大竹道茂(伝統野菜研究会代表) ・江戸東京野菜の復活に賭けて
大竹さんは東京生まれ、75歳 30年近くにわたって東京の伝統野菜の復活に取り組んできました。 NPO法人江戸東京野菜コンシュルジュ協会会長も務めています。
江戸時代から明治、大正、昭和というという時代、これを称して江戸東京。 もうひとつは江戸幕府があった江戸という街、それが東京都になり、そういう場所で作られていた野菜、歴史と場所を併せて江戸東京野菜と言っています。 練馬大根、滝野川ごぼう、谷中しょうが、伝統小松菜が知られていると思います。 50品目はさがしあてました。 一番多いのが山形県で150以上あると思います。 現在トータルで230人ぐらいの人が作っています。
当時は寒村で、家康が何千人という人を連れてきましたが、新鮮野菜がありませんでした。 1630年代に入ると、参勤交代で国元から野菜の種を持ってきて、野菜を作らせるという事が起きて、江戸の気候風土に合ったものが残って、周辺の農家に広まっていって、名前がついて有名な江戸での野菜になって行く。 綱吉が尾張から大根の種を取り寄せて、練馬に撒かせました。 火山灰土が深くて、1mぐらいに育つわけです。 大根の種を取って巣鴨から滝野川に種屋さんが並んだそうで、練馬大根、滝野川ごぼう、三河島菜などを地方の大名が買い集めて地方でも作ったという事です。 全国に練馬大根などが逆に広がっていきました。
昭和19年目黒の生まれです。 高校2年の時に練馬に引っ越しました。 大根からキャベツに替わっていました。 両親が農家の出でした。 観葉植物を楽しむような時代になってきていて、インドアガーデン的なことをやりたいと思って農大に入って熱帯園芸研究室に入りました。 東京都農協中央協会に就職しました。 電算センターができて、会計処理のデータを作ったりプログラマーの仕事を7,8年やりました。 その後農政の部署に移りました。 栽培から販売に至る営農指導を行って希望していたような仕事内容でした。 オリンピックが終わって、東京が1000万人になるかどうかという時代で東京に人を集めるような政策も展開しました。
農地を売ってもらうために、農地の宅地並み課税の政策で、農家と一緒に長くに渡って反対運動をしましたが、結局は勝ちました。 各市町村の自治体も反対しました。 固定資産税の減免処置をして増税は実質なくなり、引き続き農業をやるといった人たちが現在ある農地です。
1966年に野菜生産出荷安定法ができて、大都市に野菜を送ってくるのに、指定産地が全国にできて、伝統野菜は揃いが悪くて、段ボールにぴったり収まらないので、3割ぐらい以外は規格外になってしまって、種屋がF1という揃いのいい品種を作ったわけです。 一代だけでそれから種をとっても、同じものができないという野菜です。 昭和56年に「子供たちに残したい身近な自然」という本を作って、やっていましたが、その野菜を作っている人はいないと言われて、どうにかしないといけないと思いました。
昔の野菜を、今判ることを全部調べておこうという事になり、話を聞いて「江戸東京ゆかりの野菜と花」という本を作りました。 これがバイブルになり訪ねて行って種を増やしていきました。 平成9年農業組合法ができて50年目という年で、東京の農業の地域の説明板(ここにこういう農業があったという説明板)を都内に50本立てようと提案したら、その企画が通りました。 神社に建てたいと交渉して46,7本は神社に立てさせてもらいました。
2005年私と応援してくれる農家などで少人数で伝統野菜研究会を立ち上げました。 江戸東京野菜を探し当てて、2011年にJA東京中央会に江戸東京野菜登録委員会を作って、東京都としても認知していただくことになりました。 NPO法人で江戸東京野菜コンシュルジュ協会を作って、資格試験を行って、詳しい人にPRしてもらおうという事で協会を作りました。 そのころ15品目ぐらいでした。
品川かぶは復活第一号です。 品川の街おこしに役に立ちました。
三河島菜は江戸を代表する菜っ葉でしたが、大正時代にはなくなってしまっていました。 探し始めましたが東京には無くて、仙台芭蕉菜があり、これが昔は三河島菜だという事で送ってもらって小学校などで復活栽培しています。
寺島ナスを復活させたいという事で寺島ナスが小学校で復活して、東向島の駅前商店街がそれで街おこしが始まりました。 寺島ナスは「蔓細千成(つるぼそせんなり)ナス」という品種で、種が残っていて分けていただいて、或る人から栽培指導していただいて今日までつながっています。
食べてもらわないと判らない、野菜の旬が判るというのが伝統野菜です。
将軍とのかかわりのある野菜があります。 地方は大名とのかかわりのある野菜があります。 そういった野菜には伝統野菜の記録が結構居残っていたりします。
伝統野菜は揃いが悪くて、流通にのらなくなった野菜で、東京ならではのおもてなし食材という位置づけで次の世代に伝えてゆくことが大事だと思っています。