2020年6月30日火曜日

2020年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】「落語にみる絶望名言」

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】「落語にみる絶望名言」
「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」 落語「万金丹」
頭木:病気になって入院してから落語を聞き始めて、落語は大好きです。
落語は実にすごく絶望的です。
笑いの要素を取ったらお話自体は相当絶望的です。
借金まみれとか、お酒のせいで人生どん底とか、ギャンブルがやめられなくて破滅するとか、恋愛でだまされてひどい目に合うとか、きついものが多いです。
絶望しているときには落語を聞くのはピッタリなんです。
絶望と笑いについては後でお話してみたいと思います。

「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」 
五代目柳屋小さんの「万金丹」で初めて聞きました。
普通はよくないことをすると地獄に落ちるよと戒めますが、逆に何でもしろとそして地獄に落ちても鬼に負けるなと言っているんです。
もともとは一休さんと仲が良かった蜷川新右衛門というお坊さんの歌だったんです。
本来の意味は嫌々戒律を守ったりしても本当の悟りはならないよ、ということなんですね。

「おっかあ、死のうか」  落語「芝浜」
三代目桂三木助の「芝浜」の言葉
「芝浜「」は腕はいいがお酒が好きで働かずにいるお魚屋さんがお金がずっしりした財布を拾う。
友達を呼んで大酒盛りをしてぐうぐう寝てしまう。
女房が起こして、財布を拾ったことなどすべて夢だったと、酒盛りをしたことだけは本当だったと話す。
借金になってしまって大変だと女房が言う。
愕然として亭主が言うのはこの言葉で「おっかあ、死のうか」という。
女房はあんたがちゃんと働けば何とでもなるんだからというと、心を入れ替えて酒もやめて一生懸命働くようになる。

古典落語みたいに何代にもわたって時間をかけて大勢が工夫を重ねて作るものというのはそうしない限り到達できないものがありますよね。
大金を拾ったと思ったら、そうではなくて借金を作ってしまったという大変な落差がここにはあると思います。
人間はこういう落差に弱いのではないかと思います。
精神科医のフランクルがアウシュビッツ収容所に入れらた時に、クリスマスには解放されるという噂が広がったが、クリスマスが来ても解放されなかった。
そうするとバタバタ亡くなる人が出てきてしまった。
一旦希望を抱いてそれを失うことはとってもつらいことです。
自殺で気を付けなくてはいけないことの一つは落差だと思っています。

「おめえなにしに来たの家へ」「お前さんが別れたいというからあたしが」「誰がですか」「あたしがですか 冗談いっちゃあいけませんよ、あの人と別れるぐらいだったら死んだほうがいいんですよ」 落語 「厩火事」
古今亭志ん朝の「厩火事」のやりとり
おさきさんという女性が自分の亭主があまりひどいから別れたいと、仲人のところに言いに行く。
仲人は確かにあの男はよくないと別れたほうがいいと賛成する。
おさきさんが逆に亭主をかばいだすので、仲人は「おめえなにしに来たの家へ」ということになる。
こういう心理ということはありますよね。
矛盾した心情がよくわかるから笑うわけです。
おさきさんへの笑いがいい例だと思います、共感と愛情を込めた笑い。
絶望を笑っていても嫌な気もしないし一緒に笑えると思います。

*曲「雨に濡れても」 映画「明日に向かって撃て」主題歌から
主人公はかっこよくない、駄目さに魅力があり、落語とも共通する。
ラストに吃驚した。(有名なラストシーン)

起承転結、の「結」が難しいが、落語で落ちを言えばそこで終わりにすることができて、ほかにこんなものは無いです。
落語は起承転結にとらわれないから面白い。
落語は物語の凄い自由な可能性を秘めている。

「与太郎のおっかさんが死にましてねえ、後妻を貰ったんでえ、ところがこれが大変に与太郎を憎んで、ぶつ、つねる、蹴飛ばす、ひどい目に合わせる。
あいつは馬鹿なんですから、いくら言われてもなかなか覚えちゃいない、またやるてえとまたひどい目に合わせるという、とうとう攻めに攻めて攻め殺してしまった。
さすが馬鹿でも悔しかったと見えて毎晩化けて出るというんですがね。
ところが自分のうちに出ないで、近所隣りへ方々お化けになって出るってんで評判で、おい、俺んところに出たんよ、ゆうべ与太郎のやつが。
・・・おれんところには三日ばかりでやがったね。
よっぽど悔しいんだろうなあ、奴があんなに化けて出るところを見ると。
悔しかったらてめえの家に化けて出ればいいのに、なんだったこんなに近所方々化けて出るんだ。 ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」 落語 「猫怪談」から
六代目三遊亭圓生の「猫怪談」のまくらに出てくる小話

最初聞いたときには嫌いな話でしたが、最後の「ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」という言い方ひとつで全然違う話になる。
本当に馬鹿にした感じでいうか、しんみりした感じでいうか、しんみりした感じでいった場合には、そこには自分をいじめ殺した人というのは怖くて化けて出れないわけです。
それでほかのところに出ているんじゃないかと、ほかのところに出ても意味がないのにというニュアンスが出てきて、そうすると途端に深い話になってくる。
つい怖くない人に復讐してしまいがちで、とっても酷いことだしとっても悲しいことだけれども、そういう人間の悲しい心理までとらえている凄い落語だということに後に気づきました。
こういったことは実際ありえますよね。

「世の中は金と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」 落語「紺屋高尾」
五代目三遊亭圓楽の「紺屋高尾」に出てくる狂歌です。
これは笑えます。
太田南畝という江戸時代の狂歌の名人の作がもとになっていて、もともとは「世の中は酒と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」ですが、酒とお金が違っていますが、どっちもありだと思います。
人間の生きる辛さの根本のところを衝いている名言だと思います。

「貧乏をすれどこの家に風情あり。 質の流れに借金の山。」
「居候 三杯目にはそっと出し」 
大人にも語り聞かせてくれるのが落語だと思います。

しんみり切なく終わる落ちもあります。
桂米朝 「まめだ」
まめだ(豆のような子狸)
右三郎の実家が膏薬屋で、見慣れない子供が膏薬を買いに来るようになる。
お金を入れてある箱に毎日銀杏の葉が入っている。
ある時にまめだが体中に貝殻をくっつけて死んでいるのが見つかる。
まめだが怪我をして子供に化けて銀杏の葉っぱをお金に換えて,膏薬を買いに来ていたことを右三郎は悟る。
膏薬の塗り方が判らなくて貝殻のまま身体にくっつけてついに死んでしまったんだなあと判る。
右三郎は御寺の住職に供養を頼んで御寺の境内の隅にまめだをうずめてもらう。
あわれな話と人々が立ち去った後、親子の者とお寺のおっさんとがジーっとしばらくうずめたところを見ていますと、秋風がサーっと吹いてくる。
銀杏の落ち葉がハラハラと狸をうずめた上に集まってきます。
「おかあはん、見てみ、狸の仲間から仰山香典が届いたがな」 落語 「まめだ」









2020年6月26日金曜日

谷川俊太郎(詩人)工藤直子(詩人)    ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】(2018/6/1)

谷川俊太郎(詩人)       ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】(2018/6/1)詩人 工藤直子
お二人は30年余りの親交があります。
工藤:40歳の後半に初めて谷川さんとお会いしました。
今と変わらない気配でした。
20代のころから、今でもそうですが、やきもちを焼くということを知らなくて、女友達から総スカンを食っています。
やきもちをうんと焼いているのに押さえつけているのならば、どこかに障害が出るだろうと思っていましたが、50歳になっても元気でぴんぴんでした。
そうしたら谷川さんが「わからないよ、80歳になったら溜めておいたやきもちが噴出するかもしれない」といわれましたが。
谷川:でも噴出していないんですよ。
動物とか虫とか好きでしょ、だから人間的な特徴がなくて、虫とか魚とか、木とか草とかとおんなじ命なんだ、多分。
鳥とかもやきもちは焼かないし。

工藤:「ふわふわ」というタイトルの本を二人で出しました。
いろんなところで対談したのを纏めて、最近のもあります。
そこにやきもち問題がちょくちょく出てきています。
谷川:嫉妬を知らないなんて、かわいそう、人間失格だと思います。
工藤:今、段々私に似ている若い人が出てきているんだと思います。
男子も女子も一人がいい、別に人間でなくてもいいと、母親は困ってるかもしれない。
谷川:夜は12時ごろ寝て朝6時半ごろ起きていて、崩さないようにしています。
眠れないということはほとんどないです。
工藤:いつ起きていつ寝るかはその時次第です。
広告代理店に勤めていましたが、26歳でやめてそれ以後は糸の切れた凧のようにしています。
相棒がいたり子どもがいたりすると自分勝手ができないがしちゃうんです。
その代わり「ごめんなさい」と本気で謝ります。
「お母さんだって都合があるのよ」とは言わない、言い訳はしないです。
谷川:武士のような、いざとなったら説得する人ですね。
工藤:相棒の時も「だってこうじゃない」みたいなのはないです。

谷川:喧嘩なんかしたことがないの。?
工藤:一切ないです。
谷川:それが不思議でしょう。
工藤:惚れて一緒になったんだもの。
谷川:惚れて一緒になったんだから喧嘩するんでしょう。
そこがよく判らない。
工藤:子供に対しても自分は母親だという気持ちでは接することはできなかった。
身ごもったらお母さんという気持ちになったという人はたくさんいました。
佐野洋子さん(谷川さんの元の奥さん)とは仲が良くて、お互いがほぼ同じ時期に産んで、生まれた瞬間わーっと母性が出てきたと言っていました。
谷川:母親もそうでした。
僕は中絶されるはずの人間だったんですよ。
両親は仲が良すぎて子供はいらないと言っていましたが、祖父が孫が欲しいということでやっと僕は命拾いをしました。
12月生まれなのにあせもを作っているんですよ。

工藤:お腹のなかで動いたということがすごく奇妙な感覚でした。
その詩を書いています。
「逆さに眠る無遠慮な怪物」というタイトルで。
生まれる瞬間を楽しみにしていたら、友達っという感じ、こんな小さい友達、親友ができたと思いました。
なんで母親にならなかったんだろうと思いました。
子どもには丁寧語でしゃべっています。
谷川:僕も似ているところはあります。
初めて抱いた瞬間は強烈に絶対命を懸けても守るぞ、という気持ちが予期しなかったが沸いたんです。
少し大きくなったら(幼児)完全に友達になりました。
教えるとかしつけるとか意識がなかったから親としては失格だったかもしれないが、言葉で言わなくても子どもは行動で見ているから、それでいいんだというような事は思っていました。
悪いことをしたりしたら母親が叱っていました。

工藤:うちは駄々をこねなかった、駄々をこねても何もしてもらえないことがわかっていたから。
ビルの窓から乗り出して落ちようとしたら、それは命の問題だからやるけれど、命にかかわること以外は基本的に見守るという感じですね。
「あんたのためを思って言っているのよ」とは言わないようにしました。
「しつけとおこづかいは発作的にするからね」と言っていました。
つれあいはただの大きなおじさんみたいで、父親的なことは一切しなかった。
谷川:小さいうちから自立しているんですよ。
たまたま絵の才能があったからいいけれど、なにも才能がなかったらけっこ苦労すると思う。

詩「さようなら」  谷川俊太郎作
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

工藤:詩のなかの一行二行がものすごく心に沁みる場合が多いが、谷川さんのいっぱいある詩のなかで「さようなら」のなかの「ぼくもういかなきゃなんない」なんです。
「さようなら」というタイトルなのに詩のなかには「さようなら」という言葉が入ってないんです。
一行一行が少年のつぶやきがそっと並べられている感じがして、そこが好きですね。
谷川:夢遊病的、何の計画もなく書き始めたらできたんです。
僕は一人っ子だったので、母親は自分が死ぬよりも愛する者が死ぬのが怖かった人です。
母親に対する気持ちがそこにあるんじゃないかと思います。
工藤:詩というのは作者のものでもあるけれども、文字になって皆の前に現れたら、それを読む読者のものだよと谷川さんは繰り返しおっしゃるんです。
谷川:活字には詩はないんです。
誰かがそれを受け取ってくれて感動があって初めてそこに詩がたちあがる感じです。
工藤:詩の言葉は友達になれると思います。

*「おまじない」 作詞:工藤直子

谷川:気になる言葉は特にないです、嫌いな言葉はあります、いっぱいあります。
政治が変な方向に動いていて、そういう処で使われる言葉は全部嫌いです。
工藤:ふわふわとか、すりすりとか、ほろほろとか好きです。
 
*「しーん」 作詞:谷川俊太郎







2020年6月25日木曜日

田渕俊夫(日本美術院理事長・日本画家)  ・【私のアート交遊録】(初回:2017/11/23)

田渕俊夫(日本美術院理事長・日本画家)  ・【私のアート交遊録】(初回:2017/11/23)
1941年生まれ、長きにわたって日本画壇をけん引するともに、東京藝術大学へ後人の育成にも尽力されてきました。  現在東京藝術大学名誉教授で日本美術院の理事長です。
2019年には文化功労者に顕彰されています。  田渕さんは2017年5月、世界遺産の奈良薬師寺で再建された食堂の内部を飾る壁画を完成させました。   伽藍最大の建築物である食堂に収める本尊阿弥陀三尊浄土図と全長およそ50mの大壁画仏教伝来の道と薬師寺は5年がかりの大仕事でした。  田渕さんは文化の力で平和を希求した日本画家の故平山郁夫さんのお弟子さんです。  薬師寺には平山先生の「大唐西域壁画」があるだけに自分らしさを出そうと頑張らせていただいたと話しています。   混沌とする現代社会の中で、日本画界の巨匠は師の意志を引き継ぎ、仏画の世界にどんな思いを込めたのでしょうか。
   
仕事が終わったあとに突発性難聴になり片耳が聞こえなくなってしまいました。
めまいがして立てなくなり救急車を呼んで一週間入院しました。
薬師寺再建の食堂の中に収める本尊の阿弥陀三尊浄土図、全長50mの仏教伝来の道と薬師寺をおよそ5年の歳月をかけて制作。
仏画は描いたことはなかった。
最初から研究しないとけないということがそれが一番つらかったです。
阿弥陀様の顔はどんなものかわからなくて、京都、奈良のお寺に行ってみてもほとんど暗くて見えませんでした。
画集の中にある阿弥陀様を拡大してスケッチしてゆくことから、次々にやっていきました。
作家によって個性があるので二つとして同じものがありません。
自由に描いてもいいのではないかと思って、そうしたら楽になりました。

場所が南北16m、東西41m、高さが14mで凄い大きな空間でした。
食堂が何もない状態から見ていて、食堂が建ちだしたらびっくりするほど大きいです。
私のアトリエは横幅は10mぐらいありますが、高さは3m50cmしかなくてそこへ6m四方の阿弥陀三尊像を描くというので、搬入されたパネルのおおきさにはびっくりしました。(パネルは半分ずつでしかないが)
5年間かけていろんなものを描いて出来上がった絵と違う絵が食堂の中にあった。
アトリエは限られた空間で遠くからは見ることができない。
こんな絵を描いたのかと出来上がった絵が自分が描いた絵とは違って見えました。
伊東 豊雄先生の天井のデザインとライティングがすごくよくて、アトリエで描いていたものよりもきらきら光っていてありがたい環境に入れてもらったと思いました。

当時の山田 法胤館長さんから好きなように描いてくださいと言われて、何も一言も注文がありませんでした。
私は仏教のことは知らないし、修業はしていないので描いていいのかと思いました。
絵の修業はしているんだということで勘弁してもらおうと思いました。
私が絵を描くときに一番大事にしているのが「感動」です。
植物、自然、街並みなど多く描きましたが、怖いのが慣れなので新しいものに挑戦しています、仏画もその一つです。
墨絵にも挑戦しています、毎日が挑戦です。

大学に勤めていたので平山郁夫先生とヨーロッパに調査旅行したことがありました。
美術館、博物館の調査がほとんどですが、宿泊ホテルから見る朝、昼、晩の風景がみんな違って見えるわけです。
一日の風景の絵を想像力で一つの画面にしてみることがあります。
平山先生は君の先輩だと言って、私の絵がどう完成するかわかるからということで自由に描きなさいと言われて、先生からはほとんど教えてもらうということはなかったです。

「教習なし、研究あり」、これは横山大観の言葉です。
教わるんではなくて自分で考えて研究しろということで平山先生はそのようにしました。
東京芸大の先生方の描いた絵を見て研究していきました。
作品が出来上がったって講評をするときには厳しい評価をする時があります。
平山先生からは一つだけ言われたことがあります。
当時私は細い線で描いていましたが、先生から「田淵君、カミソリでは大きな木を切れないよ、大きな木を切ろうとしたらナタでないと駄目だよ」と言われました。

薬師寺縁起絵巻という課題を言われたことはあるが、縁起絵巻はそれほど面白いことはないので、中国の大雁塔(652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。)で仏教の経典を翻訳をしているので、そこから明日香までの道すがらを描きましょうということにしました。
全て現実の世界だけではなくて、道すがらを自分で想像して描きました。
平山先生は藤原京を描きましたが、平山先生の下図も残っていて平城京も描きたかったものと思い、大和三山を含んだ大きな藤原京と平城京の両方を弟子として描こうと思いました。

絵が出来上がったら平山先生の奥さんのところに画録が出来上がったら報告に行きました。
高齢にもかかわらず奥さんは6時間ぐらい車に乗って観に来てくださって嬉しかったです。

新作ではない個展をやろうということになって、鶴岡八幡宮縁起絵巻の三巻のうち一巻目はできているが、二巻はまだ描いていないので、全部で三巻描かなければいけない。
しかし最近は時間がかかってしまっています。
朝は4時ぐらいから夕方まで描いていると飽きないけれど流石に疲れてしまいます。
そうすると気分転換には室内用の自転車こぎを1時間ぐらいやります。
暮れも正月もなく毎日絵を描いています。














2020年6月24日水曜日

朝井まかて(作家)            ・江戸の庭師の物語(初回:2015/1/21)

朝井まかて(作家)            ・江戸の庭師の物語(初回:2015/1/21)
2014年に樋口一葉の師匠で歌人中島歌子を主人公に幕末の水戸藩の騒動を描いた『恋歌(れんか)』で直木賞を受賞されている直木賞作家です。
作家デビューは2008年、ただただ一冊書きたいと書き上げた作品が小説現代の長編新人賞奨励賞を受賞して45歳での作家デビューとなりました。
デビュー作は『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』、江戸時代の植物を扱う話が主人公になっています。
以後も「ちゃんちゃら」「すかたん」「先生のお庭番」と続けて江戸の庭師や青物商など花や緑にかかわる人が主人公の物語を数多く書かれています。
読めば読むほど植物について熟知されていることに感嘆してきっと花や緑が大好きな人に違いないと思いインタビューさせていただきました。

植物は子供のころから好きでしたし、植物にかかわる人にもあこがれを持ってきました。
植物の本を読むのも好きでした。
小学校の時には図書館も好きでしたが園芸部に入り、なす、へちま、きゅうりなどを作っていました。
近所のお百姓さんの姿に憧れていました。
玄関に白菜とか置かれていて、お返しなどをやったりしていい時代でした。
子どものころの季節感、においなどを体感して育ってきました。
青物問屋の「すかたん」に出てくる遊び人のような若旦那がいい加減な奴じゃないかとおもったら野菜に対して物凄く知っていて、問屋筋は儲けのことだけを考えているが、やっぱりいいものを食べてもらっておいしいねと言っていただくことが農家にとって喜びだというようなメッセージが込められています。
安いこと、早いことがいいという時代が長く続いて、私たちは何を手にしたかというと、この野菜は大丈夫かなと思うことが増え、お百姓さん、小さな店が立ち行かなくなって、江戸時代もこういうやりとりがあって、何かできないかなあと思ってそして始めてみた作品です。

侍の赴任先に奥さんも行くのかという疑問点があって、大阪の城代に仕えた人の日記に出会って、侍の赴任先には上司の考えによってはその侍の奥さんとか母親、偉い人だったらお妾さんを連れてきて赴任していたことが判って、ようやくかけるのかなあと思いました。
シーボルトのお抱えの青年の庭師の話も、長崎の出島の風景などもかなり研究書を調べました。
コマキとよばれた熊吉という少年ですが、彼は実在の人です。
シーボルトの日本人妻「お滝さん」にちなみ、あじさいが「おたくさ」という愛妾の名からなったということは有名な話ですが。
出島に行って歩くとすごく面白くて、どんどん想像が膨らんでいって書けるのではないかなあと思いました。
家と庭、薬草園、コマキとよばれた熊吉がこんな感じだということ、史実とフィクションを縦糸と横糸にして、編むようにしていきました。
シーボルト事件が起きて、それはなぜなんだろうと思いながら、熊吉と彼を愛してやまなかったお滝さんたちの視点で進んでいるうちに問いかけに対する何かが起きてくる。

熊吉は信じるということで歴史を観た。
裏切られたということもどこかでわかっているんではないかと、いろんな立場の人達が前面的に悪者だと思った人がいれば、シーボルトとのかかわりはあれは本当だったのではないかと思う人もいて、歴史の真実ってなんだろうと思うと、歴史ってのちの世から解釈したものなので、その時々の価値観が必ず入るわけです。
昨年井原西鶴を主人公にした小説を書きましたが、歌舞伎の若衆を出しましたが、その人は資料が残っていて、西鶴がすごくかわいがった人ですが、一番フィクションぽい人です。
本当にあったことは事実とすると、フィクションは嘘ということになるが、真実ということは何かということに思い当たります。
私たちは日々想像力を駆使して生きているわけで、それがある意味現実を作っていたりするわけで、想像力がなかったならこんなに生きてこれないわけです。
お滝さんは絵が残っていて楚々としているようだが、おちゃめなフィクションさを取り入れたかった。

植物は本当に好きで、庭つくりの上手な人にはあこがれていています。
有名な偉い人を主人公に出す場合でもまずは、どんな風に暮らしているんだろうということを考えます。
植物が好きであったのかなかったのかをチェックしてしまいます。
好奇心は子供並みかもしれません。
調べているうちにどんどんいろんなことに出会って、そこからまた先に行ってしまうとか、資料を読んでるときには楽しいんです。
知らないことを知ることは楽しいです。
書きながら私自身の主義主張はあまりなくて、主人公や登場人物を通して、問いかけることができていたり、この主人公成長したなあとか、この子こんな風に人のいうことをとらえられるようになったという表現があるんです。
「庭師の仕事は空仕事」、昔の本で読んだことの記憶があり、好きなフレーズです。
子どものころは高い木に登るのが好きでそこから見下ろした景色、心持ち、感情の体験は忘れないです。
暮らしもその人の人格であるし人生であろうと思います。
花、緑とともに生きている人は好きですし、そのことに対する尊敬を持って生きている人のことも好きです。

2020年6月21日日曜日

今日で3000回投稿

皆様へ
今日で3000回の投稿になりました。
感無量です。
その間にいろんなことがありました。
日本の国内で言わせれば、大きな災害だけでも
2011年 東日本大震災    2019年12月10日時点で、者は1万5899人
2013年 台風26号      死者は40名
2016年 熊本地震       死者は273 人(関連死含め)
2018年 北海道胆振東部地震  死者は42人
2019年9月 台風19号     死者は86名
2020年 新型コロナウイルス  2020年6月20日時点で、死者959名
が起きました。
これは私個人の思いですが、日本人が思いやりの気持ちを培ってきたのは、
日本という国は縄文時代の昔からいつもいろんな災害、火事、地震、台風、火山の噴火、天候不順、疫病などに遭遇して、お互いが助け合って生きてきたことに根本があるように思います。

個人的にも自分自身のこと、家族のこと、友人のこと、いろいろありました。
そのなかでなんとか投稿を続けて3000回を数えることができました。
それもなんとか健康でいられたからこそできたことだと思っております。
投稿していて思ったことは、「明日への言葉」に登場される人たちは
人知れず自分の信念のもとに自分のことはさておき、人に寄り添い影響を与え続ける姿勢にいつも感銘を受けてきました。
その感動は本当は直に放送を聞くことが一番皆さんの心に届くとは思うのですが、
感動は1/10になってしまうかもしれませんが、活字で残しておけば
後になってもいつでも見られるのではないかと思って愚直に続けてきました。
いつまで続けられるのかわかりませんが、とりあえず今後も一日一日
取り組んでいきたいと思っております。
最後に誤字、脱字とかいろいろ問題のある文章に対して、見るに見かねて自発的に文章のチェックをしてくださっているKさんに感謝しています。

小倉崇(NPO法人代表)          ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」(初回:2020/2/16)

小倉崇(NPO法人代表)       ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」(初回:2020/2/16)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/02/npo_16.htmlをご覧ください。

2020年6月17日水曜日

2020年6月15日月曜日

2020年6月10日水曜日

2020年6月6日土曜日

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(3)

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(3)~都市の品格は復活するか?」
「都市格」は最近使われるようになってきましたが、私が言い始めました。
人格を定める条件は、教養の有り無し、都市格を定める条件は大きくとらえれば文化の有り無しです。
具合的には
①文化のストックが有るか無いかどうか。
②景観文化性が観られるかどうか。
③発信する情報、その内容如何で都市格は高くなりもなるし低くなりもする。
大阪の歴史は芸能文化学術の最先端だったが、明治に東京が首都に定められて将来を懸念した。
大阪の初代の商工会議所の五代友厚が経済の盛んな都市にしていこうということで、重化学工業が発展した。
文化を軽視することにつながり大阪の都市格は残念ながら低くなってゆくばっかりでした。

戦後になり経済重視の中で60年代になってゆくと上方芸能の衰退が顕在化していきました。
夕方の景観では京都の夕暮れはゆっくりと西山に沈んでいきます。
神戸の夕暮れは坂の町なので見下ろすことができて夜景が綺麗です。
大阪の夕暮れは高い建物に覆われてしまっていて夕暮れがない、いきなり夜になります。
京都は見渡す都市、神戸は見下ろす都市、大阪は見上げる都市です。
残念ながら大阪は60年代からろくでもない情報を多く発信してきました。
そのツケが今来ています。
1960年代は山崎豊子という作家が大阪の船場を描いて名作を残しているが、出世作「暖簾」、「花のれん」で直木賞を受賞した。
記者会見でひとえに大阪商人、船場商人のど根性を描きたかったと説明している。
ど根性が流行語になっていって大阪はど根性の都市というイメージを世間に植え付けた。
大阪では性根という言葉をつかっていたが、笑福亭松鶴さんなどはど根性という言葉にものすごく嫌がっていた。

昭和34年菊田一夫の「がめついやつ」が大ヒットする。
釜ヶ崎でドヤを経営する女主人のがめつさを劇場上演する。
ど根性と一緒にがめついというレッテルが貼られるようになる。
がめついという言葉は大阪弁ではない。(菊田一夫の造語)
昭和30年代後花登 筺(はなと こばこ)の根性ドラマが次々にヒットする。
ゆがめられて伝えられて今にこれが影響しています。
1970年代は「どけち」の都市、高度成長は1973年の石油ショックで最終的に打ち止めされてきた。
失業者があふれる時代に大日本どけち競争なる人物が現れ、どけち哲学を全国に振りまいた。
70年代はどけちの都市というレッテルをはられるようになる。

80年代は犯罪都市のレッテルを貼られる。
グリコ森永事件が起き、警察を揶揄するメッセージが送られてくる。
「警察のアホどもへ・・・」で始まる下手な大阪弁の文章です。
豊田悪徳商法で2000~3000人の老人たちをだまして巨額の金を集めた。
大阪の治安の悪さのイメージ、犯罪都市のレッテルを貼られた。
1990年代は破廉恥都市、2000年代は流出都市となってしまった。
ひったくりが日本一、青少年の犯罪数日本一、河川の汚染日本一、などのワースト記録が並べられた。(日本公共広告機構が掲載)
2000年代は大阪の大企業が東京に移す流れになってきた。
大阪の経済を衰弱させてゆく大きな理由になってゆく。
大阪の優秀な人材がどんどん出てゆく。

でも大阪ではそういう文化だけではないんです。
大阪には心優しい恥じらいの文化が育ってきていました。
こういった一群の作家たちが主張したり発表したりするものは、多くの人の目には触れることがなかった。
帝塚山学院に集まった教員、学者たちが含羞の人をやった、この人たちを帝塚山派と呼びたいと私は思っています。
藤沢 桓夫、長沖 一、伊東静雄、小野 十三郎、杉山平一、庄野英二、庄野潤三、石浜恒夫
阪田寛夫こういう一群の作家たちを私は帝塚山派ととらえてはどうかと思いました。
2009年に「上方芸能」で主張しました。
一群の作家たちは郷土をののしらず、さげすまず心優しいメルヘンや人々への献身、ヒューマンな香りと繊細な心理描写で断然光っていたのだ、この大阪の作家たちを堀辰雄の四季派になぞらえ、帝塚山派ととらえたいといいました。
帝塚山学院が創立100周年の記念事業の筆頭に帝塚山学派文学学会を立ち上げました。
世間に知られるようになっていっています。

①文化のストックという意味では大阪には出版社が非常に少ない、出版機能を大阪で強めてゆくことも大事だと思いますが、文化のストックを心がけてゆくことが大事です。
②景観の文化性を良くしてゆく。
大阪は緑の豊かな木の都であったと書いています。(織田 作之助)
川も多くて水の都ともいわれていました。(戦後は水質が悪くなってしまった。)
最近は道頓堀も水質がよくなってきた。
③ひんしゅくを買うような情報を決して発信してはならない。
宮本又次教授が終生言い続けていたことが、大阪は心優しい旦那衆の文化が大阪で生まれ育って街中に影響を及ぼした、これが大阪であると、がめつい、ど根性一本やりになっているが大阪の全体像ではない、優しい柔らかい大阪弁、大阪の風習は人情の厚い都市であったので、これをもっともっと大切にして広めてゆくことが大事だと言って亡くなられました。



2020年6月3日水曜日

2020年6月1日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)      ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)      ・【オーレリアンの丘から四季便り】
滋賀県大津市で里山暮らしをしています。
今から5年前、60歳を機に正式な農家となって耕作放棄地を購入しました。
竹やぶで覆われ動物たちも寄り付かなかった荒れた土地を、美しい里山の環境に戻すために地元の仲間たちと挑戦を続けてきました。
「オーレリアンの丘」と名付けたその場所から今森さんに日本人の心の風景、里山の四季折々の魅力を語っていたただくという新しいコーナーです。
第一回は春の始まりから初夏に向かう季節の話です。
(参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/10/blog-post_25.html

コロナウイルスの関係で写真展などは延期になっています。
田園風景が広がっていてすごくのどかで、里山の四季感をお伝えできればと思っています。
「オーレリアンの丘」のオーレリアンという言葉はラテン語で金色という意味で,蝶々のさなぎに金色をしているさなぎがあり、オーレリアンというのは蝶々の代名詞に使われることがあります。
オーレリアンというと蝶々の愛好家という風に呼ばれることもあります。
蝶々をたくさん呼び寄せたいという思いがあり、ここをオーレリアンの庭にしようと思って名付けました。
子どものころは蝶々、のほかに魚、鳥、昆虫も大好きでした、中、高校生のころから特に蝶々が好きになりました。

日本には蝶が200種類いるが、私たちの住んでいるところには80種類ぐらいいて蝶々は種類はあまり多くはないです。
それぞれ暮らしぶりが全然違います。
今は70種類ぐらいが庭の敷地内で見られます。
そのような環境を作ってきました。
農作物を作ることは第一とはしないで、昔ながらの農薬を使わない里山環境を作って生き物を住まわせることが目的です。
世界中いろいろ回って人にも出会って、それぞれ自分のフィ-ルドを持っていてうらやましいと思っていました。
自分のところでやってみたいと思いました。

3月初めに里山では春の芽吹きが少しづつ始まります。
オウレン、スミレなどが咲き始めます。
庭のほうはオオイヌノフグリ、フキノトウなどの花が咲き始めます。
キタテハという蝶が真っ先に来て蜜を吸います。
なんで早く出るかというと成虫の姿で越冬してたんです。
体調は4cmぐらいでオレンジ色をしていますが、越冬すると色が剥げて行って黄色っぽく見えます。
冬は落ち葉の下にいて食事もしないので相当お腹が減っていると思います。
ベニシジミというオレンジ色をしたシジミ蝶が3月末頃来ます、大きさは1円玉ぐらいの大きさです。
幼虫で越冬するので色が鮮やかです。

4月になっての一番の変化は田んぼに水が入り、湿度が高くなり空気感が違います。
アマガエル、シュレーゲルアオガエルなどが鳴き始めます。
花はいろんな花が咲き始めます。
シュレーゲルアオガエルの指先は吸盤が膨らんでいて木登りが得意です。
色は鮮やかな緑色で美しいカエルです。
雑木林では山桜が咲き始め、そのほかいろいろな木の花が咲き始めます。
蝶々の数もぐんと増えて、モンシロチョウ、モンキチョウ、などがひっきりなしに飛んでいます。

農地は2月ごろから咲き始めるカンザキハナナと菜の花の2種類を植えたので、2月から4月の終わりまで咲いています。
普通の農家のやるものはあまりやりません。
樹木は時間がかかるので、計画的にレイアウトして植えます。
思ったような形になってくのでうれしいです。
30年もたったので最初の姿とは全然違います。
4月下旬ぐらいから雑木林の芽が広がってきて一気に変わります。
5月になると雑木林の中が暗くなってきて、グラデーションができそれが好きな蝶々が集まってきます。
特に私が好きなキマダラヒカゲがきます。(日影が大好きです。)
クロヒカゲ、ヒカゲチョウの3種類が多いです。

大きなアゲハチョウ、カラスアゲハ、モンキアゲハなど手のひらぐらいの蝶などは日陰と日向の間が好きです。
山つつじが咲き始めてそれがアゲハチョウなどは大好きです。
鳥も来てイカルという鳥は独特のリズムですごく透明な声で鳴いてくれます。
繁殖の時期なのでよく鳴きます。
ヒバリなども絶えず聞こえます。
ホウジロも木のてっぺんで鳴いています。
近くの農家では効率的にするために農薬を使ったりしていて、環境への両立はなかなか難しいところがあります。
「オーレリアンの丘」は環境についてはデリケートにかなり目を配ってやってきました。