2014年12月16日火曜日

佐藤芳之(食品会社社長)       ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)

佐藤芳之(食品会社社長)          ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)
宮城県出身 75歳 10代のころからアフリカに興味を持ち、大学卒業後ガーナに留学、ケニアで日系企業に勤務した後、1974年にマカダミアナッツの生産、加工会社を起こしました。
ビジネスで社会に貢献したいと、考え、僅か数人で始めた会社、30年かけて従業員4000人、年商およそ30億円、世界第五位の規模まで成長させました。
ところが6年前自分の役割は果たしたと、会社をただ同然で社員に譲ります。
自身はルワンダで新たな事業を始めました。

1963年にアフリカに渡る。
高校時代にアフリカに興味を持つ。
独立を導いたリーダーの伝記を読んで、びびっときた。 
1957年にブラックアフリカとして始めて独立をしたガーナの初代大統領。(クワメ・エンクルマ
我々の手で統治する日が必ず来ると、着実に実行をして、現実にそれをやったと言う熱意に打たれた。
当時は暗黒大陸と言われているような状況であった。
ここならば自分らしいことができるのではないかという予感があった。

子供のころから海の向こうに何があるのだろうと、外へのあこがれがあった。
東京外国語大学に入る。 インド、パキスタン語をやった。 アラビア語はまだ、ペルシャ語
言語でもすこしづつ、近づいていった。
60年安保闘争にも参加する。 運動部だったので、いつも前に出て、警官隊と衝突して、蹴飛ばされたり、殴られたりして、痛い思いをしたし、安保は通るし、何も変わらなかった。
就職する気はなかったので、アフリカに行って勉強しようと、それから方向を決めようと思った。
アフリカを見たくて、行きたくてしょうがなかった。
ガーナ (エンクルマ大統領) に行く事になる。   嬉しくてしょうがなかった。
エンクルマ大統領とも会う事が出来た。  
今日は歴史的な入学式だと、遠い日本から一人の学生がやってきたと、私のことを言ってくれた。
眼がきらきらして、獲物を取って誇らしげなライオンの様な感じがした。 

ガーナは英国の植民地だった。  ココアが一番取れる国 農業国。 金が取れた。
ガーナは社会主義を選んだ。  
ゴールドコースト 奴隷の出港地 クリスチャンボルグという、海岸に面した城があり、奴隷が船積みされた、人間が商品として扱われた。
2年間留学後、ケニアに移って、ケニアで就職する。 ケニア東レに入る。 1966年 26歳の時。
工場の全般的な総務をやった。 
人間個人として、バックグラウンドを捨てて、付き合うんだと、その方が何も構えないでいいんです。
異国という考え方がなかった。 歩いて行ったらそこがたまたまアフリカだったという感じです。
東レとの契約が5年だったので、本社へとの話もあったが、完全フリーとなり、ナッツと出会う。
友人がアフリカ、ケニアの農務省の試験場の場長をしていて、机の上にマカダミアナッツがあり、食べてみたらおいしかった。
これをやってみようかなと、言ったらやってみたら、という事になり偶然にやることになる。
会社を設立して、ナッツを集めたり、苗木を植えたり、加工したり、工場を作ったりしたり、総合的に始める。
最初は7,8人 現地の人と共に始めた。
調査して、いい品質の木を選択して、いい苗木を作っていって、農家に苗木を売って、畑で生産する体制を作った。

7,8年経てば、お金になると説明したが、それが一番大変だった。
順調に植えつけをしてもらえるようになった。
ビックプランテーションが主流だったが、お金もなかったので、このようなかたちになった。
植民地的な経済の中、それを壊そうとするなら、その反対軸、個々の農民を育てて、個々の農民が自分の畑、自分の木を育てて、得た収入を自分の口座にお金が入ってくるような経済システム
、これは植民地から解放された後のアフリカの経済が自立するための基本的な事であろうと言うのは、大学で勉強していた時から、そういう考えがあったので、それを実施した。
他には選択肢はなかったと思う。  支配、統治に対して凄く反発する思いはあった。
戦前は軍部、権力的な政治体制の中で、我々は田舎の方で統治する様な立場でなかったし、戦後はアメリカの統治があったし、いつも疑問があって、これはアフリカの人達と一緒ではないかという共通感覚があった。
従来のシステムに疑問が出てくる、疑問が出てくると疑問を解こうとする。
疑問を解こうとする為には新しいやり方で、ものを始める、それが当たり前のこととして、行動する事だと思っています。

無い無い尽くしで始めたので、皆でやろうと言う連帯感があった。 
日々の些細な積み重ねで、3~5年ぐらいやっているうちに、やっていこうという連帯感が育っていった。
ビジョンだけでは付いてこない、給料をきちっと給料日には払う。
当時、まわりでは給料の遅滞、延滞が当たり前だった。
私が儲けようとはしないで、必要で生活できればいいと思っていた。
仕事が終わった時に、皆が嬉しそうに帰る姿を見、その為にバスを買ってやったりして、バスに乗っているのはあの会社の人間かと、社会的信用が出来、つけでも買える様になった。
誇りの様なものを社員が持ち始めて、表通りを胸を張って歩く事ができ、物凄くうれしいと言われた時に、一番嬉しかった。
医療費、学費の援助、親が亡くなった時の棺桶作ったり、葬式の費用を一部負担したり、援助をした。

会社にクリニックを作って医療相談しているが、一番多いのがストレスですね。
生活上、生活が苦しくて抱えているストレスが本当に大きい。
なんで共感する、なんで共有するかというと、判ってあげると言う事。
判ってくれてるという感覚を持ってくれた時に、共有感覚が生まれるのではないか。
それで生産性、利益があがったら、言う事ないですね。
あくまでも現地での成果、結果が跳ね返ってくる、皆で話したいい方法で経営ができるのだと言う、そういう参加意識が会社では一番大事だと思うし、これからもそういう風にやってゆく、