 回収率は非常に悪い 60% 後の40%は返してくれないと云う訳ではない
なにが支えになっているかと言うと人間の絆が支えになっている 
マネージャーがその地域で信頼されている方が担当 自分の人間関係の中から探しているので 人間の繋がりが密になっている  
特に途上国では人間の繋がりが何よりも重要になっている

40%の人達は把握されているし その人達は返さないとは云っていない 
マイクロクレジットの役割は何かと言うと 貧困をどれだけ緩和できるかと言う事だと思う 
私のお金が子供達の栄養になって返ってこなかったとしても,役割を果たしていると思うんです  絶望した時の位に親戚の人が返してくれたりするんです  
お金を返してくれるときに、その人このお金は私に返してもらうのではない、全部東ティモールに置いて行って将来もずっと東ティモールの貧しい人達の為に,クレジットとして出してゆきたいのだから 他の貧しい人達のクレジットを利用してもらう為に返して下さいという  
他にココナッツを利用したココナッツ油を作る工場の建設資金として融資をする事を始めた
(国が自立するための一つの方法として)
地元での反響は?→新聞で2回ほど取り上げてもらってる 

以前は内戦で苦しんでいる 小さい国 全員が家族みたいなもの 
人間関係を完全に断ち切ることができない (日本ではできるが) 
100万人ぐらいの人口,専門家がいない 医療その他  孤児院 3人を里子にしている 
2000年に一杯孤児が発生する   
インドネシアの人が独立派の主要な人物を殺したり、打ちこわしをしたりした  
孤児院にあふれてしまう 助けてほしいとシスターから言われて,主人が佐藤悦子さんとかにお願いして60人の孤児を引き取り プロジェクトを立ち上げ 全員中学校を卒業するまでサポートする事になりここで終了した  
私はプロジェクトには参加していなかったが、その中学校を卒業した子で優秀な子を高校、大学行かせてくれないかと言う事で引き受ける事になる 
そのうちの一人 エミリアさんの日本観→ 皆さん 親切で礼儀正しくて 季節は寒いが観光するのが楽しみ 災害等のマネージャーをしている

人を助ける仕事に従事したい 
大震災に対して、もし私が東ティモールの事をやっていなかったら、なにもやっていなかったかもしれない
自分の足元でこんなひどいことが起きてるのではなにも無くして東ティモールには行けない 
何とかしなくてはいけない
東ティモールは人間関係が全て 人間の繋がりが最大の財産なのです 
今度日本で大震災が起きて 今まで私達が頼っていた契約とか 財産とか そんなものは意外と何でもなくて 一番大事なのは人間と人間の繋がりだなと,本当に痛切に感じさせられて 何か一つでくくれる共通点のようなものが有る様に感じさせられる  
今回で鮎川の人、高校の同窓の人との濃密な関係を築く事ができた
マイクロクレジットの一番の問題点は資金をどう調達するかと言う事が難しい 
できれば日本の草の根の人達と東ティモールの草の根の人達を直接結んで,直接融資していただければとふっと思ってはじめてたんです
 
円がドルにで3% ドルが円にで3% コミッションに3%で 9%  経費が1%にしても  
回収率が60%ではとても一般の方には呼びかけられないと思い外務省に相談した  
95%の回収率でないとお金は出せないと云われた
ボランティア活動で一番大事なこと?→ 私はエゴイスティックな人間なので 東ティモールの活動は自分自身の人生の意味を買っているんです
私は少しでも意味のある人生を生きたいと思って 東ティモールのマイクロクレジットにたどり着いたと云う感じで 外から見たらボランティア活動と言えるかも知れないが
私自身はボランティア活動だとは思っていない 楽しくやることです

2012年2月9日木曜日

北浜喜一            ・ふぐと日本人



北浜喜一   ・ふぐと日本人 
河豚はコラーゲン一杯 河豚で命をなくす人を救おうと60年河豚を研究 
1954年に魚類研究者に声を掛けて河豚研究会を立ち上げる
河豚の味は秋から春がうまいと云われるが  河豚の肉100g中に コラーゲン蛋白20g 
脂成分0.1g 糖質0.1g 灰分0.2g 後は水分
味を作り出すのは人間がやるんです  何でこんなに河豚料理が大衆化したかと言うと 
ポン酢が有ったからだと思います
コラーゲンと有機酸 酢酸 乳酸 クエン酸 との相性が非常にいい  
ポン酢と河豚のコラボレーション  河豚の皮はコラーゲンの塊 肉にもコラーゲンがある
コラーゲン(抗原質 :くっ付ける基) 複合体  立体構造の繊維状のタンパク質なんです
 だから河豚の身はこりッとしてしまっている

我々人間の60兆ある細胞をくっつけているのが種類は違いますが コラーゲンなんです 
ふぐのコラーゲンは他にはない
最後の雑炊まで食べないとけない 
それにはビタミンが一杯入っているし 肉のコラーゲンが全部流れ込んでいる
河豚料理店を立ち上げたのは昭和29年~ 日本河豚研究会を立ち上げた  
父親が廻船問屋をやっていた 大阪は魚庭と書いた それが 難波 浪速とかになる 
魚の多く取れるところだった
河豚の生態とか 世界の学者との交流もできたのも河豚のお陰
父が河豚を釣って来て、それを食べていてそれが高じて店を出すようになった
 
大正2年 20数通りの料理法を既に持っていた
てっちり、と てっさが最近までの河豚料理 口先から臓器から尾ひれまで全部料理して食べる  ひれ酒 召し上がって貰う
河豚の毒(テトロドトキシン)は末肖中枢神経に影響する 
河豚の後ろ半分はそのかたまりのようなもの  それがじわじわと働く 
河豚を食べるとあったまると云われるが    血管運動神経の活躍を助長する効果がある  
毒の量が多くなると血管運動神経の活動が止まって呼吸の抑制が 起こる  
ふぐ中毒死の原因は何かと言うと 呼吸困難による酸素の欠乏 極端に言わせると薬は要らない 人工呼吸をすれば助かる 

支肢の先端にしびれ感が出る 筋が弛緩する そうするとお腹に入ったその毒がグーッと回って来る 遂には意識不明になる 
意識不明と言うが本人の意識は正常なんです 処が物が言えないと云う事だけなんです 
もう如何と枕元で云うとショック死することが有る
昭和58年12月2日 厚生省局長通達で衛生に関する通達 38種類のうち21種類は食べてもいい しかし内臓は食べてはいけないとなっている
名古屋河豚 「河豚食えば わが身の終わり 名古屋河豚」 日本近海の河豚は内臓を取り出して肉を食べる限り中毒の心配はない
 
江戸時代 幕府は1668年以降 瀬田の渡し船と河豚に死する者は家禄没収 お家断絶という厳しい掟を作った
幕末に大衆が混乱期に河豚の味をしめる  
明治19年~昭和54年までの12600名中毒になっているそのうち 6925名が亡くなっている   昭和22年 470名亡くなっている 先代が何とかしなくてはいけないと思って 社会に尽くせと云われて 東大 阿部宗治  京大 時岡隆  九大 内田啓太郎  
昭和29年に世界的な魚類学者にバックアップしてもらって 河豚を扱いながらいろいろアドバイスをしてもらいながら 今日まで来た

昭和50年1月16日 八代目 人間国宝の坂東三津五郎の事件 料亭で河豚の料理で亡くなってしまった
条件的に発生するのがふぐ中毒の特徴 雄と雌で違う 取れる場所によって違う 臓器のある場所によって違う 
あの時は2kgの臓器を全部で7人で食べている 1.4cm角の胆(肝臓)を全員が食べたが三津五郎のみがあたって亡くなってしまった
其の時に奥さんが数千万円の保険を掛けていた 事件性が高いと大変な事件になった
たまたま三津五郎さんの食べた処が当ってしまった(それまでも超一流の料理人により河豚を食べていたが当らなかった しかし今回当ってしまった)
 
肝につい手を出してしまう 陶酔する様な味はあの世にいってしまう 肝臓ではなく 肝膵臓(肝臓と膵臓が混在している)である
実際舌に乗せるととろーとしている 甘みはアラニンの甘み(脂の甘み) 河豚の味ではない
河豚料理は中国から来たようなもの 延暦23年に弘法大師が難破して福建を経由して鎮江 西安 ・・・河豚ロード(歩いた道) 中国では河豚が珍重されてる
倶の多い汁が出てくるがこないと私は嫌われているのではないかと言われるぐらい中国では珍重されている
揚子江でとれるのは江豚と言われていた
 河豚は何故毒持っているのか テトロドトキシン 河豚は毒を取ってしまうと死んでしまう 
ふぐは自分の身を守るために毒を持っているのだろうと思う
海外では河豚食に熱い眼差しを持っていることはひしひしと感じる
 
坂口安吾 「我々は事も無く河豚料理に酔いしれているが、あれが河豚料理として通用するに至るには 暗黒時代を想定すれば そこには一服の大ドラマが有る
幾十百の指導の殉教者が血に血をついだ作品である その人の名は筑紫の浦の太朗兵衛であるかも知れず 玄界灘の沌兵衛であるかも知れぬ 
とにかくこの怪物を食べてくれようと心を固めたちまち十字架にかけられ天国に急いだ人が有るはずだが 其の時に子孫を均等に集め この怪物を食ってはならぬ
と遺言した太朗兵衛があるかも知れぬが、おい俺は今こうして死ぬけれどもこの肉のうま味だけは 孫々にわすれてはならぬ おれは不幸にして血を絞るのを忘れたようだが 
お前たちは忘れず血を絞って食うが良い ゆめゆめ勇気をくじいてはならぬ  
こう遺言して往生遂げた沌兵衛がいたに違いない  
こうして河豚の胃袋について肝臓について臓物の一つ一つについて各々の訓戒を残し 自らは十字架にかかって果てた 幾百十の沌兵衛がいたのだ」
と書いてある

河豚に関してこれほどの凄い文章は見たことがない
淡水の河豚は観賞用が多い 汽水系は雑食系 いか たこ かに 貝 これらが主食 奥の ノドに咽頭歯があり 粗く砕いた食べ物をここで更に噛み砕く
膨張嚢(のう)を膨らまして海底に吹き付けて砂泥にある舞い上がったゴカイ等を食べる 
「吹く」から名前がふぐになったと云う説もある
神経節がやたらと多い  三枚に下ろす時にちりちりと音がするが、最近の河豚は音がしない 環境が変わってきた事によると思われる

海洋水 地球の温暖化 昭和48年から私は提唱している  天然トラフグは本当に貴重になった(既に絶滅種もある)
養殖の下のヘドロがそのうちどう影響を及ぼすのか心配です 
河豚は酸素の要求量が少ないので密殖する 一つの池に沢山放り込み過ぎる 
血合い肉が少ない 海はますます荒れてくる
多い時で全国で1750万匹ぐらい養殖していた時期が有る  
海が汚くなるのは当然のことなんです 
モイストペレットはやる 生餌はやる モイストペレットはいろんなもの薬品を固めたもの 
抗生物質は沢山使う 決して魚には良くない(人間に対しても良くない)
お薦めの河豚料理 河豚には味がない  味付け 工夫によってはどんなものにでも仕上がる 
河豚は料理人の腕次第 DNAの塩基配列の解析にしても河豚の解析の結果が我々の将来の医学に大きな役割を果たすことは確かです