頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】「落語にみる絶望名言」
「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」 落語「万金丹」
頭木:病気になって入院してから落語を聞き始めて、落語は大好きです。
落語は実にすごく絶望的です。
笑いの要素を取ったらお話自体は相当絶望的です。
借金まみれとか、お酒のせいで人生どん底とか、ギャンブルがやめられなくて破滅するとか、恋愛でだまされてひどい目に合うとか、きついものが多いです。
絶望しているときには落語を聞くのはピッタリなんです。
絶望と笑いについては後でお話してみたいと思います。
「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」
五代目柳屋小さんの「万金丹」で初めて聞きました。
普通はよくないことをすると地獄に落ちるよと戒めますが、逆に何でもしろとそして地獄に落ちても鬼に負けるなと言っているんです。
もともとは一休さんと仲が良かった蜷川新右衛門というお坊さんの歌だったんです。
本来の意味は嫌々戒律を守ったりしても本当の悟りはならないよ、ということなんですね。
「おっかあ、死のうか」 落語「芝浜」
三代目桂三木助の「芝浜」の言葉
「芝浜「」は腕はいいがお酒が好きで働かずにいるお魚屋さんがお金がずっしりした財布を拾う。
友達を呼んで大酒盛りをしてぐうぐう寝てしまう。
女房が起こして、財布を拾ったことなどすべて夢だったと、酒盛りをしたことだけは本当だったと話す。
借金になってしまって大変だと女房が言う。
愕然として亭主が言うのはこの言葉で「おっかあ、死のうか」という。
女房はあんたがちゃんと働けば何とでもなるんだからというと、心を入れ替えて酒もやめて一生懸命働くようになる。
古典落語みたいに何代にもわたって時間をかけて大勢が工夫を重ねて作るものというのはそうしない限り到達できないものがありますよね。
大金を拾ったと思ったら、そうではなくて借金を作ってしまったという大変な落差がここにはあると思います。
人間はこういう落差に弱いのではないかと思います。
精神科医のフランクルがアウシュビッツ収容所に入れらた時に、クリスマスには解放されるという噂が広がったが、クリスマスが来ても解放されなかった。
そうするとバタバタ亡くなる人が出てきてしまった。
一旦希望を抱いてそれを失うことはとってもつらいことです。
自殺で気を付けなくてはいけないことの一つは落差だと思っています。
「おめえなにしに来たの家へ」「お前さんが別れたいというからあたしが」「誰がですか」「あたしがですか 冗談いっちゃあいけませんよ、あの人と別れるぐらいだったら死んだほうがいいんですよ」 落語 「厩火事」
古今亭志ん朝の「厩火事」のやりとり
おさきさんという女性が自分の亭主があまりひどいから別れたいと、仲人のところに言いに行く。
仲人は確かにあの男はよくないと別れたほうがいいと賛成する。
おさきさんが逆に亭主をかばいだすので、仲人は「おめえなにしに来たの家へ」ということになる。
こういう心理ということはありますよね。
矛盾した心情がよくわかるから笑うわけです。
おさきさんへの笑いがいい例だと思います、共感と愛情を込めた笑い。
絶望を笑っていても嫌な気もしないし一緒に笑えると思います。
*曲「雨に濡れても」 映画「明日に向かって撃て」主題歌から
主人公はかっこよくない、駄目さに魅力があり、落語とも共通する。
ラストに吃驚した。(有名なラストシーン)
起承転結、の「結」が難しいが、落語で落ちを言えばそこで終わりにすることができて、ほかにこんなものは無いです。
落語は起承転結にとらわれないから面白い。
落語は物語の凄い自由な可能性を秘めている。
「与太郎のおっかさんが死にましてねえ、後妻を貰ったんでえ、ところがこれが大変に与太郎を憎んで、ぶつ、つねる、蹴飛ばす、ひどい目に合わせる。
あいつは馬鹿なんですから、いくら言われてもなかなか覚えちゃいない、またやるてえとまたひどい目に合わせるという、とうとう攻めに攻めて攻め殺してしまった。
さすが馬鹿でも悔しかったと見えて毎晩化けて出るというんですがね。
ところが自分のうちに出ないで、近所隣りへ方々お化けになって出るってんで評判で、おい、俺んところに出たんよ、ゆうべ与太郎のやつが。
・・・おれんところには三日ばかりでやがったね。
よっぽど悔しいんだろうなあ、奴があんなに化けて出るところを見ると。
悔しかったらてめえの家に化けて出ればいいのに、なんだったこんなに近所方々化けて出るんだ。 ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」 落語 「猫怪談」から
六代目三遊亭圓生の「猫怪談」のまくらに出てくる小話
最初聞いたときには嫌いな話でしたが、最後の「ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」という言い方ひとつで全然違う話になる。
本当に馬鹿にした感じでいうか、しんみりした感じでいうか、しんみりした感じでいった場合には、そこには自分をいじめ殺した人というのは怖くて化けて出れないわけです。
それでほかのところに出ているんじゃないかと、ほかのところに出ても意味がないのにというニュアンスが出てきて、そうすると途端に深い話になってくる。
つい怖くない人に復讐してしまいがちで、とっても酷いことだしとっても悲しいことだけれども、そういう人間の悲しい心理までとらえている凄い落語だということに後に気づきました。
こういったことは実際ありえますよね。
「世の中は金と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」 落語「紺屋高尾」
五代目三遊亭圓楽の「紺屋高尾」に出てくる狂歌です。
これは笑えます。
太田南畝という江戸時代の狂歌の名人の作がもとになっていて、もともとは「世の中は酒と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」ですが、酒とお金が違っていますが、どっちもありだと思います。
人間の生きる辛さの根本のところを衝いている名言だと思います。
「貧乏をすれどこの家に風情あり。 質の流れに借金の山。」
「居候 三杯目にはそっと出し」
大人にも語り聞かせてくれるのが落語だと思います。
しんみり切なく終わる落ちもあります。
桂米朝 「まめだ」
まめだ(豆のような子狸)
右三郎の実家が膏薬屋で、見慣れない子供が膏薬を買いに来るようになる。
お金を入れてある箱に毎日銀杏の葉が入っている。
ある時にまめだが体中に貝殻をくっつけて死んでいるのが見つかる。
まめだが怪我をして子供に化けて銀杏の葉っぱをお金に換えて,膏薬を買いに来ていたことを右三郎は悟る。
膏薬の塗り方が判らなくて貝殻のまま身体にくっつけてついに死んでしまったんだなあと判る。
右三郎は御寺の住職に供養を頼んで御寺の境内の隅にまめだをうずめてもらう。
あわれな話と人々が立ち去った後、親子の者とお寺のおっさんとがジーっとしばらくうずめたところを見ていますと、秋風がサーっと吹いてくる。
銀杏の落ち葉がハラハラと狸をうずめた上に集まってきます。
「おかあはん、見てみ、狸の仲間から仰山香典が届いたがな」 落語 「まめだ」