2021年1月27日水曜日

石田秀輝(東北大学名誉教授)      ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

 石田秀輝(東北大学名誉教授)    ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

東北大学を早期に退職して、鹿児島県の奄美諸島の一つ沖縄にほど近い沖永良部島に移住して自然と共生する暮らしを実践研究されている方です。   出身地は岡山県で岡山大学付属中学に進学、石田家の決まりがあって、15歳で自立せよと言う事なんだそうですが、16歳から新聞販売店に住み込みで働きつつ自分で稼いで、学校に通いさらにアルバイトをして、そんな忙しい中でも鉱石集めに熱中するという暮らしをしていました。  その後東京大学理科一類に進学しますが、そこだけに収まらず山口大学に移り、さらに海外放浪、企業に就職した後も早期退職し、その後も東北大学に移り、環境科学の分野で研究を進められました。    そこも早期退職して、これまで研究してきたことを実践しようという事で、沖永良部島に移住され実験研究を進めておられます。   その波乱万丈な人生で、なにをしようとされているのでしょうか。

お金は一切貰わないで新聞販売店に住み込みで働き、地球物理学の竹内さんに学びたいと、東京大学理科一類に合格して、山口大学に移籍しました。   大学紛争、などいろいろあるなかで、自分が本当に人生どう生きていくんだろうと頭を悩ませていました。  その後海外に行きました。   自分のことは自分で決めなければいけないなとか、今すべてを決める必要はないんだ、折りに応じて変化をすればいいんだという事は、海外にいるときに腹が決まりました。   山口大学に戻り、大学院まで進み、大手の内装水回りのメーカーに就職しました。   オイルショックの直後で、交通費とお弁当代につられて決めました。

25年間勤めましたが、大変楽しかったです。   51歳で辞めて東北大学に移りましたが、会社の後半で環境戦略と技術戦略の両方の責任者になり、その二つがどうしても一致しなくて、環境と経済が一致しなかったら、工業は存在しなくなるのではないかと悩みました。   東北大学の先生の試験を受けて教授として採用されました。  研究には10年ぐらいかかるのと、環境と経済が両立する概念がおぼろげながら見えてきて、それをどこかで実践してみたいと思っていました。   東日本大震災の後に東北でやりたかったが、利権の絡む世界で、研究はやらせてもらえるが実践はやらせてもらえないと明らかになったので悶々としていました。   沖永良部島の調査を行った時に、日本の文化はほぼ44の文化の要素に別れるが、そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。   沖永良部島で学ばせてもらう事と、自分が今まで研究してきたことを社会実践する、この二つが出来ると思って移住を決めました。

90歳ヒアリングをずーっとやってきました。  戦前成人になって、1960年代に40代の働き盛りの人たちがちょうど90歳ぐらいです。  そういう人達は厳しい制約のなかで生まれ育って、高度成長期に豊かさを知っている。 制約のなかの豊かさを知っている人たちで、そういう人達から620人、文字にして1800万字のヒアリング結果を分析してゆくと、日本の文化要素は44ぐらいになります。

具体的には自然と暮らす、助け合う喜び、お金を使わない交流、些細な感動、とか根底に流れている生き様の要素で44に集約される。  そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。 

ターゲットは持続可能性のある社会です。  沖永良部島はコミュニティーがしっかりしている。  子供たちは知らない人を見たら必ず挨拶をする。   お金を介さないで顔と顔でいろんな仕事、物が行ったり来たりする。  サトウキビ、ジャガイモは作るが全部外に出して、お金が入ってくるという農業のやり方で、食糧自給率が10%台、エネルギーの自足率が6%。   島のなかでいろんなものがグルグル回って、お金がグルグル回って、笑顔がグルグル回るような社会、システムを作りたい。  30/44ある沖永良部島でやればできやすいだろうと思いました。  未来の子に手渡せる最低限の暮らし方の形、暮らし方の形を集めた社会ができると信じています。  沖永良部島も若い子が外へ出て行きますが、ただ大きく違うのが 合計特殊出生率が2を越しているんです。  未来に夢がないと子供は生みませんから未来に夢があるんだろうと思います。  ところが仕事がないと思っている。 島から出て見たいと思ってどんどん出て行きます。  しかしアンケートをとったのですが、高校生の75%は島に戻りたいと言っています。  だったらこんな面白い仕事がいっぱいあるよ、という社会を早く作っておきたいと思っています。  今はないので新しいおしゃれなイノベーションをやっておきたいと思っています。

30のうちの一番惹かれるものは人と自然ですね。  おじいさんおばあさんの子供の様に笑う笑顔、純真さ、ひょいと助けてくれる、そういった人がいっぱいいます。  学ぶことがいっぱいあります。   私の持っている知識も講演をする『酔庵塾』をやっています。  移住して6年ですが、『酔庵塾』を通してこの島の新しい可能性、理論的なことを毎月話をしてゆく、島を豊かにするために何が考えられるか、社会実践の具体的柱、一つはいろんなものを自足しよう(エネルギー、教育、食など)、もう一つは島の人に島の自慢をしてもらう。  大人は昔はよかったと言っているので諦め、子供たちに直に自慢をするためのトレーニングをやろうという事でやれるところから始めました。    学びの場として2017年に4年生の大学、大学院を作りました。  学生は20人弱で、大学院は今年3月に第一号が終了しました。

23年間通い始めて、移住して6年ですが、変な人がうろうろして何かやっているなという事はあったと思います。   家は2004年に島の人が作ってくれました。  夕日の素晴らしいところです。 明るくて陽が照るんだけど涼しいという家を設計してみようかと思いました。  床が考案した土で、エアコンなしで温度、湿度が安定する家、光も入ってくる、風もまわって来る自然と境界がないような家、電気も買わない、そんな家に段々なってきています。  三和土(たたき)を高度にしたもので、土を圧力を掛けて固めて焼かないで蒸します。  そうすると土の構造を残したまま土を固めることができる。  そうすると水がかかってもドロドロになることはなく、土が湿度を40~70%に自動的にコントロールしてくれます。  太陽光で作った電気を電気自動車の電池に溜めて使うという実験を始めて居まして、足りて居ます。 電池を溜めるシステムそのものも、いろんなメーカーさんが作っているのは環境のことはあんまり考えていなくて、経済のことしか考えていないとか、そういったこともどんどん判ってきました。  余計なものがいろいろついている。  食品残渣を発酵させてメタンガスと液肥を取って、液肥は畑にというシステムを南三陸で動かしはじめているので、そういうシステムを使ってクリーンセンターをなくすことを実験的に来年からやっていこうと思っています。  クリーンセンターは重油を使って燃やしているので、クリーンセンターの負荷をどんどん下げてしまいたいと思っています。   食品残渣、ゴミでエネルギーを作るわけです。  東日本大震災のあと、500世帯ぐらいで実験をやったことがあるんですが、分離をするわけですが、たった10日間で分離の率が99%まで行くんです。 自分たちが作ったエネルギーでお湯を沸かしたというだけで大喜びでした。  

人間の暮らしと自然の循環が別々になっているのが問題で、自然の循環の中にちょっとずつでも入りこんでゆくのが凄く大事です。  自然界にはごみは一切存在しない。  ごみと言わないで未利用資源と呼んで、それをどういう風に利用するか、それを自然と一緒に話をしながら決めて行こうと、みんなに言っているところです。

沖永良部島で作り上げた教科書を、他の島とか、過疎地、そして南太平洋の途上国と連携をとって、その教科書をそこのなかで使っていただける事を考えています。

あらゆる政策が東京目線というか、東京から地方に降りてくるという恰好ですが、僕はそれは全くおかしいと思っていて、ローカルが豊かでないと東京なんか暮らしていけない、東京の食料自給率などもとっくに1%切っているわけですから。

2040年には地方が消滅してしまうとあおるだけで、それに対する政策が全然ないんですね。だからローカルが豊かになるための教科書がぜひ必要で、ローカルが豊かになれば東京も豊かになる、そういう風な概念で進むべきだと思っています。   生活価値の不可逆性を肯定して、新しい生活ライフスタイルを描いてゆく。  そういうことが出来ると言う事を私たちの社会実践実験で証明をして行きたいと思っています。  システムを変えてゆく事が暮らし方を変えてゆく事だと思います。  我々の知恵が豊かさを作るんだという事に気付いてほしいと思います。