2021年1月31日日曜日

大竹道茂(伝統野菜研究会代表)     ・江戸東京野菜の復活に賭けて

 大竹道茂(伝統野菜研究会代表)     ・江戸東京野菜の復活に賭けて

大竹さんは東京生まれ、75歳 30年近くにわたって東京の伝統野菜の復活に取り組んできました。  NPO法人江戸東京野菜コンシュルジュ協会会長も務めています。

江戸時代から明治、大正、昭和というという時代、これを称して江戸東京。  もうひとつは江戸幕府があった江戸という街、それが東京都になり、そういう場所で作られていた野菜、歴史と場所を併せて江戸東京野菜と言っています。   練馬大根、滝野川ごぼう、谷中しょうが、伝統小松菜が知られていると思います。  50品目はさがしあてました。  一番多いのが山形県で150以上あると思います。   現在トータルで230人ぐらいの人が作っています。 

当時は寒村で、家康が何千人という人を連れてきましたが、新鮮野菜がありませんでした。   1630年代に入ると、参勤交代で国元から野菜の種を持ってきて、野菜を作らせるという事が起きて、江戸の気候風土に合ったものが残って、周辺の農家に広まっていって、名前がついて有名な江戸での野菜になって行く。   綱吉が尾張から大根の種を取り寄せて、練馬に撒かせました。  火山灰土が深くて、1mぐらいに育つわけです。  大根の種を取って巣鴨から滝野川に種屋さんが並んだそうで、練馬大根、滝野川ごぼう、三河島菜などを地方の大名が買い集めて地方でも作ったという事です。  全国に練馬大根などが逆に広がっていきました。

昭和19年目黒の生まれです。  高校2年の時に練馬に引っ越しました。  大根からキャベツに替わっていました。   両親が農家の出でした。  観葉植物を楽しむような時代になってきていて、インドアガーデン的なことをやりたいと思って農大に入って熱帯園芸研究室に入りました。  東京都農協中央協会に就職しました。  電算センターができて、会計処理のデータを作ったりプログラマーの仕事を7,8年やりました。   その後農政の部署に移りました。   栽培から販売に至る営農指導を行って希望していたような仕事内容でした。   オリンピックが終わって、東京が1000万人になるかどうかという時代で東京に人を集めるような政策も展開しました。

農地を売ってもらうために、農地の宅地並み課税の政策で、農家と一緒に長くに渡って反対運動をしましたが、結局は勝ちました。  各市町村の自治体も反対しました。  固定資産税の減免処置をして増税は実質なくなり、引き続き農業をやるといった人たちが現在ある農地です。  

1966年に野菜生産出荷安定法ができて、大都市に野菜を送ってくるのに、指定産地が全国にできて、伝統野菜は揃いが悪くて、段ボールにぴったり収まらないので、3割ぐらい以外は規格外になってしまって、種屋がF1という揃いのいい品種を作ったわけです。   一代だけでそれから種をとっても、同じものができないという野菜です。  昭和56年に「子供たちに残したい身近な自然」という本を作って、やっていましたが、その野菜を作っている人はいないと言われて、どうにかしないといけないと思いました。

昔の野菜を、今判ることを全部調べておこうという事になり、話を聞いて「江戸東京ゆかりの野菜と花」という本を作りました。   これがバイブルになり訪ねて行って種を増やしていきました。   平成9年農業組合法ができて50年目という年で、東京の農業の地域の説明板(ここにこういう農業があったという説明板)を都内に50本立てようと提案したら、その企画が通りました。  神社に建てたいと交渉して46,7本は神社に立てさせてもらいました。  

2005年私と応援してくれる農家などで少人数で伝統野菜研究会を立ち上げました。  江戸東京野菜を探し当てて、2011年にJA東京中央会に江戸東京野菜登録委員会を作って、東京都としても認知していただくことになりました。  NPO法人で江戸東京野菜コンシュルジュ協会を作って、資格試験を行って、詳しい人にPRしてもらおうという事で協会を作りました。  そのころ15品目ぐらいでした。

品川かぶは復活第一号です。   品川の街おこしに役に立ちました。

三河島菜は江戸を代表する菜っ葉でしたが、大正時代にはなくなってしまっていました。 探し始めましたが東京には無くて、仙台芭蕉菜があり、これが昔は三河島菜だという事で送ってもらって小学校などで復活栽培しています。

寺島ナスを復活させたいという事で寺島ナスが小学校で復活して、東向島の駅前商店街がそれで街おこしが始まりました。   寺島ナスは「蔓細千成(つるぼそせんなり)ナス」という品種で、種が残っていて分けていただいて、或る人から栽培指導していただいて今日までつながっています。

食べてもらわないと判らない、野菜の旬が判るというのが伝統野菜です。

将軍とのかかわりのある野菜があります。 地方は大名とのかかわりのある野菜があります。  そういった野菜には伝統野菜の記録が結構居残っていたりします。

伝統野菜は揃いが悪くて、流通にのらなくなった野菜で、東京ならではのおもてなし食材という位置づけで次の世代に伝えてゆくことが大事だと思っています。

  

2021年1月30日土曜日

平塚千穂子(ユニバーサルシアター代表) ・ようこそ!ユニバーサルシアターへ

 平塚千穂子(ユニバーサルシアター代表) ・ようこそ!ユニバーサルシアターへ

平塚さんは東京出身、48歳 2016年に日本で初めてのユニバーサルシアター『CINEMA Chupki TABATA』をオープンしました。  障害の有無にかかわらずだれも一緒に映画を楽しめる映画館で上映作品にはすべて音声ガイドと字幕が付けられています。  昨年からの新型コロナウイルスの影響で休館を余儀なくされた時期もありましたが、映画を楽しむ空間を何とか残したいと感染予防を徹底し、奮闘してきました。  

眼が見えない方はイヤホーンの音声ガイド、聞こえない方には日本映画にも必ず日本語字幕を付けて上映したり、完全防音の個室が一部屋あり、小さいお子さん連れ、感覚過敏の人、発達障害のじっとしていられない人が利用したり、後ろのほうには車椅子スペースがあります。 全席20席の小さな映画館ですが、居心地のいい空間つくりをというシアターになっています。

『CINEMA Chupki TABATA』の Chupkiはアイヌ語で自然界の光を表す言葉で、太陽、星とか自然界の光は誰にも平等に降り注ぐので素敵だと思って付けました。   

非常事態宣言が出された4月にはこの先どうなるだろうと不安でしたが、沢山のかたにご支援いただいて、映画から離れないでいる方がまだいらっしゃるのが支えになっています。   休業中に寄付をしてくれたり、いろいろ励ましの言葉もいただきました。   

小さいころは映画館に行くという事はあまりありませんでした。  高校生の時にウエストサイド物語を見たときには音楽も素晴らしいし、ダンスも凄くて、なんてすごい作品なんだと目を見開きました。   一番のきっかけになった時は仕事とかいろいろなことで挫折して、先が見えなくなって落ち込んでしまって、ふらっと映画館に行って観て、何回か通っているうちに回復していって、立ち直ることが出来て、そこからです。(26,7歳)

映画館でアルバイトを始めて、そこから映画を仕事にしていく入り口になりました。  ユニバーサルについては、別のきっかけがあり、異業種交流会に参加して、映画館を持ちたいというクレージーな夢という事で参加しました。   チャップリンの「街の灯」というサイレント映画を目に見えない方に届けようという企画を考えました。   視覚障碍者の方に映画をどう思っているのか、映画を観たいと持っているのか、質問を投げかけたら、予想以上に映画を観てみたいという事だったが、言葉、音の情報が必要になるので、サイレント映画は全く触れることが出来ない。   何とかならないかなと思って動き出したのが,ユニバーサルシアターにつながる原点になります。   

最初に視覚障害者の人は朗読劇をやっている人たちで、凄く明るくて自分が偏見を持っていたことを知りました。   チャップリンの「街の灯」というものをどう届けようかと考えたが出来なくて、朗読劇の人たちに相談したら、サイレント映画なんて難しいところからはいらないで、普通の映画から始めたらと言われました。  国内、海外などを調べていきましたが、日本では商業的にはそういうサービスはなかったです。  海外ではアメリカ、イギリスではバリアーフリー映画館が、アメリカでは100館以上あるという事を知りました。(20年前)    日本が遅れている事実を知って、映画を見えない人達と一緒に楽しむための音声ガイドの研究と環境作りをしてゆく団体を作りました。(2001年)

全国に視覚障害者の人に登録していただいて、映画を鑑賞するうえでどんなサポートがあるといいか要望を聞いていきました。  音声ガイドの研究、作製を目的にしたボランティア団体『City Lights(シティライツ)』を立ち上げました。  2008年から毎年、「シティライツ映画祭」を始めました。   映画館を借りてやっていましたが、自分たちの小屋をもちたいという夢を掲げるようになりました。   映画館としての条件をクリアーしなくてはいけなくて、やりながらいろいろ学んでいきました。   最初500万円ぐらいで出来るかなと思っていたが、防音工事だけで1500万円かかるという事でした。  募金をスタートして全額募金で賄うことが出来ました。  クラウドファンディングも立ち上げました。 

聴覚障害の人は洋画は楽しめるが字幕がついていない日本映画は楽しめない、小さいお子さんをもったお母さんたちにも楽しめるようにとか、いろんな関りが広がっていくうちに構想も膨らんでいきました。  呼びかけに映画ファンの人たちが答えていただきました。  映画に対して恩返ししたいという人達とかいろいろな人が参加していただきました。   自分の理想を越えてしまったような思いがあります、別の力が働いたような気がしました。

音声ガイドなどもチームを作って、視覚障害の当事者も参加していただいて、シーンを考えながら時間をかけて作っていきます。  見えない人も想像する、楽しむ映画の世界の邪魔をしない様な音声ガイドに段々変わって行きました。

映画館という場所は映画を作った方と、鑑賞する方を橋渡しをする場所だと思っていますが、作る方の情熱とか、思いをちゃんと届けるとか、見たお客様の受け取った思いとかを繋ぐ場所に立たせてもらっているのですごく幸せなことだと思います。   これに支えられている人生だと思います。





2021年1月29日金曜日

尾木直樹(教育評論家)         ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

 尾木直樹(教育評論家)         ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

1947年滋賀県生まれの74歳、早稲田大学卒業後、私立高校、公立中学校で22年間に渡り教鞭をとり、その後大学教員に転身、教育に関する専門家会議の委員を歴任し、現在は法政大学名誉教授、臨床教育研究所「虹」所長です。  子育てと教育の講演会に力を注ぐほか、情報番組、バラエティー番組など幅広く活動しています。  尾木さんに際立った個性を生む原動力となった両親の教えや励ましについて、新型コロナウイルの影響下で見えてきた子育てや学びの環境にまつわる環境について伺いました。 

昨年講演会も出来なくなって、10月、11月ぐらいから復活したが、オンラインでした。   最初やりにくいと思っていましたが、チャット機能を使うと生の講演会よりももっとリアルになります。   家族とは濃密な時間を過ごすことができました。

今は虐待が増えてきて、一番問題です。  正規社員でも8万人が職を失っています。  非正規、パートなどを入れると何十万人にもなると思います。  やり場のないストレスになってきます。  

コロナ禍の中16,17日と大学共通テストが53万5000人受験しました。     小学、中学は詰め込みになっていて、地域間格差、公立と私立の格差とかが物凄く広がっています。   志願する人は教育学部が多いです。  

昭和22年生まれ、父は気象庁技官、母は小学校の教師で、姉と弟の3人兄弟です。    故郷は猿とか、熊とかが出てくる山のなかです。  滋賀県坂田郡伊吹村で当時は電気がついたのは5,6歳の頃でした。   鮎、いわなとか手づかみで獲って遊んだりしていました。   祖父は父を叩いたので、自分は子供を持ったら叩かないようにという思いがあって、私は叩かれることなく育ちました。   やり過ぎたときには謝ることが必要だと思います。

学校の宿題を翌日休みなので、明日やろうとしたら、母に呼ばれて、「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と言ったんです。  この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。  その時から宿題などを延ばすという事をしなくなりました。

「負けて勝ち取れ」という事も言われました。  自分の要求を相手の立場を無視してぐいぐい押し付けるのではなくて、相手の気持ちになって共感すると、相手が逆に寄ってっ来たりする。   

教員を目指そうと思ったのは大学4年生で、母が学校の教員が向いているといわれ、自分では向いていないと思っていました。   直樹は先生には恵まれず、嫌な思いをしてきたので、いじけている子、不登校になってる子、非行に走っている子とかの気持ちがよく判るいい先生になると言われました。  そうかと思ってなりました。

1980年代 荒れている子が多くて、煙草を吸っていたりする子に「どうしたの」とまず聞きます。  心と心が響きあえば、ほとんどの場合大丈夫です。   46歳で教育評論家として独立、バラエティー番組で「尾木ママ」としてブレークしたのが、平成21年、62歳の時でした。  「尾木ママ」の名付け親は明石家さんまさんでした。  3倍も5倍も人生を楽しくしてくれましたし、影響力のパワーが100倍以上でした。

「人の目や表情を心で見詰める」  これは教師の職業病の一種かもしれません。  教員と警察は嫌われるんです、人を評価の目で見つめる。  これは一番よくなくて、それを捨て去るのに物凄く苦労しました。   共感するのが難しい。  心で受け止めると見えてきます。   子供達が主役になれる、子供たちの存在がちゃんと社会で認められていくような日本の学校だとか、社会になってほしいと思います。  ポストコロナ時代をどう作ってゆくのか、子供たち、若い親御さんたちにかかっています。  そのためには歴史をしっかり勉強して欲しいと思います。

「ありのままに今を輝く」 色紙にずーっと書いてきました。  目標を作って頑張ろうと挑戦するが、挫折をいっぱい知るわけですが、そうではなくて、今を輝こう、今日やれることを精いっぱい生きようという感じだったら、 明日も輝けば、5年後も輝く、ずーっと輝ける人生になるだろうという発想です。
















2021年1月28日木曜日

ヤマザキ マリ(漫画家・随筆家)    ・【私のアート交遊録】コロナの時代に思うこと

 ヤマザキ マリ(漫画家・随筆家)  ・【私のアート交遊録】コロナの時代に思うこと

14歳でヨーロッパを一人旅、17歳から11年間イタリアに美術留学、イタリア人の夫と結婚後もエジプト、シリア、ポルトガルなど各国の文化の中に身を置いてきた山崎さん、1年前日本に帰ってきたところでコロナ騒ぎに遭遇し、以来日本に足止めされています。   イタリアの夫に電話にすれば日本とイタリアの文化や歴史、価値観の違いなどからコロナ対策をめぐって夫婦喧嘩となったり、見えてきたものも多いといいます。   そんな状況の中でもコロナ後の世界を生きる私たちの提言など、コロナ禍の今どう生きるかというテーマで発信をしています。   今は自分の根幹を強くする時期という山崎さんに、苦境の中で前向きに生きるヒントなどについて伺いました。

一ヵ月日本にいたら一ヵ月イタリアに行くという生活をしていましたが、まったく生活様式が変わってしまいました。  1年ぐらい帰っていなくてこんなのは20何年ぶりです。 最初はそれほど気にならなかったが、移動を制限された生き方が自分にとってどれだけ辛いかわかるようになって、本を沢山読んだり映画を一日3本見るとか、そうしているうちに段々自分を活性化してゆくことに気が付きました。

母が破天荒な母親でして、私は絵を描くことが好きでしたが、先生からお金に還元できないことはやるセンスがないと言われて、母が自分が行くはずだったヨーロッパ旅行に替わりに行って来てと言われて、14歳でヨーロッパを一人旅することになりました。  向こうには母の友達がいるので何とかなるのではないかと思いました。  色々トラブルがありましたが。  最後にルーブル美術館に行くように言われまた。  モナリザを見るように言われたが混んでいて見るのは止めて、彫刻には衝撃を受けました。  先生がどう言おうと帰ってきたときには美術の道に行くんだと決めていました。   母親の影響で私も自由奔放に生きる性格になったと思います。

「出たとこ勝負」という言葉をよく本に書いていますが、開拓していかなければいけないので、自分の土壌を育まなくてはいけないという事で、傷つこうが、孤独感を感じようが、栄養になるなという事が感覚としてありました。  自分が女性だとか、女性だからこうしなければいけないというような既成概念的なものは、何一つ自分には役に立たなかったですね。  

イタリアの11年間の中で、最初詩人の人と付き合って、ボランティアとしてもキューバに行ってサトウキビの手伝いなどしていました。  詩人の彼と結婚しましたが、貧乏で電気、ガス、水道がない、インフラの機能しない家に暮らすという事はどういうことか、それを経験して怖くないですね。

自分に課す負担が無くなったとたんに、こんなに自分って、吸収できる人間だという事が判りました。  比較を止めることがどれだけ人にとって、気が楽になるかという事ですね。旅をすることでなんの比較の基準がないので旅が役に立ちました。  キューバの家族の様子などを垣間見ると、既成の価値観などもなく、貧乏でも楽しく生活をしていて、比べるとかがナンセンスに思えてしまいました。   

「日本人の持つロバ性が大事だ」という言葉が本の中に書かれていますが、コツコツとやることが大事だと思っていて、中東などではロバが使われていて、その忍耐力の姿勢に感動的で、日本に戻ってくると日本人の性質としての忍耐力を感じます。  

このパンデミックで面白いと思ったのは、一つの問題を諸外国すべてが同一、同時期に向き合う経験はなかったと思います。   どういう対応を見せるかによって、比較文化論的な展開が私の中でスイッチが入って、それを本にしてまとめてみるといろいろ見えてくるものがあります。  日本の場合は人の目を見てしゃべれない、そういう国民性が首相レベルまで現れていたが、でもこれが民主主義だと思った時にいろんな疑問が出てきてしまった。 どうしてメルケル首相がこんなに世界中を魅了する演説ができたんだろうと思いました。

人に自分の思いを伝えるという事がどういうことなのか、メルケル首相はよくわかりました。   

移動できなくなって、自分の生産性がものすごく滞ってしまって、自分が鬱になるのではないかと思っていた時に、いろいろな音楽を聴いたり、映画を観たり、本を読んだりして、別の稼働エンジンがかかった、そこを支えてくれる人がいなかったら私はどうかしていたのかわからない。   今回のパンデミックは物凄くそういうことを気付かせる一つの大きなきっかけでもあるのではないかと思います。   お金が無くても人はメンタリティーにきちんと栄養を与えていかなければいけないという事を、知らしめさせられたきっかけだったと思います。  アートは感覚的なところで捉えてくれるので、わーっと吸収してくれる。 ジョーダン・ベルソンという作家が音楽に合わせて、光とか実験映像が展開されてゆくが、それを見たときに想像力のリハビリになったような気がします。   自分の気が付かないやさしさであったり、寛容性、探求心など、目と聴覚から一緒に入れることは結構大事なことだと思いました。 

 私のお勧めはジョーダン・ベルソンのDVD「 5 Essential Films 」(5の基本的作品)です。



  

2021年1月27日水曜日

石田秀輝(東北大学名誉教授)      ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

 石田秀輝(東北大学名誉教授)    ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

東北大学を早期に退職して、鹿児島県の奄美諸島の一つ沖縄にほど近い沖永良部島に移住して自然と共生する暮らしを実践研究されている方です。   出身地は岡山県で岡山大学付属中学に進学、石田家の決まりがあって、15歳で自立せよと言う事なんだそうですが、16歳から新聞販売店に住み込みで働きつつ自分で稼いで、学校に通いさらにアルバイトをして、そんな忙しい中でも鉱石集めに熱中するという暮らしをしていました。  その後東京大学理科一類に進学しますが、そこだけに収まらず山口大学に移り、さらに海外放浪、企業に就職した後も早期退職し、その後も東北大学に移り、環境科学の分野で研究を進められました。    そこも早期退職して、これまで研究してきたことを実践しようという事で、沖永良部島に移住され実験研究を進めておられます。   その波乱万丈な人生で、なにをしようとされているのでしょうか。

お金は一切貰わないで新聞販売店に住み込みで働き、地球物理学の竹内さんに学びたいと、東京大学理科一類に合格して、山口大学に移籍しました。   大学紛争、などいろいろあるなかで、自分が本当に人生どう生きていくんだろうと頭を悩ませていました。  その後海外に行きました。   自分のことは自分で決めなければいけないなとか、今すべてを決める必要はないんだ、折りに応じて変化をすればいいんだという事は、海外にいるときに腹が決まりました。   山口大学に戻り、大学院まで進み、大手の内装水回りのメーカーに就職しました。   オイルショックの直後で、交通費とお弁当代につられて決めました。

25年間勤めましたが、大変楽しかったです。   51歳で辞めて東北大学に移りましたが、会社の後半で環境戦略と技術戦略の両方の責任者になり、その二つがどうしても一致しなくて、環境と経済が一致しなかったら、工業は存在しなくなるのではないかと悩みました。   東北大学の先生の試験を受けて教授として採用されました。  研究には10年ぐらいかかるのと、環境と経済が両立する概念がおぼろげながら見えてきて、それをどこかで実践してみたいと思っていました。   東日本大震災の後に東北でやりたかったが、利権の絡む世界で、研究はやらせてもらえるが実践はやらせてもらえないと明らかになったので悶々としていました。   沖永良部島の調査を行った時に、日本の文化はほぼ44の文化の要素に別れるが、そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。   沖永良部島で学ばせてもらう事と、自分が今まで研究してきたことを社会実践する、この二つが出来ると思って移住を決めました。

90歳ヒアリングをずーっとやってきました。  戦前成人になって、1960年代に40代の働き盛りの人たちがちょうど90歳ぐらいです。   620人、文字にして1800万字の結果を分析してゆくと、日本の文化要素は44ぐらいになります。

具体的には自然と暮らす、助け合う喜び、お金を使わない交流、些細な感動、とか根底に流れている生き様の要素です。  そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。 

ターゲットは持続可能性のある社会です。  沖永良部島はコミュニティーがしっかりしている。  子供たちは知らない人を見たら必ず挨拶をする。   お金を介さないで顔と顔でいろんな仕事、物が行ったり来たりする。  サトウキビ、ジャガイモは作るが全部外に出して、お金が入ってくるという農業のやり方で、食糧自給率が10%台、エネルギーの自足率が6%。島のなかでいろんなものがグルグル回って、お金がグルグル回って、笑顔がグルグル回るような社会、システムを作りたい。  30/44ある沖永良部島でやればできやすいだろうと思いました。  未来の子に手渡せる最低限の暮らし方の形、暮らし方の形を集めた社会ができると信じています。

30のうちの一番惹かれるものは人と自然ですね。  おじいさんおばあさんの子供の様に笑う笑顔、純真さ、ひょいと助けてくれる、そういった人がいっぱいいます。  学ぶことがいっぱいあります。   『酔庵塾』をやっています、移住して6年ですが、『酔庵塾』を通してこの島の新しい可能性、理論的なことを毎月話をしてゆく、島を豊かにするために何が考えられるか、社会実践の具体的柱、一つはいろんなものを自足しよう(エネルギー、教育、食など)、もう一つは島の人に島の自慢をしてもらう。  大人は昔はよかったと言っているので諦め、子供たちに直に自慢をするためのトレーニングをやろという事でやれるころから始めました。    学びの場として2017年に4年生の大学、大学院を作りました。  学生は20人弱で、大学院は今年3月に第一号が終了します。

家は2004年に島の人が作ってくれました。  夕日の素晴らしいところです。  床が考案した土で、エアコンなしで温度、湿度が安定する家、光も入ってくる、風もまわって来る、電気も買わない、そんな家に段々なってきています。  土が湿度をコントロールしてくれます。   食品残渣を発酵させてメタンガスと液肥を取って、液肥は畑にというシステムを南三陸で動かしはじめているので、そういうシステムを使ってクリーンセンターをなくすことを実験的に来年からやっていこうと思っています。  クリーンセンターは重油を使って燃やしているので、クリーンセンターの負荷をどんどん下げてしまいたいと思っています。   食品残渣、ゴミでエネルギーを作るわけです。 

人間の暮らしと自然の循環が別々になっているのが問題で、自然の循環の中にちょっとずつでも入りこんでゆくのが凄く大事です。  自然界にはごみは一切存在しない。

沖永良部島で作り上げた教科書を、他の島とか、過疎地、そして南太平洋の途上国と連携をとって、その教科書をそこのなかで使っていただける事を考えています。

ローカルが豊かになるための教科書がぜひ必要で、ローカルが豊かになれば東京も豊かになる、そういう風な概念で進むべきだと思っています。   生活価値の不可逆性を肯定して、新しい生活ライフスタイルを描いてゆく。  そういうことが出来ると言う事を私たちの社会実践実験で証明をして行きたいと思っています。





   


2021年1月26日火曜日

星 弘道(書家・住職)          ・技巧にはしらず、自然に

星 弘道(書家・住職)          ・技巧にはしらず、自然に 

76歳、宇都宮の砂糖問屋に生まれました。  建築家を目指していた星さんは、或る縁で寺の跡を継ぐことになり大学生だった20歳の時に、東京四谷の住職を引き継ぎました。    星さんは修行中に出会った書を見て、お位牌など仏さまに差しあげる文字を何とかうまくなりたいと思い、その文字を書いた先輩の僧侶から書道を習うようになりました。   お寺で住職をしながら書道を無中に励んだといいます。   なかなか入選するのが難しいと言われている日展に30歳の時に初出品で入選を果たしました。   その後さまざまな公募展で力を発揮し、賞を受賞、2012年には日本芸術院賞を受賞しました。

ほとんどの展覧会が中止になり、昨年の11月の日展からすこしずつ解禁になり、いまは「現代書道20人展」をやっています。   朝日新聞がリサーチして20人を選びます。  歴史も66回になります。   4点出していて、一つは大きめの作品、対幅がひとつ、写経を一点、それと材料を吟味した作品です。   50回展から選ばれれています。

書を始めたきっかけは、寺の住職になって余りにも仏さんに差し上げる文字がひどいので、何とかしたいというのがきっかけでした。

朝、お勤めをして午前中は寺にいて、午後から書のほうの事務所に行って、そこで作品を書いたり指導したりしています。

砂糖問屋の次男坊として生まれました。  小学校まで通うのが40分ぐらいかかりました。   自然豊かなところでした。   高校で美術の専攻でしたが、書道に回されましたが、先生との相性がわるくて書道嫌いになりました。   理工系目指して、建築家になろうという思いがありました。  18歳で大学を受けるときに、昭和38年の2月にこのお寺の先代の住職が亡くなりました。   私に白羽の矢が立ちました。  建築のほうもやっても構わないという事で行くことにしました。  立正大学仏教学部へ入学しました。  得度がありましたが、いい加減な気持ちではいけないと師匠から諭されました。  話が違って来て、どうしたらいいかと思いましたが、師匠が立派な方だったので残れたのかなあと思います。  大学では何らかのお寺にかかわる人たちが多かったです。

授業の内容も全然わかりませんでした。  立正安国、正義を立てて国を安んずる、という事ですが、立正暗黒と書いたりしました。  一生懸命勉強はしました。  お寺で修行をしながら学校に通っていました。  朝は4時に起きてお経をあげて、掃除等をやって学校に行って自分の時間が無かったです。   20歳で住職になりました。   大学卒業して荒行があり、100日業がありこれは大変でした。  11月1日から2月10日までで、食事はおかゆ一杯とみそ汁と沢庵で、2時半に起こされて、水垢離(みずごり 冷水を浴びて身を清め、神仏の前に清浄な身となること。またはそのようにして行われる祈願の方法。)をとって一日7回3時間おきに夜の11時までやりますが、その間は仏教三昧で、お経の蓄積をするわけです。  50人ぐらいでしたが、閉ざされた厳しい環境の中でそれぞれ我が出てくるわけで、その人間関係の苦しみとの戦いでもあるわけです。   人間関係のことが役に立ったと思います。  参加するときには医師の診断書を貰って、誓約書を書いて亡くなっても文句は一切ありませんということで、前年には亡くなった方がいて、精神異常をきたした人もいました。   やったことで自信はつきました。  

おかゆを作ったり、みそ汁作ったりする役目がありますが、割烹着を着てやるわけですが、その割烹着の法喜堂という一番面積の広いところに立派な文字が書かれていました。   ああいう文字を書きたいと思って、先生に来てもらって数人で教えてもらったのがきっかけになりました。   3年ぐらいして先生が胃潰瘍になって朝霞先生のところに行くことになりました。   本格的に始めたのが、昭和44年ぐらいで、6年ぐらいで日展に初入選できました。   45歳の頃日展特選を貰えました。  1992年に2回目の特選を貰えました。  

漢詩もやらなければいけないと思って、大東文化大学の猪口篤志先生におしえていただきました。(15年間)  先生にはいろいろ恵まれました。

良寛さんの字は書けないですね、憧れます。

一番相性があったのは顔 真卿(がん しんけい)だったと思います。  王義之は書聖と言われる人で作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名です。  「之」という字が蘭亭序』に20か所出てくるが、全部違う「之」になっているわけでバックに豊富なものが無かったら出来ないわけです。   良寛の落款も全部違うわけです。  良寛も書もいっぱい勉強してあのような世界が出来たんだと思い、憧れます。  

座右の銘は 「随処作主 立処皆真(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)」という言葉です。  「随処」は今の環境、自分が出しうる精一杯のことを尽くしていれば、 「立処」は結果、結果は必ずついてくるんだという事で、最初から結果を追うんではなくて、今一生懸命やることが次につながって行く要因になるんだという事です。

技巧が先走りしているから、嫌なんです。  ずーっと見ていても飽きないものを目指したいです。  何でもないんだけれども、なんでもあるもの、そういう書が書けたらいいなあと思っています。




2021年1月24日日曜日

温又柔(作家)              ・「ふつう」って何だろう

 温又柔(作家)              ・「ふつう」って何だろう

台湾出身40歳、台湾人の両親と共に3歳で日本に移住、日本の学校で学び日本の大学院を卒業しました。   2017年小説「真ん中のこどもたち」で第157回芥川龍之介賞候補になりました。  最新の小説『魯肉飯のさえずり』で2020年第37回織田作之助賞を受賞するなど近年注目の作家です。   温さんの作品は日本語を中心に書かれ、そこに時折台湾語、中国語が混じり合うという多言語の文体が特徴です。   台湾と日本、中国といった多文化にルーツを持つ主人公が、自分はいったい何者なのかを悩みながらも居場所を見つけようと、葛藤する姿を通じ普通とは一体何かを問い続けています。

温又柔(おん ゆうじゅう)の名前は父親が付けてくれました。  3歳で日本に移住してきて、幼稚園の頃はへんてこな名前だなあと思っていました。   

日本語は日本語とはっきり線を引くべきと思っていましたが、ノイズ的な部分を放り込んだほうが私が生きてきた言語感覚のリアリティーを示せるかなあと思って、こういう文体にたどり着いたと思います。

『台湾生まれ 日本語育ち』のエッセーから「ママ語の正体」の一部を朗読。

(母の言葉は中国語でもなく、日本語でもなく、台湾語でもなく全部なんとなく入り混じっているもので、ママの言葉をママ語にしてしまおうと思って名付けました。)

「どうしてママは普通のお母さんみたいに普通の日本語をしゃべらないの。   ・・・思いのたけを母に向かってぶつけたことがあった。  ・・・母はしーんと黙り込んだ。・・・あれから10何年かが経った。・・・大人になった娘たちにママの日本語を言っても直らないんだもん、という母に私は言う。  気にしないでよ、ママはそのままのほうがいいもん。・・・台湾語、中国語が混じっている、それを知った私は母の日本語を興味深いと感じるようになった。  ・・・そうしたまま後の数々はややもすると日本語だけでものを思い考えてしまう私にとって、凝り固まった頭を心地よく解きほぐしてくれる効果がある。・・・ママの日本語は素晴らしい。・・・」

お母さんは何人(なにじん)といわれたりしていて、説明することが面倒で、他の子と違う自分が普通ではないということが一時期嫌でした。   日本人に同化してゆこうとしていた子供時代はありました。

中国語を学ぼうと思って上海に学生時代ちょっと留学しましたが、難しかったです。  

今の日本は私の時と違って外国に縁のある方々が増えていると思うが、異言語をしゃべる人とか別の文化を持つ人を異物化する風潮が強まっている気がします。

私の場合は日本人っぽく無くても、台湾人っぽいところがあってもそれは私なんだと思えるきっかけがあったし、思わせてくれる友達、大人にも恵まれましたが、同じような環境の中でそういうことを感じさせてもらえない子たちが、どんなん寂しい思いをしているのかという事を想像すると、あなたたちはあなたたちのままでいいんだよという事を、何とか伝えてあげたという事はここ数年感じています。

純粋な日本みたいなことを求めてしまう人が、最近増えているような気がします。  今の日本は国の力が弱まっているので、自分を誇るためには何かこう理由を作らなければいけない、国は、うちの文化は素晴らしんだと、敢えて主張しなければいけないような空気があるような気がしています。    日本を誇るために日本ではない人達を、自分たちより下に見る環境も進んでいるような気がして寂しいなという気がします。

誰が敷いたわけでもない普通に自ら縛られて行って、先ず普通を破ろうよと、世の中で普通のお母さんになろうとして、実はそういうお母さんは幻想なのではないかと思うんです。  それぞれのいびつとか、それぞれのはみ出し方みたいなものを、みんなが「それもあるよね」というように日本がもっと包容力を強くして行ったら、みんなもっと幸せになれると思います。

もっと気軽に言い合えるような仲間を作ったり、連帯してゆくことで社会全体にとっていい変化が起きるのではないかと信じたいところです。

ある候補になった小説のある選考委員から「これは当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって同調しにくい。  そう言う問題も起こるであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。」というコメントがありました。   この人個人であったならそうではなかったが、主語が日本人でしたので、看過できないと思い、あなたにとっては対岸に見えるけれど、この炎は足元で燃えているものだよと、いう事を言ったら、凄く注目されて小説の評価を越えて賛否両論でした。

複雑なルーツをかかえこみながら、自分は普通ではないと悩んでいる人たちにとって、ここにいてもいいんだよと言ってあげられるものを作りたいし、圧力を投げ続ける人たちに対しては、いやいやあなたたちの普通こそ盤石だとは思うなよと、この両方をやっていかなければいけない、という覚悟になりました。   自ら率先してノイズを立てていきたいと思う様になりました。

台湾はもともと非常に複雑なところだと思いますが、日本人にとってはなんとなく優しくて懐かしくて受け入れてもらえる場所という印象がありますが、一部には台湾は俺たちを受け入れていて当たり前だみたいに思っている人がたまにいますが、不安になることがあり、台湾はもっと複雑ですよという事を言い続けたいです。  宗主国と植民地といった歴史を度外視して、日本人と台湾人は仲良しだったという風に思い込むのは失礼ではないかと思います。

コロナ禍で不安感が広がっていると思います。  みんなが持っている不安を、連帯して協力して乗り越えるべきを、なにか蹴落とし大会みたいになってしまっていることが怖いと思います。   違うものを認める余裕のない日本の社会の希薄なところに、自分もいつどうなるかわからない怖さ、不安を他人も抱いているからこそ、思い遣りを持てるようになったらいいなあと思います。   













2021年1月23日土曜日

水谷 豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

水谷 豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

 国民的ドラマともいわれる民放の相棒が20周年という大きな節目の中で放送を続けています。   ほかにも支持されているドラマを持つなど、ゆるぎない人気、実力を発揮しています。   NHKのTV放送を良くご覧になる方は1976年から放送されました土曜ドラマ「男たちの旅路」の新米ガードマンが印象に残ってる方も多いかと思います。   水谷さんは主演の鶴田浩二さんが言ってくださったある言葉が忘れることが出来ないなど、役者人生は多くの人との出会いによって形作られてきた来たと確信しています。  ところがそもそも萩原健一さんとのコンビで、今でも名作と言われます「傷だらけの天使」とか高視聴率を上げて大きく飛躍しました「熱中時代」はアルバイト感覚で仕事をしていたとおっしゃいます。   その裏側にはどんな思いがあったのでしょうか。    俳優として仕事をしてゆくと決めたのは何があったからなのでしょうか。    そんな水谷さんは60歳を過ぎてからは、自らメガフォンを取って映画監督としても作品を送り出しています。  監督業への強い信念を抱きながらこの夏で69歳、来年70歳を迎えますが、70歳代が大変楽しみだとおっしゃいます。  今日は相棒について伺って、若い頃のアルバイト感覚、心に刻まれた鶴田浩二さんの言葉についても伺います。

「相棒」が始まったときに、大人がTVを見なくなったと言われている頃でした。  大人をTVに振り向かせたいという思いがあり始まりました。  社会的でなければならない、エンターテイメントでなければならないというところから始まっています。   杉下右京というキャラクターは、組織の中では嫌われるだろうというキャラクターだったので、人としては正しいと思う事が言えなくなっていることがあり、杉下右京はそれをいってゆくのでとても興味深かったです。  まずは嫌われるようなイメージという事を考えてやって、それは成功したなと思いました。   

コロナ禍ですが、幸いなことにドラマのチームからは陽性者は出ていないです。  これが起きたら放送には間に合わない、緊張感をもってやっています。  20年やっているというのは信じられないですね。   相棒って一つのドラマですが、或る時はシリアスに、或る時はコメディータッチで、扱う内容も社会的なことなので様々な世界があり、それを全部扱っていける、キャパシティーの広さがあるので、見ている側に飽きさせないと思います。

20年経ちますが、変わることは自然に変わる、それが一番いいかなあと思います。 体重などあまり変わらないです。   朝は食べないです、夜に食べ物はかけます。  なんでも食べます。  宵っ張りのほうです。  休みの時には朝まで起きています。 音楽聞いたりストーリーを思い浮かべたりいろいろ想像したりしています。 

小さいころは7つまで北海道にいてその後東京に来ました。  お兄さんが大きなカマクラを作ってくれたり、夏には素っ裸になって川で泳いでいました。  野球、相撲が好きでした。   小学校時代大鵬さんが大好きで、土俵入りが綺麗だなあと思いました。  

小学生の時に東京に来てTVの中にドラマが沢山あり、どこにこの世界があるのかと不思議でした。   近所の人が児童劇団のパンフレットを持ってきて見せてくれました。   それがきっかけとしては始まりでした。   TVは魔法の箱でした。  14歳の時に劇団雲があって、山崎勉さんが主役をやることになって、小姓役をやることになりました。   その時にいろんな人と会いました。   1968年、フジテレビ手塚治虫さんのバンパイヤ』のオーディションを受けデビューしたと同時に主役に抜擢されました。

思い描いていた世界とはギャップがあり、周りは大人ばかりでまだ高校生だったので、この世界は自分の住む世界ではないと思って、一回辞めることになりました。   アメリカに行こうと思ったが、あきらめて大学を受けますが落ちてしまって、役者としてのアルバイトを探しているときに声が変わるわけです。   アルバイトで役者の道に戻ったわけですが、ふっとこのままでいいのかという思いはありました。   中学の時には全国レベルの陸上部に引っ張られまして、撮影しながら陸上をやったりしていました。  この世界だけではなかったのでそこはよかったと思います。  或る時に僕の映画を観て、市川崑監督から走ってるところが一番いいねと言われました。  

自分の職業として、オファーが無かったらやりたくても出来ないという事があり、1位、2位がはっきりしない世界でもあり、もどかしさがありました。   そのうちに順位がつかないから面白いという事が判って来ました。  出来る限りやってみようと思った時は娘ができたときでした。  

それまでは自分一人で出来る事なんて何もないのに、自分の世界を作れるようなイメージがありました。  役者はなにが一番、二番、三番なのかわからない、ですからそんなことを思っていたと思います。

NHKで「男たちの旅路」があり、鶴田浩二さんが「好きなようにやってくれ、全部受けるから」と付け人から伝言で伝えてきました。  そういう事を言ってくれる大先輩が言ってくれて、この仕事をやっていてよかったと思いました。  しかし、役者には向いていないとも言われました。  協調性がないとか、短気だとか、若い頃はそうでした。  今は協調性の塊ですが。 (続編 あり)



2021年1月22日金曜日

川手昭二(筑波大学名誉教授)      ・"住民参加"のニュータウン50年

 川手昭二(筑波大学名誉教授)      ・"住民参加"のニュータウン50年

日本の高度経済成長が始まった昭和30年代首都圏に人口が集中し、その住宅需要にこたえるため、東京では多摩ニュータウン、大阪では千里ニュータウンなどが作られました。  横浜市の北部に広がる農村地帯では住宅の乱開発が進み、住民から街作りの要望が出され、昭和40年横浜市による港北ニュータウン構想が生まれました。   当時の飛鳥田横浜市長はニュータウンつくりは住民によるというこれまでにない街作り宣言をしました。  その構想を20年あまりかけて実現したのが、当時日本住宅公団港北ニュータウン開発事務所長の川手昭二さんです。  川手さんは東京の出身で今年94歳、東京大学大学院から当時の日本住宅公団に就職され、多摩ニュータウン、港北ニュータウンなどを手掛けた都市の計画家で、のちの筑波大学教授として多くの後進を育成されました。

健康の秘訣は散歩です、一日7000歩、歩くという事を念頭にあげています。 港北ニュータウンは緑道(ウオーキングロード)が充実していますが、多分日本で最初にそういう設計から始めました。  ほかはまず幹線道路から計画しますが。  緑道は15kmあり車と混じわらない。   子供の通学路にもなります。  ショッピング街、映画館のある所に出られる様にもなっています。

昭和40年頃に計画が発表されて20年あまりの年月をかけて作り上げられた街。  当時の横浜市長が飛鳥田さんで、ユニークな発想で作ったニュータウン。  当時年間29万人東京圏に集まりました。   住宅公団に入って多摩ニュータウンを偶然扱うようになりました。  私の先生は東大の高山英華先生で、都市計画の先生で、私は航空写真で空き地を調べ修士論文を書きましたが、公団は空き地を狙って建てるので、その公団に行けと先生から言われて、行くことになりました。  まだ当時は公団ができたばかりでした。

昭和37年に公団が多摩ニュータウンをやることになりました。  昭和39年からスタートして、計画課長として動き出しました。   港北ニュータウンの開発という事で、特定地区開発室長という事でした。   横浜市の地元説明を黙って聞き続けて2年半でした。飛鳥田さんが住民参加の都市計画をするようにとの指示でした。   当時ほとんどが反対でした。   乱開発が始まっていました。  

港北ニュータウンの設計は川手に任せると横浜市が言ってくれました。  設計図を作るようにというなら、公団が直に地元の意見を聞きながら設計します、作った案を横浜市に見せて横浜市がOKと言ったら、それでいきましょうと言ったら、飛鳥田市長がOKと言ってくれました。  それで地元の意見を聞きながら設計する方法に変わっていきました。   OKの取れていない設計図を地元の人にもっていって、地元の人に協議してもらって、道路計画などが決まってきて、横浜市に説明するという手順になっていきました。  決まったものを持ってゆくと、難癖をつけられました。   住民の意見は計画的ではないので、それを計画論の上に並び替えないといけない。   それを設計しなおすという事はなかなか難しい。  出来た設計案をグリーンマトリックス表でチェックして、出来たものを地元説明に入っていきました。   文化人類学者の川喜田二郎さんが開発したKJ法の本を読んで、2年半ずーっと聞くだけでメモを取ったものをKJカードに作りました。

KJ法でプランニングしてゆく方法を作り出しました。  整理したものを道路、水道とかの各分野の専門家と組み立てる作業を公団で行いました。  その方法について昨年建設大臣から感謝状をいただきました。  グリーンマトリックス表は自分の設計したもので、緑地が最も効率的にできているかどうかをチェックする表です。  

日常生活をすべて想定しながら作って行くので、徹夜したり大変でした。   グリーンマトリックス表は細かくは、①緑を保存する、②故郷を偲ばせる(神社などをあちこちに残す)、③安全な街、④高い水準のサービスを受けられる、4つが大きなマトリックスになります。   マンション、一戸建て、工場群、学校とかにわけていきます。  100坪ぐらいの掘っ立て小屋を作って、有名な設計事務所のトップクラスの職員を派遣してもらって、全部集めて色々な班に分けて、公団の職員を含めて設計してもらいました。   一番いいと思われるものを採用するので、工事が受注できるかどうかなのでそれぞれ一所懸命にやるわけです。   昭和61年に市営地下鉄が開通、平成になって都筑区となり平均年齢が40歳代、と若い街で人気があります。

昭和53年住宅公団から筑波大学の教授に転身、社会工学系を担当。  教育大学を筑波に持ってゆくという話があり、都市計画学科を作ることになり、その教授をだれにするのか、筑波に行く教授が誰もいなくて、高山先生が「お前行け」という事になり、行くことになりました。

社会工学というものはありませんでした。 社会を望ましい構造にするためにどうやって作るのかという学問が社会工学です。  その後退職して港北に戻ってきました。     かみさんに自慢できます。   町内会ははじめ自然に出来るんですが、ゴミ捨て場、怖いので電柱を作って町内会で電気代を払う、そういったことを全部やるようになり、今は町内会の中に班があり、話し合いで全部決まっていきます。

パワーマンション、ニュータウンとは違った形で出来てきている。   幼稚園まで中にはいったパワーマンションを作っていったほうがいいと以前からありした。   日本ではフランスの様には出来ない。  フランスでは計画的なパワーマンションが出来るが、日本では乱開発パワーマンションになっています。 

住みやすい街を作るという事は、教育でやったほうがいいと思います。  出来上がった街に新しいコモンズ(近隣関係)を作る、素晴らしいコモンズを作る、そのためにはどうしたらいいかという勉強会を、中学、高校の時に是非とも教えて欲しいと思います。  コモンズの文化が出来てくるのが次の時代だと思います。  これからはコモンズ計画と奮闘する20年、30年ではないかと思います。


2021年1月21日木曜日

枝元なほみ(料理研究家・NPO法人共同代表)・誰もお腹をすかせませんように

 枝元なほみ(料理研究家・NPO法人共同代表)・誰もお腹をすかせませんように

今月1日と3日に東京四谷の教会で無料の大人食堂が開かれ、枝元さんはコロナ禍で苦しんでいる人達にお弁当を作って配りました。   また料理家人生をかけて去年の10月にオープンしたのが夜のパン屋さんです。   各地のパン屋さんでその日残ってしまいそうなパンを買って、路上で生活をせざるを得ない人たちなどが東京神楽坂にある本屋の軒先でパンを販売しています。  これまでの65年間の人生の中で、枝元さんは貧困や食べる事生きることについてどのように考えてきたのでしょうか。

今月1日と3日に東京四谷の教会で無料の大人食堂が開かれましたが、私のほうで600食用意しました。  準備は自宅で行いました。  生活相談、労務相談とかそういった方がいらっしゃいました。   一昨年の12月30日、去年の1月4日にもやりましたが、その時の5~6倍の人が来ました。  コロナの影響だと思います。   仕事が無くなったり、学生さんのアルバイトが無くなったり、派遣の人が切られたり一番弱い人たちにしわ寄せが来ます。 家賃が払えなくて住む家が無くなってしまったりしています。  

食べ物はいろんな種類が選べるようにしています。  話をしながらやるようにしています。   外国籍の女性でベジタリアンと言う事でそれにも対応しています。      女性のほうが大分少ないです。   

使命感ではなくて、これならやれると思うと走ってしまうタイプです。   雑誌を路上で売って一冊売ると半分が売っている人の収入になるというシステムがあり、いっしょにやりましたが大変です。   仕事を作って仕事をしていただく、仕事のやり方も自分でやっていいというやり方でした。    そこがいいと思ってかかわるようになりましたが、夜のパン屋さんは、各地のパン屋さんの閉店前後に売れ残るものが出てきましたが、捨てざるを得ないパンを買って神楽坂の軒下で販売しています。  そういった仕事だとみんな生き生きしています。

食べ物の分配が上手くいかなくて偏っているからすごく困ってしまう人と、もっともっとかき集めておかないと不安だという人に別れてしまっていて、十分に分け合おうと思っていたら新しくて希望のある社会を子供たちに残せると思っちゃうんです。

日本は食品ロスが世界でも何番目かに多い国で、捨てていくものが世界中の食糧援助の倍近い食料が捨てられています。  食品ロスを減らすことで飢餓をなくすことに思いを寄せようというキャンペーンをやっていて、そのお手伝いを3年やっていたので、夜のパン屋さんをそこと一緒にできると思いました。

料理を30年間以上やってきましたが、最初の頃は見た目、栄養価、安い、うまいとかやって来ましたが、先につながらないような気がしてきて、根底にあるのは飢えさせないことだと思いました。   食べれない人たちに対して後ろめたさがあったんだと思います。

夜のパン屋さんは最初は知り合いのパン屋さん3軒しかなくて、やろうとしていることを説明して歩きました。   苦労して作ったものを売り切ってもらう事はありがたいことですと言われて、いいなあと思って頑張りました。  お客さんと売る人との関係性は柔らかい感じがして女の人の仕事作りにいいなあと思いました。  「三方良し」と言われます、それに加えてパンも良かったと思うので「四方良し」だと思います。

食べ物って明るいんです、明るくするものなんです。  人と共に生きる、共に食べることは未来を作っていくことなんだなあと思います。  

食べることは生きることだと思うので、生きることを否定しては駄目です。 

お腹が減っていると喧嘩しやすいが,お腹がいっぱいだと結構喧嘩はしないです。  

  






2021年1月20日水曜日

室伏広治(スポーツ庁長官)       ・【スポーツ明日への伝言】ハンマー投げの鉄人が目指すもの

室伏広治(スポーツ庁長官) ・【スポーツ明日への伝言】ハンマー投げの鉄人が目指すもの 

室伏さんは陸上競技ハンマー投げの選手として日本選手権に20連覇オリンピックには四回出場して2004年アテネ大会で金メダル、2012年ロンドン大会では銅メダルを獲得しています。  現役選手引退後は東京医科歯科大学教授でスポーツサイエンスセンター長、東京オリンピックパラリンピック組織委員会のスポーツディレクターも務めてきました。

書を毎年チャリティーで書かせてもらっていますが、今年の書道展はやりませんでしたが、文部科学省前で私も初めて色紙に「一心不乱」という文字と絵も描いていて、ハンマー地蔵のようなものを描きました。  一投一念という信条で、一つ一つ気持ちを込めて取り組んでゆくことに道ができてくる、そういう信条です。

身体を動かすだけではスポーツも上達しないのではないかと思います。   精神を集中させたりとか、そういうものが自然にあらわれるのが書道だと思って、スポーツで疲れた心を癒してくれることがあると思います。  

ハンマー投げはイギリスが発祥の地で、イギリスはいろんなスポーツの発祥の地でもあります。   貴族がハンマーを投げて競ったという事もあります。  重さが7,26㎏の球でワイヤーとハンドルがついていて回転しながら、回すという事なんですが、80m投げるときには350㎏ぐらいの張力が働きますが、投げる瞬間にうまくいくと全く重さを感じないという、自分が飛んでゆくような不思議な感じがします。  いかにして遠くへ投げるか、これを追及してゆくスポーツです。

父は日本選手権10連覇、アジア大会5連覇でしたが、父が引退するのが41歳のときでしたが、父のそばにいて生まれたときからハンマー投げは知っていました。  3歳ぐらいの時に父が発泡スチロールで作ってくれたものを回していました。   小学校では3kgで投げた記憶があります。   

会心の一投はそんなにあるものではないですが、経験を重ねていくほどそれに近いものが出せてきますが、体力は若いほうがあります。    

私が引退する最後まで父がフィルムを撮り続けてくれました。  父は一日12時間投げ続けて誰にも負けないトレーニングをしたが、やれば記録が下がっていっておかしいという事で、練習を取りやめて、8mm、16mmフィルムで撮って、それを見たときにひどい動きをしていたことが判り、フォームを改善したところ、記録が伸びていった。   息子にも遠回りをさせまい、無駄な努力はしないようにという事で、客観的に自分を見なさいという事で撮ってくれていました。

2000年シドニーオリンピックでは雨の中でやりました。  雨の中で投げたことはなかった。    ポーランドのシモン・ジョルコフスキ選手が「浩司 お前は雨で投げるのが好きか」といって、考えている時に「俺は雨でもベストを投げたんだぞ」と言って、そこで前向きに考えることが出来れば、もしかしたら結果も違ったのではないかと思いました。 苦い思い出が最初のオリンピックでした。

2004年アテネ大会で金メダル  地元選手が出場する400mハードルと重なってしまっていて、スタジアムが声援で地響きがするぐらい大きくて、どうやって集中させるか考えて、寝転んで星を見つけていて、その時にスタジアムのことを忘れていて、最後の投擲(とうてき)になりました。  金メダルを取った選手がドーピングになり金メダルを貰う事になりました。

その時に日本の記者団に或る詩を配りました。(メダルの裏に書いてあった詩)

「真実の母オリンピアよ  あなたの子供たちが競技で勝利を勝ち得たとき、永遠の栄誉、黄金を与えよ  それを証明出来るのは真実の母オリンピア」

アスリートは人生をかけてやるつもりでやった結果なので、それは金であろうと、銀であろうと一所懸命やった努力に関しては変わらないんだと、自分で書いて皆さんに渡しました。

一緒に試合をしてきた仲間からドーピングをしたのは本当に残念につきます。  スポーツは神聖なものだと思うのでそんなことが無いように取り組んでいるところです。  様々な新しい形でドーピングがあったりします。  これは警察と泥棒の関係であるのが 私は問題がある思っています。  アスリート自身も不正をしないんだとみんなが一体になって取り組まないと撲滅できないと思います。

アテネ大会は30歳の頃で、2011年世界陸上で金メダル、2012年のロンドンオリンピックでは銅メダル。   36歳、37歳の時でした。   苦労して取ったメダルなので本当にうれしかったです。   体力の限界でした。  怪我をしやすいし、怪我をすると治りにくいという事でどう調整するか難しかった。   2005年アテネ大会の翌年ですが、反復性疲労と言って同じ所だけ使って疲労に結び付く。  2005年は休息にあてました。  

研究は後に回すとするとやらなくなってしまうので、やれる時にやろうと思って、スポーツを科学するという事で2005年から2007年で博士号を取得しました。

スポーツバイオメカニクスは分野が応用スポーツ科学で、運動の解剖学、力学、生理学とかを組み合わせて、どういう運動のメカニズムになっているのかを解明するのがスポーツバイオメカニクスで、スポーツもそうですが、怪我のリハビリ、シューズ、ウエア、スポーツ工学とか、従業員が効率よく疲れずに運動するにはどうしたらいいのか、そういった様々なところに応用科学と言いますが、スポーツバイオメカニクスで、私はハンマー投げの研究を最初の頃やっていました。  身体をどう保ってゆくか、スポーツを通してよりよい生活が送れるように、生かせていけるように取り組んでいるところです。

「成功体験が邪魔をする、失敗体験が人を大きくする。」  成功体験すると次のチャレンジを恐れるようになったりする。   満足感のせいでこれでいいんだと思ったりしてしまう。  失敗体験は人を大きくする。

カヌーの羽根田選手が「スポーツをやっていると全てを忘れて没頭できる、こんな贅沢なことはない」といったことに感動しました。   一心不乱とはその様なことかと思います。

スポーツの行政という立場で、皆さんにためになるようにスポーツが社会にすこしでも貢献できるように取り組んでいきたいと思います。  自粛化のなか新聞を片手でつかんで丸めて手の中に収めて行く、これを7セットやると握力などに非常にいいと思います。









 


2021年1月19日火曜日

Lutherヒロシ市村(声楽家・俳優)    ・ジャンルを超えて聴く人の心をつかむ

Lutherヒロシ市村(声楽家・俳優)    ・ジャンルを超えて聴く人の心をつかむ 

1960年東京生まれ、国立音楽大学音楽部声楽科を卒業し、二期会で研鑽を積む傍らオペラデビューを果たしました。  代表作に『コジ・ファン・トゥッテ』のドン・アルフォンゾ、『魔笛』のザラストロ、『リゴレット』のスパラフチーレなどがあります。  その後、オフ・ブロードウェイミュージカル『ジェニーの肖像』の日本初演メンバーに抜擢、ミュージカルデビューを果たしました。  ミュージカルの公演で出会った、ミュージシャンの誘いを受け、ソウルユットに加入をして、ソウル歌手としても活動しています。  またシェークスピア俳優として、台詞のみで演じるシェークスピア遊び語りシリーズにレギュラー出演するほか、2018年9月には河合祥一郎さん演出の『お気に召すまま』に歌の才能を生かした役で出演しました。  ルーサーさんは自ら歌い演じるだけでなく、独自のボイストレーニングを取り入れた発声や歌唱指導を通して後進の育成にも取り組んでいます。  ジャンルを超えて活躍をする、声楽家で俳優のLutherヒロシ市村さんに伺いました。

クラシック歌手からソウル歌手に転向するときに、誕生日が1月15日でルーサー・キング牧師も同じという事で、ルーサーにという事になりました。

昨年10月に記念リサイタルがコロナ過で開催できてよかったなと思っています。  リサイタルは10回目になります。   第一部は私のオペラ歌手としての一面を見ていただいて、間にシェイクスピアの俳優としての一面を見ていただいて、最後には歌曲、そういうものを歌う側面を見ていただきました。  リモート演奏SNS上で発表する形式が流行したので、それを舞台で皆さんにお届けしたかった。   伊藤奈美さんにピアノをお願いしました。  ほかにも三輪えり花さんとか若い協力者を含めてリサイタルを行いました。

小さいころは母がピアニストで、祖母が日舞の師匠でした。  母はピアノ教室をしていましたので、ピアノをやっていました。   多摩少年少女合唱隊に所属していました。    ボーイソプラノを担当しました。  小学校6年で突然声変りがして、学校では音楽の先生からどうしたのと言われてしまいました。   合唱隊は退いて青年部に回され、バスパートに回されました。  反抗期があり、母への反抗、ピアノを辞めてしまい、歌も辞めてしまいました。   高校で合唱部があり男性が足りなくて、大会に出れば単位を貰えるという事で、先生からいい声をしているので声楽をやってみたらいいと言われて、始めました。

国立音楽大学で声楽の勉強をしました。  二期会研修所に入ることが出来ました。  音楽の先生として就職するか歌をやるか考えました。   26~29歳海外に行きました。  イタリア、オーストリア、ドイツなど転々としました。  見るもの聞くものすべて収穫でした。

*モーツアルト作曲 オペラ「魔笛」よりザラストロのアリア- 「この聖なる殿堂には」(還暦リサイタルより)

二期会のマネージャーからミュージカルをやってみないかと紹介してもらい、『ジェニーの肖像』バスソロがある役をいただきまして、それが最初です。   ブラザー・トムさんから自分がやっているソウルコーラスグループの低音を担当して欲しいと言われて、40歳の時に加入して今年で20年目になります。

山梨県のオリジナルミュージカルを 三輪えり花さんが演出することになり、音楽面の監督、指導面で呼ばれましたが、やりがいのある仕事でした。

三輪えり花さんの「シェークスピアの遊び語り」に参加するようになりました。  台詞で成り立っている演読で、時には本から顔を上げて表情、手ぶり身ぶりを加えながら演劇に近い状態でやります。  声を生かせることが出来ました。

*演読 シェークスピア遊び語り ヘンリー四世より「フォルスタッフ」の台詞

河合祥一郎さん演出の『お気に召すまま』に出演。   

多ジャンルに出ますが、お互い観察できるので、別々のものという感覚はないです。

ルーサーボイスメソッドを編み出しましたが、交通事故にあって声が出なくなってしまった時に筋力トレーニング、発声トレーニングを自分に施しながら声を再生させていった過程で編み出したものです。  喉だけの筋力で歌わずに全身の筋肉を使って声を出したり歌ったりするものです。  10年弱の時間がかかっています。  個人レッスンをしています。 去年の日本音楽コンクールのバスで奥秋大樹君が見事入選しました。

週に3回は筋肉トレーニングはしています。  安心してお客さんに見ていただける環境になるのが一番の願いです。










2021年1月18日月曜日

山木千賀(箏曲演奏家)         ・【にっぽんの音】

 山木千賀(箏曲演奏家)         ・【にっぽんの音】

東京都生まれ、43歳 父の6代目山木千賀さんから手ほどきを受ける。  3歳から曲を弾きはじめる。  歌だけを歌っているのは1歳半ぐらいからです。  中学、高校でもお稽古を続け東京芸術大学音楽学部邦楽科に進み、山田流筝曲を専攻、大学卒後は演奏活動をしながら大学院で古典曲などの研究を続ける。    2018年に山田流筝曲山木派の7代目として山木千賀を襲名。

*「六段の調べ」  お琴の中では一番ポピュラーな曲かもしれません。  六段は6つの演奏部分からなる曲で、八橋検校という筑紫流箏曲を学び近世筝曲の基礎を作り上げた人の作曲です。  

生田流と、山田流があり、生田流は京都が発祥の地で、山田流は江戸から発生しました。  生田流派はしんなりしっとりした曲が多いが、山田流はちゃきちゃきとした江戸のもので華やかな曲が多いです。

山田流は浄瑠璃やお能などの謡を取り入れている筝曲で、謡本位で作られた曲が多いです。 筝曲山田流の祖の山田検校は能楽師の息子なので能の語りの部分が多いです。

大学卒業後にこの職業でいいのかなあと思って3か月カナダに留学しました。   カナダの放送局にリサイタルを申し込んで、リサイタルをやったら、現代風なものよりもお琴の古典のほうが受けました。   自分がする演奏は言葉を乗り越えて、いろんな方とつながることが出来ると思ってこの仕事をするようになりました。  

見た目よりも割と行動力のあるほうです。

昨年はコロナ禍でオンラインレッスンを始めました。  それとレッスンDVDを自分でパソコンを使って作ったりしました。  10月に無観客でオンラインリサイタルをしました。  オンラインレッスンもなかなか慣れなかったのですがようやく慣れてきました。 或る意味幅が広がったような感じです。

お稽古はマンツーマンで行います。  いろんな職業の方と出会えて話をしたりするのが面白いです。  

お正月の弾き初めはみんなでお琴を並べて弾いて、みんなで酒盛りをしてプレゼント交換をしたりしますが、今年はそれが出来なくて残念です。

*「子の日の遊」 二代山木検校が作曲した曲です。  新年の喜びとおめでたい動物植物を並べて未来への祈願をこめているご祝儀曲になります。

お琴を弾いていて音が日本人に懐かしいというように思えていて、演奏していても自分の気持ちが整ってゆくような音だと思います。

日本人ってちょっと不安定な音が好きで、お琴もちょっと不安定な味のある音で、そういったところに日本人は惹かれるのではないかと思います。

私が感じる日本の音とは、下町の花火、お祭りの音です。  その音を聞くとウキウキします。























2021年1月17日日曜日

湧口清隆(相模女子大学教授)      ・【美味しい仕事人】駅弁今昔 旅を楽しむ

湧口清隆(相模女子大学教授)      ・【美味しい仕事人】駅弁今昔 旅を楽しむ 

日本の駅弁は130年の歴史があると言われます。  専門の交通経済学の視点から駅弁、食堂車、機内食、空弁などの道中昼食を研究しています。

観光列車が人気がありますが、鉄道に乗らない人に関心を高めるための仕掛け、それによって地元の人たちから鉄道を支持してもらうための仕掛けになっているんじゃないかと思っています。  

道中食は、駅弁だけでなく、食乗車、機内食、空弁、高速道路のサービスエリアとか道の駅の弁当も入ってきます。  専門は交通経済学です。  

「あいご」は西日本では食べられていますが、東日本では食べられていません。  臭い魚です。   商品開発ということで燻製を作ることにチャレンジしたこともあります。

九州の福岡県糸島市(マダイの漁獲量は2011年度から2015年度の5年連続で日本一)の鯛を中心とした魚介類の販路拡大して漁師さんを救って欲しいという話もありますし、三重県の熊野市ともいろいろやりました。  物流の部分がカギとなります。

鉄道に関してフランスに行ってきましたが、残念ながらフランスでは駅弁はないです。   海外からくるお客さんは駅弁に惹かれるという人は結構います。

昭和28年に駅弁大会が始まったといわれています。  ふるさとの味を楽しめるという事でイベントが増えてきました。    

明治18年に宇都宮駅で出された握り飯が駅弁の最初だと言われています。   明治5年に鉄道ができたときには、東京と横浜なので1時間なのでわざわざ列車の中で食事をしなくてもよかったんですが、鉄道が拡大していって、3,4時間、あるいは何日もとなると、途中の食事をどうするかという事になってくるわけです。   それで駅弁が広がっていきました。  幕ノ内弁当の形式は明治22年と言われています。

朝、昼、晩と幕の内弁当だと飽きてしまうので、その土地のうまいものを食べさせてほしいという事で、その土地ならではの食材を使ったお弁当が出てきます。  それを特殊弁当と言いますが、それが増えてきます。   鶏肉、牛肉の弁当も出てきます。  松坂、米沢などが有名です。   サンドイッチは明治時代からあり、大船駅が古いです。

国鉄によって駅弁には規制があり、御飯が何gでおかずの種類はいくつとかというふうにして決められていて、又衛生管理、食中毒というよなことはまずほとんどないです。  日持ちさせるために日本では冷やして販売しています。  台湾では2時間以内に食べてくださいという事で暖かいものを食べる事ができます。   国鉄では価格も規制しています。

食堂車は1900年ぐらいから出てきますが、暖かいものを食べるように国鉄も考えました。

穴子飯は明治期からありますが、稲荷寿司とか、静岡の鯛を使った駅弁も古くからあります。

特急列車になって窓が開かなくなると大変な問題で、車内販売で売ってもらうしかなくなり、昭和40年代からそうなってゆきます。   制服も鉄道当局の許可が必要でした。 全然関係ない人が変なものを売ってしまっては困るので、安全、安心のために制服の許可が必要だったわけです。

駅弁屋さんにとって大変なのは男手が必要でしたが、この人達が戦争に駆り出されて、食材が無くて、自由に販売が出来なくて、大きな駅は空襲の影響も大きかった。   

昭和30年ごろから駅弁が復活してゆきます。  段々特殊弁当が主役になっていきます。

最近は季節によって変える弁当もあり、定番と組み合わせるようになりました。  マス寿司からブリ寿司へと広がったり、容器も色々工夫され横川というと陶器で出来た釜めし弁当が有名です。

横浜のシュウマイ弁当は醤油入れがプラスックではなくて、昔は陶器で出来ていてフクちゃんの絵が描いてあったりしました。

コンビニエンスストアを駅の売店の代わりにするところが増えてきて、電子レンジで温めるという事が出来るので、どう対応してゆくかという問題もあります。

1980年代にひもを引っ張ると温められるというような工夫もされましたが、それだけで100円ぐらいコストがかかってしまいます。  高級化に向かうざるを得なくなってきました。蓋を取るとオルゴールの音が出てくる弁当もあります。

駅弁屋さんも創意工夫をしていかないと残っていけない。  

三重県のところの鉄道は食材が豊富なので、食を楽しめる列車を走らせてもらいたいし、プロデユースしたいとも思います。  暖かいものを出すという事を考えたときに、駅そば屋さんとうまくリンクしてゆくと面白いと思っています。















2021年1月16日土曜日

佐渡 裕(芸術文化センター芸術監督 指揮者)・「いま音楽にできること」

佐渡 裕(兵庫県立芸術文化センター芸術監督 指揮者)・「いま音楽にできること」 

新型コロナウイルスの影響を受けて以前のような音楽活動ができない中、新たな演奏会の在り方を模索し続ける佐渡さんのこの一年の思いを聞きました。  兵庫県立芸術文化センターが去年の春2ヵ月の休館を余儀なくされたときのことから伺います。

通常トータルで3か月家にいるような状況ですが、8月までほとんど家にいました。  かなり長期戦となると思うとモチベーションが下がりました。   指揮者として食っていきたいと思ったのは20歳ぐらいの時でしたが、今回とにかく誰かとひとつの音楽を作っておたがいの心が触れ合いたいというような原点に戻ったような気がしました。   ネット配信、「スミレの花咲くころ」プロジェクトをやろうと思いました。  リモートでオーケストラを作って一般の人がそれに合わせてヴァイオリンを弾くとか歌を歌うとか、するようにという事で動きました。 動画の再生回数は24万回を超えました。

去年7月演奏者の間にアクリル板を立てるなど対策をしてようやく合唱のコンサートが実現しました。   その日しかない時間というのもすごく大事だと思います。   歌声の持つ魅力、そうしたものに触れられるという事の喜び、お客さんの拍手を改めて実感しました。

なぜ音楽が必要なのかという事を考えなければいけなかった。  被災地を訪ねて人を励ましたり、TVの番組をもって人に音楽の面白さを伝えなければいけないと思って考えたことなど、ヴェートーベンの喜びの歌の面白さを伝えることとか、そこには難しいことはないです。

去年9月さらに一歩踏み出します。  リヒャルト・シュトラウス作曲 アルプス交響曲 演奏者の数は最大級120人というオーケストラ作品です。  通常の1,5倍の距離を取って演奏者が並びました。  これは山登りの曲ですが、この作品は一人の人生を描いているような気がします。   うつむき加減でしんどい生活をしている人には思いっきり爽快になってもらいたいという気持ちはありますね。  何かのきっけになったらなあと思います。  観客は1/3に抑えられました。

ここ20年程の中でテロ、震災、水害があるなかで皆さんと音楽を作ってきて感じたことは、まずわれわれ一人一人はばらばらなんですよ。  違う場所に生まれ、違う年齢で、言葉、宗教、信じてるものも違うというようななかで社会ができている、オーケストラができていて、だからこそみんなで一つのものを作ることは簡単でははない。  一つの空気の振動を感じて何か共振するものがある。  一つの音楽を通して今一緒に生きているなという事が感じられることが音楽の魅力であり、音楽をする人間がそうしたものを作っていかなくてはいけない。

12月 阪神淡路大震災の犠牲者を追悼するために演奏会が開かれました。  震災から25年という節目になります。  尊い命と向き合う事は時間がたっても大事なことだと思っています。  音楽にできる大事なことの一つは祈るという事かと思います、又楽しむ、未来へつながって行く。  フォーレ 作曲《レクイエム》 鎮魂歌 「三大レクイエム」の一つ終曲は物凄く綺麗です。

音楽は無くても人は生きていけると思いますが、心を豊かにする、傷ついた心に対して僕らが届けられるものがあるような気がします。

東日本大震災、2011年8月に初めて行きましたが、物凄く生々しかったですね。  3月から8月まで泣いた事すらなかったと言っていた人が、音を聴いたら涙がボロボロ出たと、素直になれたとか、被災地で演奏することは音楽をする者にとって、必要性とか、音楽をする理由だとかそんなことを多く考えさせられました。

















2021年1月15日金曜日

宇梶静江(古布絵作家)         ・【人生の道しるべ】今こそ、アイヌの心を伝えたい

 宇梶静江(古布絵作家)      ・【人生の道しるべ】今こそ、アイヌの心を伝えたい

昭和8年北海道浦河町出身、87歳。 23歳で上京し東京で暮らしていた宇梶さんは、昭和48年40歳の時に「東京ウタリ会」を立ち上げ、20年余りにわたってアイヌ民族の権利獲得のための活動を続けました。  60歳を過ぎてから古布絵というオリジナルの技法を生み出し作品を作るようになります。  古布絵は生活の中で使ってきた古い布をパッチワークのように縫い合わせ、さらにアイヌ文様刺繍も組み合わせてアイヌの物語を描いたものです。   去年2020年に出版した自伝大地よ! 〔アイヌの母神、宇梶静江自伝〕では後藤新平賞を受賞、宇梶さんのこれまでの歩みは現代文明に対する厳しい批判、今の限界を乗り越えるものを持っていると評されました。  アイヌ文化伝承者で古布絵作家の宇梶さんが、アイヌとして今伝えたい思いを話していただきました。

孫が4人でひ孫が5人になります。  3月で88歳になります。 

自伝「大地を」で後藤新平賞を受賞。 民族衣装を着て授賞式に行きました。 この本は442ページになります。  3年かかって書き上げました。  囲炉裏の火を見ながら昔話、なぞなぞ、動物の物語をみんなシーンとして子供たちは聞くんですね。  

幼少期は貧しくて和人からの差別も子供のころからありました。  文字を持った人たちと語るという文字を持たなかった民族が一方的に明治政府によって文化がひっくり返されてしまうわけです。  失ったものは食べ物から仕事から全部取られてしまった中で、私たちは生きる力をそがれていきました。  病気になったりするとお金の経済で成り立っている和人の社会では、私たちは貧しく落ちてゆくだけ命を落としてゆくだけ、そういうのを子どもの時から見てきているわけです。

アイヌ民族は元々狩猟民族で自然と主に暮らしていたが、明治政府によって仕事も奪われ、アイヌ語、文化も奪われてしまいました。  親のいない子が厳しい寒さの中、亡くなって行ったり、歳をとった人が病気になって医者にかかるお金が無くて仕方なく亡くなってゆく、仕方ない、仕方ないという言葉、諦めのことをいやっというほど聞いて育ちました。

魚とか野菜とか神様が食べ物を与えてくれたのに、全部禁止されて、牢屋に入れられるのが嫌だから魚を獲りに行ったりできない。   私はまつげが濃くっていじめられる、和人の子は薄いんです。  鏡を見てまつげを鋏で切ったんです。 姉が母親に告げましたが、母親は黙っていました。  そういう傷つけられたことは沢山ありました。  アイヌ同士で結婚するとまた同じアイヌでいじめられると、子供の頃の思いができてしまって避けあうんです。  和人と結婚すると毛深くない子が生まれるとか、私も勘違いして私もアイヌが嫌いになった。   アイヌの道具がいっぱいありましたが、全部私が無くしてしまいました。

中学に行かずに親を助けて、20歳で札幌の中学に進学、3年間かけて23歳で卒業。   入院中の父を説得して2万円というお金も調達してもらって3月17日東京に行きました。  27歳で結婚しましたが、アイヌであることは封印していました。  

1972年38歳の時に朝日新聞に「ウタリたちよ手をつなごう」という同胞への呼びかけの文章を投稿しました。

「・・・私たち種族は北海道の大自然の中にありましたが、他面実に様々な差別の元に苦しんでまいりました。 いまだに就職や結婚問題などで数えればきりがありません。  差別は我々アイヌ系に限られるものだけではないでしょう。・・・実に多くの差別があります。・・・アイヌだからという事で独特の差別をされたのはなんであったのか、見詰められるのなら、その差別されたことによる苦しみの真の原因を捉えられるのではないか、それには同朋との親睦を深めあい、共に語り合えるならならばと望みを託して筆を執りました。・・・」     心を火だるまにしないとできなかった。

纏まらなかったり、5,10、20年と経っていきました。  勇気が足りないという事が悔しかった。  カムイ 神様が好きでした。 神様しか頼れなかったのかもしれません。  勇気を出したかった。  なんで頑張ってきたのか判りませんでした。  60歳ぐらいになった時にもう一回アイヌの刺繍の着物を身に付けようと、私は自分を生きると決めました。   62歳の時に新宿で北海道展があり、ふっと「私は北海道にアイヌの刺繍を習いに行きたい」と言葉が出てしまいました。  

デパートで古い布展があるという事を聞いて、行ったら、布絵を見ましたが、身体が宙に浮くような衝動を受けました。   子供の頃絵を描いたりして過ごしていましたので、それと一緒になりました。  何を作ろうかと一晩眠れませんでした。 シマフクロウの写真集を買いました。  シマフクロウの絵を作りました。  目が赤いのは政府にアイヌがここにいるよ、あんたたち見えないのかというメッセージです。

その後いろんな作品に取り組み、その分身体がボロボロになってしまいました。  ぼろ布の色彩をいただいて絵にするわけです。  

2011年、古布絵が評価されて吉川英治文化賞を受賞。  貰うたびに怖いです、次元が違い過ぎて怖いです。  語りましょう、あなたから出る言葉からあなたを幸せにすることも出来るし、民族を救う事も出来るし、周りの人にも認めてもらえることなんだよと、いう事を残したいです。  語ることが財産だと思います。  語ることで文化とか生きる力が生み出されれます。 自分の幸せを生み出す力を生み出します。 大地と向き合って学んで行く、大地こそが先生、哲学者だと思います。  大地は神様だと思います。

人間だから人間らしく生きていきたい。 


宇梶さんの詩

語りましょう。  

民族、人として、人とはどうあるべきかを民族に自負をもって

理解ある和人の友達、あるいは世界の先住民族に向かって、

いわれなき差別と闘っている友達に向かって

先ず人間、アイヌを語りましょう。

そして正義を培い、森羅万象と共に生きる命たちを抱きしめて

傷みを癒し愛しあいましょう。

アイヌ民族の祖先たちが残してくださった営みを取り戻し

民族に適した仕事の復活を図り、分け合って生きる。

生きる事を楽しむ、追い詰め合わない。






2021年1月14日木曜日

松本一路(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 第二回

松本一路(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年アンカートークショー 第二回 

昭和22年生まれ、昭和46年にアナウンサーとしてNHKに入る。 50年になります。

ラジオニュースを未だにやっています。  「ラジオ深夜便」は2007年から10年間アンカーを務めさせていただきました。  

NHKに入り最初の赴任地が北九州放送局で4年いました。  その後、松山放送局(3年)広島放送局(4年)、大阪、東京をそれぞれ3回して、引っ越しは11回しました。  スポーツを主に担当、高校野球は200~250回中継放送しました。 これはNHKでは一番多いかなあと思っています。  オリンピックも何回か海外の現地から放送させてもらいました。

59歳の2月に「ラジオ深夜便」のアンカーをやってほしいと言われました。 吃驚しました。  スポーツ実況は早口で興奮して聞いていただくしゃべりを目指してきましたが、「ラジオ深夜便」は全く違うしゃべり方をする番組です。  対照的でした。

スポーツですが、野球を専門にやってきました。  オリンピックの種目が多いなか20数種目やっていました。

松坂大輔投手が平成10年春選抜で優勝して、史上5校目の春夏連覇を目指して、甲子園にやってきました。  打倒横浜、打倒松坂というのが合言葉のように言われました。    横浜高校は1,2,3回戦は松坂投手が一人で完投して準々決勝に勝ち上がってきました。   一方はPL学園で、同点で延長戦に入って、大接戦になって決着がついたのは延長7回で横浜高校にホームランが出て準決勝に行きますが、松坂選手は250球を投げ切りました。 準決勝は翌日で相手は高知の明徳義塾戦で流石に連投はできません。  松坂を4番レフトで起用、0-6と大きくリードされたが、8回裏に一挙に4点を取り2点差に詰め寄る。     右腕にグルグル巻きにしていた松坂がテーピングを取って投球練習場で始めた。  9回の表に松坂がマウンドに上がって3人を抑えて、9回裏に横浜が何と3点取って逆転サヨナラゲームでした。  翌日の決勝は京都の成章高校で、実況担当しましたが、8回までノーヒット、9回のマウンドにあがる。  ストライクが入るたびに大歓声が上がる。

余計なアナウンスはいらない、この大歓声と映像だけで、甲子園の雰囲気をそのまま伝えたいと思ってコメントはなるべく控えました。  松坂大輔がもしノーヒットノーランを達成したらどういうのか、実況アナウンサーのすべてを込めて発する言葉だと思って、「松坂大輔ノーヒットノーラン達成」というか、「横浜高校史上5校目連覇達成」と言おうか迷いました。  内野ゴロで2アウトになって、3人目もきってとって三者凡退、「横浜高校春夏連覇達成 松坂大輔ノーヒットノーランで花を添えました」と言ったと記憶しています。    プロでは個人の記録を優先しますが、高校野球では個人より学校が伝える情報としては重要ではないかと思ってそういいました。  放送した資料をNHKの歴史博物館で預かっていただいていて、何かのイベントには展示されるという話を聞いています。

1984年36歳の時にロサンゼルスオリンピックの放送に派遣されました。  体操で森末選手が鉄棒で金メダルを取りましたが、具志堅選手が個人総合で金メダルを取りましたが、TVで実況させてもらいました。  持ち点では具志堅選手が5位で、1位がアメリカのピーター・ビドマー選手、2位が中国の李寧選手。  あん馬から始まり、吊り輪と進み、跳馬で具志堅選手は10点を出して3位に浮上、4種目目に移動するときに、電光掲示板が故障していて、具志堅選手が鉄棒で9.95を出して、私の計算ではピーター・ビドマー選手を抜いたと思った。  0.025差だと思っていた。 6種目目にピーター・ビドマー選手が9.90を出す。  具志堅選手が9.875以上出せば金メダルと思ったが、自分の計算なので確証がない。  でも言わなければいけないというんで「具志堅、床で9.875以上で金メダルです」といった瞬間足がぶるぶる震えてしまいました。   最後の着地が半歩下がって、0.1引かれるかもしれないと思ったが、9.90が出ました。  しかし優勝とは言えない。 得点板が出た瞬間に監物コーチが具志堅選手を抱きしめて、よかったっと思い涙がでてきました。

ラジオ深夜便は5時間55分の放送はそれほど長いとは感じていないんです。  野球では6時間26分をやってきましたので。  5時に終わって帰りますが、外は真っ暗で星空を見ながら原宿駅まで歩き、今日もリスナーに支えられてよかったと、心が温かくなる気持ちがします。  スポーツ中継をやった後の感激とは全く違う、暖かいものがこみ上げてきます。   

違うものを二つ担当してきて、よかったなあと思います。  共通しているのが長時間にわたって生でやりますが、生でやっていると失敗が多いです。  失敗談をいくつか紹介します。   1996年アトランタオリンピックで陸上を担当して、マイケル・ジョンソン選手が史上初めて200m、400m二冠達成するかどうかが話題になりました。  200mを担当しました。  NBA(全米バスケットボール)でも担当していて、マイケル・ジョーダンというスーパースターの選手がいました。 間違えたら困ると思っていました。   マイケル・ジョンソン選手が2位以下を10m以上の大差をつけてオリンピック新記録で優勝、実況は自分ながらうまくできたと思ったのですが、表彰式で「・・・地元アメリカのスーパースター マイケル・ジャクソン」と言ってしまった。  「・・・マイケル・ジョンソン選手」と言い直しましたが・・・・・。

ロマンチックコンサートで映画音楽特集をやりました。  ジャン・ギャバン主演で、映画のタイトルが「現金(げんきん)に手を出すな」と言いました。  翌日ははがきがジャンジャン来ました。   映画のポスターも送られてきて「げんなま」とふってありました。次の週 誤りだったことをお詫びしました。  間違えるのも当然だ、人間だれにも間違いがあるという、はがきがお叱りのはがきの倍以上きて嬉しかったです。

今日の誕生日の花言葉、ヤツデを紹介する本を勉強してみたら、「分」に「わかれる」と書いてあった。  今日の花言葉「ぶんべつ です」と言いました。  はがきがどんどんきました。  「それはふんべつではないですか」 という事でした。   失敗はいろいろしましたが、楽しかったです。  内容としゃべり方、判りやすく伝えるためには何をしゃべるか、どういう内容を伝えるか、それを色々考えてきた50年だったと思います。






 

2021年1月13日水曜日

松澤秀延(クルドを知る会代表)     ・"クルド難民"の暮らしと命を支える!

松澤秀延(クルドを知る会代表)     ・"クルド難民"の暮らしと命を支える! 

埼玉県草加市在住72歳、20代の頃世界浪々の旅の途中、トルコを訪れた際にトルコ政府に抑圧されながら山岳地帯で暮らすクルド人たちの存在を知る事になります。  帰国後サラリーマン生活を送っていましたが、自宅から近い埼玉県蕨市、川口市、周辺に多くのクルド難民が暮らしていることを知って、生活に困窮する彼らをサポートするために、仲間たち数人で「クルドを知る会」を2003年に結成しました。   クルド人はトルコ、イラン、イラクなどの国境地帯に暮らしていて、国を持たない最大民族と言われていて 、人口はおよそ2000万人以上と言われています。  クルド人は軍事攻撃を恐れて世界各地に逃れ、日本にはおよそ30年前からやってきて、蕨市周辺にはおよそ2000人が暮らしているという事です。  その多くが不法滞在者として品川にある東京入局管理局や茨城県牛久市の東日本入国管理センターに収容されていますが、現在はコロナ禍の為彼らの多くは難民申請も認められないまま仮放免されています。 そんなクルド難民と地元自治体、保健所などを結び暮らしを支えているのが、「クルドを知る会」です。   松澤さんにクルド人の現状や課題などを伺います。

20歳ぐらいの時には返還直後の沖縄に行ったというのが初めの大きな旅行でした。  1976年の時にシベリア鉄道を使ってモスクワに行ったというのが、海外に出るきっかけでした。   アメリカに回る予定でしたが、ドイツでお金が無くなり、バイトをしながらフランスを拠点にヨーロッパを回って長引くきっかけになりました。   帰りにトルコ、イランに行きました。  山岳部で無人の村が多くてどいう言う訳なのか、判らなかった。  後でわかったのが、トルコ軍に攻撃されたからという事を日本に帰って来てから知りました。

1980年代はバブル期で日本にもイラン人が働きに来ていて、クルド人も交じってきていました。 或る時にクルド人の人から無人の村のことを知ることになりました。

クルド人も兵役義務がありトルコ軍として戦わなければいけなくて、クルド人の軍事独立の仲間と戦わなくてはいけないので、仲間と戦いたくないので兵役義務を逃れるために海外に逃げる、彼は日本に来たようです。

ビザなし渡航なので、いろいろ聞かれ、難民申請するのかと聞かれて「はい」と言ったら入国拒否になってしまう、あるいは入国管理局に収容されてしまう。  在留資格は短期ビザみたいな形になる。  在留カードを貰って難民申請するという事があります。  しかしほとんど却下されてしまう。   それを数回すると仮放免として不法滞在者という風に扱われて、2,3か月に一回入国管理局に出頭して、更新する形になるが仕事も出来ないし、住民登録もできないので公的支援は一切できなくなる。  健康保険もないので病気になったら一切自己負担となってしまう。  骨折しても病院には行けない状況で、仲間同士て支援する。

川口は鋳物工場などが多く力仕事で、イラン人が入り、クルド人も来るようになった。

子供は教育を受ける権利を持っているので、我々支援団体が市に要請して義務教育は受けられる様になっています。  

入国管理局の人は日本にいてはいけないと言っている人が多く、公的相談会も出来ない、助成もないわけです。  その人たちは人間であるのに人間ではないような状況になっている。   我々は財源がないが、声を出すために支援という形でやっています。

コロナ禍で一番先にしわ寄せがあります。  真っ先に解雇されてしまう。  収入も半分近くになってしまっていると言っています。

一番多い相談はお金がないので病院にいけないという事です。  精神的ストレスからくる胃腸関係が多いです。  次に骨折とか外傷関係で、次が家賃が払えず部屋を追い出されるといったことです。  食べ物がなかったりして仲間同士で助け合ったりしています。

定額給付金10万円は日本人には与えられましたが、それは一切ありません。   一人3万円を600人の人に共助という形で給付しました。(公助は一切ないです。)

医療関係と交渉して、無料定額医療制度というもので、交渉して、減額とか分割などのお願いをして、多少理解してもらっています。

市のほうに子供の教育問題で交渉しています。  入学ができたりするが,日本語がついていけなくて、ほとんど中退してしまう。  外国人専用に言葉を教える機関がなくて、少しずつ作ろうと言う運動も始まっています。  中には大学まで出たクルド人もいて通訳をしてくれています。  医療関係のほかいろんなジャンルの人から、参加してくれることはありがたいと思っています。  相談の窓口だけは開けておくことは大事だと思っています。

入国管理局がビザを与えないという事、要は難民を認めないという事が非常に問題があると思います。 年間、難民申請をしても0.4%という事です。  ゼロも同然なので日本が難民条約を破棄すれば、そうすれば外国人も日本に行っても駄目だという事で来ませんから。

知らないことが一番問題で、関心を持つことはまず知ることが第一歩だと思います。

クルド人の祭りが3月にありますが、トルコではクルド人の集会は禁止しており、ここでは祭りが続けられていることに対してクルド人は喜んでいます。

一番うれしかったのは、小、中、高、大学とステップの中で、自分で自分のことを考えられることを教育のよって得られて、今後のことも決められるという事をする人が何人か出てきて、それは10何年間やってきた成果だと思っています。 教育は大事だと思います。

家庭訪問も大事にしています、相談会に来るだけでは実態が分からない。   生活状況も把握出来るし、人間それぞれ違うんだというところから始めないと、なかなか積み上げができないので家庭訪問が重要になってきます。

まず市民の方と一緒に掃除をしながら、会話を交わすことがきっかけになると思っていて、公園の清掃ボランティアを推奨しています。

自分の心に残る活動をしていきたいと思っています。


















2021年1月12日火曜日

崔江以子(川崎市ふれあい館館長)    ・ヘイトスピーチと闘って

 崔江以子(川崎市ふれあい館館長)    ・ヘイトスピーチと闘って

ヘイトスピーチはある特定の人たちを地域社会から排除するために、言葉の暴力で心を傷つける行為です。   2015年11月在日コリアンに対してヘイトスピーチをする団体が、川崎市ふれあい館がある街にやってきて、街頭活動を始めました。   自らも在日三世である崔さんは、街の人々と一緒にヘイトスピーチを辞めるよう行政に働きかけ、国の法律「ヘイトスピーチ解消法」の成立に大きく関りました。  去年2020年7月には崔さんが暮らす川崎市で、ヘイトスピーチに対して罰則が設けられた全国で初めての条例が執行されました。 

11月8日(日)デモの参加者は20名に満たない参加者でした。  ゴキブリやウジ虫に私たち在日コリアンを例えて、退治しようとか叩き出そうというような言葉を出しながら私たちの街に来ました。  多くの市民などが道路に立って「差別を辞めて共に生きよう」というメッセージを発信しましたが、抗議活動が警察によって排除されてしまいます。   警察はデモの許可が許されているスムースな進行のために配置されていました。

表現の自由は大切ですが、何を言ってもいいのかというと違うと思う。  ルールが無ければルールを作ればいいのではないかと思いました。   ヘイトスピーチは議論ではなくて、一方的な偏見侵害と人権被害ですから、行政機関に具体的に実効性のある策を講じて、市民と共に生きる生活を守ってほしいと願い行動をしました。

2016年3月16日に横浜地方法務局川崎支局に崔さんは人権審判被害申告書を出して直接訴える行動を起こしました。  チマチョゴリを着ていきました。  社会に知ってほしかった、仲間が欲しかった。

インターネット上にはたくさんのヘイト書き込みの被害にあいました。  初めて私個人に向かって「死ね」というSNS上でのメッセージを見たときには、本当に驚いて恐怖で眠れませんでした。  息子にもターゲットがありました。   端末を操作している人を見ると、私に対してしているのではないかと思って、心の休まる時間が無くなってしまいました。

2016年3月22日に参議院法務委員会で参考人として参加、国会でもヘイトスピーチをめぐる法律を作ろうという動きが出てくる。

2016年5月に「ヘイトスピーチ解消法」が成立する。  禁止規定や罰則がない理念を詠っている法律で、私にとっては宝物のような法律です。  3月31には国会の参議院法務委員会の人たちが街に来て、実際に何が起きたのか、どんな被害があったのか、被害の話を聞いて、「ヘイトスピーチ解消法」の案が提案されて成立していきました。

2016年6月に予告されたヘイトデモに対して市長が公園の使用不許可の判断をしました。  司法もふれあい館から半径500m以内でのヘイトデモの禁止の仮処分の司法判断を示しました。   警察も抗議をする市民を排除することがありませんでした。

川崎市が実効性のある条例作りに向けて、川崎市と市議会が実効性をどのように確保するのか、市民の応援を受けながら、丁寧に組み立てたのが、2019年12月に成立し2020年7月に完全施工した川崎市差別のない人権尊重の街作り条例です。

デモの回数が減り、ストレートなヘイトスピーチが言いづらく成ったりしたが、インターネット上での表現活動、駅前での街頭宣伝活動、選挙活動など、行為を変えながら人権侵害が続きました。

ルールができたからといっても差別がすぐにゼロになるかというと、なかなか難しいがルールがあることによって一定な抑止効果は生じていると思います。

ヘイトデモの主催者にやめて欲しいという風に何度かアプローチしたり、手紙を出したりしましたが、なかなか聞いてもらえませんでした。

土台が対等ではないから、対等にするためには政府の力、法律の力が大事になってくる。

施設に通う在日コリアン一世、二世の方が、今回のヘイトスピーチをなくすための条例ができたことについて、思いをつづった冊子が発行されました。  やっと川崎市民になれたようだような気持ちです、という喜びをつづったわけです。

自分が差別をしていないだけでは、今社会にある差別はなくなりません。  差別をなくすためには関心を持つこと、発信をすること、考えることが差別のない社会を作ると思っています。  是非前に前に諦めずに、共に生きる道を歩み続けていきたいと思います。






2021年1月11日月曜日

2021年1月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

*「ボレロ」  

フランスの作曲家、モーリス・ラヴェル1928年に作曲したバレエ

ピッコロ、ホルン、チェレスタという楽器が色どりを添えている。  

チェレスタは19世紀後半にパリで発明された楽器、鍵盤があり出てくる音は鉄琴を叩いているよう音。

この楽器とパリで出会ってすごいと思ったのが、チャイコフスキー。

今日はチェレスタの遺伝子という事で多くの作曲家、名曲を紹介。

*くるみ割り人形 作曲:チャイコフスキー   「金平糖の精の踊り」の前にクララと王子がお菓子の王国の魔法の城に向かう場面で、第2幕の冒頭を聴いていただくがその後半でチェレスタがくっきりと聞こえてくる。

「金平糖の精の踊り」  作曲:チャイコフスキー

金平糖はアーモンドを色鮮やかなお菓子の衣でコーティングしたヨーロッパのお祝いの席の砂糖菓子ドラジェ 英語ではシュガープラム  チャイコフスキーのくるみ割り人形が日本に入ってきたときに見たことがないお菓子という事で、翻訳する方が金平糖が近いだろうということで「金平糖の精の踊り」となったわけです。 チェレスタが世界に知られるきっかけとなった曲。

ミステリアスにぴったりの音色。 不思議な世界へいざなう調べと音色。

ドビュッシー、モーリス・ラヴェル、グスタフ・マーラー、リヒャルト・ストラウス、ヴァルトークなどもこのチェレスタをここぞという場面で使っています。

グスタフ・マーラー 作曲 「交響曲第6番」 第一楽章の途中にチェレスタが活躍する場面があります。  4つの楽章で出来ているが一つの楽章を除いて、3つの楽章で隠し味のようにチェレスタが活躍する。

グスタフ・マーラー 作曲 「交響曲第6番」 第二楽章から。 

*ジョン・ウイリアムズ 作曲 映画「ハリーポッターと賢者の石」から 「ヘドウィグのテーマ」 

「金平糖の精の踊り」をどこかに響かせながらこの曲を書いたような感じです。

「ホーム・アローン」のテーマ   ジョン・ウイリアムズのチェレスタの原点ともいわれる。

ジョン・ウイリアムズは映画「ホーム・アローン」の音楽でもチェレスタを使っている。

くるみ割り人形 作曲:チャイコフスキー   

終幕壮大なワルツが踊られるが、壮大なワルツの演奏の最後の最後にチェレスタが隠し味のように響いてきます。




2021年1月9日土曜日

2021年1月8日金曜日

石岡ヒロ子(聖フランシスコ病院 シスター)・『生』と『死』を見つめるシスター

 石岡ヒロ子(聖フランシスコ病院 シスター)・『生』と『死』を見つめるシスター

72歳、大学を卒業後、助産師、看護師として働いてきた石岡さんは聖フランシスコ病院で看護部長などを務めてきました。  現在は病院の宗教部の部長を務めています。   石岡さんは日々シスターとして、外来や病棟の様々な患者の心のケアを行ています。   一人一人それぞれの生や死と向き合いながら、言葉を通して患者やその家族の最後の時間に向き合い続けてきました。

朝5時35分から教会の祈りがあり、ミサがありそのあと患者さんのところに回ります。  シスターになったのは45,6年前です。(27,8歳の時)

ホスピスにはガン末期の患者の方たちが入っています。   数日の方から数か月の方まで入院しています。   薬を投与したり治療はしませんが、患者さんに寄り沿っていこう言うという形です。   旅立つ心中は計り知れないものがあると思います。

長崎で働き始めて24年になります。   病院の近くの墓地には8月の原爆の日の当日に亡くなった人の名が刻まれ、数日おきに亡くなって子供全員が亡くなった日付けが刻まれています。   両親にとってはどの子もかけがえのない子供たちだったと思います。

患者さんの旅立つ関り、というものをさせていただいていると思います。

9時から入院、亡くなった人などを調べて、その後患者さんの所に行きます。    患者さんから話をしたいという方が優先されます。  自分の人生を纏めるというような、これでよかったんだというように、静かに旅立つ人がいます。   なんで自分が、という風に怒るかたもいます。   本などから生きる力を貰う人もいますが、自然から力を貰うという人もいます。(空の雲、山の変化など)

死にたい死にたいと言っている隙間には、死にたくないという言葉があるので、ちょっとユーモアが通じるなという方には、ユーモアで返します。  客観視する手立てにはなっています。   女性だと抱き合って何人とも泣きました。   死にたいといいつつもかかわってほしいという表現している方もいます。

何か生きる力になれば、生きる杖になると思います。  男の人は仕事は生き甲斐になるという事は感じました。  奥さんが「今は大変だけど、あなたよくやった」というと随分違います。   女性の方は孫のこととか、出産のこととか思い出します。

どの方も宝を持っていて、でも埃だらけなのか、気付かない方もいると思います。  楽しかったことが一つでも思いだせたら、それは大事な宝だと思います。

昼間はお日様があり、星は見えないが、でも見えないものがいっぱいある。   「いただきます」もいい言葉だと思います。  お米も誰かが作っているし、魚も誰かが獲ってくれる。

男性の方も子供の心のようにニコニコ頑張る方がいます、やっぱり純粋だなあと思います。

看護師を続けられるのは、患者さんからいただけるものがいっぱいあるという事でしょうか。  「ありがとう」の一言であったり、笑顔であったり、ご家族からの感謝の言葉だとか、ですね。  中にはよくしてもらえなかったというような事もありますが。

ホスピスのゴール、旅立ってゆく人なりに、人生をOKして、かかわった奥さん、家族などに、「世話になった、ありがとう 先に行くな」というのが思えたら、それがOKというのが私の中にすごくあります。  











2021年1月7日木曜日

武田鉄矢(歌手・俳優)         ・終活よりも学びを

 武田鉄矢(歌手・俳優)         ・終活よりも学びを

72歳、60代半ばから合気道を始める。  気力の衰えを感じていました。  長い間言葉の商売をしてきていましたが、哲学の先生であり合気道の達人で、その人の言葉に惹かれていたが、合気道をやらないと判らないと思いました。   先生役を長くやってきて、教える側のことが身についてしまって、もう一度教わる方に回ると、世界が広々と見えて来て、いろんなことを教わろうと思いました。  絵、俳句、又英語で日記を書くとか始めました。

合気道の先生は内田樹(たつる)さんで、学びの本質は知っていることを応用したという事ではなく、まったく知らないんだけれど何故か知ってしまっている、どうしていいのか判らないのにどうかするために身体が動いている、それが学ぶ為の実は目指すところではないですかと言われると、魅了されて、頭の中が走るんです。

内田先生は司馬遼太郎を批判していましたが、坂本龍馬や勝海舟はかっこいいと思うが、彼らに比べて東条英機、板垣征四郎、石原莞爾など昭和維新の軍人たちはかっこ悪いと思うが、知識量を比べてみると、昭和の軍人たちのほうがはるかに優れている、世界の情報を握っていたわけだから。   「両者の違いは学びの姿勢」とおっしゃっています。

「日本人は学びの姿勢にある時、最強である」、この言葉はショックでした。  「教えてやろうとする時、日本人ぐらいずさんな教え方をする国民はいないんじゃないか」そうすると物凄く胸に迫ります。

学ぶ側の人間でありたいという思いが60代から急激にこみ上げてきました。  若い人でも先生と呼ぶとその人の何気ない言葉が自分の中に立ち起こるというか、皆さんに薦めたい。

合気道は言葉使いが変です。 その変さがたまらなく武道なんです。  技の極意の説明が不思議な言葉で説明します。  相手の腕をねじり上げて持ち上げる動きの時に、自分の腕時計を見るように手を挙げてゆくとか、ほかに他の技の説明で、花咲じじいが木の上から桜の花をのぞむように持っていきなさいとか、違う物語の形容を持ってくる、のどかな言葉をあえて使う。  相手が引くのなら相手に引かれてあげなさいよという、反抗しない武道は初めてでした。  相手がプラスならマイナスになってあげなさいよ、という感じです。 頭を下げることを習慣にすると、トラブルは起きませんね、頭を下げることが護身術のうちに入っているんですね。

奥さんから何かいわれたら、直ぐにやり直す、軽快な腰さばきは合気道のたまものだと思います。

「老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート」 昨年末出版。

「幸福の黄色いハンカチ」で高倉健さんとご一緒して、監督は山田洋次さんで、下痢で草むらに座るシーンがありますが、現場で一番しごかれたシーンで、自分としては面白くやろうみたいに考えていましたが、下痢をすることは君にとっては悲劇なんだと、悲しさが出ないと駄目なんだといわれました。  ちゃんと心理を作らないといけないといわれました。 しごかれてしょげかえっていると、健さんが肩を叩いてくれて「お前 あの監督さんの評判知らないだろ、 あの人は伸びない奴しごかないらしいよ」と言って励ましてくれて、涙が出ました。  試写会のセレモニーに妻を呼んだが遅くきて、妻を高倉健さんに紹介したら、深々と頭を下げて「今度の撮影では武田君に色々お世話になりました高倉健と言います。  どうもありがとうございました。」と言ってお辞儀されて、妻はいまだに言いますが「人生で一番幸せだった」というんです。

先生役をやるようになりましたが、どこかで「幸福の黄色いハンカチ」でのことの影響がありました。  

教えるためには学ばねばという事があることはありましたね。

細やかなことでも感動して生きていきましょう、あんまり遠くを見ては駄目です。

不幸の時には遠いいところを見ないで、例えば地震で壊れた建物の瓦礫のレンガを、今日このレンガを何個片付けようと細やかな目的が、やがて大きな夢が実現することになると思います。

侍が最も軽蔑したのが驚くことで、驚きすぎると身体が動かなくなってしまう、驚かない静かな心をキープするためには、毎日小さく驚くことと内田さんは言っています。  大変な事態が起こってもさして驚かない習慣がついてくるんです。

母親から言われた言葉で「人間死んでゆくとき、死んでゆくという元気がないと駄目だ」と言われました。  最後人間を支えるのは好奇心ではないかと思います。   生涯「判った」といわない「判らない」と言っているうちが人生いい時ではないかと思います。









2021年1月6日水曜日

小林ひかり(看護学生)         ・"敏感すぎる"私だから、寄り添える

小林ひかり(看護学生)         ・"敏感すぎる"私だから、寄り添える 

ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP Highly Sensitive Person)、街中にあふれる明るい光、強い匂い、周りの小さな変化にも過敏に反応してしまうような敏感過ぎる人のことを指します。 1990年代にアメリカの研究者によって提唱されました。  それによりますと15~20%の人がHSPの特徴を持つといいます。  そのHSPの人に寄り添いたいと活動を始めた大学生がいます。  山形県の大学で看護学を学ぶ小林ひかりさん(22歳)です。活動の原点にあるのが、小林さん自身もHSPだという事、周りの光や音の強さに悩まされたり、突然涙が止まらなくなったりと苦労が続いているといいます。  自分も敏感すぎることからこそ、同じ悩みを持つ人々とともに解決策を模索していきたいと、活動を始めた小林さんに伺いました。

HSPは日本語で言うと感覚処理感受性の高い人のことを指します。  一つの性質として定義付けられています。 

私自身は人と会ったり用事がたて続けいあると、休日には家から一歩も出れなくなってしまって、回復ができるような事をして又来週から頑張るようにしています。  1年前にHSPの本を見かけて、自分もこれかもしれないと思って楽になった記憶があります。   自分の一つの要素が見つかったという感じで自分に優しくなりました。   

子供の頃、一人で遊ぶことを好んでいました。  小学校の時にも会話の中で相手の気持ちとかが何となく判ってしまうので、もう少しで怒りそうだとか、泣いてしまいそうだと思うと、自分が気遣って会話をストップしたり、これ以上踏み込んでしまうのはいけないと思い、会話することにもエネルギーを使って、疲れてしまう事がありました。  周囲と違う違和感を感じていました。

発達障害の方もHSPの強い人もいるかと思いますが、子供時代は境目が判らないと思います。  相談はしなかったです。  それは家庭環境が影響していると思います。     親がアルコール依存症だったりうつ病も持っていて、シングルマザーで子供3人で厳しい生活をしていました。  母親には必要以上のことは自分のことを話すのは避けようと思っていました。  家庭は一番自分を隠している場所だったかもしれないです。

人の心に寄り添う事をしていきたいと思って、看護師はその一つの手段だと高校生の時に思って、看護師になる道を選択をしました。   母の担当医が診療内科医で診察の後の母は笑顔で帰ってきていました。   「生まれ変わるのは生きているうちに」という言葉が書かれた短冊を持っていました。  生きているからこそ出来る励まし、寄り添いの意味だと思って、その医療者は稀有な存在だと思いました。  会話、言葉が母にとって一番の治療薬になったと思います。  私もこんな人になりたいと思っていました。

看護学科にいって、初めて病院実習をしたときに、そこで出会った患者さんが私は忘れられない人で、足の手術をしてその後歩けない状態で、寝ていることが多くて私は話を聞くばかりでした。  患者さんが抱えている寂しさとかを変えることが出来ないのかなという事を実習で感じました。  

大学1年の時に、医療職を目指す人たちが学校では学ぶことが出来ないことを学ぶ、イベントとかを開催したりする学生主体の団体を紹介されました。  そこで2年間活動しました。   医療というのはいろんな分野と絡み合いながら、人を支えてゆくことだという事をこの2年で学びました。  休学を1年間しました。  依存症の回復施設と在宅医療のアウトソーシングの会社で仕事をさせていただいて学ぶ事が多かったです。  普通に過ごしていた人が酒を飲んだり、薬に手を出してしまって、依存症になってしまうという事を知って、これは個人の問題ではなくて、社会の問題ではないかと思って、セーフティーネットが救い切れていないのではないかと思いました。  患者さんの吐露した気持ちが、母親に対してもこういった感情を持っているのかとか、患者さんの孤独を抱いているという理解ができて、掛ける言葉も変わってきて、この体験はスパイスになるのではないか、見えない苦しみに寄り添っていきたいと思いました。   周りの方が知るというだけでも、言いにくかった人が助けを求めるかもしれない。    

HSPの人が多くいるという事を知ってびっくりしました。   50人ぐらいの人にヒアリングして、外枠ではしっかりした人のように見えても、内側では抱えている葛藤があるはずなので、そこをサポートできるようなものを作りたいと思っていました。   まずはコミュニティーを作ろうと思って人を集めて運営しました。   色々なことが聞けて、例えば視覚過敏の人が利用できる耳栓を詩作をしています。  デザイン性なども重視しました。

HSPの気質の概念が広がって理解につながって優しい社会になるのではないかと思っています。  自分は看護学生の立場でHSPの論文とかを学ぶことが出来て、冷静な俯瞰的な視点も持てるし、看護学生として学んだ、人の心に寄り添う重要性も知ってるので、生の声を聴き続けることも大事にしていきたいと、この二つの視点を持ちながら付き合っていけるのが私の強みかもしれないと思っています。

HSPじゃない、HSPだというよりも、自分を理解する方法としてHSPのことが広がって行ければと思います。

大学での看護実習と並行して、HSPの人向けの製品開発を行っていて、資金はクラウドファンディングで1/31に開始します。




     









2021年1月5日火曜日

田中優子(法政大学総長)        ・新しい日常に寄せて

 田中優子(法政大学総長)        ・新しい日常に寄せて

江戸学者としても知られています。   鎖国をしていた近世、江戸時代を世界史的な観点から読みとき、グローバリゼーションの荒波のなかで自ら判断し独自の立ち場をとることの意義を説いています。  2020年は新型コロナウイルスの世界的感染拡大で学校、企業をはじめ社会生活のすべての面で、人との近い接触を避けるという新たな行動様式を余儀なくされました。   2021年の幕開けにあたり、新しい1年を私たちはどのような働き方、学び方、そして新しいコミュニケーションの 取り方を 作って行くのでしょうか 。  地球規模で広がる新型コロナウイルスによって、分断されがちな人と人との対面、コミュニケーション、人々の移動、交流によってもたらされる豊かで安定した社会生活を私たちはどう取り戻していけるのでしょうか。  

1月5日は旧暦では11月22日です。  旧暦の元日は2月12日になります。  毎年変わるわけです。  江戸時代の人たちが迎えていた元日は2月初旬から中旬ぐらいまで、春の雪が降ったり、暖かい日が来たりの繰り返しが始まります。  いかにも新春なんです。

俳句の季語は旧暦で出来ていますので、そこのずれが気になることがありますね。 江戸時代はカレンダーは一年に一枚だけです。  週という考え方が無い。  月はあるが、短い月は29日、大の月は30日で31日は存在しません。  大の月と小の月はいつになるかはその年によって違います。   だから一枚で済んでしまう。

江戸時代には信用買い、信用貸しがあり、現金を払わないので、すべてが大みそかに集中するので大変な騒ぎになる。  お金の清算が全部終わってようやく新年になるので、本当にほっとして新しい年がやってくるので、我々よりずっとその気持ちは強いと思います。

新年の休みは三が日です。  二日になると初荷になるので問屋さんが忙しい、出版業は元日からやります。  

祭り日、遊び日があるが、本当の意味での休みは盆と正月しかありません。 休んでいるのと仕事をしているのは、今ほどはっきりはしていない。    仕事で外に出掛けると遊びに行ったりもする。  朝早くから農作業して午前中でおしまいにするとか、夜なべするとか臨機応変ですね。

コロナ禍の先には、今後働き方は変わると思います。   

天然痘、はしかとか平安時代から始まって江戸時代にもあるわけで、急に爆発的に広がるという事はなかった。   病気と共に生きて行く、やむをえないことでそうなっているが、種痘で幕末には無くなってくる。  

外国船が欧米からはいるようになった時に、コレラが入ってきてこれは急激でした。

ペスト、スペイン風邪、今回のコロナというのは人の行動が変わったという事だと思います。   特に都市が、又旅をする人が多くなったり、世界での行き来がはげしくなったという事で、急激なパンデミックになったわけで、江戸時代はこういうことはないわけです。

大航海時代以降は地球全体ではないけれど、ポイント、ポイントではそういうことはありました。

ワクチンができてもまた別の新しいものが生まれる。   食料を求めるため森林開発は止まらない。  動物から影響を受けるようになるので、新しいウイルスが入ってくる。  だからこれが始まりなんだと私は思います。  ウイズ、コロナで生きてゆくしかないんじゃないですかね。

大学での対応は1月の末に留学生を戻すことから始まりました。 危機対策本部を開いて毎週の様にやっています。  卒業式、入学式を中止にして、集まる機会を絶とういうような事をしてきましたが、授業も無理だという決断もしなければならなくなって、授業はインターネットを使うしかない。  大学は人と人とが触れ合う場でもあるわけで、大学は授業をする場所だけではないという事を痛感しました。  課題がありました。  対面授業を開けましたが、7月に又感染拡大がありやめざるを得なかった。

呼びかけるホームページなどを立ち上げたり、オンラインでの双方向授業をやって欲しいと教員側にも呼びかけました。

コミュニケーションを求めているという事は凄く伝わってきました。 対面では何をしていたのか振り返ってみると、表情とかとてもよく見えていました。  言葉では伝わらない、いろんな情報をやり取りをしていたのだという事に気が付きました。

秋に、感染予防を徹底的にして対面の大学祭を4日間やり、6000人ぐらい集まりました。 

文化の在り方も今後これから変わって行くものと思います。  偶然の出会いが文化を作ってゆくという事がよくあったわけです。  インターネットを上手に使いこなさないといけないし、言葉をもっと充実させなければならないだろうと思います。

大教室を1/2~1/3に制限してぎっしり入れることはもうできない。  研究室ゼミはできます。   フィールドワークもやり方によってはできる感触はあります。

感染対策を取りながらの日常というのは、一人一人の日常の行動になる。  それとインターネットをうまく使う。   学生の80%はこれからもオンラインを続けてほしいと答えています。   対面授業、オンライン、オンデマンドとか学生によっては選択できるのが一番いいと言っています。  世界中でも使えるという面もあります。

食料自給率を高めてゆくという事は非常に重要なことで、ほとんど外に頼っていて危険な状況です。   都市と地方の問題も、地域で暮らすこととか、地方の大学の重要性も見直されてくると思います。  都会に出ていけばいいという話にはならないと思います。

貨幣経済中心の価値観の転換を、見直すという事が出てくると思います。

色々なことを併存させてハイブリットな、様々な形の試みをしてゆきますので、大学に期待をしてください。

















 










2021年1月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

連載していたものを1月に本を出版することにしています。  NHK短歌で連載している「穂村弘 対して談じる」をまとめた「あの人と短歌」が出版されました。   好評で出してすぐ重版になりました。   

今日は「あの人と短歌」から紹介します。  

酒井順子(エッセイスト)さんがこんな短歌が好きと言っていたもの2句。

*「百万ドルの夜景というが米ドルか香港ドルかいるのレートか」   松木秀さん

短歌らしくない、松木さんは」ぶっちゃけてきます。  そこが酒井さんの琴線に触れたものかもしれません。

「自爆テロの 死者を数える 自爆せし当人は含まれるや否や」    松木秀さん

普通はこんなふうには思わないが。

三浦しをん(作家)さんが選んだもの2句。 

「わが残生 それはさておきスーパーに賞味期限をたしかめおりぬ」   潮田清

90代の方で自分はいつまで生きるかはわからない、そこは棚に置いて我々はちょっとでも賞味期限の長いものを買ったりしている。  人間の心理はこんなものだといった感じ。  短歌は「で」とか「が」とか濁音を嫌う。  「スーパーに」となっているがこれは「スーパーで」という事だと思いますが、思いがけない読みが普段短歌を詠まない人の素直な目で読むと発生する。  スーパーに電話して聞くという風に。

*「ラー油が無い餃子を醤油だけで食うオリンピックなんぞしったこっちゃない」    森本たいら

俺は世間のルールなんて知らない、餃子は醤油だけで食うし、周りはオリンピックに盛り上がっているかもしれないが、俺は関係ないTVドラマなどみるか、みたいな歌だと私たちは思い込んで読んでいたが、三浦さんは「餃子を醤油だけで食うオリンピック」なんざ知ったこっちゃないという風に思いこんだ。 

知花くらら(モデル・女優)さんの短歌。

知花くららさんは海外でボランティア的な国連の仕事をされていますが、アフリカに視察に行ったときの体験を短歌にされているが。 

「「たからもの見せてあげるね」と小さき手にのせた楊枝のやうな鉛筆」   知花くらら

アフリカに視察に行った貧しい村に行ったときに、子供たちと触れ合って、おねちゃん特別に宝物を見せてが得ると言って、ボロボロになった鉛筆だった。  かつては日本でもそうだった。

*「三菱の鉛筆一ダース後ろ手に渡せずにいるバオバブの木の下」 知花くらら

先に小さな鉛筆を見せられたら、普通に考えたら喜ばれるはずだが、ためらってしまった。上から下へ渡すような感じを、そんな感じはないんだけれど、感じてしまう感受性を持っていたのでためらっているという歌です。

ザンビアに行ったときのエッセー、おばあさんと現地で仲良くなって別れ際、別れがたく「又ね」と知花くららさんは言ったが、おばあさんは「あなたはこんな小さな村には二度と戻ってこないわ」といって、彼女はショックを受けてしまった。 別れがたいので「又ね」とつい言ってしまいます。 それを短歌やエッセーに書いているので大事かなあと思います。 写真などではの残せない、自分の内面は言葉で残すことが出来るわけだから残している、というのが印象的でした。

吉澤嘉代子(シンガーソングライター)さんの作品

*「銀皿にあんたおまえで添い遂げる純情天下甘エビ夫婦」    吉澤嘉代子

リズムがいいです。  回転すしの銀皿に甘エビが並んでいて夫婦に見立てている。

鳥居(歌人)さん

小学校に通えなくて拾った新聞で字を覚えたという苛酷な人生を歩まれた方。

「大根は切断されて売られており上78円した68円」   鳥居

八百屋さんで圧バイトをしたときに作った作品。 資本主義の厳密さ、苛酷さ、非情さを感じる。

保坂正康(ノンフィクション作家)さん  斎藤ふみの歌人のある歌について話になりました。

「暴力のかく美しき世に住みてひねもす歌うわが子守唄」」     斎藤史

2・26事件に巻き込まれる。 幼馴染の男の子がそれに連座して心に傷を負う。

女性としての誇り、矜持を歌った歌だと思っていたが、しっくりこないという事を保坂さんに言いました。   斎藤史の幼馴染の栗原安秀中尉もいた。 彼女は彼らの行動に中にある種の文学的な美を見たのかもしれないと保坂さんは言いました。   

読みに正解はないが、時代によってこうじゃないかという見方があって、戦前と戦後でも違うし、昭和と平成、令和でも違うだろうなという事は痛感しました。

俵万智(歌人)さん 

「まっさきに 気がついている 君からの 手紙 いちばん最後にあける」      俵万智

大事に自分の部屋に行ったりして最後に大事に開ける、この時間の逆転が凄く、われわれの心理だと思います。

「「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃない なら勝たせてほしい」  俵万智

面白さがあって、とてもリアルですね。

「ただ君の部屋に音をたてたくてダイヤル回す木曜の午後」      俵万智

君はもう部屋にいないだろうと知りながらかけると言うことがせつないわけです。  昭和の記念品というような、そんな世界です。  エキゾティックな情感が発生します。

リスナーの作品

*「こんなんじゃ駄目なんだってわかってる炬燵の中はなんだか泣ける」  西島まどみ

*「見し夢は覚めて消えしと謡いつつ余生を生きる一人で生きる」    銀杏の木

注:*印の短歌は漢字、文字が正しくないかもしれません。


2021年1月3日日曜日

堀内賢雄(声優)            ・【時代を創った声】

堀内賢雄(声優)            ・【時代を創った声】 

63歳、アニメやゲームの出演はもちろん、主にブラッド・ピットチャーリー・シーンなどといった俳優たちの吹き替えで知られています。  声優人生はDJからスタートしたという堀内さんに伺いました。

印象に残っている俳優としては、コリン・ファースの「英国王のスピーチ」という映画でアカデミー主演男優賞を受賞していますが、吃音であがり症でスピーチが苦手な人が国王になって、演説をうまくするため日々努力するが物凄く苦労するわけです。  これは僕にとっては相当練習して、これが分岐点になった作品です。

ブラッド・ピットは「マリアンヌ」という作品でモロッコを舞台にした映画です。 もしかして敵国のスパイと結婚してしまったのではないかという、常にそれを持ちながら衝撃のラストに行きますが、寡黙で渋みもあってとってもいい演技をしていて、それが僕にとっても印象的でした。

吹き替えって、家でTVを見ないでいて、吹き替え映画をやっていると思われたら駄目で、もっとリアルにやれと言われました。  なりきるんだといわれました。

人間としてもいろんなことを磨いてゆくものなのかなと思います。 それと作品に愛情持つことなのかもしれません。  

どうやったら自分の台詞にできるのということは、40年やっていると意外にできてきますが、はじめのうちは飲み込まれてしまいます。

中学は野球をやっていて、ピッチャー、4番、キャプテンで、野球推薦で日本大学三島高等学校に入学して、高校2年で身体を壊して、逗子開成高等学校に転校しました。

小学生時代に朗読を褒められたことから高校卒業後にはDJになることを目指しました。 DJやったり司会をしてたりしていました。  

或るプロデューサーから芝居をやってみるのはどうかと言われて、運命の人のたてかべ和也さんに出会うことになります。   オーディションをやらしていただいて、劇団に入れていただいて芝居の勉強をしました。   デビュー作が1983年の特撮番組『アンドロメロス』のアンドロウルフ役でした。  何をしゃべってもうまくいかず毎回居残り練習の連続でした。  何作も居残りをして、委縮してしまいましたが、とにかく役者さんたちの仲間に入りたいという思いはありました。  

洋画で主役に抜擢されるようになって、当時吹き替えは大変なブームになりました。   新劇の人たちと飲む機会があり、励ましてもらいました。  たてかべさんに認められたのはうれしかったです。

3作目に悪役を担当しましたが、笑う場面でなかなか出来ませんでした。  笑いの特訓をしました。  次の本番の時には出来まして、周りから拍手が起きましたが、ある役者さんから「金貰っていて拍手を受けるなんて恥ずかしいと思え」と言われて、まったくその通りだと思いました。 悔しかったです。    本当に自分の中から笑いがこみあげてこないと駄目と言う事です。

アニメの場合は過剰に表現していかなくては行けなくて、こんなにやっちゃっていいのかなと思う時があります。   ゲームは洋画に近いような気もします。

最近の若い人は骨太の声の人が凄く少なくてみんな柔らかいですね。  「七人の侍」とか昔の人はみんな骨太です。

2002年に養成所を立ち上げる。  たてかべさんから「恩の順送り」という事は言われていて、ワークショップを作って、若い人達を見て養成所を立ち上げようと思いました。 20年目になります。

若い人たちへのアドバイスとしては、タレント性が重要とされてきているが、芝居好きで声優を目指してくださいと言いたいです。 運はなかなか来ないのでいろんなものを磨いて欲しいです。







 

2021年1月2日土曜日

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)  ・【特集 バロック音楽でおめでとう】

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)    ・【特集 バロック音楽でおめでとう】 

*ヴィヴァルディ作曲 ヴァイオリン協奏曲集「四季」より第一番ホ短調「春」から一楽章

第1楽章 アレグロ
春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら祝っている。小川のせせらぎ、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立て黒い雲が空を覆う、そして嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。鳥の声をソロヴァイオリンが高らかにそして華やかにうたいあげる。

ヴィヴァルディが小さい詩を見つけて、その詩が春夏秋冬を描いた詩で、それに基づいて作られました。

バイオリニスト 浅井咲乃さんにもお越しいただいています。

鳥の鳴いているところがあり、ヴァイオリンならではの高音を入れて小鳥っぽくしています。3羽の小鳥が出てきます。 鳥が春を楽しんでいるようにしています。  春以外でも夏、秋、冬 その時代の景色が見えてきます。

*バッハ作曲 ブランデンブルグ協奏曲から3番ト短調 第3楽章

大阪の中之島中央公会堂が我々の本拠地になっています。  重要文化財となっていて、そこで演奏できるわけです。   大正7年に完成したレンガ作りの洋館で歌舞伎座を設計した岡田信一郎の設計案を、東京駅を設計した辰野金吾らが設計したもの。

浅井:天井が高いとすごく響きがよくて、演奏者だけで演奏していると響きすぎますが、お客様が入ると凄くよくなります。  フロアーが演奏者と同じ目線になっています。

*「愛の挨拶」  エルガー作曲  エルガーが婚約をしたときに婚約者に送った曲  

浅井:愛の喜びがあふれているような曲なのでうっとりしながら聞いてもらえたらと思って弾いています。

延原:食事をしながら聞いていただくという企画もしました。 楽しく明るくが我々の思いです。

*テレマンの「食卓の音楽」から テレマン作曲 第2集 管弦楽組曲ニ長調 第一曲




2021年1月1日金曜日

河崎啓一                ・90歳 愛する妻への"感謝離"

河崎啓一                ・90歳 愛する妻への"感謝離" 

一昨年の5月朝日新聞のエッセー投稿欄に乗った卒寿を目の前にした男性の文章が大きな反響を呼びました。  タイトルは感謝して話すという意味の「感謝離ずっと夫婦」、投稿者は元銀行員の川崎啓一さんです。   川崎さんは62年連れ添った最愛の奥さんをなくされ、悲しみの淵の中で遺品整理も手につかなたっか辛さを、感謝して手離す、「感謝離」、又天国で一緒に新しいものを買いに行く新陳代謝と考える、「代謝離」という発想の転換で乗り切った体験を文章にされました。  文章が掲載されると全国の高齢者をはじめ若者たちからも共感するはがきが寄せられました。  いつかは来る大切な人との別れをどう受け止め、愛する人との別れを乗り越えどう遺品を整理して前に進むのか、「感謝離」、「代謝離」の言葉の生みの親、現在91歳の河崎さんに伺いました。

「感謝離 ずっと夫婦」の文章  

「3月に妻が亡くなった。  連れ添って62年、かけがえのないパートナーであった。   共に暮らした老人ホームの衣服の整理を始めた。 辛いなあ。  断捨離という言葉があるが、・・・何のかんのと言ってもそうは捨てられないからだろう。   寂しさを吹っ切らねばなるまい。    妻の肌を守り身を飾った衣装たちにありがとうと一つひとつ頭を下げながら袋にうつしていった。  感謝離という表現が頭をよぎった。 ・・・このパジャマなんか衿が擦り切れてるじゃないか、捨てるのは切ないが私が天獄に行ったら私が一緒に新しいものを買いに行こう、新陳代謝だ、これは代謝離だ。   気持ちが晴れた。 ・・・二人の間には終止符は存在しない。  これからもずーっと夫婦だ。  いずれ会える日が来る。  会えば出掛けようショッピングに。」

吃驚しました、多くの方から励ましが来ました。

銀行の同じ職場の久留米支店で妻とは知り合いました。  よく笑う人で明るくて、周りが穏やかになる人でした。  3年半後に本郷支店に行ったら急にその人が頭に浮かんで消えないんです。  いきなりプロポーズの手紙を書き結婚できました。  結婚して惚れ直しました。   或る時ピアノが欲しいといわれ、月賦でしたが購入して、狭い社宅に入れました。   そういったことなどで愛情が深まったと思います。  一男一女をもうけました。  仕事が毎日終電車というような時もありましたが、妻がお父さんは仕事が大変だから、ありがとうと言って私を立ててくれました。

突然転勤がよくありましたが、よくこなしてくれていました。  急に車が欲しいといわれ、一戸建てを購入するにしても遠いいだろうし、送迎するのは私だからと言われ、中古を月賦で購入しました。  靴下も感謝して捨てていました。  55歳で定年を迎えました。   退職金で何が欲しいか聞いてみたら、グランドピアノと言われ、楽しく弾いてる姿を見たら買ってやってよかったとつくづく思いました。

母が97歳でなくなりましたが看取ってくれました。  妻は海が好きで、70歳過ぎに湘南の海の近くにマンションを買い、二人に戻りました。

妻の様子がおかしく直ぐ病院に行ったら脳梗塞でした。  一命はとりとめましたが、右半身にマヒが残りリハビリすることになりました。  運転、ピアノを弾くという事は出来なくなってしまいました。  段々妻の精神状態がよくなくなって、自宅でリハビリをするようにしましたが、うまくいかなくて二人で入れる老人ホームを探して、入居しました。

マンションに戻ることが妻の願いでしたので、マンションは手放さずにいました。    車、グランドピアノは処分せざるを得ませんでした。   

知らない間に両足を骨折していて、手術をしましたが、骨が弱くてベッドから動かせなくなりました。  長期療養型の病院に移り食べられず点滴だけとなりました。   別れ際にいつも握手するが、その日は手を出さずにいて、帰りましたが、その日が最後でした。

妻は88歳でした。  葬儀などやる気がしませんでしたが、家族みんなで送りました。 いないと判ってっていても病院の周りをうろついたこともあります。  老人ホームを終の棲家にする決心をしました。

決心して衣類などを捨てることにしましたが、これは断捨離ではなくて、感謝離なんだなあと気持ちが湧いてきました。  よく着ていたものはなかなか捨てられず、衿の傷んでいるパジャマが出てきて、天国に行って会ったときに新しいものを買えばいいんだと思って、これは新陳代謝なんだと、代謝離だという言葉が湧いてきて手が動くようになりました。  古い写真は心の中にあるので全部捨てました。  

エッセー教室に通っていて、書いてみたらと周りに言われて、自分の気持ちも救われるようになり書き上げ投稿したら新聞に掲載されました。  大きな反響がありました。

出版社の方が見えて、それが単行本になり、全国の書店に並び、映画の話も飛び込んで来ました。   昨年秋に全国で封切されました。 「感謝離 ずーっと一緒」

100歳までをターゲットにして10年で1000人友達を作ろうと思いました。  3日に約一人という計算になりますが、一日が充実して楽しいです。  1000人帳を作っています。  私の人生で最大にラッキーだったのは妻に会えたことだと思います。