大竹 博(NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会 副理事長)
・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_3.htmlをご覧ください。
2015年11月29日日曜日
2015年11月28日土曜日
加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私
加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。
私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。
生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。
跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。
中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。
私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。
生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。
跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。
中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。
2015年11月27日金曜日
髙鶴 元(陶芸家) ・赤色に魅せられて
髙鶴 元(陶芸家) ・赤色に魅せられて
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。
77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。
上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。
ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。
高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。
小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。
日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。
77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。
上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。
ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。
高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。
小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。
日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。
2015年11月26日木曜日
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(2)
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(2)
青春小説、危うい年代だから物語が作り易いという事があるかもしれません。
私は小説を書くときに、きっちりプロットを固めて書くタイプではなくて、いくつかの場面が浮かんだら、つないでゆく様なタイプで自由に物語が進むに任せる書き方をします。
無鉄砲さと親和性がいいのかもしれません。
青春時代にしたかったというのが作品に反映されているのかもしれません。
音楽が好きで中学、高校とギターをやっていましたが、行く行くは自分のバンドを作って音楽で食って行きたいという夢はあったが、それに見合う努力はしていなかったと思います。
覚悟という点で言うと全く足りなかったです、青春のやり残し感があったと思います。
中学はバスケットをやり、高校時代にはバンドをやろうと思いましたが、碌なバンド活動はしなかったです。
大学を出て、バブルがはじけた直後、まだ簡単に就職できた。
長い間の旅行にでたいという夢があり、会社を一旦止めて、大学院に行けば旅行に行けるのではとは思ったが、修士までは取れるが、博士号までは取れなくて、結婚もして、どうにかしないといけないと2000年頃思ったが、その時に逃げ込むようにして始めたのが、小説を書く事だったんです。
その年に、台湾に帰ったんですが、バンドの人達と知り合って話をしてゆくうちに、自分はいままでの人生で何かを積極的に掴み取ろうとしたことがなかったと気づいて、ふつふつとしていて、自分は音楽では楽器は大したことはできず、博士論文は何度も却下されていたが、長い文章を書く持久力だけはついていたと思った。
準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめました。
好きで読んでいたレナード(アメリカのミステリー作家)の様な小説を書くことしか思っていなかった。
論文は書きたくないが、机に向かっているという言い訳がほしかったのかもしれません。
ものを書いているという事で癒されました。
書きあがって自己満足で終わるのか、誰かほかの人も同じように思ってくれるのか知りたくなって周りの人に見せたら反応が良かったので、新人賞を探して投稿を始めました。
この仕事はやりたいとは強く思いました。
作家というのにはおこがましいというという感覚です、自分が満足できる作品を書けなかったからですかね。
自分はまだ作家になる力量がないのにデビューしてしまったという感覚がずーっとあるんです。
デビュー作は準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめた作品です。
思う様な商業的な成功とは無縁だったので、作家だけでは食べていけず、いまも大学で中国語を教えています。
40歳過ぎまではあまり自信は持てなかったですね。
台湾で生まれて、日本で育っているが、本名は中国名なので日本で暮らしていると日本人ではないことが判るが、台湾に帰ると子供達の間に交わると異和感を感じるみたいで、どこに行ってもしっくりこない感があって、でも子供のころからそれは悪い事ではないと開き直れた。
作家になった後も、作家として定義できないという部分もありますし、したくないという部分もあったのかもしれない。
定義をしてしまうと、後で自分とは違う大きな力で否定された時に、自我の揺らぎを経験してしまうのではないか。
例えば国家の話で言うと、自分は台湾人だと思っているのに、或る日国家からお前は違うと言われる様な揺らぎを経験したくないから定義をしない。
作家と思ってしまうと後で大きな力でお前は作家ではないと言われた時に、揺らいでしまうのであえて定義しないという側面もあったのではないかと思います。
定住しないで、出来れば一生移動していたかった、旅人の生き方に強くひかれた。
子供時代は台北の垣根の低い地域で大家族で住んでいました。
周りにはほらを吹く人達がいっぱいいて、楽しくてそんな大人になりたいとは思いましたが、そうはいきませんでした。
日本に来てからは急に核家族になり、素っ裸にされたような感じでした、怒られれば怒られっぱなし、守ってくれる人もいないし、心もとなかった。
いじめなどにも会ったが、問題は何人という事ではなくて、僕という人間なんだと気付いた時に、別にどこ出身だろうが、関係なく個人と彼等との付き合いなんだと判った時にアイデンティティーの問題を有る程度克服できたと思います。
「逃亡作法」 根なし草的な人々、いろんな国の犯罪者が出てくる。
中途半端に逃げるとにっちもさっちもいかなくなる、逃げた先には死に物狂いで逃げ込まないと逃げてる意味がない、逃げているのに何時の間にか追い掛けているような生き方をしないと逃げてはだめじゃないかと、思います、
僕が小説を一作だけ書いて駄目だという事で別の道に逃げてしまったら、ドンドン状況が悪くなるだけだと思うので、僕は運よく自分のやりたいことに逃げ込めたので本当にやりたいことを追い求めてゆくばかりだと思っています。
デビュー作から一貫したテーマです。
小説を書いている時は、自分は小説に、自分の人生に立ち向かっている感、があるからかもしれない、それで癒されるのかもしれません。
どこまで自分が新しい物語がつかめるか、という好奇心があり、書き続けたいと思っています。
物語はそこらじゅうにぷかぷかと浮かんでいるのではないかと思うのですが、どの物語を掴むかは、作家の筋力、センス次第だと思うが、自分の筋力、センスがどこまで通用するのかを見てみたい気がします。
自分で処理しきれないどろどろしたものが、身体の中に溜まってそれを書く事によって吐き出しているんだと思います。
「ブラックライダー」を書き切った時に、作家と名乗ってもいいのかなあと思いました。
デビュー作から何作かは、どこかで映像化を意識していたが、「ブラックライダー」に関しては物語は自分の力では終わらせないと思って描き続けました。
最後に一行を書き終えた時に、おわっちゃったとパニックになってしまいました。
「流」もそうです、終わらせない、物語が勝手に終わるまで終わらせない。
「流」 自分では凄いものを書いた感覚がなくて、手ごたえを感じたのは「ブラックライダー」なので
僕の目標は「ブラックライダー」を越えることなんです。
誰も書いた事もないものを書いてみたいです。
青春小説、危うい年代だから物語が作り易いという事があるかもしれません。
私は小説を書くときに、きっちりプロットを固めて書くタイプではなくて、いくつかの場面が浮かんだら、つないでゆく様なタイプで自由に物語が進むに任せる書き方をします。
無鉄砲さと親和性がいいのかもしれません。
青春時代にしたかったというのが作品に反映されているのかもしれません。
音楽が好きで中学、高校とギターをやっていましたが、行く行くは自分のバンドを作って音楽で食って行きたいという夢はあったが、それに見合う努力はしていなかったと思います。
覚悟という点で言うと全く足りなかったです、青春のやり残し感があったと思います。
中学はバスケットをやり、高校時代にはバンドをやろうと思いましたが、碌なバンド活動はしなかったです。
大学を出て、バブルがはじけた直後、まだ簡単に就職できた。
長い間の旅行にでたいという夢があり、会社を一旦止めて、大学院に行けば旅行に行けるのではとは思ったが、修士までは取れるが、博士号までは取れなくて、結婚もして、どうにかしないといけないと2000年頃思ったが、その時に逃げ込むようにして始めたのが、小説を書く事だったんです。
その年に、台湾に帰ったんですが、バンドの人達と知り合って話をしてゆくうちに、自分はいままでの人生で何かを積極的に掴み取ろうとしたことがなかったと気づいて、ふつふつとしていて、自分は音楽では楽器は大したことはできず、博士論文は何度も却下されていたが、長い文章を書く持久力だけはついていたと思った。
準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめました。
好きで読んでいたレナード(アメリカのミステリー作家)の様な小説を書くことしか思っていなかった。
論文は書きたくないが、机に向かっているという言い訳がほしかったのかもしれません。
ものを書いているという事で癒されました。
書きあがって自己満足で終わるのか、誰かほかの人も同じように思ってくれるのか知りたくなって周りの人に見せたら反応が良かったので、新人賞を探して投稿を始めました。
この仕事はやりたいとは強く思いました。
作家というのにはおこがましいというという感覚です、自分が満足できる作品を書けなかったからですかね。
自分はまだ作家になる力量がないのにデビューしてしまったという感覚がずーっとあるんです。
デビュー作は準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめた作品です。
思う様な商業的な成功とは無縁だったので、作家だけでは食べていけず、いまも大学で中国語を教えています。
40歳過ぎまではあまり自信は持てなかったですね。
台湾で生まれて、日本で育っているが、本名は中国名なので日本で暮らしていると日本人ではないことが判るが、台湾に帰ると子供達の間に交わると異和感を感じるみたいで、どこに行ってもしっくりこない感があって、でも子供のころからそれは悪い事ではないと開き直れた。
作家になった後も、作家として定義できないという部分もありますし、したくないという部分もあったのかもしれない。
定義をしてしまうと、後で自分とは違う大きな力で否定された時に、自我の揺らぎを経験してしまうのではないか。
例えば国家の話で言うと、自分は台湾人だと思っているのに、或る日国家からお前は違うと言われる様な揺らぎを経験したくないから定義をしない。
作家と思ってしまうと後で大きな力でお前は作家ではないと言われた時に、揺らいでしまうのであえて定義しないという側面もあったのではないかと思います。
定住しないで、出来れば一生移動していたかった、旅人の生き方に強くひかれた。
子供時代は台北の垣根の低い地域で大家族で住んでいました。
周りにはほらを吹く人達がいっぱいいて、楽しくてそんな大人になりたいとは思いましたが、そうはいきませんでした。
日本に来てからは急に核家族になり、素っ裸にされたような感じでした、怒られれば怒られっぱなし、守ってくれる人もいないし、心もとなかった。
いじめなどにも会ったが、問題は何人という事ではなくて、僕という人間なんだと気付いた時に、別にどこ出身だろうが、関係なく個人と彼等との付き合いなんだと判った時にアイデンティティーの問題を有る程度克服できたと思います。
「逃亡作法」 根なし草的な人々、いろんな国の犯罪者が出てくる。
中途半端に逃げるとにっちもさっちもいかなくなる、逃げた先には死に物狂いで逃げ込まないと逃げてる意味がない、逃げているのに何時の間にか追い掛けているような生き方をしないと逃げてはだめじゃないかと、思います、
僕が小説を一作だけ書いて駄目だという事で別の道に逃げてしまったら、ドンドン状況が悪くなるだけだと思うので、僕は運よく自分のやりたいことに逃げ込めたので本当にやりたいことを追い求めてゆくばかりだと思っています。
デビュー作から一貫したテーマです。
小説を書いている時は、自分は小説に、自分の人生に立ち向かっている感、があるからかもしれない、それで癒されるのかもしれません。
どこまで自分が新しい物語がつかめるか、という好奇心があり、書き続けたいと思っています。
物語はそこらじゅうにぷかぷかと浮かんでいるのではないかと思うのですが、どの物語を掴むかは、作家の筋力、センス次第だと思うが、自分の筋力、センスがどこまで通用するのかを見てみたい気がします。
自分で処理しきれないどろどろしたものが、身体の中に溜まってそれを書く事によって吐き出しているんだと思います。
「ブラックライダー」を書き切った時に、作家と名乗ってもいいのかなあと思いました。
デビュー作から何作かは、どこかで映像化を意識していたが、「ブラックライダー」に関しては物語は自分の力では終わらせないと思って描き続けました。
最後に一行を書き終えた時に、おわっちゃったとパニックになってしまいました。
「流」もそうです、終わらせない、物語が勝手に終わるまで終わらせない。
「流」 自分では凄いものを書いた感覚がなくて、手ごたえを感じたのは「ブラックライダー」なので
僕の目標は「ブラックライダー」を越えることなんです。
誰も書いた事もないものを書いてみたいです。
2015年11月25日水曜日
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(1)
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(1)
1968年台湾生れ47歳 9歳の時に父親の仕事の関係で福岡県に移り住みました。
大学院在学中に小説を書きはじめ、2002年第1回「このミステリーが凄い」大賞の銀賞読者賞を受賞し、デビューしました。
2009年にはお金も、学歴も定職もない若者の行き場のない日常を描いた作品「路傍」で大藪晴彦賞を受賞。
今年の夏に第153回直木賞を受賞しました。
受賞作は「流」 1970年代から1980年代の台湾を舞台にした長編小説です。
戦時中、国民党側に付き台湾にのがれてきた東山さんの祖父や父がモデルになっています。
何者かに殺された祖父、その死の真相を追う主人公の成長と青春を描い作品です。
作品のテーマである流れ流されることについて伺いました。
台湾に行ったが、まだ台湾版は出ていないが、サイン会もさせてもらったし、結構いろんな方にお会いし、忙しかったです。
台湾の若い世代の方たちにもこんなことがあったのか知らなかったとご意見をいただきました。
インタビューで政治的な意図は無く純粋な青春小説として読んでほしいと再三強調しました。
ミステリーでもある。
祖父が亡くなった後に周りの人から聞いて、ドラマチックな人生だなと思い至り、祖父を主人公にした小説を書こうと思ったがまだかき切る力がないと思って、父親を主人公にこの小説を書きはじめました。
縦糸がミステリー、主人公の成長物語、ものもののエピソードを描きました。
年配の読者がかなり多い、一番に感じたのは懐かしさなのではないかと思います。
舞台をどこに設定しようと、空気、時代を書き切れたのであれば日本の読者が読んでも、ノスタルジーを感じて頂ける自信はあったが、自分が書き切れる自信は無かったです。
今回は特に楽しんで書けたと思います、自分が熱くなって書けたと思います。
祖父を書きたかったが、1930年代の中国大陸を舞台にした大長編になるのではないかと思っていたので、その出力は足りなかったと思う。
「ブラックライダー」を書く事によって家族の事を書く事が出来る自信になった。
家族の歴史をノンフィクションで書くと加害者の要素が強くなりすぎるからと思います。
小説とした書いた方がより良かったと思います。
祖父が10年以上前に亡くなり、祖父が若いころいろいろやってきたダイナミックな人生をして来たことを知るに従い、物語が少しずつ芽吹いて行ったと思います。
父親は自分で或る程度家族の歴史は調べていたが、山東省に祖父の兄弟分が生きている事を突きとめて、父は会いに行っていたが、6~7年前に父と一緒に行ってそのお年寄りから直接聞きました。
馬爺さん 物静かな人だった。
戦争中の血なまぐさい話等もいろいろ聞きました。
父が山東省に初めて行った時に祖父が村人を殺したという石碑が有るが、それを父は見ていますが、開発で取り壊されて今は無いです。
中国の馬爺さんを訪ねて腑に落ちたのは、戦争はイデオロギー的な切り口で語られることが多いが、馬爺さんはそんなことは一切言わずに、友達がこっちの味方だったから自分もこっちの味方だったなど、という話し方しかしなかったので、腑に落ちた。
祖父は社会を良くしようとか、革命を起こして自分の理念を実現しようというのではなくて、巻き込まれて行って自分の生きるための最良の選択をしただけなのではないかと思いました。
最良の選択で守りたかったのは家族だったと思います、
戦争というのは一人の力ではどうにもならず、大きな流れに押し流されてその中で自分に出来る最良の選択しかなかったので、祖父としてはささやかな日々の暮らしをしたかったのだと思います。
母方の祖父も軍人だったが、鉄砲の弾を受けて撃たれた跡があり、それを見るたびに凄いと思っていました。
戦争に行って家族を連れて中国大陸から台湾にのがれてきたので、凄いなあと思いました。
私は台湾で生まれて、日本で育ったので、アイデンティティーに揺らぎを感じることがよくありますが、40年以上日本に住んでいるが、家族次第です。
家族が台湾にいれば台湾でいいし、家族が日本にいれば僕のいる場所は日本でいいと思います。
漠然と概念として思っていたことを言葉にしたことで、家族を守っていくんだという覚悟が芽生えてきたと思います。
流されるということは良いも悪いもない、個人であらがってもどうしようもなく、その中で個人がなにができるかという事だと思います。
ままならないことがいっぱいあるが、大きな流れで普通に考えれば利口ではない選択肢も、彼にとってはそれは友情を大切にした結果であったり、愛情を大切にした結果であったり、そういう所を描く事によって祖父の事も間接的に描きたかった。
流れを全身全霊で受けとめるときもある、損得ではなく理性を越えた行動というか。
この本の主人公に関しては、流されながらも自分であがらって、自分の少しでもなりたい自分に成っていくという少年を描きたかった。
大切なものが十人十色で違うと思うが、守りたいものさえしっかり守る、大事なものさえしっかりしていれば多少のより道はいいと思っています。
流れが自分の大切なものさえ押し流そうとしたときには、そこは本当に死に物狂いであがらうべきだと思います。
踏みとどまるポイントはその人のキャラクターの性格、キャラクターの色という事になるのではないかと思います。
最終的な漂着地、皆が自分を曲げずに到着できる地点を一番最後の章で模索したつもりです。
主人公も犯人もお互いに容易に歩み寄らせたくなかった。
覚悟が定まるまで、流れにあがらう足がかりを主人公が得た瞬間、流れの中に自分が手を伸ばして掴んで、離してはいけないものを見つけた瞬間です。
主人公が少年時代と決別して大人になってゆく、というところです。
不自由になって何者かになってゆく。
少年時代と決別して大人になってゆく、という事は不自由になってゆくという事だと思います。
1968年台湾生れ47歳 9歳の時に父親の仕事の関係で福岡県に移り住みました。
大学院在学中に小説を書きはじめ、2002年第1回「このミステリーが凄い」大賞の銀賞読者賞を受賞し、デビューしました。
2009年にはお金も、学歴も定職もない若者の行き場のない日常を描いた作品「路傍」で大藪晴彦賞を受賞。
今年の夏に第153回直木賞を受賞しました。
受賞作は「流」 1970年代から1980年代の台湾を舞台にした長編小説です。
戦時中、国民党側に付き台湾にのがれてきた東山さんの祖父や父がモデルになっています。
何者かに殺された祖父、その死の真相を追う主人公の成長と青春を描い作品です。
作品のテーマである流れ流されることについて伺いました。
台湾に行ったが、まだ台湾版は出ていないが、サイン会もさせてもらったし、結構いろんな方にお会いし、忙しかったです。
台湾の若い世代の方たちにもこんなことがあったのか知らなかったとご意見をいただきました。
インタビューで政治的な意図は無く純粋な青春小説として読んでほしいと再三強調しました。
ミステリーでもある。
祖父が亡くなった後に周りの人から聞いて、ドラマチックな人生だなと思い至り、祖父を主人公にした小説を書こうと思ったがまだかき切る力がないと思って、父親を主人公にこの小説を書きはじめました。
縦糸がミステリー、主人公の成長物語、ものもののエピソードを描きました。
年配の読者がかなり多い、一番に感じたのは懐かしさなのではないかと思います。
舞台をどこに設定しようと、空気、時代を書き切れたのであれば日本の読者が読んでも、ノスタルジーを感じて頂ける自信はあったが、自分が書き切れる自信は無かったです。
今回は特に楽しんで書けたと思います、自分が熱くなって書けたと思います。
祖父を書きたかったが、1930年代の中国大陸を舞台にした大長編になるのではないかと思っていたので、その出力は足りなかったと思う。
「ブラックライダー」を書く事によって家族の事を書く事が出来る自信になった。
家族の歴史をノンフィクションで書くと加害者の要素が強くなりすぎるからと思います。
小説とした書いた方がより良かったと思います。
祖父が10年以上前に亡くなり、祖父が若いころいろいろやってきたダイナミックな人生をして来たことを知るに従い、物語が少しずつ芽吹いて行ったと思います。
父親は自分で或る程度家族の歴史は調べていたが、山東省に祖父の兄弟分が生きている事を突きとめて、父は会いに行っていたが、6~7年前に父と一緒に行ってそのお年寄りから直接聞きました。
馬爺さん 物静かな人だった。
戦争中の血なまぐさい話等もいろいろ聞きました。
父が山東省に初めて行った時に祖父が村人を殺したという石碑が有るが、それを父は見ていますが、開発で取り壊されて今は無いです。
中国の馬爺さんを訪ねて腑に落ちたのは、戦争はイデオロギー的な切り口で語られることが多いが、馬爺さんはそんなことは一切言わずに、友達がこっちの味方だったから自分もこっちの味方だったなど、という話し方しかしなかったので、腑に落ちた。
祖父は社会を良くしようとか、革命を起こして自分の理念を実現しようというのではなくて、巻き込まれて行って自分の生きるための最良の選択をしただけなのではないかと思いました。
最良の選択で守りたかったのは家族だったと思います、
戦争というのは一人の力ではどうにもならず、大きな流れに押し流されてその中で自分に出来る最良の選択しかなかったので、祖父としてはささやかな日々の暮らしをしたかったのだと思います。
母方の祖父も軍人だったが、鉄砲の弾を受けて撃たれた跡があり、それを見るたびに凄いと思っていました。
戦争に行って家族を連れて中国大陸から台湾にのがれてきたので、凄いなあと思いました。
私は台湾で生まれて、日本で育ったので、アイデンティティーに揺らぎを感じることがよくありますが、40年以上日本に住んでいるが、家族次第です。
家族が台湾にいれば台湾でいいし、家族が日本にいれば僕のいる場所は日本でいいと思います。
漠然と概念として思っていたことを言葉にしたことで、家族を守っていくんだという覚悟が芽生えてきたと思います。
流されるということは良いも悪いもない、個人であらがってもどうしようもなく、その中で個人がなにができるかという事だと思います。
ままならないことがいっぱいあるが、大きな流れで普通に考えれば利口ではない選択肢も、彼にとってはそれは友情を大切にした結果であったり、愛情を大切にした結果であったり、そういう所を描く事によって祖父の事も間接的に描きたかった。
流れを全身全霊で受けとめるときもある、損得ではなく理性を越えた行動というか。
この本の主人公に関しては、流されながらも自分であがらって、自分の少しでもなりたい自分に成っていくという少年を描きたかった。
大切なものが十人十色で違うと思うが、守りたいものさえしっかり守る、大事なものさえしっかりしていれば多少のより道はいいと思っています。
流れが自分の大切なものさえ押し流そうとしたときには、そこは本当に死に物狂いであがらうべきだと思います。
踏みとどまるポイントはその人のキャラクターの性格、キャラクターの色という事になるのではないかと思います。
最終的な漂着地、皆が自分を曲げずに到着できる地点を一番最後の章で模索したつもりです。
主人公も犯人もお互いに容易に歩み寄らせたくなかった。
覚悟が定まるまで、流れにあがらう足がかりを主人公が得た瞬間、流れの中に自分が手を伸ばして掴んで、離してはいけないものを見つけた瞬間です。
主人公が少年時代と決別して大人になってゆく、というところです。
不自由になって何者かになってゆく。
少年時代と決別して大人になってゆく、という事は不自由になってゆくという事だと思います。
2015年11月24日火曜日
金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う(H27/7/13 放送)
金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う(H27/7/13 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2015年11月23日月曜日
Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター) ・ラスト・ディナーは、私の歌と!
Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター) ・ラスト・ディナーは、私の歌と!
自らもガンに侵されながら病院の医療活動の一環である最後の晩餐食事会で素晴らしい歌声を披露しているシンガーソングライターがいます。 Ko-Koさんです。
20年前に右足に大きな肉腫が見つかり、その後両方の肺にも転移し手術、抗がん剤治療を繰り返しましたが、その後は免疫療法、温熱療法、心理療法など、自分の納得する治療法などを自ら選択し、現在もガンと闘いながら音楽活動を続けています。
ガンになって初めて自分のやりたかったことに気づき、家族や医師、音楽仲間に支えられて曲作り、ライブ活動に充実した日々を送っているKo-Koさんに伺いました。
最初曲が流れる。 「最後の晩餐」作曲 Ko-Ko 作詩は主治医藤岡先生の奥さん藤岡ふみよさん
「今日が最後の日だとすればただゆったりと美しい木立の中で、優しい風を感じて過ごします。 今日が最後の日だとすれば、私は愛する家族や信頼してやまない友人たちと、過ごします。」
20年前に右足のひざの裏側に大きな腫瘍が見つかり、それが検査で悪いものだと判って、その後抗がん剤や、放射線の治療をして、1年ぐらいかけて手術をしました。
結婚して2人の子供に恵まれたが、下の子を妊娠した時に肺に転移が見つかり、出産した後に検査したら左の肺に転移してかなり大きくなっていた。
肺の潰瘍を取って、悪いものとわかって抗がん剤治療を受けたが、5年後に右の肺に小さいものが見つかり、これも悪いものだという事で取っていただきました。
何回も抗がん剤をやっているのに出来てしまうので、なんかおかしいのではないかと思いだして、その頃に藤岡先生夫妻との出会いがあり、出来たら取ってという事をしていると、最終的に取れない時が来るのではないかと不安があり、抗がん剤を止めて、免疫療法とか食事療法とかの方にかけてみようかという気持ちになった頃です。
抗がん剤治療は食欲も無くなり髪の毛も抜けてしまうので気持ちも萎えてしまう。
食事療法を1年ぐらいしましたが、肉が大好きなのに食べれなくて、食べようとしたが家族から大声で止められ、我慢するのは精神的によくない事に気づいて、話して先生も同意してくれた。
それから精神的にも体力的にも元気になってきた。(今でも肉は食べています)
食は楽しくおいしく食べるのが一番だと思います。
最後に手術したのが12年まえで、5年前に両肺に影ができて、取りましょうという事になったが、音楽活動をしていたので声が出なくなると怖いと思ったし、子供も小学生だったので手間のかかる時期でもあるし、今回は手術も治療もしないという選択をしてみようと思った。
藤岡先生に話したら、「それも一つの選択だからもう大丈夫だよ、いいよ」、と納得してもらった。
ハイパーサーミヤという温熱機械が入ったので、それはやってみようという事でやりました。
病院では先駆的な食事療法をやっていて、誰とどこで食べるかが一番重要で、最後の晩餐食事会といいまして、患者が死ぬ前に食べるご飯とかというわけではない、いままでの病気の私と決別してこれから新しい自分に生まれ変わろうではないかという、再出発の食事会です。
患者さん一般の方も皆で一緒に食べます。
「最後の晩餐」の後半の曲が流れる。
「今日が最後だとすれば貴方は何をしますか。 今日が最後だとすれば貴方は誰と過ごしたいですか。 今日が最後だとすれば貴方は何を食べたいですか。 今日が始まりだとすれば貴方はどう生きたいですか。 人生の最後に思いを寄せて生きることこそが幸せにつながり、人生の始まりの様な生き方が出来る。 今ここに自分はある、 今ここに自分はある。 今ここに自分はある。」
食事の料理を作って下さるのが国境なき料理団 の本道佳子さんです。
野菜ばっかりだが満腹になる素晴らしい料理です。
ご飯を食べてから私の歌を聞いていただきます。
歌が好きになったのも父の影響で越路吹雪さんが大好きでした。
父が亡くなった時にはお経ではなく、越路吹雪さんの歌と赤いバラで見送りました。
ピアノを教えて、ボイストレーニングの教室、ライブ、CDも出して、今年の熊本町のマラソンの応援ソングとして「ランナー」(作詞作曲 Ko-Ko)を選んでもらって嬉しかったです。
ガンになったから良かったことは、全てです、いろいろな事を学びました。
結婚する前、父が事業を失敗して、絶対に頑張るぞと、わたしも保育士をしながら昼も夜も頑張って体をいじめていましたが、病気になってなんか違うなと、せっかく生まれてきているのに色々、自分自身を見直すことができたと思います。
結婚して、いま子供達は高校2年生と高校3年生です。
私が病気だということは彼女たちも十分判っているのですが、言葉に出せないというか、私を見てる事によって安心してくれるというか、そんな感じです。
周りに支えられているというか、理解がある人ばっかりで、病気になってから音楽活動にもささえてくださる方にめぐり合う事が出来ました。
病気になってから、今日死んでも悔いのない生き方、でもそのもう一つに絶対死なないよという強い生き方みたいな潔さと強さみたいなもの、二本の柱で生きていると、何でも受け入れられるし、何でも引き寄せられるし、不思議な力だと思います。
いまの病気の状態は、左の肺にテニスボールぐらいのものがありまして、右の肺にピンポン玉ぐらいの大きさが二個、肝臓とお腹の方に転移があり、お腹の方に放射線治療をやっています。
でも歌えるんですね、先生に言わせるとゼイゼイやっていて起きていられることが不思議だっていわれるぐらいの大きさだそうです。
音楽活動はライブ等をやっています。
ライブでは私がエネルギーを与えている様で、実は私がエネルギーを貰っている様で、エネルギーの交換ができるのでとってもライブは好きですね。
少しでも多くの人に病気でもそんなに落ち込まないで、怖がらないでという事を伝えたいです。
自分の納得いく治療法だったり、情報を集めて自分の体なんだから、自分で決めてくださいと言いたいです。
納得してやると自信もつくし、絶対治るという気持ちの強さが出てくるので、又やらないと言う事も一つの治療の選択肢だと思います。
家族にたまには病人扱いさせてよと言いたい時もあります。
「手と手と手」 (作詞作曲 Ko-Ko)
「貴方の笑顔、貴方の泣き顔 貴方の声を、私の命を 手をつなぎあえたのは偶然それとも運命、
ひとすじの光に導かれながら辿りついて 澄み渡る青い空 、流れゆく白い雲、花も鳥たちも
生きる力を与えてくれる。 I belive myself 手と手と手つなげば、
love my friends 一人じゃないよ、 貴方のその手信じてご覧、手と手と手繋ごうよ。
孤独に泣いた夜も、明日が見えなくても、希望に満ちた新しい朝が迎えてくれる。
嬉しいこと、悲しいこと、揺れ動く心、光と影に試されながら生きてゆくわ。
I belive myself 手と手と手をつなげば、 love my friends
一人じゃないよ、そばにいるから信じた道を歩こうよ、手と手と手つなごうよ。
love my friends 手と手と手つなげばlove my friends 一人じゃないよ そばにいるから
輝く道を歩こうよ、 歌を歌って歩こうよ、手と手と手繋ごうよ、 手と手と手繋ごうよ」
皆一人じゃないんだよという事を伝えたかった。
出会いは偶然なのか、運命なのか判らないが、会うべくして会う人たちなんだなと、それが
手と手と手で結ばれて行って大きな輪になってゆくんだよという、一人じゃないんだという事を伝えたいです。
自らもガンに侵されながら病院の医療活動の一環である最後の晩餐食事会で素晴らしい歌声を披露しているシンガーソングライターがいます。 Ko-Koさんです。
20年前に右足に大きな肉腫が見つかり、その後両方の肺にも転移し手術、抗がん剤治療を繰り返しましたが、その後は免疫療法、温熱療法、心理療法など、自分の納得する治療法などを自ら選択し、現在もガンと闘いながら音楽活動を続けています。
ガンになって初めて自分のやりたかったことに気づき、家族や医師、音楽仲間に支えられて曲作り、ライブ活動に充実した日々を送っているKo-Koさんに伺いました。
最初曲が流れる。 「最後の晩餐」作曲 Ko-Ko 作詩は主治医藤岡先生の奥さん藤岡ふみよさん
「今日が最後の日だとすればただゆったりと美しい木立の中で、優しい風を感じて過ごします。 今日が最後の日だとすれば、私は愛する家族や信頼してやまない友人たちと、過ごします。」
20年前に右足のひざの裏側に大きな腫瘍が見つかり、それが検査で悪いものだと判って、その後抗がん剤や、放射線の治療をして、1年ぐらいかけて手術をしました。
結婚して2人の子供に恵まれたが、下の子を妊娠した時に肺に転移が見つかり、出産した後に検査したら左の肺に転移してかなり大きくなっていた。
肺の潰瘍を取って、悪いものとわかって抗がん剤治療を受けたが、5年後に右の肺に小さいものが見つかり、これも悪いものだという事で取っていただきました。
何回も抗がん剤をやっているのに出来てしまうので、なんかおかしいのではないかと思いだして、その頃に藤岡先生夫妻との出会いがあり、出来たら取ってという事をしていると、最終的に取れない時が来るのではないかと不安があり、抗がん剤を止めて、免疫療法とか食事療法とかの方にかけてみようかという気持ちになった頃です。
抗がん剤治療は食欲も無くなり髪の毛も抜けてしまうので気持ちも萎えてしまう。
食事療法を1年ぐらいしましたが、肉が大好きなのに食べれなくて、食べようとしたが家族から大声で止められ、我慢するのは精神的によくない事に気づいて、話して先生も同意してくれた。
それから精神的にも体力的にも元気になってきた。(今でも肉は食べています)
食は楽しくおいしく食べるのが一番だと思います。
最後に手術したのが12年まえで、5年前に両肺に影ができて、取りましょうという事になったが、音楽活動をしていたので声が出なくなると怖いと思ったし、子供も小学生だったので手間のかかる時期でもあるし、今回は手術も治療もしないという選択をしてみようと思った。
藤岡先生に話したら、「それも一つの選択だからもう大丈夫だよ、いいよ」、と納得してもらった。
ハイパーサーミヤという温熱機械が入ったので、それはやってみようという事でやりました。
病院では先駆的な食事療法をやっていて、誰とどこで食べるかが一番重要で、最後の晩餐食事会といいまして、患者が死ぬ前に食べるご飯とかというわけではない、いままでの病気の私と決別してこれから新しい自分に生まれ変わろうではないかという、再出発の食事会です。
患者さん一般の方も皆で一緒に食べます。
「最後の晩餐」の後半の曲が流れる。
「今日が最後だとすれば貴方は何をしますか。 今日が最後だとすれば貴方は誰と過ごしたいですか。 今日が最後だとすれば貴方は何を食べたいですか。 今日が始まりだとすれば貴方はどう生きたいですか。 人生の最後に思いを寄せて生きることこそが幸せにつながり、人生の始まりの様な生き方が出来る。 今ここに自分はある、 今ここに自分はある。 今ここに自分はある。」
食事の料理を作って下さるのが国境なき料理団 の本道佳子さんです。
野菜ばっかりだが満腹になる素晴らしい料理です。
ご飯を食べてから私の歌を聞いていただきます。
歌が好きになったのも父の影響で越路吹雪さんが大好きでした。
父が亡くなった時にはお経ではなく、越路吹雪さんの歌と赤いバラで見送りました。
ピアノを教えて、ボイストレーニングの教室、ライブ、CDも出して、今年の熊本町のマラソンの応援ソングとして「ランナー」(作詞作曲 Ko-Ko)を選んでもらって嬉しかったです。
ガンになったから良かったことは、全てです、いろいろな事を学びました。
結婚する前、父が事業を失敗して、絶対に頑張るぞと、わたしも保育士をしながら昼も夜も頑張って体をいじめていましたが、病気になってなんか違うなと、せっかく生まれてきているのに色々、自分自身を見直すことができたと思います。
結婚して、いま子供達は高校2年生と高校3年生です。
私が病気だということは彼女たちも十分判っているのですが、言葉に出せないというか、私を見てる事によって安心してくれるというか、そんな感じです。
周りに支えられているというか、理解がある人ばっかりで、病気になってから音楽活動にもささえてくださる方にめぐり合う事が出来ました。
病気になってから、今日死んでも悔いのない生き方、でもそのもう一つに絶対死なないよという強い生き方みたいな潔さと強さみたいなもの、二本の柱で生きていると、何でも受け入れられるし、何でも引き寄せられるし、不思議な力だと思います。
いまの病気の状態は、左の肺にテニスボールぐらいのものがありまして、右の肺にピンポン玉ぐらいの大きさが二個、肝臓とお腹の方に転移があり、お腹の方に放射線治療をやっています。
でも歌えるんですね、先生に言わせるとゼイゼイやっていて起きていられることが不思議だっていわれるぐらいの大きさだそうです。
音楽活動はライブ等をやっています。
ライブでは私がエネルギーを与えている様で、実は私がエネルギーを貰っている様で、エネルギーの交換ができるのでとってもライブは好きですね。
少しでも多くの人に病気でもそんなに落ち込まないで、怖がらないでという事を伝えたいです。
自分の納得いく治療法だったり、情報を集めて自分の体なんだから、自分で決めてくださいと言いたいです。
納得してやると自信もつくし、絶対治るという気持ちの強さが出てくるので、又やらないと言う事も一つの治療の選択肢だと思います。
家族にたまには病人扱いさせてよと言いたい時もあります。
「手と手と手」 (作詞作曲 Ko-Ko)
「貴方の笑顔、貴方の泣き顔 貴方の声を、私の命を 手をつなぎあえたのは偶然それとも運命、
ひとすじの光に導かれながら辿りついて 澄み渡る青い空 、流れゆく白い雲、花も鳥たちも
生きる力を与えてくれる。 I belive myself 手と手と手つなげば、
love my friends 一人じゃないよ、 貴方のその手信じてご覧、手と手と手繋ごうよ。
孤独に泣いた夜も、明日が見えなくても、希望に満ちた新しい朝が迎えてくれる。
嬉しいこと、悲しいこと、揺れ動く心、光と影に試されながら生きてゆくわ。
I belive myself 手と手と手をつなげば、 love my friends
一人じゃないよ、そばにいるから信じた道を歩こうよ、手と手と手つなごうよ。
love my friends 手と手と手つなげばlove my friends 一人じゃないよ そばにいるから
輝く道を歩こうよ、 歌を歌って歩こうよ、手と手と手繋ごうよ、 手と手と手繋ごうよ」
皆一人じゃないんだよという事を伝えたかった。
出会いは偶然なのか、運命なのか判らないが、会うべくして会う人たちなんだなと、それが
手と手と手で結ばれて行って大きな輪になってゆくんだよという、一人じゃないんだという事を伝えたいです。
2015年11月22日日曜日
熱田 貴(日本ソムリエ協会) ・ワインに賭けた夢と人生
熱田 貴(日本ソムリエ協会名誉顧問) ・ワインに賭けた夢と人生
昭和13年千葉県佐原市の農家に生まれた熱田さんは外国にあこがれて国立の海員学校に入りました。
学校を出ると希望どうり貨物船に乗り、外国を回ります。
およそ20日間の厳しい航海を終えて南米のチリの港で熱田さんにとって忘れられないワインとの出会いがありました。
昭和39年東京の赤坂見附にある一流ホテルのレストランに就職し、そこでも運命的な出会いが待っていました。
現在体重は115kgです。肥っている時は130kg有りました。
90kgを目指しています。
昭和54年東京サミットがあり、晩さん会の飲み物の責任者を担当。
カーターさん等が飲むワインは、ヨーロッパに3カ月出掛けて裏の話をうかがって勉強してきました。
主なワインとコニャック等も用意しました。
VIPを招待する店、家族との店、友達と行く店に行って大統領はどんなワインを飲むのだろうと取材します。
イギリスの労働党の代表のロイ・ジェンキンスさんはワインを40分以上かかって選んで、最初の料理スモークサーモンに対しフランスのロワールのプイィ・フュメという ソーヴィニヨン・ブランというブドウで作ったフレッシュだが爽やかでコクがあり、このワインを選びました。
(私が最初にお勧めしたワインでした)
料理とワインだけでなく、年齢層などいろいろ季節などをも考えながら、選びます。
フランスに最初行った時に、ぶどうを食べたり、ワインを飲んでみたり、土をなめてみろ、畑の石をなめて見ろと言われたりして学んできました。
日本にボージョレヌーボーが一般の輸入会社が始める5年前に、私がホテルと組んでボージョレヌーボーを紹介しようと、最初は2ケース取って素晴らしいという事で、20ケース取ってお客様に無料で招待してそれを5年間続けました。
ボージョレヌーボーはパリから南に500km弱 リオンから10kmぐらいのところの大衆的なワイン産地です。
ビジネス的には恵まれない土地であって、何とかしないといけないという事で3人の人が新種のワイン、ボージョレヌーボーを紹介してゆこうという事でこれがあたった訳です。
日本では1959年 ボージョレヌーボーの販売の動き。
セミ・マセラシオン・カルボニック方式 ぶどうを摘んできたものを密閉タンクの中で自分の重さ、酸素の供給によって、段々とワインができてゆく、それをタンクから取り出して絞ってゆく、シンプルな作り方。(通常の作り方とは違う)
東京オリンピックのちょっと前、ヒルトンホテル等ができて、ソムリエという言葉は無く、ワインバトラーとかワインスチュワート等と呼んでいた。
当時ワインを研究する会があり、日本ソムリエ協会と言う名に付けようという事になりました。
当時は10人ぐらいでしたが、現在は日本ソムリエ協会の会員は1万人位になり殆どの方がソムリエの肩書きが付いています。
ヨーロッパで或いは山梨県辺りに行って勉強する等やっていて、ワインを勉強する学校等もあります。
海外に行きたい夢があり、愛知県にある国立高浜海員学校がありそこで学んで卒業して、南米航路の就航していた会社があり、そこに就職して、1万トンの貨物船に乗って乗員は40名程度で、そこの高級職員の面倒を見る担当になりました。
波もリズムがあって、体験の結果いろいろ学びました。
水を大切にすることは先輩から厳しくしつけられました、風呂も海水で最後に僅かに水を被って終りにするという風にやっていました。
南米チリのバルパライソの港町に行って先輩に御馳走していただいた時に、初めてワインを飲むチャンスに恵まれて、ワインの素晴らしさを知り神様が私にくれたお酒かなあと思って、港港に行って色んなワインを探して飲んで勉強していました。
日本に普及したいと思いました。
船会社を辞めて1964年開業したホテルに務めることになる。
ワインの本場はフランス、ドイツではないかと思い、或るとき師と仰いだピエール・シャリオールさんとの出会いがあり、ヨーロッパに来ないかと言われてヨーロッパに行く事になる。
1年の期限でヨーロッパにいくが、ウイーンでちょっと寄り道のつもりが素晴らしいワインに出会って1年4カ月、ドイツでも1年間いて、2年4カ月道草してその後にフランスに入ることになった。
新酒ができると松の枝が飾られる。(日本では杉の玉だが)
ワインを提供するのにワイングラスではなくて、大きなビールのジョッキの様なグラスで販売するしきたりになっている。
ワインを楽しむ時にはチーズを沢山食べることを教えてもらいました。
いろいろ勉強して、道草が私の財産になっています。
「知好楽」 知識があったり、好きなだけではなく、知識がなくてもいいから楽しむことを覚えた時にワインは身近な飲み物になります。
料理とワインの相性は熱を通すかどうか、魚は白ワインが合うが、熱を通したり、ソースの濃いものを使った時は赤ワインでも十分にいける、前に日に焼いた鳥を食べるときは白でも合う、冷たいものには白ワインが合うのではないかと思う。
白ワインでも皮、種等を一緒にしばらく放置して発酵させたりすることもあります。
赤ワインは必ずぶどうの皮、種から色素を出したり、ワインの味の深みを取りだしたりします。
人間を作ってゆく中で旅は凄く素晴らしいと思う、旅は色々あるが、日本一周旅をしながら、地産地消ということで、結果的には自分で作ってみたいと思い、北海道でワインを作ろうとスタートしてまて、美味しいワインを国民の皆様に提供したいと思っています。
「我以外、みな師なり」 「鳩に三枝の礼儀あり」「軍旗に雑巾」など父から教わりました。
(雑巾こそ使った後の方が綺麗になる様にしておけ)
酒井雄哉さん 「あすは雨が降ったら濡れればいいじゃないか、濡れもしないで天気を見るなんて、何回か濡れるとそろそろ雨が来るとか理解できるが、濡れないうちは駄目だ」と言っています。
ずーっとソムリエ協会の会長を8年間やってきましたが、周りに良い人たちがいてくれて助けられてやってこられました、そういう気持ちを忘れてはいけないと思います。
魚を食べるにも、それまでには命がけで魚を捕って、運んで、料理して、色々な人の手をかけているので手を合わせてその人たちに感謝する、そうすると料理が美味しくなってくる。
昭和13年千葉県佐原市の農家に生まれた熱田さんは外国にあこがれて国立の海員学校に入りました。
学校を出ると希望どうり貨物船に乗り、外国を回ります。
およそ20日間の厳しい航海を終えて南米のチリの港で熱田さんにとって忘れられないワインとの出会いがありました。
昭和39年東京の赤坂見附にある一流ホテルのレストランに就職し、そこでも運命的な出会いが待っていました。
現在体重は115kgです。肥っている時は130kg有りました。
90kgを目指しています。
昭和54年東京サミットがあり、晩さん会の飲み物の責任者を担当。
カーターさん等が飲むワインは、ヨーロッパに3カ月出掛けて裏の話をうかがって勉強してきました。
主なワインとコニャック等も用意しました。
VIPを招待する店、家族との店、友達と行く店に行って大統領はどんなワインを飲むのだろうと取材します。
イギリスの労働党の代表のロイ・ジェンキンスさんはワインを40分以上かかって選んで、最初の料理スモークサーモンに対しフランスのロワールのプイィ・フュメという ソーヴィニヨン・ブランというブドウで作ったフレッシュだが爽やかでコクがあり、このワインを選びました。
(私が最初にお勧めしたワインでした)
料理とワインだけでなく、年齢層などいろいろ季節などをも考えながら、選びます。
フランスに最初行った時に、ぶどうを食べたり、ワインを飲んでみたり、土をなめてみろ、畑の石をなめて見ろと言われたりして学んできました。
日本にボージョレヌーボーが一般の輸入会社が始める5年前に、私がホテルと組んでボージョレヌーボーを紹介しようと、最初は2ケース取って素晴らしいという事で、20ケース取ってお客様に無料で招待してそれを5年間続けました。
ボージョレヌーボーはパリから南に500km弱 リオンから10kmぐらいのところの大衆的なワイン産地です。
ビジネス的には恵まれない土地であって、何とかしないといけないという事で3人の人が新種のワイン、ボージョレヌーボーを紹介してゆこうという事でこれがあたった訳です。
日本では1959年 ボージョレヌーボーの販売の動き。
セミ・マセラシオン・カルボニック方式 ぶどうを摘んできたものを密閉タンクの中で自分の重さ、酸素の供給によって、段々とワインができてゆく、それをタンクから取り出して絞ってゆく、シンプルな作り方。(通常の作り方とは違う)
東京オリンピックのちょっと前、ヒルトンホテル等ができて、ソムリエという言葉は無く、ワインバトラーとかワインスチュワート等と呼んでいた。
当時ワインを研究する会があり、日本ソムリエ協会と言う名に付けようという事になりました。
当時は10人ぐらいでしたが、現在は日本ソムリエ協会の会員は1万人位になり殆どの方がソムリエの肩書きが付いています。
ヨーロッパで或いは山梨県辺りに行って勉強する等やっていて、ワインを勉強する学校等もあります。
海外に行きたい夢があり、愛知県にある国立高浜海員学校がありそこで学んで卒業して、南米航路の就航していた会社があり、そこに就職して、1万トンの貨物船に乗って乗員は40名程度で、そこの高級職員の面倒を見る担当になりました。
波もリズムがあって、体験の結果いろいろ学びました。
水を大切にすることは先輩から厳しくしつけられました、風呂も海水で最後に僅かに水を被って終りにするという風にやっていました。
南米チリのバルパライソの港町に行って先輩に御馳走していただいた時に、初めてワインを飲むチャンスに恵まれて、ワインの素晴らしさを知り神様が私にくれたお酒かなあと思って、港港に行って色んなワインを探して飲んで勉強していました。
日本に普及したいと思いました。
船会社を辞めて1964年開業したホテルに務めることになる。
ワインの本場はフランス、ドイツではないかと思い、或るとき師と仰いだピエール・シャリオールさんとの出会いがあり、ヨーロッパに来ないかと言われてヨーロッパに行く事になる。
1年の期限でヨーロッパにいくが、ウイーンでちょっと寄り道のつもりが素晴らしいワインに出会って1年4カ月、ドイツでも1年間いて、2年4カ月道草してその後にフランスに入ることになった。
新酒ができると松の枝が飾られる。(日本では杉の玉だが)
ワインを提供するのにワイングラスではなくて、大きなビールのジョッキの様なグラスで販売するしきたりになっている。
ワインを楽しむ時にはチーズを沢山食べることを教えてもらいました。
いろいろ勉強して、道草が私の財産になっています。
「知好楽」 知識があったり、好きなだけではなく、知識がなくてもいいから楽しむことを覚えた時にワインは身近な飲み物になります。
料理とワインの相性は熱を通すかどうか、魚は白ワインが合うが、熱を通したり、ソースの濃いものを使った時は赤ワインでも十分にいける、前に日に焼いた鳥を食べるときは白でも合う、冷たいものには白ワインが合うのではないかと思う。
白ワインでも皮、種等を一緒にしばらく放置して発酵させたりすることもあります。
赤ワインは必ずぶどうの皮、種から色素を出したり、ワインの味の深みを取りだしたりします。
人間を作ってゆく中で旅は凄く素晴らしいと思う、旅は色々あるが、日本一周旅をしながら、地産地消ということで、結果的には自分で作ってみたいと思い、北海道でワインを作ろうとスタートしてまて、美味しいワインを国民の皆様に提供したいと思っています。
「我以外、みな師なり」 「鳩に三枝の礼儀あり」「軍旗に雑巾」など父から教わりました。
(雑巾こそ使った後の方が綺麗になる様にしておけ)
酒井雄哉さん 「あすは雨が降ったら濡れればいいじゃないか、濡れもしないで天気を見るなんて、何回か濡れるとそろそろ雨が来るとか理解できるが、濡れないうちは駄目だ」と言っています。
ずーっとソムリエ協会の会長を8年間やってきましたが、周りに良い人たちがいてくれて助けられてやってこられました、そういう気持ちを忘れてはいけないと思います。
魚を食べるにも、それまでには命がけで魚を捕って、運んで、料理して、色々な人の手をかけているので手を合わせてその人たちに感謝する、そうすると料理が美味しくなってくる。
2015年11月21日土曜日
加藤登紀子(歌手) ・戦後70年を生きて、今伝えたいこと
加藤登紀子(歌手) ・戦後70年を生きて、今伝えたいこと
昭和18年旧満州 中国ハルビン 3人兄弟の末っ子として生れました。
間もなく敗戦となり2歳の時に、母や兄弟とともに日本にひきあげます。
小学生時代は両親の出身地、京都で伸び伸びと暮らしますが、親戚の離れを借りての生活はどこか根なし草の様だったと言いいます。
その後東京に移り、1960年代の安保闘争のデモなどに参加、1965年東京大学在学中に歌手デビューします。
以来人々の心の奥に届く歌を模索し続け戦後70年の今年歌手生活50周年という節目を迎えました。
戦後の日本の歩みがそのまま自分の人生と重なるという加藤さんが語った、引き上げ家族として暮らした京都での思い出や、これからを生きる人たちに伝えたいメッセージ等を伺います。
2歳8か月の時に貨物列車に乗って、引き上げの旅を1カ月以上して、佐世保についてそこから又貨物列車に乗って京都駅について、五条辺りに母の実家があったので、辿りついた訳です。
父が翌年に復員して、家族で東京に出ましたが、色々あり挫折もあったと思うが、又京都に帰ってきました。(5歳の頃)
父は自伝書で、又東京に行く間の7年間はどん底の生活だと書いていましたが、私にとっては景色はいいし夢のような時代だった。
母も本を書いたが、おかずを買えない時は鴨川で草を摘んでおかずにしたと、書きました。
小学校2年か3年の時に音楽の点が悪くて、母は人間の喜びの一番大切なのは音楽、絵を書く事、身体を動かすことだと言っていたが、私はその全部だめだったので、母が嘆いて、2年の時にバレエを習いに行って、歌うことが苦手なのはさびしい人生になるという事で歌も習いに行きました。
母は洋裁をやっていたので、イヤリング、ハイヒール、毛皮のコートで飛び抜けている様な感じで、
兄の保護者会の時に、キチンとお化粧をして来るから、やたら目立ってしまっていた。
そういう事から考えると、私としてはお金がなかったとか全然結びつかなかった。
当時米軍の放出品が無料で或いは安く貰えたらしい、そこに衣類コート等があり、母は毛皮のコートがきることができ、縫い直して私たちの洋服に仕立て直してくれたりしました。
周りの子供達とは違う装いなので、ちょっと恥ずかしかった。(同じようにはんてんを着たかった)
母はハルビンで新しい文化を身に付けた女性として帰ってきたが、子供心にうちの家族って一体何なんだろうとの思いはありました。
日本という国の事を知らないで育ったのだから、日本の文化風習を学習していかなくてはいけない、と母から言われ作法等習いました。
神棚もないし仏壇もないし、根なし草的な家族として京都にいました。
家族は東京に移り当時高校2年生の時に、日米安全保障条約反対を訴えるデモがわきあがり、学校帰りにデモに参加しました。
戦争から15年しかたっていなくて、あの頃文化人も学者も皆参加していました。
参加の思いは、16歳で自立意識がそそりたってくる年齢だったんでしょうね。
母は大陸で取り残されて、自分自身の判断で生きるしかなかったので、国に、社会にもたれかかることはできないという自立した女性で、いまから思うとすごい人だと思いました。
兄達も学生運動をしていた時に、そういう人たちを一番応援する女性でした。
国を動かすことは生易しい事ではないが、一人の市民として誰か声を上げる人がいる社会が素晴らしいんだと私に母は言っていました。
ハルビンから引き揚げるときに、ところどころ線路が破壊されていて、その時には歩かなくてはいけなくて、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と2歳の私に言ったと言ってました。
7人目の孫が2歳になるが、丁度私の戦争が終わったころの赤ん坊の姿で、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と言い聞かせた事は今頃になって深くリアリティーを感じるが、ウンと頷いて歩いたというそのことが、私というものを作ったと思います。
一人寝の子守唄、知床旅情を歌って、森繁さんに出会い、森繁さんがハルビンを知っており、大陸でアナウンサーをしている人だった、あえたのはそういう運命ですね。
貴方は赤ん坊だったから記憶は無いけれど、貴方の声の中にはあの大陸の冷たい風のなにかが住んでいるね、あの冷たい風を知っている声だねと森繁さんに言われました。
意識している声ではないけれども、森繁さんと出会ったこと、私が自分が生まれた時にそうやって生き抜いてきたことが私の歌手としての土台ですね。
芸能活動に集中するためにデモへの参加は控えていましたが、1968年決意の末、再びデモに参加します。
自分自身の東大の卒業式のボイコットデモです。
歌手である前に自分らしく生きたいと考えたからです。
ちゃんと加藤登紀子をやりなさいと、生まれてから全部の事をちゃんとやるのが加藤登紀子でしょうというのが、初めて自分の心に覚悟を決めたのが1968年だったんですね。
加藤登紀子というのをちゃんと生きようという決心と、どういう事を歌って行けばいいかという問いかけはそこから始まったと思います。
賛成反対、対立のもっと奥に向かって届いていく歌でないと駄目だと思いました。
心の奥深くに伝わるものさえあれば、賛成反対とかいう、そういうもののもっと奥のところで人としての本質は手をつなぐことができる、そこに向かって私は歌いたいと思いました。
デビュー50年のいま、改めて多くの若者がデモに参加したあの時代を歌っています。
1968年を描いた 「1968」(2008年に作曲)
歴史って、そのひとはその人が見てきたことしか見ていない。
1968年に日本で、世界でどんなことがあったのかは知り尽くすことはできないので、私にとっての歴史を語り続ける、私が感じ取れるものだけを歌っていけばいいと思って、私にとってだけの1968を歌にしようと思った。
枯れ葉剤で身体が二つにくっついて生まれた「ベト」ちゃん「ドク」ちゃん、「ドク」ちゃんが結婚して日本に来て、私のコンサートに来てくれて、吃驚した。
直後にベトナムに行く機会があり病院を訪ねたが、1975年にベトナム戦争が終わって、2008年まで30数年たっているけれども、まだ枯れ葉剤の影響を受けた赤ん坊を一杯見ました。
2008年に衝撃を受けていろんなことがかさなって、「1968」という詩を作ったんです。
その人の運命の中に一つ大切な原点があるとすると、私にとっては1968が大きな噴火口、エネルギーのるつぼだと思います。
その時のさなかにいたからああいう風に歌えたことはあると思いますが、思い出だけでは生きていけないという様な失恋の歌があり、思い出だけでもすごいなと、70年年月が過ぎると、取り返しが付かないほどの沢山の経験をして来たというそのことに対する愛おしさ。
2011.3.11に大地震がありましたが、あの時に物凄く自分が戦争の中で生まれて、無一文になって生き延びたことの年月のことが自分の中の土台にある事が大切に思われた。
この出来事にあった時に私はこの60数年分をかけてできることに向かっている様な気がしました。
原発事故を含めて人類があるいてきたいろんなことに対するとてつもない課題を突き付けられている、このいまをどうやって生きるかという事のために、自分の歴史の中の経験の全てを生かさなければならない、そんな気持ちになったんです。
ベトナムで戦争が終わっても消えていないことがあるように、日本でも戦争があったことの消えていないことがいっぱいあるが、それと同じようにあの日、あの時あの場所であの人とこうやっていたね、そのまま会う事もなく過ごすが、だけどどうしているだろうと思える、懐かしさ、気がかりだったリする事やいろいろな事を経験した時に、生きてきた年月の全てが凄く大事だと思えるようになりました。
東日本大震災の時に日本は大きく変わったと思う。
21世紀はいったいどういう時代なのかが凄く鮮明になってきて、どういう時代を作り上げてしまったのか判ってきた、ここからどうやって生きて行ったらいいのかという事に対して、答えが見えやすくなってきた時代だと思う。
自分の人生を誰かに預けない、自分の人生を自分の手足でまかなう、判っている生き方をする、そういう風に生きていないと危ないですよという、そういう事が判ってきた時代だと思います。
もし戦争する様な時代にしてしまったら、人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずは無い、させてはいけないという事もあるが。
戦前と同じような時代になってしまうということはあり得ないと思っています。
自分がどう生きたいか、はっきり答えを持つ事、自分が生きたいビジョンに向かって遂げようとして生きる事が大事だと思います。
若い人に願いたいことは、何が自分にとって素晴らしいかを確かめてほしい。
自分の一番大切なもの、愛おしいもの、すばらしいと思うもの、それを沢山持っている事が大事だと思います、それがあればある程それを阻むものに対して、強い力で向き合っていけると思います。
自分の存在に対する不安感、無意味さ、そういう自分自身に対して、世界は自分から始まるのだし、自分が中心なのだから、雑音に惑わされないで、自分がこう生きたい、大事にして生きたい、それを確実に自分の中にもてる、そう生きてほしい。
今という時間の素晴らしさをもっともっと確実なものにしてゆく事が大切だと思います。
昭和18年旧満州 中国ハルビン 3人兄弟の末っ子として生れました。
間もなく敗戦となり2歳の時に、母や兄弟とともに日本にひきあげます。
小学生時代は両親の出身地、京都で伸び伸びと暮らしますが、親戚の離れを借りての生活はどこか根なし草の様だったと言いいます。
その後東京に移り、1960年代の安保闘争のデモなどに参加、1965年東京大学在学中に歌手デビューします。
以来人々の心の奥に届く歌を模索し続け戦後70年の今年歌手生活50周年という節目を迎えました。
戦後の日本の歩みがそのまま自分の人生と重なるという加藤さんが語った、引き上げ家族として暮らした京都での思い出や、これからを生きる人たちに伝えたいメッセージ等を伺います。
2歳8か月の時に貨物列車に乗って、引き上げの旅を1カ月以上して、佐世保についてそこから又貨物列車に乗って京都駅について、五条辺りに母の実家があったので、辿りついた訳です。
父が翌年に復員して、家族で東京に出ましたが、色々あり挫折もあったと思うが、又京都に帰ってきました。(5歳の頃)
父は自伝書で、又東京に行く間の7年間はどん底の生活だと書いていましたが、私にとっては景色はいいし夢のような時代だった。
母も本を書いたが、おかずを買えない時は鴨川で草を摘んでおかずにしたと、書きました。
小学校2年か3年の時に音楽の点が悪くて、母は人間の喜びの一番大切なのは音楽、絵を書く事、身体を動かすことだと言っていたが、私はその全部だめだったので、母が嘆いて、2年の時にバレエを習いに行って、歌うことが苦手なのはさびしい人生になるという事で歌も習いに行きました。
母は洋裁をやっていたので、イヤリング、ハイヒール、毛皮のコートで飛び抜けている様な感じで、
兄の保護者会の時に、キチンとお化粧をして来るから、やたら目立ってしまっていた。
そういう事から考えると、私としてはお金がなかったとか全然結びつかなかった。
当時米軍の放出品が無料で或いは安く貰えたらしい、そこに衣類コート等があり、母は毛皮のコートがきることができ、縫い直して私たちの洋服に仕立て直してくれたりしました。
周りの子供達とは違う装いなので、ちょっと恥ずかしかった。(同じようにはんてんを着たかった)
母はハルビンで新しい文化を身に付けた女性として帰ってきたが、子供心にうちの家族って一体何なんだろうとの思いはありました。
日本という国の事を知らないで育ったのだから、日本の文化風習を学習していかなくてはいけない、と母から言われ作法等習いました。
神棚もないし仏壇もないし、根なし草的な家族として京都にいました。
家族は東京に移り当時高校2年生の時に、日米安全保障条約反対を訴えるデモがわきあがり、学校帰りにデモに参加しました。
戦争から15年しかたっていなくて、あの頃文化人も学者も皆参加していました。
参加の思いは、16歳で自立意識がそそりたってくる年齢だったんでしょうね。
母は大陸で取り残されて、自分自身の判断で生きるしかなかったので、国に、社会にもたれかかることはできないという自立した女性で、いまから思うとすごい人だと思いました。
兄達も学生運動をしていた時に、そういう人たちを一番応援する女性でした。
国を動かすことは生易しい事ではないが、一人の市民として誰か声を上げる人がいる社会が素晴らしいんだと私に母は言っていました。
ハルビンから引き揚げるときに、ところどころ線路が破壊されていて、その時には歩かなくてはいけなくて、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と2歳の私に言ったと言ってました。
7人目の孫が2歳になるが、丁度私の戦争が終わったころの赤ん坊の姿で、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と言い聞かせた事は今頃になって深くリアリティーを感じるが、ウンと頷いて歩いたというそのことが、私というものを作ったと思います。
一人寝の子守唄、知床旅情を歌って、森繁さんに出会い、森繁さんがハルビンを知っており、大陸でアナウンサーをしている人だった、あえたのはそういう運命ですね。
貴方は赤ん坊だったから記憶は無いけれど、貴方の声の中にはあの大陸の冷たい風のなにかが住んでいるね、あの冷たい風を知っている声だねと森繁さんに言われました。
意識している声ではないけれども、森繁さんと出会ったこと、私が自分が生まれた時にそうやって生き抜いてきたことが私の歌手としての土台ですね。
芸能活動に集中するためにデモへの参加は控えていましたが、1968年決意の末、再びデモに参加します。
自分自身の東大の卒業式のボイコットデモです。
歌手である前に自分らしく生きたいと考えたからです。
ちゃんと加藤登紀子をやりなさいと、生まれてから全部の事をちゃんとやるのが加藤登紀子でしょうというのが、初めて自分の心に覚悟を決めたのが1968年だったんですね。
加藤登紀子というのをちゃんと生きようという決心と、どういう事を歌って行けばいいかという問いかけはそこから始まったと思います。
賛成反対、対立のもっと奥に向かって届いていく歌でないと駄目だと思いました。
心の奥深くに伝わるものさえあれば、賛成反対とかいう、そういうもののもっと奥のところで人としての本質は手をつなぐことができる、そこに向かって私は歌いたいと思いました。
デビュー50年のいま、改めて多くの若者がデモに参加したあの時代を歌っています。
1968年を描いた 「1968」(2008年に作曲)
歴史って、そのひとはその人が見てきたことしか見ていない。
1968年に日本で、世界でどんなことがあったのかは知り尽くすことはできないので、私にとっての歴史を語り続ける、私が感じ取れるものだけを歌っていけばいいと思って、私にとってだけの1968を歌にしようと思った。
枯れ葉剤で身体が二つにくっついて生まれた「ベト」ちゃん「ドク」ちゃん、「ドク」ちゃんが結婚して日本に来て、私のコンサートに来てくれて、吃驚した。
直後にベトナムに行く機会があり病院を訪ねたが、1975年にベトナム戦争が終わって、2008年まで30数年たっているけれども、まだ枯れ葉剤の影響を受けた赤ん坊を一杯見ました。
2008年に衝撃を受けていろんなことがかさなって、「1968」という詩を作ったんです。
その人の運命の中に一つ大切な原点があるとすると、私にとっては1968が大きな噴火口、エネルギーのるつぼだと思います。
その時のさなかにいたからああいう風に歌えたことはあると思いますが、思い出だけでは生きていけないという様な失恋の歌があり、思い出だけでもすごいなと、70年年月が過ぎると、取り返しが付かないほどの沢山の経験をして来たというそのことに対する愛おしさ。
2011.3.11に大地震がありましたが、あの時に物凄く自分が戦争の中で生まれて、無一文になって生き延びたことの年月のことが自分の中の土台にある事が大切に思われた。
この出来事にあった時に私はこの60数年分をかけてできることに向かっている様な気がしました。
原発事故を含めて人類があるいてきたいろんなことに対するとてつもない課題を突き付けられている、このいまをどうやって生きるかという事のために、自分の歴史の中の経験の全てを生かさなければならない、そんな気持ちになったんです。
ベトナムで戦争が終わっても消えていないことがあるように、日本でも戦争があったことの消えていないことがいっぱいあるが、それと同じようにあの日、あの時あの場所であの人とこうやっていたね、そのまま会う事もなく過ごすが、だけどどうしているだろうと思える、懐かしさ、気がかりだったリする事やいろいろな事を経験した時に、生きてきた年月の全てが凄く大事だと思えるようになりました。
東日本大震災の時に日本は大きく変わったと思う。
21世紀はいったいどういう時代なのかが凄く鮮明になってきて、どういう時代を作り上げてしまったのか判ってきた、ここからどうやって生きて行ったらいいのかという事に対して、答えが見えやすくなってきた時代だと思う。
自分の人生を誰かに預けない、自分の人生を自分の手足でまかなう、判っている生き方をする、そういう風に生きていないと危ないですよという、そういう事が判ってきた時代だと思います。
もし戦争する様な時代にしてしまったら、人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずは無い、させてはいけないという事もあるが。
戦前と同じような時代になってしまうということはあり得ないと思っています。
自分がどう生きたいか、はっきり答えを持つ事、自分が生きたいビジョンに向かって遂げようとして生きる事が大事だと思います。
若い人に願いたいことは、何が自分にとって素晴らしいかを確かめてほしい。
自分の一番大切なもの、愛おしいもの、すばらしいと思うもの、それを沢山持っている事が大事だと思います、それがあればある程それを阻むものに対して、強い力で向き合っていけると思います。
自分の存在に対する不安感、無意味さ、そういう自分自身に対して、世界は自分から始まるのだし、自分が中心なのだから、雑音に惑わされないで、自分がこう生きたい、大事にして生きたい、それを確実に自分の中にもてる、そう生きてほしい。
今という時間の素晴らしさをもっともっと確実なものにしてゆく事が大切だと思います。
2015年11月20日金曜日
松本 隆(作詞家) ・「ことばの魔術師」の45年
松本 隆(作詞家) ・「ことばの魔術師」の45年
東京都出身66歳、慶応義塾大学の学生だった頃、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんと4人でバンド 「ハッピーエンド」を結成しました。
松本さんはドラムスを担当し、同時に数多くの作詞も手掛けました。
「ハッピーエンド」の解散の後は作詞家として、松田聖子さんの「赤いスイートピー」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指輪」、キンキキッツで「硝子の少年」など数々歌を大ヒットさせ、今年で45周年を迎えました。
それを記念してコンサート 「風街レジェンド2015」を開催したり、トリビュートアルバム 「風街で会いましょう」を発表したりしています。
これまで2100曲を越えていて400組近くのアーティストに歌詞を提供しています。
30年以上たった今も新鮮さを失わないと多くの人を魅了しています。
神戸が自宅で京都が仕事場です。
東京は生活感が無くなり、いつも仕事が追っかけてくるようで断ち切りたいと思いました。
関西が憧れで、古い歴史があるところで、新しいものを作ったらいいんじゃないかという感じです。
45年はあっという間に過ぎました。
50周年をやろうとしていたが、大滝さんが亡くなり、自分でも焦って45周年をやろうと始めたら大騒ぎになってしまいました。
30周年の時に2100曲でした。(最近はあまり作っていません)
松任谷由実さんに「赤いスイートピー」を頼んだが最初は断られたが、丁寧に頼んでやってもらいました。
結構奥深くて、本人が消化できる二段も三段も上の作品を与えちゃったみたいなところはあるが聖子さんは食いついてくるんですよ。
難しい曲を無意識に自分のものにしてしまうし、全国に彼女の歌が流れている様な時代だった。
45周年で「風街レジェンド2015」を開催、フィナーレでポップスのライブで5000人のスタンディングオベーションは初めて観たし、舞台に立ってお辞儀しながら観客の顔を観るが風呂上がりの後の様に、上気していました。(出演者を見ると同様だった)
一体感があり皆が感動しているのは観たことも聞いた事もなかった。
自分たちで愛している作品がある。
僕と細野さんは「風の谷のナウシカ」が好きです。
音程リズムは有ってればいいぐらいのことで、何を伝えたらいいかという、エモーションの塊が人間の中にあってそれが出るんですけど、それが特別に持っている人がいるんですよ。
ドラムスをやりましたが大変でした。
45周年でCDも出しました。(詩の朗読)
2100を越える詩を作ってきましたが、作るのは大変でした、苦しめば苦しむほどでき上って良い詩と言われるものができると、その百倍ぐらいの快感があります。
中学の時から本は好きでした。
「ポケットいっぱいの秘密」(アグネスチャン) 1974年昭和49年 これがはじめです。
チューリップの「夏色のおもいで 」でも殆ど同時ですが、二つともベストテンに入ってしまいました。
作詞家は星の数ほどいたので、運も強かったです。
昭和50年 「木綿のハンカチーフ」(それまで都会の歌を作っていたので、素朴な歌を作りたいと思った)
木綿という言葉は当時殆ど死語だった。
その後沢山のヒット曲を世に出すが、その裏には血のにじむような事があります。
無から有をつくる、詩を作らないと全てが始まらない。
書き始めたらあっという間に出来上がりますが、それまでが苦しいです。
年中辞めたいという気持ちはありました。
現在66歳 子供のころは体がでかくて180cm有り、目立ってしまうので地味にしていました。
ボーイスカウトをやっていて歌を覚えました。(西部劇など)
クラシックが好きになって、レコードを買ってきて聞いたりしました。
ビートルズが中学3年生の時に出てきて世界中を塗り替えて、僕も塗り替えられました。
詩は好きで読んだり書いたりしていました。
高校1年でバンドを作って、歌のないバンドをやっていて、コンテストで賞を貰ったりしました。
一人卒業して、欠員ができて立教にベースのうまい人がいて、それが細野晴臣さんでした。
商学部だったので、違う方向にいきたいと思っていて、大学2年でハッピーエンドが面白くて大学に行かなくなって、作詞家をやるしかないかと思ってこの道に入りました。
筒美京平さんと知り合いになって、ペアになってあっという間に破竹の進撃が始まる訳です。
縁の下の力持ちの様な役割が好きだったので作詞家はそういうところがあるので天職かなと思った。
東京都出身66歳、慶応義塾大学の学生だった頃、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんと4人でバンド 「ハッピーエンド」を結成しました。
松本さんはドラムスを担当し、同時に数多くの作詞も手掛けました。
「ハッピーエンド」の解散の後は作詞家として、松田聖子さんの「赤いスイートピー」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指輪」、キンキキッツで「硝子の少年」など数々歌を大ヒットさせ、今年で45周年を迎えました。
それを記念してコンサート 「風街レジェンド2015」を開催したり、トリビュートアルバム 「風街で会いましょう」を発表したりしています。
これまで2100曲を越えていて400組近くのアーティストに歌詞を提供しています。
30年以上たった今も新鮮さを失わないと多くの人を魅了しています。
神戸が自宅で京都が仕事場です。
東京は生活感が無くなり、いつも仕事が追っかけてくるようで断ち切りたいと思いました。
関西が憧れで、古い歴史があるところで、新しいものを作ったらいいんじゃないかという感じです。
45年はあっという間に過ぎました。
50周年をやろうとしていたが、大滝さんが亡くなり、自分でも焦って45周年をやろうと始めたら大騒ぎになってしまいました。
30周年の時に2100曲でした。(最近はあまり作っていません)
松任谷由実さんに「赤いスイートピー」を頼んだが最初は断られたが、丁寧に頼んでやってもらいました。
結構奥深くて、本人が消化できる二段も三段も上の作品を与えちゃったみたいなところはあるが聖子さんは食いついてくるんですよ。
難しい曲を無意識に自分のものにしてしまうし、全国に彼女の歌が流れている様な時代だった。
45周年で「風街レジェンド2015」を開催、フィナーレでポップスのライブで5000人のスタンディングオベーションは初めて観たし、舞台に立ってお辞儀しながら観客の顔を観るが風呂上がりの後の様に、上気していました。(出演者を見ると同様だった)
一体感があり皆が感動しているのは観たことも聞いた事もなかった。
自分たちで愛している作品がある。
僕と細野さんは「風の谷のナウシカ」が好きです。
音程リズムは有ってればいいぐらいのことで、何を伝えたらいいかという、エモーションの塊が人間の中にあってそれが出るんですけど、それが特別に持っている人がいるんですよ。
ドラムスをやりましたが大変でした。
45周年でCDも出しました。(詩の朗読)
2100を越える詩を作ってきましたが、作るのは大変でした、苦しめば苦しむほどでき上って良い詩と言われるものができると、その百倍ぐらいの快感があります。
中学の時から本は好きでした。
「ポケットいっぱいの秘密」(アグネスチャン) 1974年昭和49年 これがはじめです。
チューリップの「夏色のおもいで 」でも殆ど同時ですが、二つともベストテンに入ってしまいました。
作詞家は星の数ほどいたので、運も強かったです。
昭和50年 「木綿のハンカチーフ」(それまで都会の歌を作っていたので、素朴な歌を作りたいと思った)
木綿という言葉は当時殆ど死語だった。
その後沢山のヒット曲を世に出すが、その裏には血のにじむような事があります。
無から有をつくる、詩を作らないと全てが始まらない。
書き始めたらあっという間に出来上がりますが、それまでが苦しいです。
年中辞めたいという気持ちはありました。
現在66歳 子供のころは体がでかくて180cm有り、目立ってしまうので地味にしていました。
ボーイスカウトをやっていて歌を覚えました。(西部劇など)
クラシックが好きになって、レコードを買ってきて聞いたりしました。
ビートルズが中学3年生の時に出てきて世界中を塗り替えて、僕も塗り替えられました。
詩は好きで読んだり書いたりしていました。
高校1年でバンドを作って、歌のないバンドをやっていて、コンテストで賞を貰ったりしました。
一人卒業して、欠員ができて立教にベースのうまい人がいて、それが細野晴臣さんでした。
商学部だったので、違う方向にいきたいと思っていて、大学2年でハッピーエンドが面白くて大学に行かなくなって、作詞家をやるしかないかと思ってこの道に入りました。
筒美京平さんと知り合いになって、ペアになってあっという間に破竹の進撃が始まる訳です。
縁の下の力持ちの様な役割が好きだったので作詞家はそういうところがあるので天職かなと思った。
2015年11月19日木曜日
佐々木常夫(元・東レ取締役) ・深みのある、誰もが幸せな社会のために(H27/7/19 放送)
佐々木常夫(元・東レ取締役) ・深みのある、誰もが幸せな社会のために(H27/7/19 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_19.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_19.htmlをご覧ください。
2015年11月18日水曜日
渡辺由美子(キッズドア理事長) ・貧困の連鎖 学習支援で断ち切れ
渡辺由美子(NPO法人キッズドア理事長) ・貧困の連鎖 学習支援で断ち切れ
経済大国日本でおよそ6人に一人の子供が貧困状態に置かれています。
子供の貧困を放置すれば、教育の格差拡大につながりかねないとして、子供への学習支援をしているのが、キッズドアです。
理事長の渡辺さんは千葉大学を卒業した後、大手百貨店等を経てフリーのマーケティングプランナーとして活動していましたが、2001年から1年間家族全員でイギリスに住みました。
その際社会全体で子供を育てることを体験、帰国後NPO法人キッツドアを設立ました。
2010年から渡辺さんは進学を希望する中学3年生を対象に学習会、ただゼミを始めました。
ボランティアの大学生や社会人がマンツーマンで生徒に勉強を教えるもので、現在1200人のボランティアが登録しているそうです。
中学3年生に高校受験のサポートを無料で行う無料学習会です。
私は大学では工学部で勉強していました。
就職は大手百貨店で店の販売促進の部署に行き、大きなイベントなどをさせていただきました。
百貨店を8年間いて、1年間出版社に行き新雑誌のたち上げで企画等を手伝う事を行いました。
その後フリーのマーケティングプランナーとして、活動をしていました。
インターネットでホームページを作る会社が多くなり、子供関係のホームページをやってほしいという事で企画をだしたりしていました。
子供が2人出来、子育て8割、仕事が2割という様な事になりました。
子育てをしていると、社会からの疎外感が生まれてきて、子供の社会と普通の社会を繋げる様なドアーみたいなものを作って行かないと、うまく行かないなあと当時から思っていました。
主人の仕事の関係で2001年から1年間家族全員でイギリス行きました。
8月に行き、子供は小学校に入って、下の子も保育園に入りました。
吃驚したのは書類の手続きなどは、あまりなく簡単な誓約書を書いたらOKという事でした。
長男は手間のかかる子だったし、英語も出来なかったが、受け入れ態勢はしっかりしていた。
半年間、有償のボランティアのお母さん達が毎日フルタイムでうちの息子に来てくださる。
地域で特別な子供が来た時には、予算が手当てをされて、最適な方に声をかけてやっていただく様な仕組みでした。
我が子の様に可愛がっていただきました。
1年間で英語は割と読む力、会話する力も出来てきて、日常生活もそれほど困ることなく出来るようになりました。
いい友達もできて、私の子供に対して、学校での規律を守らなくて厳しい状態だったことを、英語では分からないので私から言ってほしいと、友達が家に来て告げてくれたりした。
遠足以外はお金の徴収は一切なかったので、お金はかからなかった。
学期の初めに、学校からこんなものが必要だという物品寄付リストが来て、各家庭から出せるものを寄付してくださいという事で、集めてそこから必要なものを取って使うという様な方法です。
日本に帰ってきて、都内の学校に入ることになり、子供を取り巻く社会が大きく違う事が判った。
イギリスでは友達のために行動できるかと、日本では授業を中断させるために友達にちょっかい出すか、これは大きな違いです。
日本では教育にお金がかかるのでいろんな意味で格差ができやすい。
親御さんの都合でちょっと大変な環境にいる子をサポートする団体がなくて、こんなにないものならやってみようと思ったのがキッズドアの前身です。
無料の和文化体験、サイエンス教室などを開いたが、いいイベントで有るほど、本来来てほしい子が来なくて、豊かな家庭の子が来た。
キッズドアのやり方を根本から変えて、困っている方をサポートする。
人件費が大変なのでそこをボランティアの方に対応してもらって無料で提供できる様なサービスにしてボランティア集めをしたのが2009年です。
新聞社が記事を載せて頂いて、次の日が電話が鳴りっぱなしになった。(母子家庭等だった)
低所得の方は私立にとてもあげられないので、困っている事が判りました。
場所探しで、或る社長さんが日曜日ならば会議室を提供できるという事で、2010年夏休み夏期講習から高校受験無料対策講座ただゼミを始めました。
一番多い時は50名位、東京中から新宿に来てくれました。
レベルがかなり低い子もいて毎日格闘でした。
子供にとっては今まで孤立していたのが、親身になってくれる人がいるという事で、すごく気持ちが前向きになって、できるようになると自信になって、好転して伸びてゆく。
初年度38人が通ってくれて、全員高校に受かることになった。
人を信頼する力、自分が努力して頑張る体験がすごく大きいと思います。
寄付をいただいたり、場所を提供していただいたり、助成金みたいなものを書いて、頂くとかで毎年綱渡りでやっています。
企業、個人の方にご支援いただいている様な方も段々増えてきました。
まだまだ日本の子供の貧困に気が付いていない方がいらしって、そういう事をお伝えしながら、子供への支援をもっと考えて頂きたい。
力不足で今年の入試対策の定員は一杯なので、もっと活動を広げてゆくために資金をきちんと集められるように寄付のお願いをしっかりしてゆくなどして行かないといけないと思います。
子供は親を選べないので、生まれた環境で大きな差が付いている事は子供にとって本当に切ないことだと思うので、それを支援してやると伸びるので、子供が喜ぶのを見るとそれは嬉しいので活動を続けて行こうと思います。
子供たちがしっかり力を付けることが日本の将来を明るくすることだと思うので、日本全体の問題としてやらなければと思います。
経済大国日本でおよそ6人に一人の子供が貧困状態に置かれています。
子供の貧困を放置すれば、教育の格差拡大につながりかねないとして、子供への学習支援をしているのが、キッズドアです。
理事長の渡辺さんは千葉大学を卒業した後、大手百貨店等を経てフリーのマーケティングプランナーとして活動していましたが、2001年から1年間家族全員でイギリスに住みました。
その際社会全体で子供を育てることを体験、帰国後NPO法人キッツドアを設立ました。
2010年から渡辺さんは進学を希望する中学3年生を対象に学習会、ただゼミを始めました。
ボランティアの大学生や社会人がマンツーマンで生徒に勉強を教えるもので、現在1200人のボランティアが登録しているそうです。
中学3年生に高校受験のサポートを無料で行う無料学習会です。
私は大学では工学部で勉強していました。
就職は大手百貨店で店の販売促進の部署に行き、大きなイベントなどをさせていただきました。
百貨店を8年間いて、1年間出版社に行き新雑誌のたち上げで企画等を手伝う事を行いました。
その後フリーのマーケティングプランナーとして、活動をしていました。
インターネットでホームページを作る会社が多くなり、子供関係のホームページをやってほしいという事で企画をだしたりしていました。
子供が2人出来、子育て8割、仕事が2割という様な事になりました。
子育てをしていると、社会からの疎外感が生まれてきて、子供の社会と普通の社会を繋げる様なドアーみたいなものを作って行かないと、うまく行かないなあと当時から思っていました。
主人の仕事の関係で2001年から1年間家族全員でイギリス行きました。
8月に行き、子供は小学校に入って、下の子も保育園に入りました。
吃驚したのは書類の手続きなどは、あまりなく簡単な誓約書を書いたらOKという事でした。
長男は手間のかかる子だったし、英語も出来なかったが、受け入れ態勢はしっかりしていた。
半年間、有償のボランティアのお母さん達が毎日フルタイムでうちの息子に来てくださる。
地域で特別な子供が来た時には、予算が手当てをされて、最適な方に声をかけてやっていただく様な仕組みでした。
我が子の様に可愛がっていただきました。
1年間で英語は割と読む力、会話する力も出来てきて、日常生活もそれほど困ることなく出来るようになりました。
いい友達もできて、私の子供に対して、学校での規律を守らなくて厳しい状態だったことを、英語では分からないので私から言ってほしいと、友達が家に来て告げてくれたりした。
遠足以外はお金の徴収は一切なかったので、お金はかからなかった。
学期の初めに、学校からこんなものが必要だという物品寄付リストが来て、各家庭から出せるものを寄付してくださいという事で、集めてそこから必要なものを取って使うという様な方法です。
日本に帰ってきて、都内の学校に入ることになり、子供を取り巻く社会が大きく違う事が判った。
イギリスでは友達のために行動できるかと、日本では授業を中断させるために友達にちょっかい出すか、これは大きな違いです。
日本では教育にお金がかかるのでいろんな意味で格差ができやすい。
親御さんの都合でちょっと大変な環境にいる子をサポートする団体がなくて、こんなにないものならやってみようと思ったのがキッズドアの前身です。
無料の和文化体験、サイエンス教室などを開いたが、いいイベントで有るほど、本来来てほしい子が来なくて、豊かな家庭の子が来た。
キッズドアのやり方を根本から変えて、困っている方をサポートする。
人件費が大変なのでそこをボランティアの方に対応してもらって無料で提供できる様なサービスにしてボランティア集めをしたのが2009年です。
新聞社が記事を載せて頂いて、次の日が電話が鳴りっぱなしになった。(母子家庭等だった)
低所得の方は私立にとてもあげられないので、困っている事が判りました。
場所探しで、或る社長さんが日曜日ならば会議室を提供できるという事で、2010年夏休み夏期講習から高校受験無料対策講座ただゼミを始めました。
一番多い時は50名位、東京中から新宿に来てくれました。
レベルがかなり低い子もいて毎日格闘でした。
子供にとっては今まで孤立していたのが、親身になってくれる人がいるという事で、すごく気持ちが前向きになって、できるようになると自信になって、好転して伸びてゆく。
初年度38人が通ってくれて、全員高校に受かることになった。
人を信頼する力、自分が努力して頑張る体験がすごく大きいと思います。
寄付をいただいたり、場所を提供していただいたり、助成金みたいなものを書いて、頂くとかで毎年綱渡りでやっています。
企業、個人の方にご支援いただいている様な方も段々増えてきました。
まだまだ日本の子供の貧困に気が付いていない方がいらしって、そういう事をお伝えしながら、子供への支援をもっと考えて頂きたい。
力不足で今年の入試対策の定員は一杯なので、もっと活動を広げてゆくために資金をきちんと集められるように寄付のお願いをしっかりしてゆくなどして行かないといけないと思います。
子供は親を選べないので、生まれた環境で大きな差が付いている事は子供にとって本当に切ないことだと思うので、それを支援してやると伸びるので、子供が喜ぶのを見るとそれは嬉しいので活動を続けて行こうと思います。
子供たちがしっかり力を付けることが日本の将来を明るくすることだと思うので、日本全体の問題としてやらなければと思います。
2015年11月17日火曜日
2015年11月16日月曜日
善竹十郎(狂言師) ・世の中まだまだ「笑い」が足りない
善竹十郎(ぜんちくじゅうろう 狂言師) ・世の中まだまだ「笑い」が足りない
71歳 日本の伝統芸能の一つ狂言は、現在大蔵流と和泉流の流派があります。
善竹さんは大蔵流です。
狂言会で初の人間国宝になった善竹彌五郎さんを祖父に持ち、幼いころから狂言を継承してゆくために取り組んで来ました。
稽古のあまりの厳しさに音をあげ、何度も逃げ出そうと思った善竹さん、それでも伝統芸能を継承してゆく家に生まれた自分と向き合う事で徐々に狂言の面白さを見出してきたと言います。
そんな厳しい狂言の世界を生きてきて改めて思う事は、今の世の中笑いがたりないと言いう事です。
笑う事で人間関係は円満になるし、何よりも長生きにつながりますという善竹さんは今子供達をはじめ様々な場で笑いを広めようと活動しています。
狂言界の厳しさ移り変わり笑いの大切さなどについて伺います。
笑いはNK細胞、ができると言われているのでいつもにこやかにしています。
5歳から始めたと父から聞いていますが、父は戦争にいって、昭和19年に生まれて、生まれた時は父は知りませんでした。
関西から東京に移ってから私を育てることになり、謡い、舞等を教わるようになりました。
一挙手一投足に至るまで厳しく指摘を受けました。
初めての舞台が6歳の「靱猿」の猿の役 歌舞伎にも取り入れられた有名な狂言。
靱(うつぼ) 矢を入れる道具 大名がうつぼを保護する為に生きている猿の皮をはげという事になり、猿ひきが猿に別れの言葉を言って、猿の急所をうとうとした時に猿が打つ杖を取って、船の櫓をこぐ真似をする(最近覚えた芸の稽古と感違い)、それを見たら猿ひきは泣き崩れ、それを聞いた御大名は泣いて猿の命を助ける事になり、お礼に猿が舞を舞う事になる。
猿の舞う真似を面白おかしく大名が真似、楽しい事こそ目出たいと最後に収まる。
最初、父にその後、大蔵彌右衛門(祖父の次男)に稽古を付けてもらうことになり、父よりも厳しかった。
ちょっとしたセリフでも怒られ優しい言い方は無く、叩かれたり扇が飛んできたりした。
しゅちゅう辞めたいと思っていました。
大学の受験勉強、バレーの部活、稽古をやらなくてはいけないので、成績は上位には行けなくて、何とか大学にも行けました。
祖父は昔の話をよくしてくれて、これが大変な栄養になりました。
祖父を目標にしようと中学生のころに感じました。
人というのは色々な行動をする、これがいい行動と悪い行動があり、いい行動になるように狂言がさりげなく教えてくれているんだ、と祖父が教えてくれた。
人間として生きてゆく上での人間道、人間の弱さを狂言が表しているんだなあと、優しくわたしに教えてくれたおかげで、ライフワークは狂言で行こうと思いました。
厳しいところから逃れるために一時自殺願望を抱きました。(遺書まで書きましたが)
和泉流 野村万之助さん(当時悟郎)、山本東次郎の弟の則直さんと3人で狂言「新の会」をつくって、15年ほど続けました。(私が28歳の時 二人は5歳上)
流儀が違っていて、知らなかったことをいろいろ教えて頂きました。
一緒にやることに対して、流派が違っていることに対する非難は最初有ったが誤解していた様で、お互い流派は維持してやるということを説明して理解してもらった。
15年間続いた事は、いろんな形で見えないところでつながったと思う。
大学でも教えているが、学生がニコリともせず、どうして渋い顔をしているのかなあと思って、授業中に何度でも笑うきっかけを作るようにしています。
私の授業は癒しの授業だと言っています。
嫌なことが多すぎるとギスギス、イライラすると思います。
笑うとNK細胞、ができると言われていて、ストレスがたまるとNK細胞が無くなり癌細胞ができると言われていて、ガンにならないためにも笑ってくださいと言っています。
「福の神」演目
大晦日に二人が神社に行くと、福の神が大きな笑い声を上げながら現れる。
参拝に来るお前たちに楽しく生活できるようにさせてやろうと思うが、そのためには元手がいるぞと言うが、2人はその元手がほしいから参拝しているという。
神はお供え物が無いと言うと二人はお酒をささげる、楽しく生活できるようになる秘訣は、早起きをして、他人に優しくして、お客さんを拒まず、夫婦仲良くすることで有るんだぞと語って笑いながら去ってゆく。
心の持ちようで、修行の厳しいのが有難さに変わってゆく、感謝に変わっていった。
狂言の言葉から沢山のことが学べるなあ、と歳取って感ずるわけです。
71歳 日本の伝統芸能の一つ狂言は、現在大蔵流と和泉流の流派があります。
善竹さんは大蔵流です。
狂言会で初の人間国宝になった善竹彌五郎さんを祖父に持ち、幼いころから狂言を継承してゆくために取り組んで来ました。
稽古のあまりの厳しさに音をあげ、何度も逃げ出そうと思った善竹さん、それでも伝統芸能を継承してゆく家に生まれた自分と向き合う事で徐々に狂言の面白さを見出してきたと言います。
そんな厳しい狂言の世界を生きてきて改めて思う事は、今の世の中笑いがたりないと言いう事です。
笑う事で人間関係は円満になるし、何よりも長生きにつながりますという善竹さんは今子供達をはじめ様々な場で笑いを広めようと活動しています。
狂言界の厳しさ移り変わり笑いの大切さなどについて伺います。
笑いはNK細胞、ができると言われているのでいつもにこやかにしています。
5歳から始めたと父から聞いていますが、父は戦争にいって、昭和19年に生まれて、生まれた時は父は知りませんでした。
関西から東京に移ってから私を育てることになり、謡い、舞等を教わるようになりました。
一挙手一投足に至るまで厳しく指摘を受けました。
初めての舞台が6歳の「靱猿」の猿の役 歌舞伎にも取り入れられた有名な狂言。
靱(うつぼ) 矢を入れる道具 大名がうつぼを保護する為に生きている猿の皮をはげという事になり、猿ひきが猿に別れの言葉を言って、猿の急所をうとうとした時に猿が打つ杖を取って、船の櫓をこぐ真似をする(最近覚えた芸の稽古と感違い)、それを見たら猿ひきは泣き崩れ、それを聞いた御大名は泣いて猿の命を助ける事になり、お礼に猿が舞を舞う事になる。
猿の舞う真似を面白おかしく大名が真似、楽しい事こそ目出たいと最後に収まる。
最初、父にその後、大蔵彌右衛門(祖父の次男)に稽古を付けてもらうことになり、父よりも厳しかった。
ちょっとしたセリフでも怒られ優しい言い方は無く、叩かれたり扇が飛んできたりした。
しゅちゅう辞めたいと思っていました。
大学の受験勉強、バレーの部活、稽古をやらなくてはいけないので、成績は上位には行けなくて、何とか大学にも行けました。
祖父は昔の話をよくしてくれて、これが大変な栄養になりました。
祖父を目標にしようと中学生のころに感じました。
人というのは色々な行動をする、これがいい行動と悪い行動があり、いい行動になるように狂言がさりげなく教えてくれているんだ、と祖父が教えてくれた。
人間として生きてゆく上での人間道、人間の弱さを狂言が表しているんだなあと、優しくわたしに教えてくれたおかげで、ライフワークは狂言で行こうと思いました。
厳しいところから逃れるために一時自殺願望を抱きました。(遺書まで書きましたが)
和泉流 野村万之助さん(当時悟郎)、山本東次郎の弟の則直さんと3人で狂言「新の会」をつくって、15年ほど続けました。(私が28歳の時 二人は5歳上)
流儀が違っていて、知らなかったことをいろいろ教えて頂きました。
一緒にやることに対して、流派が違っていることに対する非難は最初有ったが誤解していた様で、お互い流派は維持してやるということを説明して理解してもらった。
15年間続いた事は、いろんな形で見えないところでつながったと思う。
大学でも教えているが、学生がニコリともせず、どうして渋い顔をしているのかなあと思って、授業中に何度でも笑うきっかけを作るようにしています。
私の授業は癒しの授業だと言っています。
嫌なことが多すぎるとギスギス、イライラすると思います。
笑うとNK細胞、ができると言われていて、ストレスがたまるとNK細胞が無くなり癌細胞ができると言われていて、ガンにならないためにも笑ってくださいと言っています。
「福の神」演目
大晦日に二人が神社に行くと、福の神が大きな笑い声を上げながら現れる。
参拝に来るお前たちに楽しく生活できるようにさせてやろうと思うが、そのためには元手がいるぞと言うが、2人はその元手がほしいから参拝しているという。
神はお供え物が無いと言うと二人はお酒をささげる、楽しく生活できるようになる秘訣は、早起きをして、他人に優しくして、お客さんを拒まず、夫婦仲良くすることで有るんだぞと語って笑いながら去ってゆく。
心の持ちようで、修行の厳しいのが有難さに変わってゆく、感謝に変わっていった。
狂言の言葉から沢山のことが学べるなあ、と歳取って感ずるわけです。
2015年11月15日日曜日
桒山賀行(彫刻家) ・手で見る彫刻展の25年
桒山賀行(くわやまがこう 彫刻家) ・手で見る彫刻展の25年
67歳 文楽の人形と人形使いを題材に演者シリーズで総理大臣賞などを受賞するなどユニークな作品を作り続けている彫刻家です。
25年前から視覚障害者のために、毎年手で触れてみる彫刻展を開いています。
この25年を振り返ってなぜ手で触れてみる彫刻展を始めたのか、触ることの意味触ることの効果などを伺います。
視覚障害者の人たちは手で見るという事で展覧会をする時に視覚障害者の人にも一緒に観てもらおうかなと、手で見るという言葉を使い始めたのです。
個展をする時に、近くに視覚障害者の人がいて、その人がアトリエに遊びに来て鳩の飛んでいる作品を触ってみた時に、このように羽根を広げて飛ぶんだという事を言ってくれて、それで展覧会があった時に一緒に観てもらおうと思って、手で触れて観るという、うたい文句を付けてやったわけです。
25年間 個展 グループ展を仲間とかと一緒にやってきました。
1年のうち 多い時は4~5回 グループ展、個展などでやっています。
作品を触ることに対して嫌がることは人に依ります、グループの人達は良いんじゃないのと言ってくれました。
点字を読むときは軽く触らないと凸凹は指に伝わってこないので彫刻を触るときにも同様に触るので、作品を触ることへの問題は無いと思います。
むしろ視覚障害者ではない子供たちが触ってもいいというと、叩いたり、引っ張ったりすることが一番怖いです。
何で出来ているのか、ということは触って見ると判るので、時々触ってみたいとは私も思います。
触ると親近感が出てくるが、展覧会等で、ただ観るだけでは、直ぐ忘れてしまったりする。
作品に対する責任感があるので、触るということは色々難しい問題がある。
日本は仏像から彫刻が始まっているので、拝む対象だったので、西洋は人物から始まっているので方向性が違うのかもしれない。
仏像は木彫が殆どで、漆を塗って、金箔を張って作り上げていて、金箔がはがれて形造られてきていて、時間が経過して修理できないものなので、触ることはできない。
日本画、洋画、そういったものは触れません。
わたしはほとんど展覧会作品は木彫に色を付けたもので、ひびが入ったり埃がついたりして、時間が経過したり自然が作り出したもので、味が出たりします。
雨宿りという題名の作品を出した時に、視覚障害者の3人連れが来て、雨が止んだのかどうかを確認するために、作品で庇から手を出す状態なんだという事を鋭く指摘してくれた。(妻は判らなかったが、庇との距離感が鋭かった)
若い視覚障害者の人にも観てもらえると嬉しいなと思います。
木彫を始めた視覚障害者の人がいて、60歳を越えた男性で、最近どんどん作品が大きくなってきました。
木彫の材料も送ったり、ノミも7~8本送りました。
彼は見たことが無いので、自分の頭の中に形が作り上げられていて、それを木彫にする時に置き換えるのですが、それが私達とは違う、 私は目から直ぐ頭を通らず手に行くと思う。
70歳、80歳になったころに、自分の力が無くなってのみが自由に扱えなくなった時に作品がどうなるか楽しみです。
作品はずーっと続けて観ていると作家の考え方が変わる瞬間があり、目で、触ってみる両方有ると思うので、続けていけたらいいなあと思います。
67歳 文楽の人形と人形使いを題材に演者シリーズで総理大臣賞などを受賞するなどユニークな作品を作り続けている彫刻家です。
25年前から視覚障害者のために、毎年手で触れてみる彫刻展を開いています。
この25年を振り返ってなぜ手で触れてみる彫刻展を始めたのか、触ることの意味触ることの効果などを伺います。
視覚障害者の人たちは手で見るという事で展覧会をする時に視覚障害者の人にも一緒に観てもらおうかなと、手で見るという言葉を使い始めたのです。
個展をする時に、近くに視覚障害者の人がいて、その人がアトリエに遊びに来て鳩の飛んでいる作品を触ってみた時に、このように羽根を広げて飛ぶんだという事を言ってくれて、それで展覧会があった時に一緒に観てもらおうと思って、手で触れて観るという、うたい文句を付けてやったわけです。
25年間 個展 グループ展を仲間とかと一緒にやってきました。
1年のうち 多い時は4~5回 グループ展、個展などでやっています。
作品を触ることに対して嫌がることは人に依ります、グループの人達は良いんじゃないのと言ってくれました。
点字を読むときは軽く触らないと凸凹は指に伝わってこないので彫刻を触るときにも同様に触るので、作品を触ることへの問題は無いと思います。
むしろ視覚障害者ではない子供たちが触ってもいいというと、叩いたり、引っ張ったりすることが一番怖いです。
何で出来ているのか、ということは触って見ると判るので、時々触ってみたいとは私も思います。
触ると親近感が出てくるが、展覧会等で、ただ観るだけでは、直ぐ忘れてしまったりする。
作品に対する責任感があるので、触るということは色々難しい問題がある。
日本は仏像から彫刻が始まっているので、拝む対象だったので、西洋は人物から始まっているので方向性が違うのかもしれない。
仏像は木彫が殆どで、漆を塗って、金箔を張って作り上げていて、金箔がはがれて形造られてきていて、時間が経過して修理できないものなので、触ることはできない。
日本画、洋画、そういったものは触れません。
わたしはほとんど展覧会作品は木彫に色を付けたもので、ひびが入ったり埃がついたりして、時間が経過したり自然が作り出したもので、味が出たりします。
雨宿りという題名の作品を出した時に、視覚障害者の3人連れが来て、雨が止んだのかどうかを確認するために、作品で庇から手を出す状態なんだという事を鋭く指摘してくれた。(妻は判らなかったが、庇との距離感が鋭かった)
若い視覚障害者の人にも観てもらえると嬉しいなと思います。
木彫を始めた視覚障害者の人がいて、60歳を越えた男性で、最近どんどん作品が大きくなってきました。
木彫の材料も送ったり、ノミも7~8本送りました。
彼は見たことが無いので、自分の頭の中に形が作り上げられていて、それを木彫にする時に置き換えるのですが、それが私達とは違う、 私は目から直ぐ頭を通らず手に行くと思う。
70歳、80歳になったころに、自分の力が無くなってのみが自由に扱えなくなった時に作品がどうなるか楽しみです。
作品はずーっと続けて観ていると作家の考え方が変わる瞬間があり、目で、触ってみる両方有ると思うので、続けていけたらいいなあと思います。
2015年11月14日土曜日
安永祖堂(花園大学教授) ・人生是公案(じんせいこれこうあん)
安永祖堂(花園大学教授) ・人生是公案(じんせいこれこうあん)
59歳 30年に渡って禅の公案の研究を続けてきました。
公案という課題を解く事は禅宗の僧侶にとっては大切な修行です。
安永さんは一般の人にとっても公案は生きる知恵を見出す宝庫だと言います。
禅問答は公案をめぐる問答の事。
テキストがあって公案と言います。
インドの仏教が中国に渡り、お釈迦様の事を学ぼうと、お経を学んだが、これはお釈迦様のお悟りの説明だろうと、悟りの追体験をしたいという事で坐禅を組みましょうか、という事で禅宗の宗派の源になり、特に活躍したのが唐の時代で、宋の時代になり、唐の時代の禅の天才という風に言われた人達の追体験をどうすればいいかとか言う事で、唐の時代のお坊さんたちのやり取りを問題の様に作ったのが公案の始まりと言われます。
公案が中国から日本に伝わったのは12世紀の終わり頃と言われ、1700ほどある公案を日本人が理解しやすい様に体系化したのが、江戸時代の僧、白隠でした。
白隠がまとめたうちの700~800が今も禅僧の修行に使われています。
これを解決するのに10年~15年必要です。
「右手と左手で叩くと音がするが、片手だったらどういう音がするのか、聞いてきなさい。」良く知られている公案です。
合わさる前なので音以前の音、そういうものを聞いてきなさいと問題を与えられる。
頭で考えるが、沈黙の音、とかいろいろ言ってくるがすべて否定されて、ふだん考えている意識では限界があるということを気付いてもらって、その音以前の音を自分がどういう風に聞くのかという風に追いこんでゆく。
回答はあるが、それは絶対かというとそうではなく、その人その人の隻手音声(せきしゅおんじょう)片手の音があるので、正解は一つではない。
公案の修行は玉ねぎの皮を向く様なものなんですね。
剥いてなにが残るかというと、何も残らない、一枚一枚玉ねぎの皮を剥くのは、よく禅の公案の修行で一つ一つ解決して行って、何か得るものがあるかというとそうでもない。
仏教である「空」である、禅の「無」に辿りつく。
般若心経の「色即是空」 禅の「無心の境地」
言葉を本当に生かすのは言葉と言葉の間ではないかと思う。
間が抜けている、間が持たない。
間を生かすことによって言葉が命を持つという考え方。
「空」、「無」 無いのではなくないことによってすごい価値があるという、そういう事を手がかリに考えると、片手の音、聞こえないけれども、実はものすごく意味のある音を秘めてるのではないかなと。
私たちは有ることの世界にどっぷりつかっているので、そのあるという世界は、ないという世界が裏打ちの様に常にあるんだよという事です。
絵で言うと、西洋の油絵は何かの色でキャンパス一杯に塗り込むが、白も赤や他の色と同じ一つの色に過ぎないが、水墨画は余白の美、白いという何もないというスペースは、実は他の色を活かす、一本の線を活かす大切なスペースと言える。
ある=プラスの世界 ない=マイナスの世界
「空」、「無」=ゼロの世界(無限のキャパシティーがゼロにある)
我々はある、ないの世界に振り回されているが、ゼロいう世界を教えてくれている。
どの様に生きるか
①身体に気を付けてお酒、煙草を控えて一生懸命運動する、これは生存するために努力している。
②一生懸命勉強して良い会社に入ってというよな事、これは生活するために努力する。
③生存する事生活する事と、生きることは別なことだと思う、自分がどういう風に生きるかという事を捉えなおす時には「空」、「無」 智慧の世界が重要な役割を果たすのではないかと考えています。
本来の自分として本当に人生を生きているか。(実感を得ている人は多くないのでは)
①,②では満たされない世界というのは、そういう世界に向けて禅として一つの智慧を示していると思います。
昭和31年愛媛県で生まれ 父方の祖父が禅寺の住職だったので、仏教を身近に感じて育ったと言います。
6歳の時に交通事故に遭い、左足に障害の残る大けがを負う。
私と言う人格を作って行く上で、自分と他の人が違う事の意識というものに影響があったと思います。
本当の自分とはどういうものだろうと考える時に禅はエネルギーを与えてくれた。
障害を持っている自分がこのままでいいんだという事が受けいれられるようになったのは、禅の世界にいたお陰だと感謝しています。
花園大学の平田 精耕先生に出会い、修行の道を進む事になる。
修行の面白さに取りつかれた。
何百年と掛かって作り上げられた公案の体系の魅力に取り付かれた。
悟りを得るための公案もあれば、悟りを捨てさせる公案もある。
物事を続けていると、コツを覚えてしまうので、公案の修行も同様で、それを取ってしまう否定してしまう公案もある。
15年余りを公案修行に打ち込む。
「如是」、「真如」 ありのままでいいという感覚に落ちついたのは、修行させていただいたおかげだと思っている。
もとのもくあみ 自分で有り自分でない もとの自分にかえってくる、そういう風な禅の生き方は、
日常の世界が自分にとって最高の世界だと思っている人達に 非日常の世界を知ってもらって、また日常の世界に帰っていただく、その時に初めて本当に今自分がいる日常の世界の意味が判るのではないか、どっぷり日常の世界に浸かったままではその意味は判らないのではないかと思います。
人は何のために生きるのかは、一人一人が解決しなければならないと思うが、私は何のために生きるのかは、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだと判りました。
「生死一如」 生と死は一枚の紙の表と裏の様なものだというが、私にとって生死一如という言葉は、人は何のために生きるんだ、と矛盾するようですが、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだ、禅の修行、公案の修行を積んで得ることが出来ました。
生と死は一体であるという事に気づき、そのことをありのままの自分として受け入れること。
人と比べてどうかという事に随分日常の生活で振り回されているのではないか、そう言う価値観から解放されたら新しい生き方ができるのではないか。
貴方たち一人一人、その肉体身体は生き生きと働いている、耳で音を聞き目ではものを見て鼻では香りをかぎ、口では話す、全て合わせてやっているものはなんだ、それが無位の真人がいきいきと働いている。(一生懸命に判ろうとしている)
肩書きを全部取っ払ってしまったら、それが無位の真人という事です。
無位の真人として現実の世界をどう生きるか、問いたいのは充実している人生は人と比べてどうこうと考えている自分の欲を満たすためだと生きていませんかという事です。
日常の世界を離れて、真人の世界に追い込んでみて、又日常の世界帰ってくるという、本当に日常の意味を知るためには非日常の世界に入ってそこから帰ってこないと日常の世界は判らないのではないでしょうか。
非日常の世界 一つは禅の世界、世俗の価値観を離れた世界。
自由 禅の言葉 自らをよりどころにする。
本当の自分をよりどころにして生きてゆく、それが真の自由。
神仏でなくても、なにかをよりどころにして生きている。
禅の世界は、本当の自分をよりどころにして生きて行きましょう。
盤珪 永琢(ばんけい えいたく)和尚のそばに目の不自由な老人がいて、私は目が不自由なものだから人の言う事を耳で判断する、人の言葉は不思議なもので言っている言葉と違う響きが聞こえることがある。
隣の家でおめでたいことがあり、大抵の人の言葉が「よかったねえ」という言葉が自分には嫉妬の響きに聞こえ、隣の家に不幸があった時に、「お気の毒に」と慰めの言葉を言うが、自分にはその不幸が自分には起こらなかったという安心の響きがある、人間とはそういうものだ、ところが盤珪 永琢和尚は不思議な人で「よかったねえ」というと「よかったねえ」と聞こえ、「気の毒になあ」というと「気の毒になあ」としか聞こえない。
盤珪 永琢和尚は無に生きているので、相手のおめでたいことは自分のおめでたいことと同じように言えるし、不幸も自分の事の様に思える、仏教の言葉で「同悲同苦」と言います。
自己を「空」、「無」にして「同悲同苦」を可能にする。
本当の修行は現状公案 辛いことなかなか解決できないことが次々に起こってくるので、それに立ち向かう、私たちが生きてゆくのは公案の修行を日々重ねているのと変らないと思う。
「苦」は満たされないこと、苦にあふれた人生をほんとうの自分として生きてゆく、それは公案の修行と同じだと思います。
59歳 30年に渡って禅の公案の研究を続けてきました。
公案という課題を解く事は禅宗の僧侶にとっては大切な修行です。
安永さんは一般の人にとっても公案は生きる知恵を見出す宝庫だと言います。
禅問答は公案をめぐる問答の事。
テキストがあって公案と言います。
インドの仏教が中国に渡り、お釈迦様の事を学ぼうと、お経を学んだが、これはお釈迦様のお悟りの説明だろうと、悟りの追体験をしたいという事で坐禅を組みましょうか、という事で禅宗の宗派の源になり、特に活躍したのが唐の時代で、宋の時代になり、唐の時代の禅の天才という風に言われた人達の追体験をどうすればいいかとか言う事で、唐の時代のお坊さんたちのやり取りを問題の様に作ったのが公案の始まりと言われます。
公案が中国から日本に伝わったのは12世紀の終わり頃と言われ、1700ほどある公案を日本人が理解しやすい様に体系化したのが、江戸時代の僧、白隠でした。
白隠がまとめたうちの700~800が今も禅僧の修行に使われています。
これを解決するのに10年~15年必要です。
「右手と左手で叩くと音がするが、片手だったらどういう音がするのか、聞いてきなさい。」良く知られている公案です。
合わさる前なので音以前の音、そういうものを聞いてきなさいと問題を与えられる。
頭で考えるが、沈黙の音、とかいろいろ言ってくるがすべて否定されて、ふだん考えている意識では限界があるということを気付いてもらって、その音以前の音を自分がどういう風に聞くのかという風に追いこんでゆく。
回答はあるが、それは絶対かというとそうではなく、その人その人の隻手音声(せきしゅおんじょう)片手の音があるので、正解は一つではない。
公案の修行は玉ねぎの皮を向く様なものなんですね。
剥いてなにが残るかというと、何も残らない、一枚一枚玉ねぎの皮を剥くのは、よく禅の公案の修行で一つ一つ解決して行って、何か得るものがあるかというとそうでもない。
仏教である「空」である、禅の「無」に辿りつく。
般若心経の「色即是空」 禅の「無心の境地」
言葉を本当に生かすのは言葉と言葉の間ではないかと思う。
間が抜けている、間が持たない。
間を生かすことによって言葉が命を持つという考え方。
「空」、「無」 無いのではなくないことによってすごい価値があるという、そういう事を手がかリに考えると、片手の音、聞こえないけれども、実はものすごく意味のある音を秘めてるのではないかなと。
私たちは有ることの世界にどっぷりつかっているので、そのあるという世界は、ないという世界が裏打ちの様に常にあるんだよという事です。
絵で言うと、西洋の油絵は何かの色でキャンパス一杯に塗り込むが、白も赤や他の色と同じ一つの色に過ぎないが、水墨画は余白の美、白いという何もないというスペースは、実は他の色を活かす、一本の線を活かす大切なスペースと言える。
ある=プラスの世界 ない=マイナスの世界
「空」、「無」=ゼロの世界(無限のキャパシティーがゼロにある)
我々はある、ないの世界に振り回されているが、ゼロいう世界を教えてくれている。
どの様に生きるか
①身体に気を付けてお酒、煙草を控えて一生懸命運動する、これは生存するために努力している。
②一生懸命勉強して良い会社に入ってというよな事、これは生活するために努力する。
③生存する事生活する事と、生きることは別なことだと思う、自分がどういう風に生きるかという事を捉えなおす時には「空」、「無」 智慧の世界が重要な役割を果たすのではないかと考えています。
本来の自分として本当に人生を生きているか。(実感を得ている人は多くないのでは)
①,②では満たされない世界というのは、そういう世界に向けて禅として一つの智慧を示していると思います。
昭和31年愛媛県で生まれ 父方の祖父が禅寺の住職だったので、仏教を身近に感じて育ったと言います。
6歳の時に交通事故に遭い、左足に障害の残る大けがを負う。
私と言う人格を作って行く上で、自分と他の人が違う事の意識というものに影響があったと思います。
本当の自分とはどういうものだろうと考える時に禅はエネルギーを与えてくれた。
障害を持っている自分がこのままでいいんだという事が受けいれられるようになったのは、禅の世界にいたお陰だと感謝しています。
花園大学の平田 精耕先生に出会い、修行の道を進む事になる。
修行の面白さに取りつかれた。
何百年と掛かって作り上げられた公案の体系の魅力に取り付かれた。
悟りを得るための公案もあれば、悟りを捨てさせる公案もある。
物事を続けていると、コツを覚えてしまうので、公案の修行も同様で、それを取ってしまう否定してしまう公案もある。
15年余りを公案修行に打ち込む。
「如是」、「真如」 ありのままでいいという感覚に落ちついたのは、修行させていただいたおかげだと思っている。
もとのもくあみ 自分で有り自分でない もとの自分にかえってくる、そういう風な禅の生き方は、
日常の世界が自分にとって最高の世界だと思っている人達に 非日常の世界を知ってもらって、また日常の世界に帰っていただく、その時に初めて本当に今自分がいる日常の世界の意味が判るのではないか、どっぷり日常の世界に浸かったままではその意味は判らないのではないかと思います。
人は何のために生きるのかは、一人一人が解決しなければならないと思うが、私は何のために生きるのかは、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだと判りました。
「生死一如」 生と死は一枚の紙の表と裏の様なものだというが、私にとって生死一如という言葉は、人は何のために生きるんだ、と矛盾するようですが、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだ、禅の修行、公案の修行を積んで得ることが出来ました。
生と死は一体であるという事に気づき、そのことをありのままの自分として受け入れること。
人と比べてどうかという事に随分日常の生活で振り回されているのではないか、そう言う価値観から解放されたら新しい生き方ができるのではないか。
貴方たち一人一人、その肉体身体は生き生きと働いている、耳で音を聞き目ではものを見て鼻では香りをかぎ、口では話す、全て合わせてやっているものはなんだ、それが無位の真人がいきいきと働いている。(一生懸命に判ろうとしている)
肩書きを全部取っ払ってしまったら、それが無位の真人という事です。
無位の真人として現実の世界をどう生きるか、問いたいのは充実している人生は人と比べてどうこうと考えている自分の欲を満たすためだと生きていませんかという事です。
日常の世界を離れて、真人の世界に追い込んでみて、又日常の世界帰ってくるという、本当に日常の意味を知るためには非日常の世界に入ってそこから帰ってこないと日常の世界は判らないのではないでしょうか。
非日常の世界 一つは禅の世界、世俗の価値観を離れた世界。
自由 禅の言葉 自らをよりどころにする。
本当の自分をよりどころにして生きてゆく、それが真の自由。
神仏でなくても、なにかをよりどころにして生きている。
禅の世界は、本当の自分をよりどころにして生きて行きましょう。
盤珪 永琢(ばんけい えいたく)和尚のそばに目の不自由な老人がいて、私は目が不自由なものだから人の言う事を耳で判断する、人の言葉は不思議なもので言っている言葉と違う響きが聞こえることがある。
隣の家でおめでたいことがあり、大抵の人の言葉が「よかったねえ」という言葉が自分には嫉妬の響きに聞こえ、隣の家に不幸があった時に、「お気の毒に」と慰めの言葉を言うが、自分にはその不幸が自分には起こらなかったという安心の響きがある、人間とはそういうものだ、ところが盤珪 永琢和尚は不思議な人で「よかったねえ」というと「よかったねえ」と聞こえ、「気の毒になあ」というと「気の毒になあ」としか聞こえない。
盤珪 永琢和尚は無に生きているので、相手のおめでたいことは自分のおめでたいことと同じように言えるし、不幸も自分の事の様に思える、仏教の言葉で「同悲同苦」と言います。
自己を「空」、「無」にして「同悲同苦」を可能にする。
本当の修行は現状公案 辛いことなかなか解決できないことが次々に起こってくるので、それに立ち向かう、私たちが生きてゆくのは公案の修行を日々重ねているのと変らないと思う。
「苦」は満たされないこと、苦にあふれた人生をほんとうの自分として生きてゆく、それは公案の修行と同じだと思います。
2015年11月13日金曜日
故・深谷義治さんの二男・敏雄 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵(H27/7/28放送)
故・深谷義治さんの二男・敏雄 孫・富美子 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵
(H27/7/28放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
(H27/7/28放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
2015年11月12日木曜日
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる(H27/6/24 放送)
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる(H27/6/24 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_24.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2015年11月11日水曜日
小栗康平(映画監督) ・映画の原点に立ち戻る
小栗康平(映画監督) ・映画の原点に立ち戻る
1945年生まれ 早稲田大学第二文学部卒業後、フリーの助監督となり、浦山桐郎、篠田正浩監督等の映画にかかわります。
1981年に宮本輝原作、「泥の河」で監督デビュー、日本映画監督賞、モスクワ映画祭銀賞を受賞するなど高い評価を受けました。
「伽倻子のために」、「死の棘」を製作、「泥の河」と合わせて戦後三部作と位置付けられています。
1996年に自身の脚本で「眠る男」を製作、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞しました。
今回制作の映画「FOUZITA」は2005年製作の「埋もれ木」以来10年ぶりとなる作品です。
戦後70年、自身も70歳を迎えた小栗さんに、戦争を挟んだ激動の時代に日本とパリに生きた世界的画家藤田嗣治を通して伝えたいものは何かを伺います。
「FOUZITA」 画家藤田嗣治
1920年代パリの寵児として華々しくもてはやされた人ですが、その評価はそのまま当時の日本にあったわけではなかった。
日本美術界では やっかみがあった。
戦時中、戦争協力画を描いた事に依って、敗戦後に美術界の戦争責任を藤田一人が一身に負わされる形になる。
日本を出てフランスにもどり、それ以降日本には戻らず、フランス国籍を取り洗礼を受けてレオナール・フジタに変わった。
藤田は一般的に知っている程度だった。
フランスとの合作となった。
3年前から話があった。
藤田自身が著作権の権利に慎重な人だったが、君代さんもデリケートに維持していた、戦争画の問題が一番大きいと思う。
エピソードの多い人間なので、面白おかしくエンターテーメントにしようと思えば出来なくない人物なので、いろいろな映画人が映画にしたいという風な希望は持っていたらしいが、君代さんがガンとしていやだといっていましたが、或るいきさつの中でどうぞという話になって同意書を持って私のところに来ました。
絵を全く使わないで藤田を描く事は不自然なので、絵を使うことは最低条件なので、映画に絵を使っていいという許諾が無い限り映画は成立しなかった。
1920年代の裸婦と戦時中の日本の戦争画の二つを並べて、描きたいというのはごく最初から自分で決めたことです。
波風の多い人生を生きた人ですが、個人の個性から来るものがあったと思いますが、何よりも文化の衝突だと思います。
江戸末期まで油絵は無かったが、東京芸大をでて、単身でパリに行って、あそこまで売れて、格闘して、そのことから来る衝突とか歪とか、いろんなものを抱えて、いろんなものを引きずったと思うし、現在の我々の問題でもあるわけです。
戦争画を敗戦後すぐにマッカーサーが集めろと命じて、藤田が担当になっていて、後でいろいろな事を言われる原因にもなった。
絵がプロパガンダか芸術かで、評価が分かれて、芸術ならばアメリカが持ち去る権利は無い、結論が出ないまま扱いかねて、そっくりアメリカに持って行ってしまって倉庫に眠っていた。
その後政府間の交渉があり、永久貸与の状態で所有権はアメリカだと言われていて、140点のうち一割は藤田の作品です。
一挙公開の話もあったがいろいろと問題があり出来なかったが、、その後ぽつぽつと公開されてきて、今回所蔵している藤田の戦争画全作品14点が一挙公開されました。(12月まで公開)
藤田のエピソードは騒がしく、絵が持っている静けさ、波風の多かった歴史的人物を波風のまま描くのではなくて、それを静めた時に初めて撮れるなと思いました。
絵描きが主人公なので、絵を落としめない程度に映画もしっかりといい映画でなければいけないのでそれなりに考えました、絵画も映像も基本的には変わらないと思います。
以前の作品よりも丁寧にやりたいという感じはありました。
ほとんどパリでの撮影ですが、日本で撮っているシーンが何シーンかはあります。
前半はパリの生活のシーンですが、最初のシーンはパリで撮るのは難しいという思いがあり、フランスの役者に来てもらって日本で撮影しました。
パリの町並みは3階以上は1920年代と変わらないが、路面、一階、二階はCGで加工するというのが基本になります。
伝記という発想は持っていなくて、1920年代の藤田と藤田の生きたパリのモンパルナスの事物をしっかり見ようという見方で、同じようにしっかりと文化も背景も時代も異なる社会を、説明しなくても明らかな違いが浮かび上がって来るわけで、普段旅行等では気付かないことですが、違うということが歴然と判るのでそっちにかけたいという事が私は強かったです。
あまりにも今の世の中が判り易いことだけを相手にしている事について、映画に限らず社会全体に対して相当苛立つ思いがあります。
映画は、お客さんが入る事ということは、判り易く悲しい、嬉しい、切った張ったとかで企画が成立するわけでそこには組みしたくない。
前半がパリ、後半が日本、最後に又パリの戻り、藤田がクリスチャンになり象徴的に描かれている。
パリは動きがあり、日本は静かで色も抑えた感じになっているが、20年代藤田があそこまで売れるためにどれほど血みどろの格闘をしたか、どういう社会で格闘したか、ヨーロッパ近代の個人が戦い抜いて勝ちあがってゆく社会で藤田も勝ち抜いたわけで、40年代に日本でそういう社会があったかというと無かった。
明治以降の国民国家が形成されて、臣民という天皇の子という事でひとくくりになって、江戸社会が持っていた自然との共生とか、そういうものから40年代の戦時の日本と成ると、パリとでは明らかに社会も言葉もあらゆる事が違うわけで、違う事を藤田は両方生きたわけで、だからあとは考えてよと(聞きずらく正しいかは不明)、とは思います。
物凄く大きな違いを、矛盾を一緒に生きたわけで、それは人ごとではないでしょう。
27歳で藤田はパリに渡って、あちこちさまよい続けた人で、どこにも定着した事は無くて、戦後はパリでクリスチャンになって動かなかったが、幸せに居を定めていたかというとそういう気はしない。
藤田に日本に対して旅ではなく、もう少し奥深く日本の自然風土に踏み込んでほしい、そのための村を映画で用意したい、ちょっと幻想的な村の姿として感じられたのかもしれない。(?)
最晩年、教会の設計も全部やって、ステンドグラス、フレスコ画など藤田一人でやって、それを描きながら広沢虎造の浪曲を聞いていたというエピソードもあり、心の中はそう簡単ではないと思う。
小ぶりのかわいらしい教会で、奥さんも自分自身もそこに描いている。
表現って、最後は祈りの様なものだと思っていて、映画はその側面が凄く強いと思っていて、姿かたちを撮るわけなので、姿かたちをじーっと観るのが映画なので、最後は祈るしかないのではないかと思う。
映画はいろんなドラマなりがあると思うが、原点は人の姿をずーっと観る、人が生きた風景をしっかりと観る、ここだと思う。
観たあと最後は美しい気持ちになりたい。
騒がしく藤田像を捉えている人は多いと思うが、絶対そんなことは無くそれ以上2倍、3倍 背後に抱えた悲しみ、孤独はあるはずで、そこを観ずに華やかな行動だけで語るべきではないと思う。
「泥の河」から始まって6本しか撮っていないけれど、映画を続けていてよかったなあと思います。
1945年生まれ 早稲田大学第二文学部卒業後、フリーの助監督となり、浦山桐郎、篠田正浩監督等の映画にかかわります。
1981年に宮本輝原作、「泥の河」で監督デビュー、日本映画監督賞、モスクワ映画祭銀賞を受賞するなど高い評価を受けました。
「伽倻子のために」、「死の棘」を製作、「泥の河」と合わせて戦後三部作と位置付けられています。
1996年に自身の脚本で「眠る男」を製作、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞しました。
今回制作の映画「FOUZITA」は2005年製作の「埋もれ木」以来10年ぶりとなる作品です。
戦後70年、自身も70歳を迎えた小栗さんに、戦争を挟んだ激動の時代に日本とパリに生きた世界的画家藤田嗣治を通して伝えたいものは何かを伺います。
「FOUZITA」 画家藤田嗣治
1920年代パリの寵児として華々しくもてはやされた人ですが、その評価はそのまま当時の日本にあったわけではなかった。
日本美術界では やっかみがあった。
戦時中、戦争協力画を描いた事に依って、敗戦後に美術界の戦争責任を藤田一人が一身に負わされる形になる。
日本を出てフランスにもどり、それ以降日本には戻らず、フランス国籍を取り洗礼を受けてレオナール・フジタに変わった。
藤田は一般的に知っている程度だった。
フランスとの合作となった。
3年前から話があった。
藤田自身が著作権の権利に慎重な人だったが、君代さんもデリケートに維持していた、戦争画の問題が一番大きいと思う。
エピソードの多い人間なので、面白おかしくエンターテーメントにしようと思えば出来なくない人物なので、いろいろな映画人が映画にしたいという風な希望は持っていたらしいが、君代さんがガンとしていやだといっていましたが、或るいきさつの中でどうぞという話になって同意書を持って私のところに来ました。
絵を全く使わないで藤田を描く事は不自然なので、絵を使うことは最低条件なので、映画に絵を使っていいという許諾が無い限り映画は成立しなかった。
1920年代の裸婦と戦時中の日本の戦争画の二つを並べて、描きたいというのはごく最初から自分で決めたことです。
波風の多い人生を生きた人ですが、個人の個性から来るものがあったと思いますが、何よりも文化の衝突だと思います。
江戸末期まで油絵は無かったが、東京芸大をでて、単身でパリに行って、あそこまで売れて、格闘して、そのことから来る衝突とか歪とか、いろんなものを抱えて、いろんなものを引きずったと思うし、現在の我々の問題でもあるわけです。
戦争画を敗戦後すぐにマッカーサーが集めろと命じて、藤田が担当になっていて、後でいろいろな事を言われる原因にもなった。
絵がプロパガンダか芸術かで、評価が分かれて、芸術ならばアメリカが持ち去る権利は無い、結論が出ないまま扱いかねて、そっくりアメリカに持って行ってしまって倉庫に眠っていた。
その後政府間の交渉があり、永久貸与の状態で所有権はアメリカだと言われていて、140点のうち一割は藤田の作品です。
一挙公開の話もあったがいろいろと問題があり出来なかったが、、その後ぽつぽつと公開されてきて、今回所蔵している藤田の戦争画全作品14点が一挙公開されました。(12月まで公開)
藤田のエピソードは騒がしく、絵が持っている静けさ、波風の多かった歴史的人物を波風のまま描くのではなくて、それを静めた時に初めて撮れるなと思いました。
絵描きが主人公なので、絵を落としめない程度に映画もしっかりといい映画でなければいけないのでそれなりに考えました、絵画も映像も基本的には変わらないと思います。
以前の作品よりも丁寧にやりたいという感じはありました。
ほとんどパリでの撮影ですが、日本で撮っているシーンが何シーンかはあります。
前半はパリの生活のシーンですが、最初のシーンはパリで撮るのは難しいという思いがあり、フランスの役者に来てもらって日本で撮影しました。
パリの町並みは3階以上は1920年代と変わらないが、路面、一階、二階はCGで加工するというのが基本になります。
伝記という発想は持っていなくて、1920年代の藤田と藤田の生きたパリのモンパルナスの事物をしっかり見ようという見方で、同じようにしっかりと文化も背景も時代も異なる社会を、説明しなくても明らかな違いが浮かび上がって来るわけで、普段旅行等では気付かないことですが、違うということが歴然と判るのでそっちにかけたいという事が私は強かったです。
あまりにも今の世の中が判り易いことだけを相手にしている事について、映画に限らず社会全体に対して相当苛立つ思いがあります。
映画は、お客さんが入る事ということは、判り易く悲しい、嬉しい、切った張ったとかで企画が成立するわけでそこには組みしたくない。
前半がパリ、後半が日本、最後に又パリの戻り、藤田がクリスチャンになり象徴的に描かれている。
パリは動きがあり、日本は静かで色も抑えた感じになっているが、20年代藤田があそこまで売れるためにどれほど血みどろの格闘をしたか、どういう社会で格闘したか、ヨーロッパ近代の個人が戦い抜いて勝ちあがってゆく社会で藤田も勝ち抜いたわけで、40年代に日本でそういう社会があったかというと無かった。
明治以降の国民国家が形成されて、臣民という天皇の子という事でひとくくりになって、江戸社会が持っていた自然との共生とか、そういうものから40年代の戦時の日本と成ると、パリとでは明らかに社会も言葉もあらゆる事が違うわけで、違う事を藤田は両方生きたわけで、だからあとは考えてよと(聞きずらく正しいかは不明)、とは思います。
物凄く大きな違いを、矛盾を一緒に生きたわけで、それは人ごとではないでしょう。
27歳で藤田はパリに渡って、あちこちさまよい続けた人で、どこにも定着した事は無くて、戦後はパリでクリスチャンになって動かなかったが、幸せに居を定めていたかというとそういう気はしない。
藤田に日本に対して旅ではなく、もう少し奥深く日本の自然風土に踏み込んでほしい、そのための村を映画で用意したい、ちょっと幻想的な村の姿として感じられたのかもしれない。(?)
最晩年、教会の設計も全部やって、ステンドグラス、フレスコ画など藤田一人でやって、それを描きながら広沢虎造の浪曲を聞いていたというエピソードもあり、心の中はそう簡単ではないと思う。
小ぶりのかわいらしい教会で、奥さんも自分自身もそこに描いている。
表現って、最後は祈りの様なものだと思っていて、映画はその側面が凄く強いと思っていて、姿かたちを撮るわけなので、姿かたちをじーっと観るのが映画なので、最後は祈るしかないのではないかと思う。
映画はいろんなドラマなりがあると思うが、原点は人の姿をずーっと観る、人が生きた風景をしっかりと観る、ここだと思う。
観たあと最後は美しい気持ちになりたい。
騒がしく藤田像を捉えている人は多いと思うが、絶対そんなことは無くそれ以上2倍、3倍 背後に抱えた悲しみ、孤独はあるはずで、そこを観ずに華やかな行動だけで語るべきではないと思う。
「泥の河」から始まって6本しか撮っていないけれど、映画を続けていてよかったなあと思います。
2015年11月10日火曜日
岡本宮之助(新内節演奏家) ・新内節の魅力を伝える
岡本宮之助(新内節演奏家) ・新内節の魅力を伝える
1960年 昭和35年東京谷中生まれ 大正昭和平成の3代に渡って新内節で活躍した岡本文弥は大叔父にあたります。
幼少時から岡本文弥の芸に接してきた岡本さんは、19歳の時から本格的に新内節の世界に入り、浄瑠璃を岡本文弥に三味線を4世、5世の岡本宮染に師事したほか、邦楽研究科の平井澄子にも薫陶を受けました。
岡本さんは東京と大阪の稽古場で弟子たちを教えるほか、各地の演奏会で新内節を演じています。
古典や岡本文弥が残した作品を伝承する事に力を注ぐ傍ら、新作の創作と発表にも取り組んでいます。
新内節の将来を考えると、若い世代に新内節の魅力を味わってもらう事が大切だと言います。
弟子は10人位だと思います、最近若い子が入ってきました。
文弥は戦前から反戦の新内などを作っていて、70年を記念してやろうという事でやりました。
「西部戦線異常なし」、「河童の道行」(東京大空襲)等をやりました。
松山市で「ノボさん」上演、12年前に野上周さんの作詞家から持ち込まれた歌詩に私が節をつけたものです。
正岡子規の亡くなる時の場面で絶筆の三句が主題になっているもの。
新内節を知らない人が多いので、文化庁から補助金を頂いて、新内協会が若手後継者の育成の会をやっています。
鶴賀若狭掾さん、新内仲三郎さん(両者とも人間国宝)に最後に演奏してもらっています。
「伊太八」 演奏
「愛染めてより一日もカラスの泣かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないわいな・・・」
一中節が京都にあり、江戸に下ってあたらしい音楽をやろうという事で宮古路豊後掾と名乗り、豊後節は江戸で人気になり受けるが、禁止になってしまって(煽情的な歌詩と節で世の中を乱して心中が増えたという様な説) 江戸所払いになり、弟子が困って常磐津、富本(発展して清元に)などに独立、そこから富士松薩摩と名乗る人が出る。
そこから分派して鶴賀若狭掾がでて、大天才で沢山の名曲を作った。
その門下に鶴賀新内(美声家 1751年 - 1771年)がいて、新内という名が付きました。
(おおざっぱな歴史)
常磐津、清元などは歌舞伎と結びついて伴奏音楽として活躍するが、新内はそこに入れなかった、素浄瑠璃と言って、舞踊、歌舞伎とは深く関わらずに生きてきた。
中学時代は器械体操にのめり込んでいて、怪我をして腰を悪くして辞めざるを得なかった。
高校時代は子供会のジュニアリーダーを中心にして暮らしていました。
祖母が文弥のお母さんの芸養女に入って、ずーっと文弥の妹で演奏活動は一緒だった。
大学を落ちて、三味線を弾いてみないかと母から言われて、手ほどきを受けに文弥の家にお稽古に行きました。
周りからも期待があり辞めるのにも辞められない様な感じでした。
常に三味線の音の中で暮らしていました。
文弥も音を染み込ませる事が早道だし大事だと言っていますし私もそう思います。
修行は厳しいとは思わなかったが拘束時間が長かったのが大変だった。
岡本文弥 101歳で亡くなる。1895年生まれ
早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていた。作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。
威張る人が嫌、戦争が嫌という人だった。
文弥の母親が持ちものが沢山数があって、文弥も同様でした。
抱えていないで、どんどん演奏する事が大事なことだと思います。
「戦争は散らかすからいけない」(戦争はいけない)
「コツコツ生きる仕事をする」(一歩一歩クリアしてゆくしかない、毎日毎日ちょっとづつやっていればいつか花咲く時があるんだろう)
という様なことはよく言っていました。
谷中は外国人が多く来ていて、呼びこんで三味線などを弾いてもらったりしています。
マーケットはあるのかもしれないが、どこにあるのか判らないが、沢山の方に新内節というジャンルがあるという事を知っていただきたいと思います。
1960年 昭和35年東京谷中生まれ 大正昭和平成の3代に渡って新内節で活躍した岡本文弥は大叔父にあたります。
幼少時から岡本文弥の芸に接してきた岡本さんは、19歳の時から本格的に新内節の世界に入り、浄瑠璃を岡本文弥に三味線を4世、5世の岡本宮染に師事したほか、邦楽研究科の平井澄子にも薫陶を受けました。
岡本さんは東京と大阪の稽古場で弟子たちを教えるほか、各地の演奏会で新内節を演じています。
古典や岡本文弥が残した作品を伝承する事に力を注ぐ傍ら、新作の創作と発表にも取り組んでいます。
新内節の将来を考えると、若い世代に新内節の魅力を味わってもらう事が大切だと言います。
弟子は10人位だと思います、最近若い子が入ってきました。
文弥は戦前から反戦の新内などを作っていて、70年を記念してやろうという事でやりました。
「西部戦線異常なし」、「河童の道行」(東京大空襲)等をやりました。
松山市で「ノボさん」上演、12年前に野上周さんの作詞家から持ち込まれた歌詩に私が節をつけたものです。
正岡子規の亡くなる時の場面で絶筆の三句が主題になっているもの。
新内節を知らない人が多いので、文化庁から補助金を頂いて、新内協会が若手後継者の育成の会をやっています。
鶴賀若狭掾さん、新内仲三郎さん(両者とも人間国宝)に最後に演奏してもらっています。
「伊太八」 演奏
「愛染めてより一日もカラスの泣かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないわいな・・・」
一中節が京都にあり、江戸に下ってあたらしい音楽をやろうという事で宮古路豊後掾と名乗り、豊後節は江戸で人気になり受けるが、禁止になってしまって(煽情的な歌詩と節で世の中を乱して心中が増えたという様な説) 江戸所払いになり、弟子が困って常磐津、富本(発展して清元に)などに独立、そこから富士松薩摩と名乗る人が出る。
そこから分派して鶴賀若狭掾がでて、大天才で沢山の名曲を作った。
その門下に鶴賀新内(美声家 1751年 - 1771年)がいて、新内という名が付きました。
(おおざっぱな歴史)
常磐津、清元などは歌舞伎と結びついて伴奏音楽として活躍するが、新内はそこに入れなかった、素浄瑠璃と言って、舞踊、歌舞伎とは深く関わらずに生きてきた。
中学時代は器械体操にのめり込んでいて、怪我をして腰を悪くして辞めざるを得なかった。
高校時代は子供会のジュニアリーダーを中心にして暮らしていました。
祖母が文弥のお母さんの芸養女に入って、ずーっと文弥の妹で演奏活動は一緒だった。
大学を落ちて、三味線を弾いてみないかと母から言われて、手ほどきを受けに文弥の家にお稽古に行きました。
周りからも期待があり辞めるのにも辞められない様な感じでした。
常に三味線の音の中で暮らしていました。
文弥も音を染み込ませる事が早道だし大事だと言っていますし私もそう思います。
修行は厳しいとは思わなかったが拘束時間が長かったのが大変だった。
岡本文弥 101歳で亡くなる。1895年生まれ
早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていた。作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。
威張る人が嫌、戦争が嫌という人だった。
文弥の母親が持ちものが沢山数があって、文弥も同様でした。
抱えていないで、どんどん演奏する事が大事なことだと思います。
「戦争は散らかすからいけない」(戦争はいけない)
「コツコツ生きる仕事をする」(一歩一歩クリアしてゆくしかない、毎日毎日ちょっとづつやっていればいつか花咲く時があるんだろう)
という様なことはよく言っていました。
谷中は外国人が多く来ていて、呼びこんで三味線などを弾いてもらったりしています。
マーケットはあるのかもしれないが、どこにあるのか判らないが、沢山の方に新内節というジャンルがあるという事を知っていただきたいと思います。
2015年11月9日月曜日
大森安恵(東京女子医科大学) ・糖尿病患者と向き合う
大森安恵(東京女子医科大学 名誉教授) ・糖尿病患者と向き合う
高知県安芸市の生まれ 昭和31年東京女子医科大学を卒業。
日本の糖尿病と妊娠に関する研究分野を確立した方で、世界でも高く評価されています。
平成9年には女性で初めて日本糖尿学会の会長に就任されました。
現在は神奈川県にある海老名糖尿病院のセンター長を務めています。
診察をするには臨床研究とか学会の発表とか社会活動とか、診察以外のことがあるので本当に大変に忙しいです。
診察するには勉強しないといけないです。
11月9日から1週間糖尿病週間 昭和40年から始まる。
鯉に糖尿病があることを日本人が見つけている、現代病と思われているが古くからある病気です。
高知県の山村で生まれ、何故か物ごころついた時にはこの子は医者になる子と言われて育ってきました。
ハンセン病の治療をしていた小川正子先生が恩師で、ああいう先生になりたいという目標がありました。
女学校に行っていたときに、或る先生からこの学校からでは医学への試験は受からないと言われ、昭和23年都立桜町高校(優秀な学校だった)に2年の編入試験を受けていきました。
重圧は無く、やらなければならないという事だけでした。
東京女子医科大学 吉岡彌生先生の学校にあこがれていたので、入学しました。
ひたすら学問をさせられました、遊ぶということは無かったです。
吉岡彌生先生は戦争中に婦人活動をして公職追放されていて、解除されたばかりで、実際にお会いしたのは入学式の時で、ふくよかな優しい方でした。
新聞部に入っていて吉岡彌生先生に
インタビューをしたことがありますし、心から尊敬しています。
「苦しい事は宵越しをしない、今日あった苦しいことは今日片付ける。」
「人に講演、講義をする時には、必ず一番判りそうにない人の顔を見て講演しなさい。」
ということはよく言われました。
吉岡彌生先生と会えたことは、私の人生の幸せであったと思う事の一つです。
昭和34年に亡くなりますが、その時にも当直で亡くなられた時にお世話が出来ました。
昭和34年 結婚 相手は医者ではなかったので父親は絶対だめだと言われたが、何も言わずたった一言だけ「貧乏かもしれないけれども、心は貴族です」と言いました。
父には従わなかったので父親からは怒りと悲しみがあり、親と思ってくれるなと言われ、10年間はずーっと嘆いていました。
父は10年経ってやっぱりこの男と結婚して良かったねと言ってくれました。
医学はやればやるほど深くて、地元に貢献することが前提だったが地元には帰ることができずに、父親からは地域社会よりももっとおおきなところで貢献する様にという風に言ってくれて、10年後に許してくれました。
無給医局員の時に妊娠してしまって、流産してほしいと思ったこともあったが、死産してしまって、悲しみをこらえて診療している時に、偶然二人続けざまに糖尿病の診断がつかなくて死産した方を受け持ちました。
糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでないと言っていたが、悲しむ患者さんを前にして、教授が本を貸してくれて、1921年インスリンが発見されて、1923年には人類を糖尿病から救ったという事でノーベル賞を貰っていて、欧米では糖尿病の患者さんでも妊娠を許可していて、日本では間違っている事を感じた。(昭和36年頃)
糖尿病があっても妊娠できるという事を世の中に広め始めて、女子医科大学で第一例が生まれたのが昭和39年2月でした。
世間では妊娠するとおろされるという事がそれまで多々ありました。
忙しく仕事をしなければならず、私の心を汲んで子供がお腹の中で自殺した、というような思いがあり、子供が死んで導いてくれたと思います。
毎年毎年皇居のお堀端に彼岸花が咲くので、貴方が教えてくれて、導いてくれて日本の糖尿病の患者さんたちが妊娠ができるようになったので有難うって、お礼を言いに毎年欠かさず行きます。
死産の時に病院中が割れる様な泣き声を出して泣いて、赤ちゃんは見せてもらえないし、会っていないが、主人やしゅうとめからこんな子だったと言われ、想像はしています。
糖尿病と妊娠の分野を開拓するために子供が犠牲になって、導いてくれたと思っています。
糖尿病と妊娠の分野は私がやらなければいけないと思いました。
欧米では正常な妊婦さんと同じような血糖値にすれば糖尿病があっても大丈夫だということが確立されつつあって、むこうで一生懸命勉強しました。
昭和30年、40年代は糖尿病を隠して結婚した人がいて、50年代60年代は普通になってきましたが
糖尿病を周りに知られたくないという人、偏見を持って居る人はまだいます。
その後、子供二人を設けて大きくなっていますが、私はほとんど病院だったので、子供達はかわいがってもらえなかったといっていますが、仕事と子育てを両立する事は大学に行ったら大変難しいです。
心理学者の人から、スキンシップが少ないなら、必ず髪をとかしてあげなさいと言われて、必ずやっていました。
医学は日進月歩なので途中で中断したら、元に戻るには凄く時間がかかるので辞めるわけにか行かないので辛いところはありますが、常に勉強していなくてはいけないと思います。
いまだに学会には必ず行って発表もします。
高知県安芸市の生まれ 昭和31年東京女子医科大学を卒業。
日本の糖尿病と妊娠に関する研究分野を確立した方で、世界でも高く評価されています。
平成9年には女性で初めて日本糖尿学会の会長に就任されました。
現在は神奈川県にある海老名糖尿病院のセンター長を務めています。
診察をするには臨床研究とか学会の発表とか社会活動とか、診察以外のことがあるので本当に大変に忙しいです。
診察するには勉強しないといけないです。
11月9日から1週間糖尿病週間 昭和40年から始まる。
鯉に糖尿病があることを日本人が見つけている、現代病と思われているが古くからある病気です。
高知県の山村で生まれ、何故か物ごころついた時にはこの子は医者になる子と言われて育ってきました。
ハンセン病の治療をしていた小川正子先生が恩師で、ああいう先生になりたいという目標がありました。
女学校に行っていたときに、或る先生からこの学校からでは医学への試験は受からないと言われ、昭和23年都立桜町高校(優秀な学校だった)に2年の編入試験を受けていきました。
重圧は無く、やらなければならないという事だけでした。
東京女子医科大学 吉岡彌生先生の学校にあこがれていたので、入学しました。
ひたすら学問をさせられました、遊ぶということは無かったです。
吉岡彌生先生は戦争中に婦人活動をして公職追放されていて、解除されたばかりで、実際にお会いしたのは入学式の時で、ふくよかな優しい方でした。
新聞部に入っていて吉岡彌生先生に
インタビューをしたことがありますし、心から尊敬しています。
「苦しい事は宵越しをしない、今日あった苦しいことは今日片付ける。」
「人に講演、講義をする時には、必ず一番判りそうにない人の顔を見て講演しなさい。」
ということはよく言われました。
吉岡彌生先生と会えたことは、私の人生の幸せであったと思う事の一つです。
昭和34年に亡くなりますが、その時にも当直で亡くなられた時にお世話が出来ました。
昭和34年 結婚 相手は医者ではなかったので父親は絶対だめだと言われたが、何も言わずたった一言だけ「貧乏かもしれないけれども、心は貴族です」と言いました。
父には従わなかったので父親からは怒りと悲しみがあり、親と思ってくれるなと言われ、10年間はずーっと嘆いていました。
父は10年経ってやっぱりこの男と結婚して良かったねと言ってくれました。
医学はやればやるほど深くて、地元に貢献することが前提だったが地元には帰ることができずに、父親からは地域社会よりももっとおおきなところで貢献する様にという風に言ってくれて、10年後に許してくれました。
無給医局員の時に妊娠してしまって、流産してほしいと思ったこともあったが、死産してしまって、悲しみをこらえて診療している時に、偶然二人続けざまに糖尿病の診断がつかなくて死産した方を受け持ちました。
糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでないと言っていたが、悲しむ患者さんを前にして、教授が本を貸してくれて、1921年インスリンが発見されて、1923年には人類を糖尿病から救ったという事でノーベル賞を貰っていて、欧米では糖尿病の患者さんでも妊娠を許可していて、日本では間違っている事を感じた。(昭和36年頃)
糖尿病があっても妊娠できるという事を世の中に広め始めて、女子医科大学で第一例が生まれたのが昭和39年2月でした。
世間では妊娠するとおろされるという事がそれまで多々ありました。
忙しく仕事をしなければならず、私の心を汲んで子供がお腹の中で自殺した、というような思いがあり、子供が死んで導いてくれたと思います。
毎年毎年皇居のお堀端に彼岸花が咲くので、貴方が教えてくれて、導いてくれて日本の糖尿病の患者さんたちが妊娠ができるようになったので有難うって、お礼を言いに毎年欠かさず行きます。
死産の時に病院中が割れる様な泣き声を出して泣いて、赤ちゃんは見せてもらえないし、会っていないが、主人やしゅうとめからこんな子だったと言われ、想像はしています。
糖尿病と妊娠の分野を開拓するために子供が犠牲になって、導いてくれたと思っています。
糖尿病と妊娠の分野は私がやらなければいけないと思いました。
欧米では正常な妊婦さんと同じような血糖値にすれば糖尿病があっても大丈夫だということが確立されつつあって、むこうで一生懸命勉強しました。
昭和30年、40年代は糖尿病を隠して結婚した人がいて、50年代60年代は普通になってきましたが
糖尿病を周りに知られたくないという人、偏見を持って居る人はまだいます。
その後、子供二人を設けて大きくなっていますが、私はほとんど病院だったので、子供達はかわいがってもらえなかったといっていますが、仕事と子育てを両立する事は大学に行ったら大変難しいです。
心理学者の人から、スキンシップが少ないなら、必ず髪をとかしてあげなさいと言われて、必ずやっていました。
医学は日進月歩なので途中で中断したら、元に戻るには凄く時間がかかるので辞めるわけにか行かないので辛いところはありますが、常に勉強していなくてはいけないと思います。
いまだに学会には必ず行って発表もします。
2015年11月8日日曜日
東 ちづる(女優) ・どんな「わたし」でも大切に生きる(H27/6/19 放送)
東 ちづる(女優) ・どんな「わたし」でも大切に生きる(H27/6/19 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_19.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_19.htmlをご覧ください。
2015年11月7日土曜日
佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表) ・コウノトリが豊岡を変えた!
佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表) ・コウノトリが豊岡を変えた!
66歳兵庫県豊岡市にある市民団体コウノトリ湿地ネット代表です。
豊岡市役所に務めていた1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
平成11年にオープンした県立コウノトリの里公園の建設を県に働き掛け、平成17年日本初の放鳥にも貢献しました。
平成20年に退職して、コウノトリ湿地ネットを設立、豊岡市の委託を受けコウノトリのえさ場となっているハチゴロウの豊島湿地を管理し、コウノトリの住む環境を整え守る活動をしています。
今年は野生復帰から10年、野生のコウノトリは豊岡市を中心に全国で80羽あまりになりました。
汽水域 海まで意図的に繋げる水路を造ったので海水が混じった汽水域なのでいろんな魚が入り易くしました。
コウノトリが食べやすい様に水深も調整できるようにしました。
身長は1.15mあるので日本でも最大級の鳥で、羽根を広げると2mにもなります。
くちばしがまっすぐで長くて大きい。
繁殖期は春で、3月に卵を産んで、4月に雛がかえって2カ月で大きくして巣立ちが6月、親子で飛び方を教えたり教育します。
7月から8月に子育てが終わり、子供は親の縄張りから出ていかなければ行けなくて、秋には一服して、夫婦で絆を確かめあうような時期です。
豊岡では野生のコウノトリが今年新たに14羽生まれ、全部で全国では90羽越えたと思います。
豊岡では50~60羽います。
1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
最初コウノトリには関心は無かったです。
文化財の保護等の一環としてコウノトリを保護増殖の仕事もあった。
どんどんコウノトリの魅力に染まっていってのめり込んでいってしまいました。
飼育所に泊りこんだり、夜も昼も休みなく一気に入ったと言う感じです。
かつては日本の各地青森から九州までいたらしいのですが、江戸末期が一番沢山いて、明治維新で近代国家になり、経済優先で生き物が排除され、20年ちょっとぐらいでほとんどいなくなってしまった。
乱獲時期に豊岡市では明治37年からコウノトリ保護をやっている。
大正14年には鶴山が日本の天然記念物になる。
昭和9年に20つがいいました。
戦争が始まる頃には少なくなって、戦後昭和25年には2つがいしかいなかったという報告がある。
昭和30年以降、剥製からDNAが検出され、最後の12羽の個体が残っているが、その剥製から検出された遺伝子は皆同じでした。
野生動物が絶滅に至る最後の段階は孤立した小集団に陥ると、近親婚を繰り返すしかなく、抵抗力が亡くなり、絶熱してしまった。
山から雨水が降りてくると小川に行って、田んぼに入って行って川に流れて行って、水で繋がってていて、産卵するころはたんぼにはいっていって、稚魚が育って川には言って行って豊かだったが、昭和30年代後半米の生産性を良くするために水のつながりがなくなり、田んぼが大きくなり孤立し、農薬を使って、機械を使って、生き物はほとんど住めなくなってしまった。
コウノトリは肉食で大飯ぐらいで、小さい亀でも、ナマズ、ミミズ、トンボ、ネズミ、カエルでも何でも食べる。
1日400~500g どじょうで70~80匹相当する量をたべる。
1971年昭和46年に豊岡市の最後の野生の一羽が死亡してしまう。
人工飼育で細々とやっていて9羽になり、旧ソ連から野生の鳥を6羽貰って、1組が平成元年に繁殖して25年ぶりに雛が初めて生まれた。
コウノトリを守る施設も必要だという事になり、推進するためにやろうという事で始める。
コウノトリの生息地を作ってゆく必要があり、農薬を使わない農業を考えてゆくということだが、とっても無理なことだったが、その中のの一部の人が環境を考えようというぐるーぷがでてきて、あいがもに雑草を食べてもらう、無農薬農業を始めて、行政もサポートして、グループ化ができてきて、JAと行政、農家グループの三者の連携ができたことが一番大きかったと思います。
いろいろ議論して生まれたのがコウノトリ育む農法。
川から魚が移動できるように水田魚道という階段を作りました。
東北の人達が冬にも水を張れば雁がそこにも住めるというし、餌にもなるとう冬水田んぼに取り組んだのをこちらにも取りよせてそういう農業を始めました。
休耕田、放棄田を利用して水を張ってコウノトリのえさ場になる様なものにもしました。
コウノトリは害鳥だったので、大多数が反対だったが、一気に変わったわけではなく、或る老人日本を見せられて、こういう農業をするとホタルやどじょうが帰ってきて稲も元気になる、けのうになるとかいてあって、わしはそういう農業をしたいがそのように出来ないので、まず役所でやってくれないだろうかという事で、そういう本物の農業をやりたい人が何人かいるんだと判った。
その人を核にしてやればできるのではないかと思った。
2002年8月54日に野生のコウノトリが来た、それで「ハチゴロウ」と呼ぶ。
それを見た人達は凄い感動が生まれた。
コウノトリは有害だと言われたが、いろいろ教えてもらって調査の結果、有害とはいえないことがわかった。
平成17年春ごろからここの場所に降りてきて、土地改良が始まっていたが、市役所が間に入って湿地にしましょうと湿地ができました。 「ハチゴロウ湿地」
2005年に初めて5羽放鳥、ようやく野にかえせるという事と何千人と言う人が来て凄い関心があったのかという事に感動しました。
2007年野生のひなが生まれるが、こんなに早いとはおもわなかった。
2012年に流域一帯がラムサール条約の登録湿地になる。
無農薬農業が始まったと言ってもまだ微々たるものなので、無農薬で2%、育む農法で10数%、無農薬を半分にするというのはまだまだ大変なことです。
今は外にコウノトリは出て行っているので、今後どうネットワークするのかが急がれている問題です。
豊岡市の60羽は田んぼは半分になりもう飽和状態だと思います。
外に広がっているという事はとってもいいことだと思います。
福井県越前市、千葉県野田市でのコウノトリの放鳥があり、コウノトリを育む農法が広がってきていると思います。
韓国にもコウノトリの里公園のコウノトリがいっている。(韓国でも絶滅している)
コウノトリが住める環境は人間にとっても豊かないい環境なんだという事で、農業を本物のにしてゆく人たちがいる、広がって来ているという事で、コウノトリのお陰で豊岡は変わりつつあると言えると思います。
66歳兵庫県豊岡市にある市民団体コウノトリ湿地ネット代表です。
豊岡市役所に務めていた1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
平成11年にオープンした県立コウノトリの里公園の建設を県に働き掛け、平成17年日本初の放鳥にも貢献しました。
平成20年に退職して、コウノトリ湿地ネットを設立、豊岡市の委託を受けコウノトリのえさ場となっているハチゴロウの豊島湿地を管理し、コウノトリの住む環境を整え守る活動をしています。
今年は野生復帰から10年、野生のコウノトリは豊岡市を中心に全国で80羽あまりになりました。
汽水域 海まで意図的に繋げる水路を造ったので海水が混じった汽水域なのでいろんな魚が入り易くしました。
コウノトリが食べやすい様に水深も調整できるようにしました。
身長は1.15mあるので日本でも最大級の鳥で、羽根を広げると2mにもなります。
くちばしがまっすぐで長くて大きい。
繁殖期は春で、3月に卵を産んで、4月に雛がかえって2カ月で大きくして巣立ちが6月、親子で飛び方を教えたり教育します。
7月から8月に子育てが終わり、子供は親の縄張りから出ていかなければ行けなくて、秋には一服して、夫婦で絆を確かめあうような時期です。
豊岡では野生のコウノトリが今年新たに14羽生まれ、全部で全国では90羽越えたと思います。
豊岡では50~60羽います。
1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
最初コウノトリには関心は無かったです。
文化財の保護等の一環としてコウノトリを保護増殖の仕事もあった。
どんどんコウノトリの魅力に染まっていってのめり込んでいってしまいました。
飼育所に泊りこんだり、夜も昼も休みなく一気に入ったと言う感じです。
かつては日本の各地青森から九州までいたらしいのですが、江戸末期が一番沢山いて、明治維新で近代国家になり、経済優先で生き物が排除され、20年ちょっとぐらいでほとんどいなくなってしまった。
乱獲時期に豊岡市では明治37年からコウノトリ保護をやっている。
大正14年には鶴山が日本の天然記念物になる。
昭和9年に20つがいいました。
戦争が始まる頃には少なくなって、戦後昭和25年には2つがいしかいなかったという報告がある。
昭和30年以降、剥製からDNAが検出され、最後の12羽の個体が残っているが、その剥製から検出された遺伝子は皆同じでした。
野生動物が絶滅に至る最後の段階は孤立した小集団に陥ると、近親婚を繰り返すしかなく、抵抗力が亡くなり、絶熱してしまった。
山から雨水が降りてくると小川に行って、田んぼに入って行って川に流れて行って、水で繋がってていて、産卵するころはたんぼにはいっていって、稚魚が育って川には言って行って豊かだったが、昭和30年代後半米の生産性を良くするために水のつながりがなくなり、田んぼが大きくなり孤立し、農薬を使って、機械を使って、生き物はほとんど住めなくなってしまった。
コウノトリは肉食で大飯ぐらいで、小さい亀でも、ナマズ、ミミズ、トンボ、ネズミ、カエルでも何でも食べる。
1日400~500g どじょうで70~80匹相当する量をたべる。
1971年昭和46年に豊岡市の最後の野生の一羽が死亡してしまう。
人工飼育で細々とやっていて9羽になり、旧ソ連から野生の鳥を6羽貰って、1組が平成元年に繁殖して25年ぶりに雛が初めて生まれた。
コウノトリを守る施設も必要だという事になり、推進するためにやろうという事で始める。
コウノトリの生息地を作ってゆく必要があり、農薬を使わない農業を考えてゆくということだが、とっても無理なことだったが、その中のの一部の人が環境を考えようというぐるーぷがでてきて、あいがもに雑草を食べてもらう、無農薬農業を始めて、行政もサポートして、グループ化ができてきて、JAと行政、農家グループの三者の連携ができたことが一番大きかったと思います。
いろいろ議論して生まれたのがコウノトリ育む農法。
川から魚が移動できるように水田魚道という階段を作りました。
東北の人達が冬にも水を張れば雁がそこにも住めるというし、餌にもなるとう冬水田んぼに取り組んだのをこちらにも取りよせてそういう農業を始めました。
休耕田、放棄田を利用して水を張ってコウノトリのえさ場になる様なものにもしました。
コウノトリは害鳥だったので、大多数が反対だったが、一気に変わったわけではなく、或る老人日本を見せられて、こういう農業をするとホタルやどじょうが帰ってきて稲も元気になる、けのうになるとかいてあって、わしはそういう農業をしたいがそのように出来ないので、まず役所でやってくれないだろうかという事で、そういう本物の農業をやりたい人が何人かいるんだと判った。
その人を核にしてやればできるのではないかと思った。
2002年8月54日に野生のコウノトリが来た、それで「ハチゴロウ」と呼ぶ。
それを見た人達は凄い感動が生まれた。
コウノトリは有害だと言われたが、いろいろ教えてもらって調査の結果、有害とはいえないことがわかった。
平成17年春ごろからここの場所に降りてきて、土地改良が始まっていたが、市役所が間に入って湿地にしましょうと湿地ができました。 「ハチゴロウ湿地」
2005年に初めて5羽放鳥、ようやく野にかえせるという事と何千人と言う人が来て凄い関心があったのかという事に感動しました。
2007年野生のひなが生まれるが、こんなに早いとはおもわなかった。
2012年に流域一帯がラムサール条約の登録湿地になる。
無農薬農業が始まったと言ってもまだ微々たるものなので、無農薬で2%、育む農法で10数%、無農薬を半分にするというのはまだまだ大変なことです。
今は外にコウノトリは出て行っているので、今後どうネットワークするのかが急がれている問題です。
豊岡市の60羽は田んぼは半分になりもう飽和状態だと思います。
外に広がっているという事はとってもいいことだと思います。
福井県越前市、千葉県野田市でのコウノトリの放鳥があり、コウノトリを育む農法が広がってきていると思います。
韓国にもコウノトリの里公園のコウノトリがいっている。(韓国でも絶滅している)
コウノトリが住める環境は人間にとっても豊かないい環境なんだという事で、農業を本物のにしてゆく人たちがいる、広がって来ているという事で、コウノトリのお陰で豊岡は変わりつつあると言えると思います。
2015年11月6日金曜日
塚本こなみ(樹木医) ・物言わぬ樹木が教えてくれたこと
塚本こなみ(樹木医 はままつフラワーパーク理事長) ・物言わぬ樹木が教えてくれたこと
1949年静岡県生まれ 結婚相手が造園業で、結婚を機会に植えた樹木を守り育てる緑化の仕事を始めました。
女性として初めて樹木の病気の診断や治療に当たる樹木医の資格を取りました。
1994年には栃木県のあしかがフラワーパークで移植は不可能とされた、幹の太さが1m以上ある藤の移植に成功、その後あしかがフラワーパークは藤のガーデンとして年間入場者数が100万人に達する迄になりました。
塚本さんは現在静岡県のはままつフラワーパークの経営を任されています。
世界一美しい桜とチューリップの庭園をキャッチフレーズに魅力ある庭園作りに取り組んでいます。
言葉を話さない木や花から生きる力を貰っているとおっしゃる塚本さんに伺います。
樹木全体の形、先端枯れが無いとか、幹にむろが無いかとか、虫が無いかとか、まず見えるものから目視をして、原因が判断できる場合はいいのですが、そうでない場合は土を試し掘りして、土の中の根の様子を見たり、土の中から病原菌、腐朽菌が出てきたりして、きのこ等が付いているのを見たり、環境とか(踏まれて土が硬くなる)、樹木が弱る原因はいろんな事があります。
1km先に道路ができた、河川改修、マンションができたという事で木が弱ることがあるが、地下水道が変わって、水が届かなくなってしまったりする。
診断は幅広く見る必要がある。
20代前半でこの世界に入って、環境が悪いのに土壌改良をしないで植えざるを得ない時もあり、枯れるのではないかという危惧を持ちながら植えてゆく場面とかあるが、先祖から譲り受けている樹木が元気が無いので見てほしいとか、移植してほしいとかあり、どうすれば元気になれるのか、どうしたらうまく移植ができるのかなどの場面がいろいろあり、木にかかわるようになった。
造園業はほぼ男性社会でした。(今は少しずつ変化)
栃木県あしかがフラワーパークの藤の移植
幹周り3.65m 棚面積 1本で600平方m それを20km運びたいとの要請だった。
大学や、造園業何十社に相談したがどこも引き受け手がなくて、移植してくれるところがなくて4年間放置されていて、電話があり依頼があった。(樹木医を始めて1年3カ月の時)
藤の木を見に行って、素晴らしい生命力を感じた。
これは動くと感じて、引き受けることにした。
文献を調べたら、或る本から藤の移植は容易である、長い根があるから長い根を切らずに掘り上げ、土は根には付けられないから土はふるって落として、わらとかこもでまいて2月の末にやれば移植は可能である、しかし藤の移植は直径60cmまでであると付け加えてあった。
明治時代の文献だったので、今は重機等があるので、直径1mなので何とかなるのではないかと思った。
棚面積600平方mのものを300平方mに切りつめ、トレーラーに合わせて16mの直径に根をきって引っ越し用の新しい根を作る作業をした。
切り詰めた枝から5~6.m腐りが入って、一夏過ぎてから枝が落ちてしまった。
藤は木ではなく草に近いものだと思った。
幹を傷つけてはいけないので、どうやって吊りあげるかが問題となる。
幹の養生をどうするか、吊りあげをどうするかが課題で悩んで悩みぬいた。
300平方mに切りつめ枝を、さらにトレーラーの12×6mの大きさに切り詰めねばならず、運ぶ1か月前に気が付いたのが、幹に石膏包帯を巻いてギブスを作る方法を考えた。
直径1mある幹に石膏包帯を巻いてギブスをして、その上にベルトをかけてベルトを鉄骨に固定して、鉄骨をクレーンでつり上げる方法で行った。
土壌改良をして根が直ぐに活着して、根から吸いあがった水で新しい蔓が伸びるようにしてやると、そこで腐りが止まるので、早く元気な蔓を出させることが腐りを止める方法です。
腐ったところは全ての薬でだめだったが、最後に炭の液を考え、木材を被膜して保護して腐りを遅くするのではないかと考え、実行したが駄目だった。
周りに相談したが、腐りは止まらないとの事だった。
体力を付けさせると、どんどん腐りが収まってくる。
腐りとの境目に防御層ができてくるが、人間ではかさぶたができてきてそれを取ると駄目なので、藤のその境が明確になったのが5年目だった。
藤が教えてくれたと大騒ぎした。
足利フラワーパークの再建
まずは市場調査(同業他社)を行った。
ピンポイントでチラシを群馬県藤岡市、埼玉県春日部市、東京亀戸天神周辺等、藤の名所3か所に「あしかがフラワーパーク 世界一の藤のガーデン」という内容で配布し、挑戦状の様な感じで、却ってその名所の方の車が増えて見学者が増えました。
藤が美しくなるまでには年月がかかり、72平方m→工事中200平方m→翌年300平方m→園長就任時には500平方mになっていた。(運営も戦略を立ててうまく行った)
あしかがフラワーパークからは色々な事を学ばせてもらった。
はままつフラワーパークの運営責任者に成る。
担当者からこのパークにはこんなにいっぱい種類があるとの説明を受けたが、一杯種類があるのは何にもないと同じ事だと言って、これしかないというのを作りなさいと言ったら、桜1300本とチューリップで呼びたいという事で、チューリップ10万球だったものを1年目に30万球にして日本一美しい桜とチューリップの庭園を目指そうという事にした。(方針と目的を明確にする)
1年目で30万人呼ぶ目標を立てた。
通年800円だったが、3~6月に65~70%入場者数がおり、7、8、9月は2%なので無料にする。
10~2月も実質的に無料、3~6月は600~1000円の変動料金制にする。
はままつフラワーパークは公立の植物園なので、議会にかけて条例を変えてもらって、変動料金制を導入した。
あしかがフラワーパークは100万人になり、はままつフラワーパークは1年目30万人目標に対して40万人(黒字化する)、昨年は77万人入りました。
チューリップは50万球、桜は1300本と両方あるのはどこにもない、世界一を目指す。
「樹恩」という言葉をやっと今、自分の言葉としていろんな風に発信をするようになりました。
50年60年しか生きてこなかった私が大自然の樹木を治療してもいいのかという思いがあった。
大きな樹木を前にしていつも感じるのは自分の未熟さしか感じない。
樹木医に成って23年経ちましたが、ちょっと木の気持ちを少し理解出来、木をどうしたらいいのか等沢山の学びをさせて頂き、初めて「樹恩」と言う本当の意味と言葉の重みを感じながら使えるようになりました。
手紙等の最後に「樹恩」という言葉で結びを出来るようになりました。
人生は一本の線ではない、一日と言う点である、その点が365日打ってゆくと1年という線になり、10年20年となり、人生は一日という点をどれだけしっかりした点を打ってゆくか、一日という点を打ち続けることが人生だと思っています。
線だと思うと惰性で行ってしまうので、次の日は又新しく生まれて一日と言う人生を過ごす。
海外に藤を植えるプロジェクトが進んでいます、私は藤に会うためにこの世に生まれてきたのかと思うほど藤を愛しています。
園芸療法
植物の成長過程を自分の喜びとしていって、自分の心が整う。
はままつフラワーパークで園芸療法を越えて園芸福祉までやっていきたい。
引きこもりの人たちが3人来てくれて、就職が決まったり、はままつフラワーパークで働きたいという人が来てくれた。
時間はかかるかもしれないが技術を身に付けながら、職人さんになってくれればいいと思っています。
園芸療法は自分が手を掛け心をかけたものが花を咲かせる、その喜びを感じて、お客様が見て人様が喜んでくれて、その喜んでくださることが自分の自信につながり、生きてゆく力になる。
はままつフラワーパークで園芸療法をやっていただいて、心が整ったところで社会に出て頂く、そういう場所にならなければいけないと思います、それが一番やりたいことかも知れません。
1949年静岡県生まれ 結婚相手が造園業で、結婚を機会に植えた樹木を守り育てる緑化の仕事を始めました。
女性として初めて樹木の病気の診断や治療に当たる樹木医の資格を取りました。
1994年には栃木県のあしかがフラワーパークで移植は不可能とされた、幹の太さが1m以上ある藤の移植に成功、その後あしかがフラワーパークは藤のガーデンとして年間入場者数が100万人に達する迄になりました。
塚本さんは現在静岡県のはままつフラワーパークの経営を任されています。
世界一美しい桜とチューリップの庭園をキャッチフレーズに魅力ある庭園作りに取り組んでいます。
言葉を話さない木や花から生きる力を貰っているとおっしゃる塚本さんに伺います。
樹木全体の形、先端枯れが無いとか、幹にむろが無いかとか、虫が無いかとか、まず見えるものから目視をして、原因が判断できる場合はいいのですが、そうでない場合は土を試し掘りして、土の中の根の様子を見たり、土の中から病原菌、腐朽菌が出てきたりして、きのこ等が付いているのを見たり、環境とか(踏まれて土が硬くなる)、樹木が弱る原因はいろんな事があります。
1km先に道路ができた、河川改修、マンションができたという事で木が弱ることがあるが、地下水道が変わって、水が届かなくなってしまったりする。
診断は幅広く見る必要がある。
20代前半でこの世界に入って、環境が悪いのに土壌改良をしないで植えざるを得ない時もあり、枯れるのではないかという危惧を持ちながら植えてゆく場面とかあるが、先祖から譲り受けている樹木が元気が無いので見てほしいとか、移植してほしいとかあり、どうすれば元気になれるのか、どうしたらうまく移植ができるのかなどの場面がいろいろあり、木にかかわるようになった。
造園業はほぼ男性社会でした。(今は少しずつ変化)
栃木県あしかがフラワーパークの藤の移植
幹周り3.65m 棚面積 1本で600平方m それを20km運びたいとの要請だった。
大学や、造園業何十社に相談したがどこも引き受け手がなくて、移植してくれるところがなくて4年間放置されていて、電話があり依頼があった。(樹木医を始めて1年3カ月の時)
藤の木を見に行って、素晴らしい生命力を感じた。
これは動くと感じて、引き受けることにした。
文献を調べたら、或る本から藤の移植は容易である、長い根があるから長い根を切らずに掘り上げ、土は根には付けられないから土はふるって落として、わらとかこもでまいて2月の末にやれば移植は可能である、しかし藤の移植は直径60cmまでであると付け加えてあった。
明治時代の文献だったので、今は重機等があるので、直径1mなので何とかなるのではないかと思った。
棚面積600平方mのものを300平方mに切りつめ、トレーラーに合わせて16mの直径に根をきって引っ越し用の新しい根を作る作業をした。
切り詰めた枝から5~6.m腐りが入って、一夏過ぎてから枝が落ちてしまった。
藤は木ではなく草に近いものだと思った。
幹を傷つけてはいけないので、どうやって吊りあげるかが問題となる。
幹の養生をどうするか、吊りあげをどうするかが課題で悩んで悩みぬいた。
300平方mに切りつめ枝を、さらにトレーラーの12×6mの大きさに切り詰めねばならず、運ぶ1か月前に気が付いたのが、幹に石膏包帯を巻いてギブスを作る方法を考えた。
直径1mある幹に石膏包帯を巻いてギブスをして、その上にベルトをかけてベルトを鉄骨に固定して、鉄骨をクレーンでつり上げる方法で行った。
土壌改良をして根が直ぐに活着して、根から吸いあがった水で新しい蔓が伸びるようにしてやると、そこで腐りが止まるので、早く元気な蔓を出させることが腐りを止める方法です。
腐ったところは全ての薬でだめだったが、最後に炭の液を考え、木材を被膜して保護して腐りを遅くするのではないかと考え、実行したが駄目だった。
周りに相談したが、腐りは止まらないとの事だった。
体力を付けさせると、どんどん腐りが収まってくる。
腐りとの境目に防御層ができてくるが、人間ではかさぶたができてきてそれを取ると駄目なので、藤のその境が明確になったのが5年目だった。
藤が教えてくれたと大騒ぎした。
足利フラワーパークの再建
まずは市場調査(同業他社)を行った。
ピンポイントでチラシを群馬県藤岡市、埼玉県春日部市、東京亀戸天神周辺等、藤の名所3か所に「あしかがフラワーパーク 世界一の藤のガーデン」という内容で配布し、挑戦状の様な感じで、却ってその名所の方の車が増えて見学者が増えました。
藤が美しくなるまでには年月がかかり、72平方m→工事中200平方m→翌年300平方m→園長就任時には500平方mになっていた。(運営も戦略を立ててうまく行った)
あしかがフラワーパークからは色々な事を学ばせてもらった。
はままつフラワーパークの運営責任者に成る。
担当者からこのパークにはこんなにいっぱい種類があるとの説明を受けたが、一杯種類があるのは何にもないと同じ事だと言って、これしかないというのを作りなさいと言ったら、桜1300本とチューリップで呼びたいという事で、チューリップ10万球だったものを1年目に30万球にして日本一美しい桜とチューリップの庭園を目指そうという事にした。(方針と目的を明確にする)
1年目で30万人呼ぶ目標を立てた。
通年800円だったが、3~6月に65~70%入場者数がおり、7、8、9月は2%なので無料にする。
10~2月も実質的に無料、3~6月は600~1000円の変動料金制にする。
はままつフラワーパークは公立の植物園なので、議会にかけて条例を変えてもらって、変動料金制を導入した。
あしかがフラワーパークは100万人になり、はままつフラワーパークは1年目30万人目標に対して40万人(黒字化する)、昨年は77万人入りました。
チューリップは50万球、桜は1300本と両方あるのはどこにもない、世界一を目指す。
「樹恩」という言葉をやっと今、自分の言葉としていろんな風に発信をするようになりました。
50年60年しか生きてこなかった私が大自然の樹木を治療してもいいのかという思いがあった。
大きな樹木を前にしていつも感じるのは自分の未熟さしか感じない。
樹木医に成って23年経ちましたが、ちょっと木の気持ちを少し理解出来、木をどうしたらいいのか等沢山の学びをさせて頂き、初めて「樹恩」と言う本当の意味と言葉の重みを感じながら使えるようになりました。
手紙等の最後に「樹恩」という言葉で結びを出来るようになりました。
人生は一本の線ではない、一日と言う点である、その点が365日打ってゆくと1年という線になり、10年20年となり、人生は一日という点をどれだけしっかりした点を打ってゆくか、一日という点を打ち続けることが人生だと思っています。
線だと思うと惰性で行ってしまうので、次の日は又新しく生まれて一日と言う人生を過ごす。
海外に藤を植えるプロジェクトが進んでいます、私は藤に会うためにこの世に生まれてきたのかと思うほど藤を愛しています。
園芸療法
植物の成長過程を自分の喜びとしていって、自分の心が整う。
はままつフラワーパークで園芸療法を越えて園芸福祉までやっていきたい。
引きこもりの人たちが3人来てくれて、就職が決まったり、はままつフラワーパークで働きたいという人が来てくれた。
時間はかかるかもしれないが技術を身に付けながら、職人さんになってくれればいいと思っています。
園芸療法は自分が手を掛け心をかけたものが花を咲かせる、その喜びを感じて、お客様が見て人様が喜んでくれて、その喜んでくださることが自分の自信につながり、生きてゆく力になる。
はままつフラワーパークで園芸療法をやっていただいて、心が整ったところで社会に出て頂く、そういう場所にならなければいけないと思います、それが一番やりたいことかも知れません。
2015年11月5日木曜日
桜井邦朋(宇宙物理学者) ・果てしない宇宙と太陽の魅力を語る
*明日から2日間、少旅行に出かけますので、2日間休みます。
桜井邦朋(宇宙物理学者 元神奈川大学学長) ・果てしない宇宙と太陽の魅力を語る
1933年昭和8年埼玉県の生まれ 農家の長男として生まれた桜井さんは、小学生のころから学校から帰ると家畜の世話をしたり農作業の手伝いをしたりして、将来は農家の後継ぎになることを考えていました。
宇宙物理学者となった第一歩は高校二年の時に担任の先生が父親に、桜井さんの大学進学を勧めたのがきっかけでした、。
その後京都大学大学院地球物理学博士課程終了後、工学部助手、助教授を経て、アメリカ航空宇宙局NASAの主任研究員として、太陽の高エネルギーの研究に携わります。
桜井さんは物質を作る最少粒子、素粒子の一種、ニュートリノの数と太陽の黒点の数が関連していることを発見し、「桜井の周期性」として宇宙物理学の世界に名を知られています。
82歳の今も早稲田大学理工学術院総合研究所で宇宙誕生と進化の謎を解き明かす研究を続けています。
天の川の端から端まで10万光年掛かる。
天の川銀河は1000億個有る銀河の一つに過ぎない。
太陽から地球までの光は8分14秒しかかからない。
海王星までは 1時間ぐらい
宇宙の端は現在判らない。
ハッブルが調べてみたら、銀河が遠ざかっている事を見つけて、同じ割合で宇宙はあらゆる方向に遠ざかっている事を発見した。(宇宙は膨張している)
宇宙は大爆発をして広がってゆくと考えたのがジョージ・ガモフ。
宇宙の膨張には始まりがあり、宇宙は拡大してゆくという宇宙膨張論。
フレッド・ホイル、ヘルマン・ボンディ、トーマス・ゴールドの3人は宇宙は膨張するけれども、同じ状態を保っていて、広がった分に100年に1個陽子(水素原子)が誕生して埋め合わせて、宇宙は一定の密度を保ちながら膨張している、絶えざる創造という考え方で、定常宇宙論(1950年前後)を唱えたが、1946年にガモフは宇宙には始まりがあったのではないかと、その結果膨張が起きていると唱えた。
当時は多くの人はそんなことがあったとは思えないと考えていた。
ホイルはからかうつもりでビックバン宇宙論という名を付けた。
1912,3年ごろ、ハーバード大学のヘンリエッタ・スワン・リービット(女性)が遠いところの銀河までの距離を丹念に観察して或る規則が判って、宇宙の姿が判るようになったが、彼女はノーベル賞を貰えなかった。
ニュートリノを作るのが太陽の中心部で、水素原子核4個からヘリウムを作り出すが、その時に0.7%軽くなるが、軽くなったものは太陽を輝かすエネルギーになり、水素は毎秒6億4500万トン位使われている。(水素は減ってくる)
太陽は約50億年経つので中心部は半分ヘリウムになってしまっている。
まだ後50億年は安心していられる。
大量の水素を使っているので大量のニュートリノを生みだし、ほとんど光の速さで宇宙空間に飛びだす。
ニュートリノは身体の中を突き抜けて行っている。
1平方cmの面積を毎秒1000億個通過する。
ニュートリノは3種類あり、
①μニュートリノ ②電子ニュートリノ ③τニュートリノ(電子ニュートリノの1万倍の重さがある)
レイモンド・デイビスが太陽の中心部でどんなことが起こっているか実験的に明らかにしようとした。
南ダコタ州の金鉱の地下1000mに太陽からやってくるニュートリノを捕まえようと装置を作ったが、ごく一部を捕まえることはできる。
装置は400トン位のパークロロエチレン(四塩化エチレン)という化合物を使って1日に数個位が反応する。
ニュートリノがどんな性質を持っているのか、どんな働きをしているか判れば宇宙の歴史の研究に役に立つ。
今も太陽からやってくるニュートリノの何千倍のエネルギーのニュートリノの観測をしようとアメリカで、南極の地下1000mぐらいに装置を作ってやっています。
あらゆる方向からやってくるので、宇宙の構造はどっちを見ても同じような構造をしている。
宇宙は1点から始まり(インフレーション)、138億年経っている。
太陽系は誕生から約50億年です。
イギリスのダラムにいたオルフェンデル?がセミナーをやるというので、会いたくて手紙を出して、三宅三郎所長と3人で雑談しました。
ニュートリノの地球にやってくる数が増えたり減ったりしているというので、その様に見えると私も思った。
エルニーニョ等も周期的にやってくることがあるので、太陽からやってくるニュートリノの増減も似ていると思ってそれからが研究の始まりだった。
デイビス先生の太陽の黒点数の10年のデータ、変動がかさなっていました。
太陽の周期が11年周期で、その周期に乗かって小さな揺らぎがありそれが26カ月で、デイビス先生のニュートリノの観測結果と合わせると、時間的にそういう変動があり、太陽の中心部で黒点の活動を動かしているのではないかと考えて、細かく調べたら同じように変動が起こっており、論文を書いてネーチャーに投稿したら、駄目だった。
再度作りなおして投稿したがやはりだめだった。
三度目もやったがやはり駄目だった。
癪に障るのでネーチャーの編集長に、レフリーがいる限り私の論文は日の目を見ないのでレフリーを変えてほしいと手紙を書いた。
編集長のジョン・マドックスから手紙が来て、私の判断で貴方の論文を受けるけることにした、1979年3月8日号に載せるつもりだという事で嬉しかった。
ホーボルト?(現在オーストリア国連本部のアウタースペースオフィスのチーフ)という人が「桜井の周期性」と呼びたいとの論文が出されて、「桜井の周期性」という名前が付けられることになった。
父は百姓をやっていて、長男が家の仕事を継ぐという事で思っていたが、牛ヒツジなどの世話をやって来ていたが、高校二年の時にPTAの総会に行った時に担任から大学を受けさせてみろと言われたとの事で、長男だから行ける訳ないだろうと逆に父に言った、或るときやはり行きたいと言ったら、一つだけでしくじったら駄目だと言われた。
大学に受かって、1年、2年は生物学をやっていたが、物理学をやりたいと思ったが地球物理学の研究室に入ることになったが、長谷川万吉先生は私は指導しないよ、研究したいことが見つかったら言ってきなさいと言われた。
今思い返しても有難かったなあと思います。
広野求和という当時の助手の方が、こんな論文を見てくれると言って、いろいろ論文を紹介してくれて、或る本を読んでみないかと言われて、シカゴ大学のカイパーという教授が編集した「THE SUN」という雑誌だった。
100~400km上空は大気がイオン化していて電離層という、電離層の電流のもとは太陽からやってくる紫外線とかX線なので、太陽の変動(フレア等の爆発現象)が地球でどんな現象が起こるか関係があって、太陽-地球関係の研究ができるので、勉強させようと広野求和先生は考えたのではと思います。
本を和訳してノートに細かく書き残した。(この事で理解が深まる)
太陽を研究する事にしたが、長谷川万吉先生からここは地球物理学室だぞと言われたが、お前が決めたのならばとことんやりなさいと言われてその後太陽一筋できました。
アメリカに太陽研究で行く事になる。
日本では1つの論文に何カ月もかかるのに、1年に6,7つもの論文を書きましたし、いろいろな人々と付き合う事が出来、人脈が出来ました。
オックスフォード大学のチャップマンが日本に来た時に、日本風の宿屋で寝起きしたいという事で先生の身の回りの世話をしろと言われて、食べものから箸の使い方、風呂で背中を流すことなどもやって、3週間一緒に過ごしました。
英語の論文を見てもらったら、真っ赤に直された。
チャップマン先生からは将来、或る分野の研究で有名になってエキスパートになったら恩返しをしないといけないと言われた。
「太陽宇宙線の物理学」という400ページの大著でした。
太陽の黒点の周期は11年周期で変化していますが、最近の10年ぐらいは太陽はとっても静かで、昔もあったが、一番有名なのが17世紀半ばから18世紀の約70年間は寒冷期だった。
なつでもテムズ川が凍ってしまった。
無黒点がこのまま続いたら地球も寒冷化してしまうのではないかと思います。
1975年 国際会議でエディーが黒点が無い時代が14世紀、16世紀、19世紀に変わる頃にもあったという話があったが、そんなバカな事があるのかと多くの人が言っていた。
太陽はとんでもない変化をするので謎はいっぱいあります。
桜井邦朋(宇宙物理学者 元神奈川大学学長) ・果てしない宇宙と太陽の魅力を語る
1933年昭和8年埼玉県の生まれ 農家の長男として生まれた桜井さんは、小学生のころから学校から帰ると家畜の世話をしたり農作業の手伝いをしたりして、将来は農家の後継ぎになることを考えていました。
宇宙物理学者となった第一歩は高校二年の時に担任の先生が父親に、桜井さんの大学進学を勧めたのがきっかけでした、。
その後京都大学大学院地球物理学博士課程終了後、工学部助手、助教授を経て、アメリカ航空宇宙局NASAの主任研究員として、太陽の高エネルギーの研究に携わります。
桜井さんは物質を作る最少粒子、素粒子の一種、ニュートリノの数と太陽の黒点の数が関連していることを発見し、「桜井の周期性」として宇宙物理学の世界に名を知られています。
82歳の今も早稲田大学理工学術院総合研究所で宇宙誕生と進化の謎を解き明かす研究を続けています。
天の川の端から端まで10万光年掛かる。
天の川銀河は1000億個有る銀河の一つに過ぎない。
太陽から地球までの光は8分14秒しかかからない。
海王星までは 1時間ぐらい
宇宙の端は現在判らない。
ハッブルが調べてみたら、銀河が遠ざかっている事を見つけて、同じ割合で宇宙はあらゆる方向に遠ざかっている事を発見した。(宇宙は膨張している)
宇宙は大爆発をして広がってゆくと考えたのがジョージ・ガモフ。
宇宙の膨張には始まりがあり、宇宙は拡大してゆくという宇宙膨張論。
フレッド・ホイル、ヘルマン・ボンディ、トーマス・ゴールドの3人は宇宙は膨張するけれども、同じ状態を保っていて、広がった分に100年に1個陽子(水素原子)が誕生して埋め合わせて、宇宙は一定の密度を保ちながら膨張している、絶えざる創造という考え方で、定常宇宙論(1950年前後)を唱えたが、1946年にガモフは宇宙には始まりがあったのではないかと、その結果膨張が起きていると唱えた。
当時は多くの人はそんなことがあったとは思えないと考えていた。
ホイルはからかうつもりでビックバン宇宙論という名を付けた。
1912,3年ごろ、ハーバード大学のヘンリエッタ・スワン・リービット(女性)が遠いところの銀河までの距離を丹念に観察して或る規則が判って、宇宙の姿が判るようになったが、彼女はノーベル賞を貰えなかった。
ニュートリノを作るのが太陽の中心部で、水素原子核4個からヘリウムを作り出すが、その時に0.7%軽くなるが、軽くなったものは太陽を輝かすエネルギーになり、水素は毎秒6億4500万トン位使われている。(水素は減ってくる)
太陽は約50億年経つので中心部は半分ヘリウムになってしまっている。
まだ後50億年は安心していられる。
大量の水素を使っているので大量のニュートリノを生みだし、ほとんど光の速さで宇宙空間に飛びだす。
ニュートリノは身体の中を突き抜けて行っている。
1平方cmの面積を毎秒1000億個通過する。
ニュートリノは3種類あり、
①μニュートリノ ②電子ニュートリノ ③τニュートリノ(電子ニュートリノの1万倍の重さがある)
レイモンド・デイビスが太陽の中心部でどんなことが起こっているか実験的に明らかにしようとした。
南ダコタ州の金鉱の地下1000mに太陽からやってくるニュートリノを捕まえようと装置を作ったが、ごく一部を捕まえることはできる。
装置は400トン位のパークロロエチレン(四塩化エチレン)という化合物を使って1日に数個位が反応する。
ニュートリノがどんな性質を持っているのか、どんな働きをしているか判れば宇宙の歴史の研究に役に立つ。
今も太陽からやってくるニュートリノの何千倍のエネルギーのニュートリノの観測をしようとアメリカで、南極の地下1000mぐらいに装置を作ってやっています。
あらゆる方向からやってくるので、宇宙の構造はどっちを見ても同じような構造をしている。
宇宙は1点から始まり(インフレーション)、138億年経っている。
太陽系は誕生から約50億年です。
イギリスのダラムにいたオルフェンデル?がセミナーをやるというので、会いたくて手紙を出して、三宅三郎所長と3人で雑談しました。
ニュートリノの地球にやってくる数が増えたり減ったりしているというので、その様に見えると私も思った。
エルニーニョ等も周期的にやってくることがあるので、太陽からやってくるニュートリノの増減も似ていると思ってそれからが研究の始まりだった。
デイビス先生の太陽の黒点数の10年のデータ、変動がかさなっていました。
太陽の周期が11年周期で、その周期に乗かって小さな揺らぎがありそれが26カ月で、デイビス先生のニュートリノの観測結果と合わせると、時間的にそういう変動があり、太陽の中心部で黒点の活動を動かしているのではないかと考えて、細かく調べたら同じように変動が起こっており、論文を書いてネーチャーに投稿したら、駄目だった。
再度作りなおして投稿したがやはりだめだった。
三度目もやったがやはり駄目だった。
癪に障るのでネーチャーの編集長に、レフリーがいる限り私の論文は日の目を見ないのでレフリーを変えてほしいと手紙を書いた。
編集長のジョン・マドックスから手紙が来て、私の判断で貴方の論文を受けるけることにした、1979年3月8日号に載せるつもりだという事で嬉しかった。
ホーボルト?(現在オーストリア国連本部のアウタースペースオフィスのチーフ)という人が「桜井の周期性」と呼びたいとの論文が出されて、「桜井の周期性」という名前が付けられることになった。
父は百姓をやっていて、長男が家の仕事を継ぐという事で思っていたが、牛ヒツジなどの世話をやって来ていたが、高校二年の時にPTAの総会に行った時に担任から大学を受けさせてみろと言われたとの事で、長男だから行ける訳ないだろうと逆に父に言った、或るときやはり行きたいと言ったら、一つだけでしくじったら駄目だと言われた。
大学に受かって、1年、2年は生物学をやっていたが、物理学をやりたいと思ったが地球物理学の研究室に入ることになったが、長谷川万吉先生は私は指導しないよ、研究したいことが見つかったら言ってきなさいと言われた。
今思い返しても有難かったなあと思います。
広野求和という当時の助手の方が、こんな論文を見てくれると言って、いろいろ論文を紹介してくれて、或る本を読んでみないかと言われて、シカゴ大学のカイパーという教授が編集した「THE SUN」という雑誌だった。
100~400km上空は大気がイオン化していて電離層という、電離層の電流のもとは太陽からやってくる紫外線とかX線なので、太陽の変動(フレア等の爆発現象)が地球でどんな現象が起こるか関係があって、太陽-地球関係の研究ができるので、勉強させようと広野求和先生は考えたのではと思います。
本を和訳してノートに細かく書き残した。(この事で理解が深まる)
太陽を研究する事にしたが、長谷川万吉先生からここは地球物理学室だぞと言われたが、お前が決めたのならばとことんやりなさいと言われてその後太陽一筋できました。
アメリカに太陽研究で行く事になる。
日本では1つの論文に何カ月もかかるのに、1年に6,7つもの論文を書きましたし、いろいろな人々と付き合う事が出来、人脈が出来ました。
オックスフォード大学のチャップマンが日本に来た時に、日本風の宿屋で寝起きしたいという事で先生の身の回りの世話をしろと言われて、食べものから箸の使い方、風呂で背中を流すことなどもやって、3週間一緒に過ごしました。
英語の論文を見てもらったら、真っ赤に直された。
チャップマン先生からは将来、或る分野の研究で有名になってエキスパートになったら恩返しをしないといけないと言われた。
「太陽宇宙線の物理学」という400ページの大著でした。
太陽の黒点の周期は11年周期で変化していますが、最近の10年ぐらいは太陽はとっても静かで、昔もあったが、一番有名なのが17世紀半ばから18世紀の約70年間は寒冷期だった。
なつでもテムズ川が凍ってしまった。
無黒点がこのまま続いたら地球も寒冷化してしまうのではないかと思います。
1975年 国際会議でエディーが黒点が無い時代が14世紀、16世紀、19世紀に変わる頃にもあったという話があったが、そんなバカな事があるのかと多くの人が言っていた。
太陽はとんでもない変化をするので謎はいっぱいあります。
2015年11月4日水曜日
稲田 信(松江市史料編纂室長) ・「松江城国宝」への長い道のり
稲田 信(松江市史料編纂室長) ・「松江城国宝」への長い道のり
島根県松江市にある松江城が今年の夏に国宝に指定されました。
現在江戸時代の天守閣が残る城は12か所ありますが、国宝に指定されているのは、姫路城、彦根城、犬山城、松本城で、松江城は5例目の国宝です。
国宝の決め手になったのは城が完成した時に、城が長く栄えることを祈る儀式が行われたことを記す、祈祷札が発見されたことで、松江城は1611年に完成したことが実証されました。
現在松江歴史館でおよそ400年前に墨で書かれた祈祷札が展示されています。
この祈祷札を探し出したのが、松江市資料編纂室のスタッフと室長の稲田さんです。
稲田さんは島根大学で歴史を学んだ郷土史家でもあります。
国宝の指定を目指して資料を収集しているうちに、松江城は町民や市民の力によって守られてきた城である事も判明してきました。
それだけに国宝になった事の喜びも大きいのではないかと稲田さんはお話になります。
夢がかなったことは嬉しく感じます。
観光客もたくさん訪れています。
西先生も御尽力していただきました。
平成22年に松江城の国宝化を目指して、松江城調査研究委員会を作って委員長に西和夫先生に就任していただいて、建物の調査を進めて多くの新しい発見をしました。
松江城は心の中のシンボルだと思っています。
かつて国宝だったが、一旦取り消されて、それからもう一度国宝になるまでに65年掛かった。
昭和25年文化財保護法が出来て、、制度改正によって、それ以前の国宝が重要文化財に成り、
その中からさらに貴重なものが国宝になることになり、松江城は国宝には成らなかった。
12万人位の署名活動をして文化庁に行ったが、叶わなかった。
それ以後地道な新しい発見、国宝にふさわしい情報を研究、調査をする動きに変わっていった。
いつ作られたのか等の実証が必要だった。
3年前に松江城が竣工した時の祈祷札が見つかり、松江城が1611年に出来たことが判った。
城が完成して最後の儀式として行った祈祷札に年号が書いてあり、慶長16年正月吉正日が書いてあって(2枚見つかるが一枚のみ判読可)、完成した時期を特定した重要な資料になった訳です。
城の特徴等も調べ上げた。
柱が二階部分までの通し柱が特徴、又寄せ木柱ではなく木の周りに板を包んだ包み柱であることも特徴となっている。
堀尾吉晴と息子忠氏と共に出雲にやってきて、初代藩主が忠氏だが早く亡くなり、忠晴が幼くて吉晴が助けて、お城、城下町を作ったと言われる。
吉晴はお城を作る名人だったといわれる。
着手してから5年で作った。
松江城を中心にしたところは湿地帯だったといわれ、短期間で行ったことは凄いことだったと思います。
明治になると廃城令が有ったが、松江城は生き残ることができた。
明治8年頃、勝部本右衛門(豪農) 高城権八(旧松江藩士)が松江城が入札にかけられ無くなるところを、入札金額と同じ金額をおさめる事に依って残したといわれる。
当時のお金で180円(今では100万円ぐらい 不要なものと思われていた)と言われる。
いろんな危機があったが、そのたびに多くの人が支えて今日に至っていると思います。
明治25~27年頃に撮影された写真があるが、瓦は落ちているし、周りの板塀は朽ちかけている。
明治27年に松江城の大修理が行われている。
市民が松江城を修理するためにたちあがって、有力者と共に募金をして大改修をおこなった。
祈祷札があった場所の特定が必要だったが、上下に釘穴があり、何かに打ちつけられていたことは判っていたが、証拠を見つけようと松江城の中を調べようと松江城に入って行ったが、最初にあたりを付けた釘穴がぴったり合って、奇跡的だった。
地階にある柱だった。
昭和21年に後の名古屋工業大学学長になられる城戸久先生が松江城の調査をして、その時に2枚の祈祷札を見つけて、貴重なものだと認識されたが、昭和25年~30年にかけて大改修をして、何故か祈祷札の話は全くなくて、昭和40年代になってから論文の中に昭和12年に調査した祈祷札について記載され、写真も一緒に掲載されていた。
私たちは論文に祈祷札が記載されていたことに、初めて判った。
今から3年前に、松江市内の神社、お寺等の古文書を調査していて、松江神社の調査をしていたら祈祷札が見つかった。(本当に嬉しかったし驚きでもあった。)
「ふるさと文庫」 西先生が書かれた本(新しい知見も盛り込み)を文化庁でも読まれて、国宝化に動いて行ったのではないかと思う。
学生時代から古代史をやっていて、地域の歴史を明らかにしてゆくという仕事をずーっとやってきました。
松江は長い歴史の中に位置付けると権力の中枢にあった時期もあり、はるかに他のところと比べて多くのお城が作られていて、明らかにする作業が必要だと思っています。
古代出雲の中心地は松江地域の中にあったと考えたらいいと思います。
松江はまだまだ明らかにできる様な素材は沢山ある場所なので、明らかにしてゆく、多くの皆さんに行っていただく事は大切なことだと思っています。
島根県松江市にある松江城が今年の夏に国宝に指定されました。
現在江戸時代の天守閣が残る城は12か所ありますが、国宝に指定されているのは、姫路城、彦根城、犬山城、松本城で、松江城は5例目の国宝です。
国宝の決め手になったのは城が完成した時に、城が長く栄えることを祈る儀式が行われたことを記す、祈祷札が発見されたことで、松江城は1611年に完成したことが実証されました。
現在松江歴史館でおよそ400年前に墨で書かれた祈祷札が展示されています。
この祈祷札を探し出したのが、松江市資料編纂室のスタッフと室長の稲田さんです。
稲田さんは島根大学で歴史を学んだ郷土史家でもあります。
国宝の指定を目指して資料を収集しているうちに、松江城は町民や市民の力によって守られてきた城である事も判明してきました。
それだけに国宝になった事の喜びも大きいのではないかと稲田さんはお話になります。
夢がかなったことは嬉しく感じます。
観光客もたくさん訪れています。
西先生も御尽力していただきました。
平成22年に松江城の国宝化を目指して、松江城調査研究委員会を作って委員長に西和夫先生に就任していただいて、建物の調査を進めて多くの新しい発見をしました。
松江城は心の中のシンボルだと思っています。
かつて国宝だったが、一旦取り消されて、それからもう一度国宝になるまでに65年掛かった。
昭和25年文化財保護法が出来て、、制度改正によって、それ以前の国宝が重要文化財に成り、
その中からさらに貴重なものが国宝になることになり、松江城は国宝には成らなかった。
12万人位の署名活動をして文化庁に行ったが、叶わなかった。
それ以後地道な新しい発見、国宝にふさわしい情報を研究、調査をする動きに変わっていった。
いつ作られたのか等の実証が必要だった。
3年前に松江城が竣工した時の祈祷札が見つかり、松江城が1611年に出来たことが判った。
城が完成して最後の儀式として行った祈祷札に年号が書いてあり、慶長16年正月吉正日が書いてあって(2枚見つかるが一枚のみ判読可)、完成した時期を特定した重要な資料になった訳です。
城の特徴等も調べ上げた。
柱が二階部分までの通し柱が特徴、又寄せ木柱ではなく木の周りに板を包んだ包み柱であることも特徴となっている。
堀尾吉晴と息子忠氏と共に出雲にやってきて、初代藩主が忠氏だが早く亡くなり、忠晴が幼くて吉晴が助けて、お城、城下町を作ったと言われる。
吉晴はお城を作る名人だったといわれる。
着手してから5年で作った。
松江城を中心にしたところは湿地帯だったといわれ、短期間で行ったことは凄いことだったと思います。
明治になると廃城令が有ったが、松江城は生き残ることができた。
明治8年頃、勝部本右衛門(豪農) 高城権八(旧松江藩士)が松江城が入札にかけられ無くなるところを、入札金額と同じ金額をおさめる事に依って残したといわれる。
当時のお金で180円(今では100万円ぐらい 不要なものと思われていた)と言われる。
いろんな危機があったが、そのたびに多くの人が支えて今日に至っていると思います。
明治25~27年頃に撮影された写真があるが、瓦は落ちているし、周りの板塀は朽ちかけている。
明治27年に松江城の大修理が行われている。
市民が松江城を修理するためにたちあがって、有力者と共に募金をして大改修をおこなった。
祈祷札があった場所の特定が必要だったが、上下に釘穴があり、何かに打ちつけられていたことは判っていたが、証拠を見つけようと松江城の中を調べようと松江城に入って行ったが、最初にあたりを付けた釘穴がぴったり合って、奇跡的だった。
地階にある柱だった。
昭和21年に後の名古屋工業大学学長になられる城戸久先生が松江城の調査をして、その時に2枚の祈祷札を見つけて、貴重なものだと認識されたが、昭和25年~30年にかけて大改修をして、何故か祈祷札の話は全くなくて、昭和40年代になってから論文の中に昭和12年に調査した祈祷札について記載され、写真も一緒に掲載されていた。
私たちは論文に祈祷札が記載されていたことに、初めて判った。
今から3年前に、松江市内の神社、お寺等の古文書を調査していて、松江神社の調査をしていたら祈祷札が見つかった。(本当に嬉しかったし驚きでもあった。)
「ふるさと文庫」 西先生が書かれた本(新しい知見も盛り込み)を文化庁でも読まれて、国宝化に動いて行ったのではないかと思う。
学生時代から古代史をやっていて、地域の歴史を明らかにしてゆくという仕事をずーっとやってきました。
松江は長い歴史の中に位置付けると権力の中枢にあった時期もあり、はるかに他のところと比べて多くのお城が作られていて、明らかにする作業が必要だと思っています。
古代出雲の中心地は松江地域の中にあったと考えたらいいと思います。
松江はまだまだ明らかにできる様な素材は沢山ある場所なので、明らかにしてゆく、多くの皆さんに行っていただく事は大切なことだと思っています。
2015年11月3日火曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・第20回 マッカーサーと昭和天皇(H27/9/6放送)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・第20回 マッカーサーと昭和天皇(H27/9/6放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_6.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_6.htmlをご覧ください。
2015年11月2日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(5)(H27/8/2放送)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(5)(H27/8/2放送)
終戦8月15日と9月2日
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/blog-post_2.htmlをご覧ください。
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終戦8月15日と9月2日
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/blog-post_2.htmlをご覧ください。
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2015年11月1日日曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・第22回 日本国憲法の公布
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第22回 日本国憲法の公布
昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。 公布 昭和21年11月3日
公布から施行まで半年あるが、憲法は大きく変わったのでどういう風に大きく変わったのかの周知徹底する期間と言える。
大日本帝国憲法のもとで、軍事主導体制で戦争を選択して負けることになり、憲法を変えなければ
新しい時代に即応する国作りができないという事で日本、アメリカのGHQ、双方の動きがあり、幣原(しではら)内閣の国務大臣、松本烝治という人が松本委員会の名のもとに、どういう風に憲法を変えていこうかと考えますが、大日本帝国憲法に則った形を考えます。
マッカーサーと幣原首相の会談では日本に民主主義を要求している。
松本委員会の憲法草案があまりにも大日本帝国憲法を踏襲しているのではないかという事で昭和21年2月1日の毎日新聞がスクープをする。
これを読んだマッカーサー、GHQが激こうする。
模範を作ろうではないかという事で、GHQの将校に2月4日から13日まで作らせる。
東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏らが作っている憲法研究会の作っている憲法草案はかなり民主的、同時に各政党 自由党、民主党、進歩党、社会党、共産党なども独自に憲法草案を考えるが、松本委員会の草案に対してGHQが反対する。
マッカーサーは3つの原則を憲法に盛らなければいけないという。
①天皇制を象徴にせよ
②戦争放棄
③イギリスの議会政治に似ている様な形の民主政治を確立する条文をいれる。
日本にも同様な考えのグループもあった。(東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏ら)
GHQの草案とかぶったところもあり、GHQが全部作ったというわけでもなく、アメリカの知恵、日本の知恵が寄り集まって出来たと考えていいと思う。
GHQの民政局が主導権を取って作業を進める。
軍人より弁護士、学者が多かった。 2月4日から14日まで。
女性の参政権、労働者の団体の団結権等が新しく取り入れられた。
日本側にも考えていた人たちがいた。
GHQの案をもとに手直しして、政府案を作るが、マッカーサーも了解して、国会に提案される。
公布 昭和21年11月3日
大日本帝国憲法は明治23年から77,8年続いて、崩壊するが、軍事主導体制で富国強兵のもとでの軍事体制が中心だったが、今度の憲法は非軍事の方向に行く、憲法9条戦争放棄になるがこれが大きな特徴、又臣民を取りはらって市民としていろんな民主的な権利を持っているんだという様な形で民主的権利を認める方向に行った。
この二つが大きな違いです。
平和憲法だというが、非軍事憲法だと思っていて平和憲法にしてゆくためには、努力、時間、エネルギーが必要だと思っている。
平和憲法にしてゆくためには、自分たちの力で獲得していかなければいけないと思います。
昭和21年1月1日 昭和天皇が人間宣言をする。 (神格化はしない 新日本建設に関する詔書)
昭和天皇は新日本建設に関する詔書の最初のところで、五カ条の御誓文について言っていて、私は日本にも民主主義があった、それが五カ条の御誓文で五カ条の御誓文に代表される民主主義の考え方を私は国民に訴えたかったと言っている。
昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。
憲法施行式典での 芦田均 憲法普及会会長の言葉(放送あり)
新しい憲法は紙芝居を作ったり、学校教育では「新しい憲法明るい生活」という冊子を2000万部を作って学校に配布する。
施行された時は三党連立政権、社会党片山哲首相(社会党右派、クリスチャンで温厚な人)
旧憲法は軍事主導体制で57年間続いて、いまの憲法はそれを教訓にして、68年続いているということは、今の憲法は国の柱といろんなものを教訓としながら出来ているんだなあという気がします。
これをどういう風にするかは次の世代の問題ですから、あれこれ言うのは控えますが、国の柱である以上、そこにかつての人たちのいろんな思いがこもっていたという事は、忘れることは出来ないなあと改めて思いました。
昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。 公布 昭和21年11月3日
公布から施行まで半年あるが、憲法は大きく変わったのでどういう風に大きく変わったのかの周知徹底する期間と言える。
大日本帝国憲法のもとで、軍事主導体制で戦争を選択して負けることになり、憲法を変えなければ
新しい時代に即応する国作りができないという事で日本、アメリカのGHQ、双方の動きがあり、幣原(しではら)内閣の国務大臣、松本烝治という人が松本委員会の名のもとに、どういう風に憲法を変えていこうかと考えますが、大日本帝国憲法に則った形を考えます。
マッカーサーと幣原首相の会談では日本に民主主義を要求している。
松本委員会の憲法草案があまりにも大日本帝国憲法を踏襲しているのではないかという事で昭和21年2月1日の毎日新聞がスクープをする。
これを読んだマッカーサー、GHQが激こうする。
模範を作ろうではないかという事で、GHQの将校に2月4日から13日まで作らせる。
東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏らが作っている憲法研究会の作っている憲法草案はかなり民主的、同時に各政党 自由党、民主党、進歩党、社会党、共産党なども独自に憲法草案を考えるが、松本委員会の草案に対してGHQが反対する。
マッカーサーは3つの原則を憲法に盛らなければいけないという。
①天皇制を象徴にせよ
②戦争放棄
③イギリスの議会政治に似ている様な形の民主政治を確立する条文をいれる。
日本にも同様な考えのグループもあった。(東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏ら)
GHQの草案とかぶったところもあり、GHQが全部作ったというわけでもなく、アメリカの知恵、日本の知恵が寄り集まって出来たと考えていいと思う。
GHQの民政局が主導権を取って作業を進める。
軍人より弁護士、学者が多かった。 2月4日から14日まで。
女性の参政権、労働者の団体の団結権等が新しく取り入れられた。
日本側にも考えていた人たちがいた。
GHQの案をもとに手直しして、政府案を作るが、マッカーサーも了解して、国会に提案される。
公布 昭和21年11月3日
大日本帝国憲法は明治23年から77,8年続いて、崩壊するが、軍事主導体制で富国強兵のもとでの軍事体制が中心だったが、今度の憲法は非軍事の方向に行く、憲法9条戦争放棄になるがこれが大きな特徴、又臣民を取りはらって市民としていろんな民主的な権利を持っているんだという様な形で民主的権利を認める方向に行った。
この二つが大きな違いです。
平和憲法だというが、非軍事憲法だと思っていて平和憲法にしてゆくためには、努力、時間、エネルギーが必要だと思っている。
平和憲法にしてゆくためには、自分たちの力で獲得していかなければいけないと思います。
昭和21年1月1日 昭和天皇が人間宣言をする。 (神格化はしない 新日本建設に関する詔書)
昭和天皇は新日本建設に関する詔書の最初のところで、五カ条の御誓文について言っていて、私は日本にも民主主義があった、それが五カ条の御誓文で五カ条の御誓文に代表される民主主義の考え方を私は国民に訴えたかったと言っている。
昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。
憲法施行式典での 芦田均 憲法普及会会長の言葉(放送あり)
新しい憲法は紙芝居を作ったり、学校教育では「新しい憲法明るい生活」という冊子を2000万部を作って学校に配布する。
施行された時は三党連立政権、社会党片山哲首相(社会党右派、クリスチャンで温厚な人)
旧憲法は軍事主導体制で57年間続いて、いまの憲法はそれを教訓にして、68年続いているということは、今の憲法は国の柱といろんなものを教訓としながら出来ているんだなあという気がします。
これをどういう風にするかは次の世代の問題ですから、あれこれ言うのは控えますが、国の柱である以上、そこにかつての人たちのいろんな思いがこもっていたという事は、忘れることは出来ないなあと改めて思いました。
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