河崎啓一 ・90歳 愛する妻への"感謝離"
一昨年の5月朝日新聞のエッセー投稿欄に乗った卒寿を目の前にした男性の文章が大きな反響を呼びました。 タイトルは感謝して話すという意味の「感謝離ずっと夫婦」、投稿者は元銀行員の川崎啓一さんです。 川崎さんは62年連れ添った最愛の奥さんをなくされ、悲しみの淵の中で遺品整理も手につかなたっか辛さを、感謝して手離す、「感謝離」、又天国で一緒に新しいものを買いに行く新陳代謝と考える、「代謝離」という発想の転換で乗り切った体験を文章にされました。 文章が掲載されると全国の高齢者をはじめ若者たちからも共感するはがきが寄せられました。 いつかは来る大切な人との別れをどう受け止め、愛する人との別れを乗り越えどう遺品を整理して前に進むのか、「感謝離」、「代謝離」の言葉の生みの親、現在91歳の河崎さんに伺いました。
「感謝離 ずっと夫婦」の文章
「3月に妻が亡くなった。 連れ添って62年、かけがえのないパートナーであった。 共に暮らした老人ホームの衣服の整理を始めた。 辛いなあ。 断捨離という言葉があるが、・・・何のかんのと言ってもそうは捨てられないからだろう。 寂しさを吹っ切らねばなるまい。 妻の肌を守り身を飾った衣装たちにありがとうと一つひとつ頭を下げながら袋にうつしていった。 感謝離という表現が頭をよぎった。 ・・・このパジャマなんか衿が擦り切れてるじゃないか、捨てるのは切ないが私が天獄に行ったら私が一緒に新しいものを買いに行こう、新陳代謝だ、これは代謝離だ。 気持ちが晴れた。 ・・・二人の間には終止符は存在しない。 これからもずーっと夫婦だ。 いずれ会える日が来る。 会えば出掛けようショッピングに。」
吃驚しました、多くの方から励ましが来ました。
銀行の同じ職場の久留米支店で妻とは知り合いました。 よく笑う人で明るくて、周りが穏やかになる人でした。 3年半後に本郷支店に行ったら急にその人が頭に浮かんで消えないんです。 いきなりプロポーズの手紙を書き結婚できました。 結婚して惚れ直しました。 或る時ピアノが欲しいといわれ、月賦でしたが購入して、狭い社宅に入れました。 そういったことなどで愛情が深まったと思います。 一男一女をもうけました。 仕事が毎日終電車というような時もありましたが、妻がお父さんは仕事が大変だから、ありがとうと言って私を立ててくれました。
突然転勤がよくありましたが、よくこなしてくれていました。 急に車が欲しいといわれ、一戸建てを購入するにしても遠いいだろうし、送迎するのは私だからと言われ、中古を月賦で購入しました。 靴下も感謝して捨てていました。 55歳で定年を迎えました。 退職金で何が欲しいか聞いてみたら、グランドピアノと言われ、楽しく弾いてる姿を見たら買ってやってよかったとつくづく思いました。
母が97歳でなくなりましたが看取ってくれました。 妻は海が好きで、70歳過ぎに湘南の海の近くにマンションを買い、二人に戻りました。
妻の様子がおかしく直ぐ病院に行ったら脳梗塞でした。 一命はとりとめましたが、右半身にマヒが残りリハビリすることになりました。 運転、ピアノを弾くという事は出来なくなってしまいました。 段々妻の精神状態がよくなくなって、自宅でリハビリをするようにしましたが、うまくいかなくて二人で入れる老人ホームを探して、入居しました。
マンションに戻ることが妻の願いでしたので、マンションは手放さずにいました。 車、グランドピアノは処分せざるを得ませんでした。
知らない間に両足を骨折していて、手術をしましたが、骨が弱くてベッドから動かせなくなりました。 長期療養型の病院に移り食べられず点滴だけとなりました。 別れ際にいつも握手するが、その日は手を出さずにいて、帰りましたが、その日が最後でした。
妻は88歳でした。 葬儀などやる気がしませんでしたが、家族みんなで送りました。 いないと判ってっていても病院の周りをうろついたこともあります。 老人ホームを終の棲家にする決心をしました。
決心して衣類などを捨てることにしましたが、これは断捨離ではなくて、感謝離なんだなあと気持ちが湧いてきました。 よく着ていたものはなかなか捨てられず、衿の傷んでいるパジャマが出てきて、天国に行って会ったときに新しいものを買えばいいんだと思って、これは新陳代謝なんだと、代謝離だという言葉が湧いてきて手が動くようになりました。 古い写真は心の中にあるので全部捨てました。
エッセー教室に通っていて、書いてみたらと周りに言われて、自分の気持ちも救われるようになり書き上げ投稿したら新聞に掲載されました。 大きな反響がありました。
出版社の方が見えて、それが単行本になり、全国の書店に並び、映画の話も飛び込んで来ました。 昨年秋に全国で封切されました。 「感謝離 ずーっと一緒」
100歳までをターゲットにして10年で1000人友達を作ろうと思いました。 3日に約一人という計算になりますが、一日が充実して楽しいです。 1000人帳を作っています。 私の人生で最大にラッキーだったのは妻に会えたことだと思います。