2014年12月31日水曜日

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)  ・ブラインドサッカーに願いをたくして(2)

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(2)
健康で長生きしたい。
朝4時、5時に眼が覚めたら先ず柔軟たいそうをして、日が昇るのを待って、6時を過ぎてからウォーキングに出掛けます。
点字ブロックがあるところを白杖で伝わりながら歩きに行きます。
午後はヘルパーさんが来るので、新宿御苑とか代々木公園を2時間かけて歩くと言う風にしています。
障害者スポーツ大会があるので、出ませんかと言われて、ハイでますと言ったが、50m走る、ソフトボールを投げる、2種目出ました。
50mは大会新記録で金メダル、10秒31  ソフトボールも金メダルを取ることができた。
1日に10km歩く事が多い。
9秒台を目指します。

英語、第二外国語がスペイン語です。
ヨーロッパの中心言語には耳が慣れているので、なかなか聞こえなかった中国語をやってみようと思って習い始めたのが3年前です。
3年経って、大分音が取れるようになった。
ホテルでもバイキング方式が多くなってきて、私たちはとっても食べにくい、取りに行くのが難しいわけですから。
朝でもメニューを出してくれるホテルを選んで旅行してゆくツアーを組んでいけば視覚障害者でも旅行出来る。
温泉になると脱衣場に行ってからが困るので、誰かに手を引いてもらわないといけない。
ツアーを組みたいと思うのは砂風呂体験、塩を作る、そばを作る体験をしながら珍しい食べものを食べる。

視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長もしています。
それぞれその場所にはボランティア団体が有ったんです。
それを纏めて、各地方からやってくる人でも受け入れましょう、手引きをしましょうと言う団体を作った。
目的地に行く場合に、家から駅までは行けるが、その先はいけない場合が多々あるので、その時にその先をどなたかに手を引いて頂きたいと言う事がある訳です。
私としては旅行の手配をすることと同じことなので、難しいことではない。
音声のパソコンがあると言う事を聞いて、従来のパソコン操作と同じようにすることが出来る。
わたし自身はそんなに苦労ではない。
ボランティアの人が増えていってほしいと思う。

道に迷った時など「お手伝いしましょうか」と声を掛けてくれると、凄く嬉しい。
いろんな障害者の方が街に出てくると思いますので、ちょっと声をかけてくれると嬉しいです。
一番力を入れているのがブラインドサッカー。
サイドラインからボールが外へでない様にフェンスを設けている。(試合が中断しない様に工夫)
ボールを取りに行くときには、声をかけなければいけない VOY スペインコ語で「行くぞ」と言う意味
正面衝突を避けるために、声をかけることになっている。
シュート等と声をかける、コーラーと言う人がいる。(6人目 5人でプレイ)
判ってくるとフルスピードで走る様になってくる。
慣れてくるとボールの軌跡が読めるようになるので、足を出すとボールが止められる。
ボールの音、仲間の声、コーラーの声 この3つ 三角形をイメージしながらプレイをするので、選手に取ってみてはこんなに面白い事はないと思う。

ブラインドサッカーには解放感があると選手は言っている。
今チームとして日本選手権に出てくるのは13,4チームぐらい。
11月16日から東京でブラインドサッカーの世界選手権が行われた。
視覚障害者のサッカーだから可哀相な人達がやっていると夢夢思っていただきたくない、立派なアスリートが十分にサッカーをやっている。
日本のチームはまだ発展途上にある。 8チームで7,8位ぐらい。
リオ、東京に夢をつないでいきたい。
選手層を厚くすること、若手を育てていかないといけない、と思っている。
ボールを蹴ったこともない様な視覚障害者にスポーツの喜びを味わってもらいたいとも思う。

企業、学校からの研修も増えている。
視覚障害者と一般の人とがお互いに混じり合って共に生きる社会と言うのを形成出来たらいいと思っているので、見えないと言う事はこういう事ですよ、だからコミュニケーションを大事にしたいと思いますと言う風な、相手に対する理解、思いやりが深まって行けばいいなあと思います。
ちょっとした思いやりの心が優しい社会につながってゆくのかなあと思います。
2年後リオ、東京パラリンピックがあるので選手は大きな夢を描いているので、選手と共に夢を共有しながら行きたいと思います。








2014年12月30日火曜日

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)   ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会理事長)   ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)
73歳 大学で英語を学んだ後、ツアーコンダクターとして、140カ国以上廻りました。
ところが50歳を過ぎた頃、網膜の機能が衰える病気と診断され、いずれ失明すると宣告されます。
その後釜本さんは知人の紹介で目が不自由な人たちがプレーするサッカー、ブラインドサッカーに出会います。
視覚障害のある選手たちがボールの音や、コーチの声を頼りに自由自在に動き回る姿に圧倒されブラインドサッカーを日本に広めようと協会を設立しました。
4年前完全に視力を失った後も選手の育成に力を入れる一方で、旅行を楽しみ視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長も務めています。

眼の見えない人が行うサッカーで5人制で、4人が全盲で、ゴールキーパーは健常者、又は弱視の方。
40m×20mのグラウンドで行う。
ボールを追いかけるのは難しいので、ボールが転がってゆくときに音が出るようになっている。
ボールの中に鈴の様な音源が内側にくっついている。
2002年に日韓ワールドカップが行われる予定だった。
2000年にシドニーのパラリンピックで次回のアテネでのパラリンピックが5人制のサッカーの正式種目になることが決定された。
そのころに大分眼が見えなくなってきて、電話がかかってきて、ブラインドサッカーを知ってますかと言ってきた。
視覚障害の方のサッカーも何とか取り入れたいので、手伝ってくれと言われる。
韓国まで2001年に8人ぐらいで見に行く事になる。
弟は釜本 邦茂
グラウンドにいったら、小さいと思った。
全盲なのになぜアイマスクをしているのだろうと、初めは視覚障害者ではどうせ大して走れないだろうと思ったらとんでもない、フルスピードで走っている。

試合後インタビューしたら、サッカーは面白い、との返事が返ってきた。
こりゃあ日本に帰ってきてやらなければいけないと思った。
多少光を感じる人もいるので、条件を一緒にするためにアイマスクをするという事を後から聞いた。
私も4年前から全然見えなくなって、見えないと言う事は大変なことだと感じた。
ボールの音、ガイドの声を聞きながら走ると言う事が、彼等はピッチの中に自由がある、ピッチの外は思う様な行動ができず不自由だと思っているので、自分一人で考え走ることが楽しくてもしょうがないと言う風な状況だと思います。
帰ってきて、大坂で始めて、次に横浜でやりました。

弟もサッカ-協会の副会長もやっていたので、開始の時には講演をしたり、自分がアイマスクをして蹴る様な事もしてくれました。
始めてのアジア大会を日本で開くときは、弟は大会の名誉委員長になってもらいました。
キャッチポスター 「サッカーは目じゃないよ」
弟が中学に入る時に、野球をしようか迷っていたので、サッカーをするようにアドバイスした。
私はバスケットボールをやっていたし、スポーツ家族であった。
私はなるべく社会に留まりたいと思っていたので、4年生の大学に行ってプロになる職業を選びたいと思って英語を勉強しました。
通訳ガイドの試験にも合格する。
経済、法律、歴史、地理、芸能から勉強しなければいけなかった。

大坂万博(1970年)がやってくると言うので、旅行業に入った。
前年から入り、日本に来る外国人に日本で案内すると言う仕事だった。
次に国内の仕事から海外の仕事に移る。
日本に会社があり、海外に支店を持つと言う事はなくて、海外に行けば日本人のスタッフはどこにもいないので、全部自分で通訳をしながら飛行機の確認、ホテルの確認をしなければならず全て自分の方に掛かって来ていた。
現地とのやり取りはFAXもなかった時代だったので、テレックスの様な時代なので電話代も非常に高くて、現地とのやり取りを電話でなんてありえなくて、兎に角間違いが非常に多かった。
行った先 行った先で 次の飛行機の確認をして行かなければいけない状況だった。

1970年代 ギリシャ キプロス紛争が発生 空港、鉄道が全部封鎖と成る。
ホテルで一服して、午後見学だったが、午前に街に出かけるが店のシャッターを閉める光景に出会う、キプロスとギリシャが戦争を始めることを聞く。
2日目 ニュースを集めようしたが、全然集まってこなかった。(電話局も閉鎖)
現地の旅行会社の人から、内緒でイタリアのブリンジ市の港町に船が出ることを告げられる。
乗りますかと、戦争中なので乗船料3倍も取られるけど、と言ったら皆乗ることに賛同してくれる。
ローマのガイドの人が来てくれて、声をかけてくれた私は涙が出そうになった。(感激と嬉しさ)
何があるかわからず、瞬時に決断してゆく以外にないと思っている。
旅行会社を辞めて、英語塾を開いていた時に、眼の病気になる。
50歳を過ぎたあたりから目が痛いと言う状況だったが、数時間過ぎると治ってしまうので、病院には行かなかったが、眼にゴミが入り取れないので、眼の大学病院に行く。
取ってもらって、検査をしてもらって、網膜色素変性症ですと言われ、将来目が見えなくなると言われた。
2,3年後に視野狭窄が始まる。 視覚障害者3級になる。 4年前に見えなくなる。

宣告を受けた時は20,30年先でしょうと、笑い飛ばしていたが、段々見えなくなる。
眼の見えなくなった不安感があった。
手紙が来ても見えない、返事を書くのに書いてもらうが、ちゃんと書いてくれたのかと、疑ってしまう日々の連続だったが、相手に任せると言う状況となる。
電話が鳴った時に、立とうと思って動くが、柱に額を当てて大きなたんこぶを作ったりした。
受け入れる以外にない、気持ちを穏やかにする方法はない、悩んでも仕方がないと切り替えざるを得なかった。
野菜とかいろいろ支払いはカードでやっている。
今は野菜とかヘルパーさんに値段を読んでもらったりして、高かったら止めとくわと言う事も出来るようになった。
生きるための全ての情報の80%は眼から入ってきます。
いくらあがいても、この病気は今の時点では、治らない。
受け入れて生きてゆく、明るく、はつらつと元気に生きてゆくしかないと思う。

ブラインドサッカーの選手は物凄く明るいと思います。
心の奥底では治ってほしいと思っているかもしれないが、彼等は受け入れてブラインドサッカーに携わっているから明るいと思っています。
眼が見えなくなって失ったものは非常に大きいが、得たものも凄く大きいので、わたし自身はブラインドサッカーに携わって、サッカーというものを通して非常に多くの人と関わることができ、ボランティアさん、ヘルパーさん等と知り合いになれた。
ブラインドサッカーで彼らが夢を描いてくれる、私もその仲間にいるんだと言う事が、わたし自身としても大きな夢を描けている、こんな嬉しいことはないなあと思っています。








2014年12月26日金曜日

渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者)    ・知ってほしい、盲ろう者の世界

渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者)  ・知ってほしい、盲ろう者の世界
渡井さんは40歳 8年ほど前から、小学校、幼稚園をまわって、盲ろう者について知ってもらうための特別授業をしています。
視覚と聴覚の両方に障害がある盲ろう者のありのままを子供達の素直な心で感じ取ってほしいと言う思いからです。
渡井さんの夫、秀忠さんは38歳 盲ろう者を支援する仕事をしていますが、自身も全盲で難聴の障害があります。
二人は福祉を学んでいた大学時代に出会って結婚、現在は2人の子供との4人暮らしです。

盲ろう者、眼と耳の両方に障害のある方
何時障害を負ったかと言う時期によっても、コミュニケーション方法は様々です。
主人の場合は 点字を勉強していたので、手と手を重ね合わせて、タイプライターのように点字を一文字ずつ「こんにちわ」と言う風に、点字を打つ、指点字で話をしています。
手話を覚えている方が、目で見ることが難しくなったので、触手話という方法
点字、手話も判らないと言う方は、音声、FM補聴器を付けているとか
掌に一文字ずつ文字を書く、手書き文字、平仮名、カタカナ 等で行う。
ホワイトボードの様な小さなものに相手のいうことを書いてゆく筆記と言う方法もあります。
多少見える人も、人によって見え方も違うので色々です。

盲ろう者の通訳介助者 盲ろうと言う方が病院に行くときお医者さんとの話を通訳する、学校、買い物などで呼ばれたりする。
相づち 相手の肩をポンポンと2回ぐらい叩く。
笑い   相手の肩をポンポンポンと早く叩く。
合っている時は 肩に〇を書いたり、間違っている時は×を書いたりする。
盲ろう者の数は全国で約1万4000人と言われる。
両方障害登録しない事もあり正確には判らない。
主人は7歳ごろに全盲になり、耳の方は生れ付きの難聴だった。
静かな場所ならば、音声で聞こえるが、(右の耳だけ補聴器を付けている)、テーブルを挟んで話す時には聞こえなくなる。

長男が幼稚園に入る前ぐらいの時に、左手に長男、右手に主人、前に娘を抱っこして歩いていた時に、小学生がお母さんと一緒に歩いてきて、主人の事を「あの人、何」と聞いていた。
その時に言われたお母さんが「見ちゃだめよ」と言って足早に去っていってしまったので、その時にはショックを受けた。
主人には状況説明をできなかった。 他にも似たような経験があった。
長男が幼稚園の年少の時に父親参観あり、その時に担任の先生が、お父さんをどうやって他のお子さんに説明したらいいんでしょうかと言われ、先生の見たままを説明して大丈夫ですと伝えたが、先生はどうやって説明したらいいか判らないと言われた。
盲ろう者のことをもっと知ってほしいと思う様になった。

特別授業では盲ろう者の2人に話をしてもらう事にして、どうしてこのようになったのか、と言う事を話してもらって、その後耳栓して、目隠しをして白杖を持って、点字ブロックの上を歩く、盲ろう疑似体験をしたり、街中で白杖を持った人の手引きの仕方、私の紙芝居(2時間)をやると言った様な感じです。
紙芝居は自分で作る。   「ひろ(長男)のパパ 盲ろう者ってどんな人」 
白杖、補聴器などの事を説明したりする。
授業の後、手紙をくれたり、調べ学習をしてくれたりする。
大きな模造紙が部屋中に張ってあって、そこに眼の事、耳の事以外に、ユニバーサルデザイン、盲導犬、養護学校とは、いろいろ福祉の分野のことをグループごとに調べて、模造紙に書いてくれた
便利グッツまで考えてくれた子がいた。  凄く感動しました。

今幼稚園、小学校を回っている。
大人は偏見と言うか、ものの見方も出来てしまうので、小さいお子さんは素直なのでなんでも吸収してくれる。
サポートしたいがどう声を掛けていいかわからないと言う事でついつい通り過ぎてしまう人も少なくないので、やり方についても判らないと、危険も伴う事もあると思う。
突然白杖を引っ張ってゆくとか、後ろから押してゆく方もいる。(とても怖い)
白杖を持っていないほうに立って、その人の肘を支えるようにして補助する。

高校卒業するころに、自分は何をしたいのかなあと思った時に特別何もなかった。
絵を描くのが好きだったので、2年ぐらいは美術の学校に行って絵を描いていた。(紙芝居の作成に役立つ)
社会福祉学部があることを知る。 受験して入る。
掲示板に、盲ろう者向け通訳介助者養成講習会の案内が出ていて、それを見て受けてみたいと思った。(もう一度行った時にはすでにチラシはなかった)
電話をして養成講習会を受けたいと連絡して、行く事になる。
交流会の時に秀忠さんと会う事になる。
秀忠さんの授業の通訳をやっていた。 
結婚の話があり、かなり迷って1年ぐらい返事をしなかった。
気が合いそうだし、小さいころから寮生活をしていたので自立した方だと思った。
親は私の気持ちを重視してくれたが、でも賛成的でもなかった感じですね。
あちらの親御さんは(この子と結婚しても)いいのか、と言う様な感じでした。
出来ちゃった結婚だったので、私は絶対産みたいと思った。
今は中学1年生(男)、下は小学校4年生(女)

大変でしょうと言われるが、楽天的に考える方なので、悪い事を考えても同じ時間だけ過ぎてゆくので、それならいいことを考えて行こうよと、常に楽しいことを考えてその日、その日と言う感じで過ごしてきたので、すごく大変とは思っていないですね。
いろんなところを回って、活動を重ねることで、地域の皆さんとの繋がりが強くなったと感じます。
娘の小学校にはまだ行っていないので、娘も私も楽しみにしています。
障害者に限らず、お年寄りでも、ちょっと困ったかな、お手伝いをした方がいいかなと言う人を見たら、お手伝いが自然にできる様な子供達になって欲しいなと思います。
眼と耳が障害があると、家から自由に外に出られない方が多いので、ひとりでも多く出られるようになったらいいと思います。。
お子さんたちが素直に偏見なく接してくれればいいなと、欲を言えば大きくなった時に、眼、耳が不自由な人でも物を買う時に、点字がついて触って分かるようなものを作る人に成ってくださいと、おまけ的に授業で言っています。
いろんな人が世の中にいるんだなと言うのを知っていただければと思います。













2014年12月23日火曜日

早瀬圭一(ノンフィクション作家)    ・「命」を追いかけて40年(2)

早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(2)
東京勤務が昭和46年ぐらい、もうこっちで50年ぐらいになるが、人と話す時に、酒を飲んだ時等は関西弁が出たりする。
本音をいうのは関西、関東は飾ったりするので、関西弁の方が本音を聞きだしやすいのかもしれない。
本音を聞きたいと思う時はこちらも本音で応じないと聞き出せない。
女子刑務所を取材していた時に、飲み屋の女将さんが言った言葉に、女の気持ちは朝と夜では全然違うと、夜になるといろんなものが渦巻いていたりすると、いう。
その時によっても、ポツンと一言、言った時に話が広がってゆく事もある。
相手の思いをちゃんと汲みとって話を深く突いていくしかない。

刑事も同じことを繰り返し聞いたり、別の話を聞いたりしながら、真実に近づこうとする。
何度も会うと言う事は無駄に思うかもしれないが、それでもそのなかから新しいものを聞けたりする。
人間をそのまま取材した平尾誠二 ラグビー 小谷正一さん プロデューサー。(彼は面白かった)
新聞拡販の目的で数多くのイベントを仕掛け、西宮球場での闘牛大会、百貨店の絵の展覧会などさまざまなイベントをプロデュースする。
私と編集長で井上靖さん宅に行った時に、小谷さんを紹介される事になる。
小谷さんに会いに行って、売れる週刊誌を作るノウハウを結局聞けなかった。
小谷さんの事を書こうと思った。 伝記を書こうと思った時には亡くなっていた。
小谷さんを知っている人を取材して歩いた。
小谷さんは毎日オリオンズを作る。 
新聞の部数を増やすのに繋がると言うのでやるが、見事に失敗する。
阪神タイガーズの主力選手を引き抜くが、阪神ファンは怒る、優勝もするが、人気は無かった。
「努力は運を引き寄せる。」 宿沢 広朗氏の言葉
本当に友だち、親友、兄弟、親子の様な感じにならないとなかなか本音のところまでは行かない。

聖路加病院で働くということ」 執筆
日野原さん以外の人を書こうと思っていた。
細谷亮太先生を書こうと思った。 先生は俳句、エッセーなど芸達者だった。
細谷先生に会いに行って話をしたら、私の他に面白い医者、看護師がいるので、リストアップするので皆に取材してその中から書いたらどうかと言われて、「銀座の達人たち」終了させ、2008年ぐらいから取材にかかって、ようやくちょっと前(10月)に終わった。(6年間掛かる)
何度となく会って、(病院内、飲みながらなどして) 話を伺った。
30人リストアップしてもらって20人ぐらい取材、4人を対象に書いた。
人間は日常生活の中にいて成り立っているので、日常生活に踏み込んでいって話を聞かないと、描けないと思うんです。

4人の方は死と向き合っている人達  子供が死んでゆくという事は非常に悲しくて辛いという細谷さんは小児がんの担当医としてずーっとやってきた。
小児がんの子供に告知をするのを、日本で初めて行った人。
細谷先生はアメリカで子供に癌だと言う事を告知しなさいというふうに教えられる。
告知する事によって治療法を子供達に明らかにして、治療する。
アメリカにあった本を彼自身が翻訳して、出されるが、医学会とかでバッシングを受ける。
柳田邦男さんが援護射撃をして、次第に理解されてゆく。
石松伸一先生 救急部 死と隣り合わせの人の仕事。  
サリン事件の時に聖路加病院は押しかけて来た患者を全員受け入れた事で凄いと評判になった。
石松先生は浮浪者でも何でも見るので、たまには院長、病院の方針とぶつかることもある。
どう折り合いをつけるかは、その日その日でやっている。
伊部さん 看護部長 看護師からなった人。(聖路加病院看護大学学長
4人とも親を亡くしている人達。 自分たちの親の命も見つめてきた人達。

動物でも植物でも命があって、草花一つ見てても、全て生き物なので いずれなくなるので、その間にどういう風に生きていくのかという事は、この頃は自分では明日死んでも、十分だと思うが、そういいながらもう一日でも長く生きたいと言うのが本音かもしれない。
これからは短いものを自分に課して、自分の書きたいものを書いていこうかなと思っています。
旅は非日常、非日常に踏み込むことはいいのかなあと思う。
発表の当てがなくても書こうと思っている。
毎日同じことの繰り返しの様でありながら、毎日違っているのかなあと思うし、違うべきだなあと思う。
一喜一憂する事が大切だと思う。










2014年12月22日月曜日

早瀬圭一(ノンフィクション作家)   ・「命」を追いかけて40年(1)

早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(1)
早瀬さんは現役の新聞記者として活躍していた昭和53年、パーキンソン病を患っていた母を老人ホームに入居させました。
その事を新聞に載せたところ、3000通近くの投書が寄せられそのほとんどが痛烈な批判が書かれていたそうです。
それを機に取材を重ねて1981年東京都内の老人ホームの実態を描いた、「長い命のために」という小説を書き、翌年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されました。

人間の命にかかわる様なことが、比較的多い。
単純な踏切事故でも、何でも命が絡んでいる。
社会部の取材は命が絡んでいる。 
警察庁、警視庁の担当は、なんか顔つきが普通の人よりも人相が厳ししい様な顔がおおい。
物を書くと言う事は自分と向き合うことでもあるし、取材対象に向き合うことにもなる。
最初は名古屋に新聞記者としてゆく。
14,5ケ所 警察署があり、担当する警察署にいく。 3つの警察署をそれぞれ担当する。
夕刊があるので、午後の1時30分がぎりぎりに締め切りになる。
午後からはそれぞれ町の催し物を、朝刊に地方版用の記事を書く。(街ダネ)

発生事件の裏側 直後だとなかなか口に出すことが無いようなことも、時間をおいてだと、事件に関してのことを話してくれることがある。
次に大坂に行く。
デスクの一人が私に、新聞記者として理想的なのはハンターであり、ライターである事、と言ってくれた。
取材力があり、文章も書けたら理想的だが、取材を沢山した方がいいといった。
取材に厚みが増してゆけば、文章が下手でもいいものが書ける、文章はデスクなどが直す機会もあるので。
いろいろ集めた事実のなかのどの部分に焦点を集めるかは個人によって違う。
ノンフィクションでも光の当て方、どこを強調するかによって、内容がどこを読んでほしいのか、読み手に伝わらないといけない。
山崎豊子 取材はしつこいぐらいする。
10取材したら、10全部書くな、取材した半分ぐらいに絞って書か無いと駄目だ、全部書こうとすると散漫になったり、鋭さが無くなり、事実がぼやけてしまったりする、半分は捨てる気持ちで書かないといけないと言っている。

「長い命のために」 40歳ちょっとすぎぐらいの時、母親が青山のマンションで一人暮らしをしていたが、2年目に倒れていて、病院に行き、パーキンソン病で最後は寝たっきりになると言われて、家で介護されるか、特別老人ホームがあると言われて、主治医としては特別養護老人ホームの方がいいのではと云われた。
特別養護老人ホーム等の事を調べて、見学に行く。
特別養護老人ホーム
毎月30万円掛かるとすると、全額負担から無料まで15段階に別れている。
当人、或いは扶養義務者がどれだけ経済的に収入があるかを事務所が調べて応分の負担をする。
非常にいい制度。
養護老人ホーム
経済的な理由、体は丈夫だが収入がない人達を対象 経費はいくらか毎月いくらかは払える。
有料老人ホーム
何百万円という頭金を払って、毎月15から20万円払う。

今は特別養護老人ホームに入るのに待機者が多い。 空きが出ないと入れない。
定員100人 200人であると10%以下ですね。
特別養護老人ホームに入る資格もあり、特別養護老人ホーム「中野友愛ホーム」が丁度出来るところだったのでたまたま母は入れた。
実際にいって見ると、想像してたようなところ(人生の吹き溜まりとか言った人いるが)ではなかった。
「記者の目」と言う欄に、特別養護老人ホームに母親をいれたことに関する経験談を書いた。
3000通弱の反響があった。(反発の声が9割以上)
TV番組にもゲストで呼ばれたが、後で考えると徹底的に叩きのめす為に呼ばれた様だ。
[恍惚の人]、[楢山節考」 その10年後にこの「長い命のために」を書いた。
原則として全部実名です。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              







2014年12月21日日曜日

出田秀尚(眼科医師)         ・視覚障がい者に寄りそって

出田秀尚(眼科医師)        ・視覚障がい者に寄りそって
我が国の近代網膜剥離手術の先達として、此の30年間網膜剥離の手術は勿論、難しい目の手術を専門に全国から訪れる数多くの視覚障害者を、失明の危機から救ってきました。
76歳の現在も、外来診察に当たっていらっしゃいますが、患者や家族に病気の治療や手術で視力が回復しない時のための術後ケアに力をいれていらっしゃいます。
失明という病とどう対処したらいいのか、この30年間で眼科治療はどこまで進んできているのか、お話を聞きます。

癌は治療が格段に進歩した。
分子遺伝学で新しい薬が出てきて、薬でも治せるようになりつつある。
眼も格段の進歩をしている。 
白内障、昔は水晶体を取り出して代わりに厚い眼鏡を掛けていた。
今は超音波で眼の中で水晶体を砕いて、直径2mmの管からそれを吸いだして、折りたたんだプラスチックのレンズを眼の中に入れてしまう。 次の日から外を歩ける。
傷ついた網膜の組織を iPS細胞を増殖させたものをそこに挿入して、と言う様なものも試みられている。
加齢黄斑変性

糖尿病は昔はほとんどなかった。  去年あたり、失明の第一原因は糖尿病網膜症だった。
網膜がやられて、網膜が出血して、網膜が痛む、剥げて、光を感じる膜がやられるから失明する。
緑内障 眼圧が高くなって、視神経を圧迫して、神経を侵されて、見えなくなる。
糖尿病網膜症、緑内障が増えてきている。
ハーバード大学 スケペンス教授のもとで網膜剥離の手術を経験。
日本との違いにショックを受けた。
昭和42年ごろ、眼科医になるが、当時の網膜剥離の手術は網膜を後ろから電気で外側から焼きつける。 
両目ともふさいで絶対安静、トイレも行けない、食事も起きて食べられない、枕で固定されて頭を動かせなくて、3週間過ごす。
治る人は1/2だった。

ハーバード大学 スケペンス教授 網膜はく離の講習会があり、網膜剥離の理論、診断、手術の理論を聞いた。
手術をした翌日から歩いている、5日間の入院で、そしてドンドン治ってゆく。
あまりにも日本との違いにショックを受けた。
スケペンス教授のもとでの2年間のフェローシップ (Fellowship) 応募者が100人に一人しかとらないとの事だったが、受かることができた。
手術も、外来の患者も対応させてもらった。
残って勉強したい、住みつきたいとの思いもあったが、あまりにも日本との違いが大きいので日本に持って帰って、日本に役に立ちたいと思って、日本に帰ってきて、熊本で大学に籍を置いて、学んできたことを教えてきた。
人間性についてもスケペンス教授に教えてもらった。 患者さんに寄り添っている。
患者を見るときに色々工夫をして観察をして、理論的なことが裏付けされている。

未熟児網膜症 保育器に入った子が眼をやられる。 新しい光凝固という治療法が開発されたが
未熟児網膜症を診察するのが日本の直像鏡では眼の後ろ半分しか見れないので、スペンス教授が開発した、「双眼倒像検眼鏡]を使うとよく眼の周辺部まで見える。
学会を通じて発表してきて、3年間頑張ったが、講義、診察等で朝早くから夜遅くまで大変だった。
自分で思う様な事が出来る立場ではなくて、40歳になって、このまま大学にいたのでは網膜剥離で人を助けることは出来ないと思って、妻の父親が眼科の病院をやっていて、大学をやめてこの病院を継ぐようになった。
網膜はく離の手術は大学病院などでやる様な難しい手術なので、開業医ではうまく行かないと言われたが、最低限手術出来る装置類を用意して、手術するようになった。
学会での発表をしていたので、全国の眼科医から教えてもらいたいと集まってきた。
スケペンス教授のところの様なフェローシップを作って、後進の指導を兼ねてやってきた。
緑内障、白内障などの患者も来るようになって、それに対応するように、客員医師も来ていただいて、いまでは全ての眼科を扱えるようになった。

治った患者さんからは偶然電車であって、感謝の言葉をいただいたりして嬉しかった。
「万民息災」 深い意味がある。 日本古来の事。
患者さんに寄り添う事が、何となく流鏑馬(やぶさめ)を長い事をやっていたことが身についたのか、スケペンス先生のやり方が体の中に入って行ったのか、眼の見えなくなる人に対しても、最後までこの人の人生を見てあげるのが務めだという風に思いながらやってきた。
心のケアを大切にしました。
眼を治すだけでなくて、その人の人間を一生涯見てやらなければ、と言う気持ちがあった。
眼が見えなくなった人に、治療方法のない人、に対して アドバイスを差しのべる。
ロウビジョン 低視力者 高齢になっている方が眼が不自由で動けない様な人達の手助けに、「自然に触れる旅」 自然は肌から感じる、四大元素 地、水、火、空 は肌で感じる。
クリエーティブな力を与えてくれる。
バシュラール 哲学者  人間に想像力は二つあると言われる。
薔薇は見たことがあるから想像出来るが、形式的な想像力しかないが、経験したことが無いことを想像する力は本当に物事をクリエートする力を持っているから創造的想像力、二つある。
創造的想像力は何が作ってくれるかと言うと、バシュラールによると地、水、火、空という。

若い人は教育を受けて職についている人はいいが、特に高齢者は増えているので、年に2回ぐらいバスに乗って、自然の四大元素に触れるため、阿蘇、天草に旅行する。
巨木に皆で手を組んで抱える。
塩水に足を浸けたり、木には香りを持っているのでそれを嗅ぐ。
そういった事に接して皆、元気付いている。
70歳すぎるとお迎えを考えるが、それに向かってどんなに生きるかは、未知の世界を歩くわけなので、クリエーティブな力が無いと乗り越えられないと思う。
何が災いしているかと言うと、今は理屈の世界、全て理論ずくめ、理論が正しいと思っている人が多い。
理屈は半分で後は、人間性、情の世界なんですよ。
情の世界があることを知ってもらいたい。(若い医師にも知ってもらいたい)
体から覚えないとしょうがないと思う。
挫折を沢山すること、私などは自分で右に行きたいのに左に行かざるを得ないことは、半分以上はそうです。
自分の思った通りに行けた試しはないが、左へ行ったから又新しい世界ができて、うまく行ったりする。

患者さんの気持ちを汲まないといけない。 その為には顔、態度を見ないと判らない。
患者さんがどういう不安を持っているか、と言う事を先ず判ってあげないといけない。
だから情の世界が大事。
自分体の中から幸せを、生き方を感じっとってもらうと言う事なんですね。
30代の方、網膜はく離の手術をしたが、真っ暗な世界になった。
励まして、盲学校に行って、鍼灸師になり、子供の剣道の試合に応援にいって、一本取る前に「肩」と言ったんだそうです。  奥さんも吃驚したそうです。
なんで判るのかと言うと、子供の息使い、相手の息使いが判る、又双方の足音も聞こえるそうです。
だから判るそうです。鋭い感覚を持っている。
網膜はく離でそのような状態になった後、家族のきずなが凄く良くなったと言います。
肌から入ってくる自然の刺激で、自らクリエーティブな力を醸し出している例と言うんじゃないでしょうかね。









2014年12月17日水曜日

佐藤芳之(食品会社社長)       ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)

佐藤芳之(食品会社社長)          ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)
アフリカに渡って50年以上が過ぎる。
日本とアフリカの文化の違いを表す言葉として、「言葉は風」と著作本にあるが、どういう意味か?
言葉は空気 昨日言った言葉はもういまどこにもない。  
今話している言葉が本当なんだと言われた。  彼等は嘘が巧い。
武士に二言は無いというのと正反対。
書面契約がお互いの縛りになるので、言葉は縛られない。
ここはビジネスでは嘘を嘘ととらえないような姿勢が必要。
私としては自然に入れた。

私が雇った運転手には兄弟が50人近くいる。 母親は3人 一夫多妻制。
日本では考えられない様な兄弟が沢山いたりする。
会社でごみを掃除しないで、移動したりするだけとか、意表を突かれるような違いはあったが、こうやったほうがいいと言ったり、やったりしているうちに、すこしづつ変わってゆく。
共有体験、共有感覚を持ってものをやるんだという事、これは物凄く当たり前のこと、東北に暮らしたものとしては。
工場の中も綺麗になり、会社も順調に大きくなった。
失敗もいろんなことがあったが、失敗を失敗として見てしまうとマイナスになるが、教訓として思えば、いいと思う。
一番駄目だったのは、ブラジルで大きな農園があり、そこと共同で新会社を作ってやろうとしたが、ものの見事に現地の人に誤魔化された。
ギャング団が襲ってきて、やむなく引き揚げたが、後で判ったが襲ったリーダーが警察の署長がリーダーと成ってそこを取ってしまって、マカダミアナッツ産業を始めた。(1990年代)

不在地主的な、そこに住みこまないで利益を上げると言う様な事は、すごく甘い考えだと思った。
投資してそこで何かやろうとする時に、当事者が10年、20年住みこんでやらないとうまくいかないと思う。
お金だけの投資で、お金がお金を生む様な、人間がやる事業に投資した場合に、当事者がいなくて、外からどうだと言っているようでは、日々の空気が読めない、日々どんなことをやっているのか、判らないようでは投資をしてはいけないと、失敗から学んだ。
内部充実を図ると言うやり方にした。
生産部門に力を入れて、農場をつぎつぎに買っていった、500エーカー、1000エーカーの農場を9か所ぐらい買った。
品質の安定化につながってゆく。
必要なところ以外機械化はまだしていない。
働き手がいっぱいいるので、出来るだけ多くの人が生活の場にしている、雇用機会をつくりだすという社会的義務があると思う。
その国に合ったスタイルで会社を経営していく事が絶対必要だと思う。
4000人以上の社員、外からの農民5万人が契約している。
1家で10人養っているとすると50万人になる。
毎年2500人の子供達に教育費を出してました。 5年間やった。

2008年 68歳の時にほぼ全ての株券をケニヤのかたに手渡して会社を去る。
やることは全部やったし、他のこともやりたいと言う気持ちになった。
迷いとか何にもなかった。
送別会もやらなかったので、まだ帰ってくるのではないかと思っているかもしれない。
未練もなく消えてゆくのが良いと思った。
ちょっと惜しいなあと(30億円はあると思うが)思う事もあるが、かみさんは元気だからいいんじゃないと言ってくれる。
自分が必要ならいるが、必要でなかったら去る、惜しまれて去る、これいいんじゃないと思う。
入り方よりも去り方ですね。

今はルワンダで新たなビジネスをしている。
100日間で80万人が殺された。 部族対立
素晴らしく美しい国だったが、なんか悲しかった。
死んだ人の悔しい思いがある様な沈んだような感じ、でも再起して行こうとするエネルギーがあった。
ここで仕事をしてみようと思った時に、スラムに行った時に臭かったので、トイレを綺麗にすると言う浄化運動を2年間、市と一緒にやったのが始まりでチャンスが見えてきた。
微生物の働きでにおいを取ったり汚物を分解する。
穴を掘ってそこにしてゆくので、非衛生的なので、ハエが出たり、蚊が出たり、臭いがしたりして。
ナッツで有機栽培をしていたので、肥料を作る資材が環境にもいいという事で、トイレにも使って見たら臭いが無くなるし、水がきれいになるし、公共衛生という観点からの仕事を展開しています。
15,6年経てば採算の取れるいい仕事になると思います。
歩き続ければ大丈夫。

日本にアフリカから来てみると、完成度の高い国だと思うが、こちらから見るとアフリカはこれから行きたい未来だなという感じ。
日本の中に欠けている良さ、喜びがいっぱいあると思う。
一分、二分の単位ではなくて、一時間単位の様な時間 精密時計と日時計の様な時間。
リラックスした違った次元の自然の美があり、違った次元の時間の流れがあって、違った次元の喜び、楽しみがあるんだという事を、もう一つ心を開いて見えるのでは無いかと思う。
行ったり来たりの中から、狭い地球にいるので、地球のいろんなところのいろんな良さを体験、経験したいなあと思います。
面白いのは、ゼロから始める喜び、新しいところを開拓してゆくという感じ。
あと何時去るか、いい気持ちで去るかという事、そういうのを繰り返している。

マンデラ大統領が言った言葉
「自由への道は単なる政治的な民主化で終わることなく、万人が参画する人間中心の社会の建設を目指して継続する。
その過程での試行錯誤を通して社会全体のヒューマニティーを高めて行けばよい。
人は他人のために行動を起こした時こそ、本当の人間になれるのである。」
本当に尊敬しています。  こうなりたいと思っています。










2014年12月16日火曜日

佐藤芳之(食品会社社長)       ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)

佐藤芳之(食品会社社長)          ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)
宮城県出身 75歳 10代のころからアフリカに興味を持ち、大学卒業後ガーナに留学、ケニアで日系企業に勤務した後、1974年にマカダミアナッツの生産、加工会社を起こしました。
ビジネスで社会に貢献したいと、考え、僅か数人で始めた会社、30年かけて従業員4000人、年商およそ30億円、世界第五位の規模まで成長させました。
ところが6年前自分の役割は果たしたと、会社をただ同然で社員に譲ります。
自身はルワンダで新たな事業を始めました。

1963年にアフリカに渡る。
高校時代にアフリカに興味を持つ。
独立を導いたリーダーの伝記を読んで、びびっときた。 
1957年にブラックアフリカとして始めて独立をしたガーナの初代大統領。(クワメ・エンクルマ
我々の手で統治する日が必ず来ると、着実に実行をして、現実にそれをやったと言う熱意に打たれた。
当時は暗黒大陸と言われているような状況であった。
ここならば自分らしいことができるのではないかという予感があった。

子供のころから海の向こうに何があるのだろうと、外へのあこがれがあった。
東京外国語大学に入る。 インド、パキスタン語をやった。 アラビア語はまだ、ペルシャ語
言語でもすこしづつ、近づいていった。
60年安保闘争にも参加する。 運動部だったので、いつも前に出て、警官隊と衝突して、蹴飛ばされたり、殴られたりして、痛い思いをしたし、安保は通るし、何も変わらなかった。
就職する気はなかったので、アフリカに行って勉強しようと、それから方向を決めようと思った。
アフリカを見たくて、行きたくてしょうがなかった。
ガーナ (エンクルマ大統領) に行く事になる。   嬉しくてしょうがなかった。
エンクルマ大統領とも会う事が出来た。  
今日は歴史的な入学式だと、遠い日本から一人の学生がやってきたと、私のことを言ってくれた。
眼がきらきらして、獲物を取って誇らしげなライオンの様な感じがした。 

ガーナは英国の植民地だった。  ココアが一番取れる国 農業国。 金が取れた。
ガーナは社会主義を選んだ。  
ゴールドコースト 奴隷の出港地 クリスチャンボルグという、海岸に面した城があり、奴隷が船積みされた、人間が商品として扱われた。
2年間留学後、ケニアに移って、ケニアで就職する。 ケニア東レに入る。 1966年 26歳の時。
工場の全般的な総務をやった。 
人間個人として、バックグラウンドを捨てて、付き合うんだと、その方が何も構えないでいいんです。
異国という考え方がなかった。 歩いて行ったらそこがたまたまアフリカだったという感じです。
東レとの契約が5年だったので、本社へとの話もあったが、完全フリーとなり、ナッツと出会う。
友人がアフリカ、ケニアの農務省の試験場の場長をしていて、机の上にマカダミアナッツがあり、食べてみたらおいしかった。
これをやってみようかなと、言ったらやってみたら、という事になり偶然にやることになる。
会社を設立して、ナッツを集めたり、苗木を植えたり、加工したり、工場を作ったりしたり、総合的に始める。
最初は7,8人 現地の人と共に始めた。
調査して、いい品質の木を選択して、いい苗木を作っていって、農家に苗木を売って、畑で生産する体制を作った。

7,8年経てば、お金になると説明したが、それが一番大変だった。
順調に植えつけをしてもらえるようになった。
ビックプランテーションが主流だったが、お金もなかったので、このようなかたちになった。
植民地的な経済の中、それを壊そうとするなら、その反対軸、個々の農民を育てて、個々の農民が自分の畑、自分の木を育てて、得た収入を自分の口座にお金が入ってくるような経済システム
、これは植民地から解放された後のアフリカの経済が自立するための基本的な事であろうと言うのは、大学で勉強していた時から、そういう考えがあったので、それを実施した。
他には選択肢はなかったと思う。  支配、統治に対して凄く反発する思いはあった。
戦前は軍部、権力的な政治体制の中で、我々は田舎の方で統治する様な立場でなかったし、戦後はアメリカの統治があったし、いつも疑問があって、これはアフリカの人達と一緒ではないかという共通感覚があった。
従来のシステムに疑問が出てくる、疑問が出てくると疑問を解こうとする。
疑問を解こうとする為には新しいやり方で、ものを始める、それが当たり前のこととして、行動する事だと思っています。

無い無い尽くしで始めたので、皆でやろうと言う連帯感があった。 
日々の些細な積み重ねで、3~5年ぐらいやっているうちに、やっていこうという連帯感が育っていった。
ビジョンだけでは付いてこない、給料をきちっと給料日には払う。
当時、まわりでは給料の遅滞、延滞が当たり前だった。
私が儲けようとはしないで、必要で生活できればいいと思っていた。
仕事が終わった時に、皆が嬉しそうに帰る姿を見、その為にバスを買ってやったりして、バスに乗っているのはあの会社の人間かと、社会的信用が出来、つけでも買える様になった。
誇りの様なものを社員が持ち始めて、表通りを胸を張って歩く事ができ、物凄くうれしいと言われた時に、一番嬉しかった。
医療費、学費の援助、親が亡くなった時の棺桶作ったり、葬式の費用を一部負担したり、援助をした。

会社にクリニックを作って医療相談しているが、一番多いのがストレスですね。
生活上、生活が苦しくて抱えているストレスが本当に大きい。
なんで共感する、なんで共有するかというと、判ってあげると言う事。
判ってくれてるという感覚を持ってくれた時に、共有感覚が生まれるのではないか。
それで生産性、利益があがったら、言う事ないですね。
あくまでも現地での成果、結果が跳ね返ってくる、皆で話したいい方法で経営ができるのだと言う、そういう参加意識が会社では一番大事だと思うし、これからもそういう風にやってゆく、













2014年12月8日月曜日

小澤俊夫(筑波大学名誉教授)     ・ ”昔話”と我が人生

小澤俊夫(筑波大学名誉教授)   ・”昔話”と我が人生
1930年昭和5年生まれ 84歳 昔話を正しく理解してもらおうと、精力的に活動されています。
大学でドイツ文学を専攻した小沢さんは大学2年生の時にグリム童話に出会い、東北大学大学院で研究を深めました。
以来昔話に魅せられ、日本全国の昔話の収集に取り組み、26卷に及ぶ日本昔話通巻を出版されました。
昔話の研究を進めてゆくうちに、小沢さんは昔話は国や民族の優れた共有財産であることを、確信しこの財産を次の世代に正しく伝えることを決意しました。
今から22年前ですが、筑波大学教授、在職中に昔話大学と言う講座を立ち上げ、全国を駆け巡って、昔話を語り伝える人や研究者を育てる事に力を注ぎました。
これまで2万人余りの方々がこの昔話大学を受講されました。

昔話は文法がある。 決まりがある。登場人物はいつも最初効率的に一人で登場する。
腕を切っても血は流れないとか、水の中に行くけどおぼれないとか、抽象的文学なんです。
子供に昔話を語るのに、いいテキストを選んでくれと言っている、耳で聞ける文章であること。
耳で聞いて分かりやすいことが大事で、文章が単純明解でなければいけない。
昔話大学では具体的な例で解説してゆく。
22年間に84か所でやってきている。 2万人余り。
桃太郎、花咲爺さん、白雪姫、シンデレラ
桃太郎は日本人にとってとても大事な話で、柳田國男先生などは、桃は川上から流れてくるが、川上は山の上で、そこには神様がいました。

桃太郎は神の子なんだと、仮説をたてて、神の子が鬼が島征伐という英雄的事業を成し遂げた。
日本昔話の一番根本だという風におっしゃった。
古い歴史にも関係するし、国際的な意味でもあります。
浦島太郎 海の底に行って竜宮であうが、日本だけでなくアジアの国でもある。
戻ってきたら3年だと思ったが300年経っていたというが、ヨーロッパにもある。
時間差の話。 あの世と人間の世の時間の流れに差があると言う不思議な物語。
昔話は国際性がある。
白鳥の湖と羽衣伝説は同じ (ドイツ、中国、日本)
人類の古い姿、宇宙観、自然観が込められている。
昔の人たちは自然の中で恵みも受けたし、恐れも受けた。
自然の中に不思議さを感じて、いろんなイメージを作って、物語を作って行った。

どこの国の昔話でもシンプルでクリアーな文体をもっている。
音楽と似ているところがある。
メロディーは必ず2度以上出てくる、3度目は似ているが長くなる。
それと同じことが昔話。 
白雪姫は3回殺されている。(1回目は紐、2回目は毒の櫛、3回目は毒の林檎)
今は林檎だけになってしまったて、1回になってしまった。(リズムが無くなってしまった)

3段跳び 2段跳び、4段跳びはない 3は人間が一番乗りやすい、人間の基本的快感がある。
伝えてゆくのが人間の生の声と言うのが大事。
お爺さん、お婆さんから話を聞いて、孫はお爺さんお婆さんから愛されていることを感じる、これが大事。
生の声で語るのが子供の成長にとって大事だと言っています。
昔話は伝承文芸である。 母国語の一つであります。
昔話は日本人が持っている宇宙観、自然観、子供観とか、と言うのをいつの間にか聞いている。
あまりにも便利になって、スイッチを入れれば、全部聞けちゃうみたいな、そうではなくて、昔通りの生の声で身近な大人が声で聞かしてやる、それをやってくださいと言っている。 
皆さんが共有すると、共同体の財産です。
それを失う事はとても危険だと思います。
日本人の独特の自然観、子供観が込められているわけですから、とても大事なことを言っている。

三年寝太郎」 長者を騙して、長者の娘の婿に成る話。
昔の人は道徳をあまり気していなかった、それよりも強く生きろ、このメッセージの方が強い。
(悪)知恵、生きる知恵。  
若者は一生寝ているわけではない、若者は途中で起きる、起きたらちゃんとやる。
一旦起きてしまうと、寝ていたことを忘れてしまう。
昔話は皆が個人が、忘れてしまったことを、日本人全体の共有の記憶として覚えていてくれる、だから大事、共有の財産。  民族遺産です。
語るだけなので、貴重だが眼に見えない、それがどんなに大事か、世間では気がつかない。
生き方を教えてくれる。 人生は綺麗事ではない。
人類の先輩が一生懸命自然の中で生きてきたのが、いろんな形で現れているので、だから壊すなよと言っている。
だから昔のままで伝えてほしい、伝承の中途にいるのだから。

昔話に出会ったのは、大学二年、グリム童話。(ドイツ語の教科書として使った)
グリム童話はグリムが集めた昔話だった。
「太鼓叩き」 日本の羽衣に相当する内容。
「コルベスさま」 猿蟹合戦に相当する内容。
ドイツと日本で同じような話があることに、非常に興味を持った。
昔話はどっかに源があって、其れが世界中に広がっている。
ドイツの児童文学者、マックス・リュティさんと出会ったことが、大きかった。
大学院に入ったころに、偶然にマックス・リュティさんの本を見つけたが、それに衝撃を受けた。
昔話に文法がある、極端に語るのが好きである、写実的には語らない、同じ事が出てきたら同じ言葉で語る、3回の繰り返し(これはリズムである)

日本語に翻訳しなくてはと思い、全く知らなかったが、先生に手紙を出した。
2カ月後に返事が来て、出版、翻訳許可が出て、本当に嬉しかった。
私の一生の先生です。
日本版の序文を依頼して、「私がやったのはヨーロッパの事である。 日本のことについては日本がやる番だ」と書いてあり、それではいっちょやるかと思い、それ以来一生やっているわけです。
資料だけで28卷あるが、15年かけてやって、昔話を分析したら、日本の昔話はマックス・リュティの言ったことがあてはまると確信した。

世界の民話というシリーズを15年掛けてやったが、その時に世界中のメルヘンを翻訳、解説も書いたが、中国、シベリア、インドネシア、パプアニューギニアもそうだし、皆一緒です、不思議ですね。
人の話をお耳で聞ける子供は必ずいろんな進歩をする。
学力も付く。 
聞いて理解すると言う事は生きてゆく上の基本の力、それをこどもたちに体験させる訳です。
学校でも、会社でもおなじ、人の話を聞けなかったら、駄目、集中力。
もう一歩進めば、自分の考えていることをきちんと相手に伝える。
聞いて場面を想像する。 言葉から絵に変換する事が必要で、其れが養われる、想像力。

大人は子供になるべくなまの声で話を聞かせると言う事をやってほしいし、物語、話でもなくてもいいから、ちゃんと子供と話をすることだと思う。
3,4年になり、子供が読んでくれたり、話してくれたら、あいづちをうってしっかり聞いてもらいたい。
道徳と言うよりは、冒険して恐いのを突破してゆく主人公の姿、そっちの方が大事だと思う。
各地のそれぞれその土地の言葉で昔話を話して発表する、そういったことをやってゆく。
弟さんは小澤征爾、兄・克己は亡くなってしまったが彫刻家、一番下の弟・幹雄は俳優、エッセーを書いたりしている。







2014年12月7日日曜日

保坂正康(作家)      ・ 昭和史を味わう (第10回)日本とアメリカの戦争への道

保坂正康(作家)                 昭和史を味わう  (第10回)
日本とアメリカの戦争への道
昭和12年前後、日中戦争~太平洋戦争開戦
日本とアメリカの関係 日露戦争当時は米国は日本に対して分の良い様な講和を纏めてくれた。
日本がアジアに進出するようになって、フィリピンを支配していた米国は神経を使う様になる。
ワシントン会議で日本がイギリスと同盟を結んでいるのを切らせ、包括的な中で日本を取り込んでいこうとする。
アメリカに対して軍事膨張政策を歯止めするのではないかという警戒心が強まってくる。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行、「対日10年」グルー日本大使著 2冊を読むといろんな形が判る。
「日米闘うべきか」 日本の支配層にいる人達(14人)が書いた論文で、みんなアメリカと戦争をするのは得策ではないと言っている。
日米戦争は日本にとっては国家存亡の戦いであるが、米国にとっては商工業発展の遅速を決定する戦いにすぎない。 
国のレベルの違いの正確な分析をしている。

グルーの奥さんはペリーの兄さんのひ孫にあたる。 日本との縁を意識した。
天皇の側近と可なり深く付き合う。 日本と言う国を理解する。
天皇周辺のリベラルな人達、もうひとつはなかなかいい分を変えない頑強な軍部であると、書いている。
天皇周辺は親米的で、軍人、右翼などはなかなか言う事を聞かない。
グルーは、行きつくところは、日本の国民自身が軍の言い分に魅かれてくると分析をする。
グルーは昭和7年~17年までの日本が変化してゆくのを、アメリカをどう見るか判っていた。
知識人はアメリカとは絶対戦争はしませんと、軍はわがままを言っているが、私たちは何とか抑えますと言ったりしているが、段々とその声が弱くなっている、と言う様な言い方をしている。

昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本はこの辺から中国との戦争の深みにはまってゆく。
蒋介石政府を米国、英国は支援する。  戦争が長期化する。
反英米的な感情が沸き起こる、その分ドイツ、イタリアに近づく。(枢軸体制が出来上がる)
昭和14年9月1日には第二次世界大戦が勃発、ドイツがポーランドに侵攻する。
イギリス、フランスなどが参戦する。 
米国も英国フランスに対する支援の姿勢を持っているのでドイツに対して戦う姿勢は持っている。
日本はドイツと三国同盟で一体化しているので、日本と米国との基本的立場は違ってしまった。
米国と敵対感情が生まれてくる。
米国はナチスドイツを英国なんかを支援して押さえようとするが、日本はかなり不満を持ち、関係が悪化してゆく。

昭和15年9月27日日独伊、三国同盟が結ばれる。
完全に日本、ドイツ、イタリアが同盟を結んで、米、英と敵対すると言う事を宣言した形になる。
枢軸国対連合国の図式がはっきりしてくる。
ルーズベルト大統領はどういう形で参戦するか、考えていた。
昭和16年 日米外交交渉  最初政府レベルで始めるのではなくて、宣教師2人が来て、大蔵省のOBで始まる。
日米交渉はお互いに計算している様な関係の交渉だった。

米国は三国同盟を離脱せよ、中国からの撤兵、満州国を承認しない。
基本的な立場が違う。
昭和16年6月22日 欧州戦線で独ソ戦が始まる。
日本の軍部はドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにしようという北進論、南にでて植民地軍は弱いのでそこに入って行って資源を確保しようと、南部仏印に兵を送る。
米国は何も対抗処置を取らないだろうと、甘く考えていた。
ところが米国は直ぐに対抗措置を取った。
石油の全面禁輸、米国の国内の対日資産の凍結、すずなどの資源素材の日本への輸出禁止。
日本は目算違いだった。

日本は段々話がつかなくなる。
近衛内閣が米国との交渉が立ちゆかなくなり、軍は石油を止められて戦争以外に道は無いという形になってゆく。
昭和16年11月26日ハルノートをアメリカが提示してくる。
アメリカが突きつけた最後通牒だと言われているが、必ずしもそうではないと今になって見ると言える面も確かにある。
アメリカも、もう一度原則的に、太平洋にアメリカに分け隔てない政策をやろうと、日本を三国同盟から離脱せよと、南部仏印から撤退せよと、条件が今までと変わらない条件を示してくる。
日本の軍は何のための交渉だったんだと、交渉を打ち切ると言う事で、軍事が前面にでてくる。

日本の駐米大使野村吉三郎が国務長官ハルとは日常的に交渉している。
野村吉三郎は昭和16年2月11日 ワシントンに着任した。
日本の外務省と野村のやり取りの暗号電報は実は見事に解読されていた。
ハル長官が野村と会う時には、どんな指令を持ってくるか、どういうことを言ってくるかを知っていた。
回顧録にハルは知らないふりの演技をするに困ったと記している。
情報戦でも日本は全く太刀打ちできない状況であった。

朝河 貫一 歴史学者 早稲田大学を卒業後、ダートマス大学、イェール大学に留学する。
大学ではトップで出て、教授になる。
アメリカに住みながら、日本はこういう考えでいるんだと、できるだけ多くの人に説得する。
日本にいる友人たちに、日本の政策はどうしてこういう風に曲がってゆくんだと手紙などで送っている。(朝河 貫一書簡集)
日本の社会はアメリカの社会を知らな過ぎると、どれほどアメリカ人はヒットラーを嫌っているか、ナチスは民主主義にとっては敵対組織なんだと、アメリカは了解している、それなのにどうして日本は手を結ぶのかと、出来ればそれを切ってほしいと言う様な事を切々と訴えている。
イェール大学の友の一人の鳩山一郎にも手紙で訴えている。

昭和16年4月 食料事情も窮屈になってゆく。 6大都市で米穀配給通帳制、外食券制 実施。
5月は肉無し日実施。 10月ガスの使用制限 ガソリンの使用全面禁止。
戦費を捻出するために国民生活が犠牲になってゆく。
考えを改めるべきと議会で質問している。(反軍演説)斎藤隆夫 
昭和16年11月17日 第77回帝国議会 東条首相の施政方針演説 戦争突入が決定的になる。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃が始まる。
東京からの海外向け放送。「西の風 晴」との繰り返しの暗号放送がある。
8日 午前4時に暗号放送が放送される。 午前7時臨時ニュースで戦争突入について放送。
東の風雨=アメリカ  北の風曇り=ソ連  西の風晴=イギリス 
「西の風 晴」→イギリス関係、日米関係も戦争状態になるから、資料及び暗号機は燃やしなさいと言う命令をだした。

「日米闘うべきか」昭和7年4月発行の本の内容の冷静さが薄れていって、主観的願望だけで物を見てゆく、其れを客観的事実にすり替えてゆく、そういった軽率さがあったと思う。






 









2014年12月4日木曜日

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)     ・鎮魂の琵琶の音を現代に生かす

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)      鎮魂の琵琶の音を現代に生かす
北原さんは1983年 九州の佐賀県佐賀市に生まれました。
大学に入って琵琶を聞き、その音色に魅せられて、演奏活動を始めました。
卒業後、演奏家として独立、いまでは全国各地を回って、お寺、神社、ホールなどで演奏会を開いています。
古典の曲にとどまらず、新しい曲も創作し、伝統芸能琵琶を過去と現代、未来をつなぐ鎮魂の音の世界として根付かせようとしています。

先月、今月にかけて北海道お寺ツアーを展開していました。
その後関西、ようやく佐賀の地に戻って、小学校などで琵琶の演奏をやっています。
1300年以上前、当時、仏教と共に日本の奈良時代に、ペルシャ、イランを起源としてシルクロードを辿って入ってきた。
いまでは宮内庁で聞ける様な楽琵琶という流れで入ってきた。
仏教を取り入れる以前の神、取り入れたのちの仏様に、眼に見えないものに奏でる、捧げる音楽としてお寺で最初演奏されていたようです。
言葉、セリフ、語りが伴わず、器楽、奏でるのみ、お琴だったり、今でいう和のオーケストラ、雅楽の中の楽琵琶が存在していて、其れから時代を経て語りを伴った人が現れて、其れが琵琶法師。
源平合戦の様子をほうぼうで、語ってその時から語りが伴ったと言われて、平家琵琶、平曲が楽琵琶を改良して生まれたもの。
平家琵琶は京都とか奈良、都を中心に広がったが、その後九州で平家琵琶はさらに改良されて生まれた、其れが三つ目の琵琶、盲僧琵琶が広がった。

九州の盲僧達に渡った時に、僧侶が手にしたことによって、琵琶の役目が変わった。
お経の伴走楽器として、五穀豊穣等の祈願する時に琵琶を奏でてきたという歴史があって、薩摩盲僧から薩摩琵琶になったり、筑前盲僧から筑前琵琶になったと言うのが、大まかな琵琶の歴史です。
薩摩琵琶は薩摩盲僧から薩摩の武士に渡った時に、豪快、大胆、勇壮な弾き方が出た。
戦の時に、士気を高めるために、琵琶を搔き鳴らして、精神を高揚させていた。

出会いは2001年4月に大学に入った時に、古典芸能の演奏会があって、能、狂言、三味線、琴、琵琶があって、他の楽器とは違う、空間が変わった様な感じを抱いた。
何故か、帰り際に琵琶が呼んでいる様な感覚を得て、最初に琵琶を抱いて奏でさせてもらった。
一人で琵琶を演奏された人と一緒に琵琶サークルをたちあげた。
東京では観賞する方が多かったが、舞踏などの中で、空間と人間、空間と音、そうした関係にすごく興味を持った。
そこで琵琶を真剣にお稽古すると言うよりも、この琵琶で何が出来るだろうと思って、実験的なものをやって行こうと思って、早稲田大学も琵琶サークルの演奏会を開いて、近代が生んだもの、照明を無くして、演奏会をやったりした。
田中之雄先生に基礎から教えてもらおうと、門戸を改めて叩いて、古典をきちっと学ぼうと考えた。
琵琶の基本はきちっとした姿勢であり、正面を見て打弦をするのに、1年以上かかったのではないかと思う。

卒業する直前、2005年にノーベル平和賞を受賞されたワンガリ・マータイさんのまえでの演奏だった。
木が奏でる演奏に大変感動されていました。
琵琶の道を一生やっていこうと圧倒されたのが、大学4年 地元の老人ホームで演奏しようと思って、演奏した時に、涙を流して聞いてくださった人の言葉に、一生この琵琶と付き合って行こうと、その時に決意しました。
就職も断って、2005年3月に佐賀の地に戻ってきました。
熊本全国邦楽コンクールに出場することになり、古典曲の中で西郷隆盛しかないと思い、自分は西郷隆盛に成りきって演奏したら、、自分ではない様な感覚があって、終わったときに、いい賞を頂いて、古典曲にゆかりのある土地で、琵琶の音色をその土地に返して行こうと、その土地にまつわる先人達を物語ることで、供養ができれば、鎮魂ができれば、全国鎮魂供養ツアーと言う言葉がワーと湧いてきた。

西郷隆盛を鹿児島県で演奏することを皮きりに、2007年、白虎隊を会津若松の白虎隊の墓前で演奏し、翌年、義経、平泉で、翌年善光寺で川中島 翌年壬生寺で新撰組、自分自身沢山の種をまいてきました。
かつての琵琶法師の役目として、亡くなった方を鎮魂する、供養する、地鎮祭で土地をおさめる、そうしたときに琵琶を演奏してきたと言う歴史があると言う事が、私のどこかに在ったんでしょうね。
それでその発想が生まれたのだと思います。
琵琶の音色を聞いて下さってる方の背中の後ろにいる、先人たちに向けて演奏します、だから皆さんその思いをくみ取っていただくのと、聞いた後心がすがすがしく、清らかな気持ちになる様願いながら演奏します、と言葉を掛けて演奏しますが、そういう気持ちになったよと、声を掛けてくださいます。

2011年3月11日 かつて災害時に琵琶法師たちは祈りを込めて琵琶を演奏してきた歴史があると言う事がふつふつと湧いてきて、風に向かって、大地に向かって、山に向かって、兎に角一音でもいいから琵琶を奏でなさいと、祖母から言われた。
稽古場から外に出て、3月12日 琵琶の音色を一音ずつつむぎ始めた。
どうかこの国が琵琶の音色で収まります様に弾きなさいと、祖母が言ったので演奏していたら私の口からついて出たものが、私が幼少の頃仏壇の前で祖父母が毎朝、毎晩唱えていた般若心経だったんです。
琵琶とお経を組み合わせて私は琵琶教を作った。(般若心経と共に演奏する)
まさにこれが供養、鎮魂ですねと、声を掛けてくださいました。
この琵琶教は自然に生まれた様な感覚があります。

私はいろんなお寺に行きますが、宗派を越えて行きます。
浄土宗との御縁があった時には、2011年に宗祖、法然 800年大遠忌の際に法然上人の7曲奉納演奏したり、道元さんの曲を書いてくださいとか、お釈迦様の曲を書いてくださいとの話も来ているので、これから創作をしてゆくところです。

声の稽古、東京にいるころは、思い通りに声をだせなかった。(住環境の問題)
佐賀では、自然が、田んぼの中で、風が、土が私の声を作ってくれたのかと思います。
琵琶の基本は語り。 声に出すと言う事で心は安定してくる。
「声はこれ念なり 念は即ちこれ声なり 声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり 声と言うものは今の心を表す」  法然上人の言葉

祖父母が大地の自然の神々に手を合わせて、仏壇の御先祖様に手を合わせる。
習慣として背中で語ってくれていた様に思う。
仏壇の前に座った時、「おはようございます」 「今日は有難うございます」声を出して云いなさいと、幼少のころから祖父母から言われていた。
祖父母が言っていたことと、法然上人が言っていたことが、重なると私の中では眼から鱗のことでした。
「念ずれば花開く」 念と言う字も今の心は声であるという事になるると、声を出して思いを届けた方が、より相手の内側に入り込めるかもしれない。
琵琶の音と書いて私は声と読むんですね、声として届けたいと言う想いはある。

私は国と国をつなぐ外交官を夢見ていたが、今は眼に見える世界と眼に見えない世界、この世とあの世、生きているものと亡くなったものなどをつなぐ役、外交をしていると言う様な気持でいる。
「川中島」を善光寺で演奏したときに、上杉謙信と武田信玄が本当に聞いてくれていると言う様な深い歴史があったと言う感動と、感激があった。
是非古典に触れ得ることによって、先人たちへの回路、通路を開いてくれるのが古典だと言いたい。

琵琶の音の振動を「さわり」と言うが、琵琶と三味線にしかない特徴。
西洋人は「さわり」を耳触りと言うが、そのさわり、自然の雑音迄も楽器に取り込む、全てをうけ入れると言うのが日本人、仏教もそうです。
いろんな宗派があってもいいが、受け入れてゆく。
ペルシャを起源として、東に渡ったのが琵琶、西に渡ったのが、ギター、マンドリン。
ギターとかには「さわり」はない。 綺麗な、しっかりした、はっきりした音を奏でる。
「さわり」を取り除いた。

琵琶少年、少女を作りたい。
琵琶は田中先生、そのうえには鶴田錦史先生がいて その上には多くの師匠達がいるので、琵琶の奏法、語り方などは北原香菜子で止めてはいけないので、次世代に渡してゆくと言うのを夢として持っている。
琵琶とアニメーションを組み合わせて、ビワニメーションと言う事を考えて、発信してゆきたいと考えている。
ジャンルの越境をやって化学反応を楽しみたいと言う事はあります。