木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(3)~都市の品格は復活するか?」
「都市格」は最近使われるようになってきましたが、私が言い始めました。
人格を定める条件は、教養の有り無し、都市格を定める条件は大きくとらえれば文化の有り無しです。
具合的には
①文化のストックが有るか無いかどうか。
②景観文化性が観られるかどうか。
③発信する情報、その内容如何で都市格は高くなりもなるし低くなりもする。
大阪の歴史は芸能文化学術の最先端だったが、明治に東京が首都に定められて将来を懸念した。
大阪の初代の商工会議所の五代友厚が経済の盛んな都市にしていこうということで、重化学工業が発展した。
文化を軽視することにつながり大阪の都市格は残念ながら低くなってゆくばっかりでした。
戦後になり経済重視の中で60年代になってゆくと上方芸能の衰退が顕在化していきました。
夕方の景観では京都の夕暮れはゆっくりと西山に沈んでいきます。
神戸の夕暮れは坂の町なので見下ろすことができて夜景が綺麗です。
大阪の夕暮れは高い建物に覆われてしまっていて夕暮れがない、いきなり夜になります。
京都は見渡す都市、神戸は見下ろす都市、大阪は見上げる都市です。
残念ながら大阪は60年代からろくでもない情報を多く発信してきました。
そのツケが今来ています。
1960年代は山崎豊子という作家が大阪の船場を描いて名作を残しているが、出世作「暖簾」、「花のれん」で直木賞を受賞した。
記者会見でひとえに大阪商人、船場商人のど根性を描きたかったと説明している。
ど根性が流行語になっていって大阪はど根性の都市というイメージを世間に植え付けた。
大阪では性根という言葉をつかっていたが、笑福亭松鶴さんなどはど根性という言葉にものすごく嫌がっていた。
昭和34年菊田一夫の「がめついやつ」が大ヒットする。
釜ヶ崎でドヤを経営する女主人のがめつさを劇場上演する。
ど根性と一緒にがめついというレッテルが貼られるようになる。
がめついという言葉は大阪弁ではない。(菊田一夫の造語)
昭和30年代後花登 筺(はなと こばこ)の根性ドラマが次々にヒットする。
ゆがめられて伝えられて今にこれが影響しています。
1970年代は「どけち」の都市、高度成長は1973年の石油ショックで最終的に打ち止めされてきた。
失業者があふれる時代に大日本どけち競争なる人物が現れ、どけち哲学を全国に振りまいた。
70年代はどけちの都市というレッテルをはられるようになる。
80年代は犯罪都市のレッテルを貼られる。
グリコ森永事件が起き、警察を揶揄するメッセージが送られてくる。
「警察のアホどもへ・・・」で始まる下手な大阪弁の文章です。
豊田悪徳商法で2000~3000人の老人たちをだまして巨額の金を集めた。
大阪の治安の悪さのイメージ、犯罪都市のレッテルを貼られた。
1990年代は破廉恥都市、2000年代は流出都市となってしまった。
ひったくりが日本一、青少年の犯罪数日本一、河川の汚染日本一、などのワースト記録が並べられた。(日本公共広告機構が掲載)
2000年代は大阪の大企業が東京に移す流れになってきた。
大阪の経済を衰弱させてゆく大きな理由になってゆく。
大阪の優秀な人材がどんどん出てゆく。
でも大阪ではそういう文化だけではないんです。
大阪には心優しい恥じらいの文化が育ってきていました。
こういった一群の作家たちが主張したり発表したりするものは、多くの人の目には触れることがなかった。
帝塚山学院に集まった教員、学者たちが含羞の人をやった、この人たちを帝塚山派と呼びたいと私は思っています。
藤沢 桓夫、長沖 一、伊東静雄、小野 十三郎、杉山平一、庄野英二、庄野潤三、石浜恒夫
阪田寛夫こういう一群の作家たちを私は帝塚山派ととらえてはどうかと思いました。
2009年に「上方芸能」で主張しました。
一群の作家たちは郷土をののしらず、さげすまず心優しいメルヘンや人々への献身、ヒューマンな香りと繊細な心理描写で断然光っていたのだ、この大阪の作家たちを堀辰雄の四季派になぞらえ、帝塚山派ととらえたいといいました。
帝塚山学院が創立100周年の記念事業の筆頭に帝塚山学派文学学会を立ち上げました。
世間に知られるようになっていっています。
①文化のストックという意味では大阪には出版社が非常に少ない、出版機能を大阪で強めてゆくことも大事だと思いますが、文化のストックを心がけてゆくことが大事です。
②景観の文化性を良くしてゆく。
大阪は緑の豊かな木の都であったと書いています。(織田 作之助)
川も多くて水の都ともいわれていました。(戦後は水質が悪くなってしまった。)
最近は道頓堀も水質がよくなってきた。
③ひんしゅくを買うような情報を決して発信してはならない。
宮本又次教授が終生言い続けていたことが、大阪は心優しい旦那衆の文化が大阪で生まれ育って街中に影響を及ぼした、これが大阪であると、がめつい、ど根性一本やりになっているが大阪の全体像ではない、優しい柔らかい大阪弁、大阪の風習は人情の厚い都市であったので、これをもっともっと大切にして広めてゆくことが大事だと言って亡くなられました。