2021年6月30日水曜日

原田マハ(作家)            ・ゴッホへのお土産

 原田マハ(作家)            ・ゴッホへのお土産

1962年東京都生まれ、大学卒業後森ビルの森ビル美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年フリーのキュレーターとして独立。  2003年にカルチャーライターとして執筆活動を開始し、2005年には共著で『ソウルジョブ』上梓。  そして同年、『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞、2006年に作家デビューしました。  2012年に楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞受賞、2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞受賞、ほかの著作に本日は、お日柄もよく』、『キネマの神様』、『たゆたえども沈まず』などアートを題材にした小説を多数発表しています。   画家の足跡をたどった『ゴッホのあしあと』やアートと美食に巡り合う旅をつづった『フーテンのマハ』など新書やエッセーなども執筆されています。

リボルバー』という長編小説は舞台になる戯曲を書いてみないかという話を頂いたのがきっかけです。   ゴッホゴーギャンをめぐることですが、戯曲は書いたことがなくて、原作になる小説を書いてみて、それをベースにして戯曲を立ち上げるというのだったら出来そうなので、そういう形でやらせてくださいという事で引き受けました。  1年間連載を書いて戯曲を書きました。  ゴッホは小説としては2作目です。  

『たゆたえども沈まず』はゴッホが出てきますが、ゴッホの入門書というような形として、書きました。  それを入れると3冊目になります。

ゴッホは特殊な人だなあと知れば知るほど思いますが、私もアートにずーっと親しんでいた人生でしたが、何かアートにかかわる仕事をしたいと思っていました。   ピカソ、マティス、ルソーはありだなと思ったが、ゴッホはないよなと割と早くから思っていました。 日本で何故か人気があるし、放っておけない画家、だけどはまると怖い抜けられなくなると、最初から思っていました。   気になるけど遠ざけていました。 

『たゆたえども沈まず』を書き始めた時に、林忠正という実在の画商で19世紀末のパリで浮世絵、日本画を広めた人で、林忠正を主人公にして書こうと思ったのがきっかけでした。取材するなかで、浮世絵を愛する画商と浮世絵を愛する画家、で接点があるのではないかと展開してゆきました。   二人の接点があるようにここではフィクションで書きましたが、入り口は林忠正でしたが、出口はゴッホでした。  気がついたらゴッホの足跡をたどっていて、小説の中でもう一回再生してみようと思いました。

リボルバー』  ゴッホとゴーギャンの関係はさらっと過ごせるような関係ではなくて、アルルでの共同生活の最後のほうで自分の耳を切ってしまうという自傷行為に臨んだという美術史上でも有名な話です。   ゴッホが非常にもろくて感受性が高くて傷つきやすいタイプに対して、ゴーギャンはあっけらかんとしていて、計算高くて、友達のことも振り向かないようなタイプだと一般的に思われがちなところがあります。  実はゴーギャンは優れた感受性をもって感度の高い人で、ゴッホとはベクトルは違うが、モダンアートの先陣を切ってさきがけを作った大人物です。  本当に何があったのかという事は二人にしかわからない。  小説家の特権として思い切ったフィクションを書かせてもらうという事で、この二人を盛り込んだ最大の理由ですね。

19世紀パートと21世紀パートに分かれていて、後半でゴーギャンが独白するような場面があり、彼が抱えていた孤独、野望、彼の人間性だとか、人生に思ったほど注目されていないという事を彼を調べ始めてから思ったことです。  ゴッホとすごく似ているんですね。自分が見たくない側をお互いに突き付け合っていたというところかもしれないですね。  合わせ鏡のように自分が写っていたのかもしれないですね。  アートを中心に据えて共同で制作をしようと言い出したのはゴッホですが、お互いが孤独の中で制作してきた時間が長かっただけに、相容れないところがあったかもしれない。  

食うや食わずだった人たちが、後世では大スターになって、彼らに見せてあげたいという事はみんな普通に思いますね。  しかし彼らは自分たちがやりたい様にやってきたので、モダンアートの素地をこの二人は作ったと思います。  彼らが幸せだったのか不幸だったのかという事は私たちの概念で決める事ではなくて、彼らが残してくれたものだけが真実だと思います。    

原作のプロットと、戯曲のプロットはほぼ同時に作っていて、戯曲に作っていくという事は大変楽しい作業でした。  戯曲の場合はト書きが非常に少なくて、会話に集中すればいいのだという事がすごくおもしろかったです。  ゴッホとゴーギャンの会話に一緒に立ち会っているような感じでした。  東京公演は7月10日から8月1日まで行います。   大阪公演は8月6日から15日まで行います。  安田章大さん(ゴッホ役)、池内博之さん(ゴーギャン役)、大鶴佐助 さん(テオ役 ゴッホの弟)がイメージを重ねるようになってくれればいいなあと思います。

私は小さいころからアートと本が好きな子でした。  父が美術全集を出す出版社のセールスマンでした。   サンプルのストックが家にいっぱいあり、3歳ぐらいの時に画集を開いて見ていました。  モナリザなどの模写をやったりしていました。  父は非常に破天荒な人で宵越しの金は持たないといった人でした。  父なりの教育方針があって私が欲しいというものがあれば3つは買ってくれたりました。  一つ目は本でどのような本でも欲しいものは買ってくれました。  二つ目は展覧会に行く事、三つめが映画です。  子供ではないものも見せます。  「男はつらいよ」、を7歳の時に見ました。  山田洋二監督,小津監督、黒沢監督などの作品は父に連れられてよく見に行っていました。

ピカソ、ルソーなどの絵を見ると、将来クリエーターになって、この人たちを創作の中に取り込んでみたいとずーっと思っていました。   楽園のカンヴァス』が出版された時には、構想25年と帯に書いてもらいましたが、まさにそういう意味です。

度胸と直感がセットになって動いて来ました。   まず直感が動いて、立ち止まったりすることがありますが、その時にはゆく方を選びました。 とにかくやってみようという事です。   あと好奇心が強いですね。  それが作家になった最大のエンジンだったかと思います。  小説は私の好奇心の結晶のようなものです。  リボルバー』はまさに私の好奇心が全開になっているものなので、それが読者に伝わればいいなあと思っています。 戯曲に対しても同様に好奇心です。












2021年6月29日火曜日

樋口純一(老舗折詰弁当店八代目当主)  ・江戸から続く味を守って 

 樋口純一(老舗折詰弁当店八代目当主)  ・江戸から続く味を守って 

かつては江戸で働く人々を支え、現代でも当時の食文化を伝えるものとして親しまれている老舗の味、そのお弁当への思いやコロナ禍での奮闘を伺いました。

日本橋で江戸時代後期に生まれた折詰弁当店の8代目。  創業171年、特徴が木の折箱に詰めた折詰弁当。  店の名前が染め抜かれた半纏には魚マークに市場と書かれているが、今は豊洲、そのまえは築地でしたが、もともとは日本橋で魚河岸で発祥したんです。  その名残で魚河岸の意匠が入っています。  最初は樋口屋という食堂でした。  大盛が特徴だったが食べ残してしまったりして、もったいないと思った初代が、残ったものを竹の皮とか経木(木を薄くスライスしたもの)にくるんで、持ち帰っていただくという事を始めました。   そのサービスが非常に好評で、最初から持ち帰り用の要望が出てきて、3代目の時には持ち帰りのほうの需要のほうが多くなっていた。  3代目の樋口松次郎の時に食堂から「弁松」という名前の弁当屋になった。 

去年2月ごろからコロナ禍の影響を受け始めました。  お弁当は木で出来た折箱でいい香りがします。  卵焼き、野菜の煮物(タケノコ、レンコン、絹さや、ゴボウ、里いも、シイタケ)、四隅にメカジキの照り焼き、しょうがのから煮、豆きんとん、かまぼこ、つとぶ(つと(すだれ)で巻いた麩だからつとぶという)  濃い甘辛い味。  里いもが一番長く煮ていて2時間から2時間半煮ます。   全体的におかずそれぞれファンが出来ていて、卵焼き、メカジキの照り焼き、つとぶ(関東でも珍しい食材)などはファンが多いです。  

深夜0時から0時半ぐらいから作業を始めます。  忙しい時は前日の22時ぐらいからの時もあります。  濃い甘辛い味付は日持ちを良くしたかったことと、肉体労働でカロリーを高くしたかったのではないかと思います。  砂糖は高価だったので見栄の部分もあったのかもしれません。  関東は硬水なので鰹節、煮干しを使っても魚臭さが残ってしまうので濃い口醤油を使ったので味も濃くなってしまう。

小さいころは下が工場になっていて、上が住居で朝は匂いや作業する音がよく漏れていました。  大学に入って自分の家の価値がだんだん判ってきました。   新潟の親戚の料亭で修業をして、その後世界旅行に出かけてしまいます。(7か月)  矢張り日本の食が一番だと思いました。  25歳で実家に就職。  卵焼きを3つの鍋で練習するとかしましたが、半年後に父が突然亡くなってしまい、急遽社長を引き継ぐことになりました。 最初何から手をつけていいのかわからない状態した。   前の人たちの店の方向を示す設計図を理解することから始めなくてはいけなかった。   老舗の会合などにも参加しますが、最初は全然わからなくて、段々と顔見知りになっていきました。  店を繋いでゆくことが一番大事なことというふうに考えると気持ちが楽になっていきました。   

就業規則、給与体系、有休とかあまりしっかりしていなかった。  そういった部分の整理をして行きました。   それまでは職人の世界でした。  工場の設備も徐々に新しく導入していきました。  人間が働きやすい環境つくりをしています。  ツイッターでの発信も始めました。  コロナの影響でお客さんとの繋がりを考えて始めました。      2021年2月2日に大きなキャンセルがありキャンセル料もいただけず、廃棄処分も大変です、何とか助けてくださいといった内容のツイッターを発信しました。   「いいね」ボタンがおよそ5万回押されました。  家だけでなく関わっている業者さんなども死活問題になるわけで、応援してくれていた方たちへの発信だったんですが、拡散してゆきました。

キャンセルした材料を使ってお惣菜セットの通販という事でした。  それがものすごい反響でした。  木の折箱も好評でした。  食べる事だけが楽しみではなく、全く別の部分の体験というのが知らないところで生まれて、それをお客様が楽しんでいるという事になりました。  日本のいろんなところにファンがあるんだなという実感と広める余地もまだあるんだなという事が判りました。   味は変えることはなく、調理しているところの見せ方ができるようになったので、アピールしていきたい、価値をもっと伝えたいと思います。












2021年6月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】種田山頭火

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】種田山頭火 

僧侶の姿で托鉢をしながら旅をして俳句を詠んだ種田山頭火 、その最初の句集「鉢の子」が出たのは昭和7年6月20日でした。

「私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として、私一家の不幸は母の自殺から始まると書かなければならない。」       山頭火 

山頭火の代表的な句

分け入っても分け入っても青い山

「まっすぐな道でさみしい」

「どうしようもない私が歩いている」

「うしろすがたのしぐれていくか」

九州から東北のほうまで旅をしている。   俳句のほかに日記も残している。    1882年明治15年)12月3日生まれ。   山頭火 は自由律俳句で5,7,5でなくてもいいし、季語もなくてもいい。

「音は時雨か」という句もある。 

「俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい。   一句一句に作者の顔が刻み込まれてある。  その顔が判らなければその句は本当に判らないのである。」と言っている。

母親が自殺した時には山頭火はまだ9歳だった。   母親は自宅の井戸に身を投げた。 井戸から引き揚げられた母親の死に顔を見てしまっている。  母親は32歳の若さ。  結核を患っていて寝ていたが、夫の身持ちも芸者遊びをしたりしてよくなかった。    いろんなところを放浪するようになったのは母親の自殺があったと思う。   

「家庭は牢獄だとは思わないが、家庭は砂漠であると思わざるを得ない。  親は子の心を理解しない。  子は親の心を理解しない。  夫は妻を妻は夫を理解しない。   兄は弟を弟は兄をそして姉は妹を妹は姉を理解しない。    理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に眠っているのだ。   彼らは理解しようと努めずして、理解することを恐れている。  理解は多くの場合において、融合を生まずして、離反を生むからだ。  そのとき離れんとする心を骨肉によって盗んだ集団、そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。」  随筆「砕けた瓦 (或る男の手帳)」から

家庭に対する不満が書かれている。  「理解は多くの場合において、融合を生まずして、離反を生むからだ。」とも言っている。   理解し合える場合もあるが、話し合ったために余計に事態がこんがらかってしまう事もある。  人間関係のつらさを見事に言い表している。   姉がいて妹がいて、山頭火は長男で弟が二人いる。 三男は5歳の時に病気でなくなっている。  次男が自殺している。  父親がコメ相場に手を出して家が傾いてしまう。  山頭火も大学を中退して家に戻って来る。  酒蔵の経営をして結婚もして子供もすぐに生まれるが、酒蔵が破綻してしまう。  熊本に戻って再出発するが、弟が自殺してしまう。(弟は31歳)  

「天はもはや我を助けず、人又我を哀れまず」  弟の遺書に書いてあった言葉。

山頭火は酒好きだったが、この時から量が増えている。  一人東京に行って仕事をするが、ここでも大きな事件が起きる。

「人々に幸福あれ、災害なかれ、しかし無常流転はどうする事もできないのだ。」山頭火 (日記の中の言葉)

 大正12年9月1日 関東大震災が起きて、山頭火は湯島にいたがその家も焼けてしまう。   憲兵などが社会主義者を弾圧していて、山頭火も間違って逮捕されてしまう。 誤解が解けて熊本に戻るが、その間に妻の実家が怒って妻とは離婚となる。  酒に酔って路面電車を止めてしまい危うく轢かれてしまうところだった。  騒然としているところを知り合いが連れ出して禅寺に連れて行って、そこに住みついて出家することになる。  そこから山頭火の旅が始まる。(43歳)

最初九州に行き、九州の山のなかで 「分け入っても分け入っても青い山」を詠む。 

「泣きたいときに笑い、笑いたいときに泣くのが私の生活だ。 泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うのが私の芸術である。」    山頭火 随筆「砕けた瓦 (或る男の手帳)」から

「 私一人の音させている。  私一人の音させている。 咳がやまない、背中をたたく手がない。  咳がやまない、背中をたたく手がない。  雨だれの音もとった。   雨だれの音もとった。」 山頭火の俳句 3つ  草木塔の句集から

独り旅先で病気をするとすごく困るし、老いも困る。  

「あまり健康だったから、健康という事を忘れてしまっていた。  頑健、あまりにも持て余す頑健。  私は私の健康を呪う。  私はあまりに健康だ。」

そうでないと旅はなかなかできない。

「私の念願は二つ、ただ二つある。 本当の自分の句を作りあげることがその一つ。  そしてほかの一つはころり往生である。  病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介を掛けないで、めでたい死を遂げたいのだ。  私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。」    山頭火   

実際に脳溢血でころり往生したらしいです。(57歳)

放浪生活について山頭火に相談した人への言葉                   「流浪はいけません。  私としては到底賛成することができません。  その心持は判り過ぎる程判るだけに。」   山頭火

「本当でない、と言って嘘でもない生活、それが私の現在だ。」   山頭火      

「「本当でない、と言って嘘でもない生活」というところがいいですね。

















2021年6月27日日曜日

高田正人(テノール歌手)        ・【夜明けのオペラ】オペラ歌手逆転人生

 高田正人(テノール歌手)        ・【夜明けのオペラ】オペラ歌手逆転人生

東京芸術大学大学院でオペラを学びイタリアとニューヨークに留学、帰国後はオペラの舞台で活躍、このラジオ深夜便でも5年間ミッドナイトオペラに出演、豊富な経験に裏打ちされた軽妙なお話しぶりが大好評でした。   現在はオペラやミュージカルの舞台を務める一方洗足学園音楽大学、昭和音楽大学、平成音楽大学などで後進の指導にもあたっています。  今日のテーマはオペラ歌手逆転人生。

日本では40か所、声楽コースのある大学があります。  東京近郊でも500名ぐらいのオペラ歌手の卵が世の中に送り出されています。  全国では1000名程度になります。  世界でいうと数万人がめざしているとおもわれます。

1.イタリアのバリトン歌手レオ・ヌッチ 

セビリアの理髪師』 レオ・ヌッチ  歌ってい居るがしゃべるように無理のない、溌剌とした声。 

小さいころからブラスバンドで 楽器を吹いていました。  ボローニャ近郊のカスティリオーネ・デイ・ペーポリに生まれる。  オペラを聞くのが盛んな地域だったといわれる。   15歳の時に車の整備工場でカンツオーネを歌いながら仕事をしていたら、声楽教師がそれを聞いて「歌の勉強をしなさい。 君の口の中には黄金があるよ。」と言われて音楽の勉強を始める事になる。  23歳の時に最初に受けたコンクールで見事に優勝。  いろいろなコンクールに出てその年に受けたすべてのコンクールで優勝する。  25歳の時に優勝したコンクールでオペラ歌手への道に進みセビリアの理髪師』でデビュー。

当時のイタリアはオペラの全盛期で素晴らしいバリトン歌手がたくさんいたので,端役はきたが大きい仕事は回ってこなかった。  オーストリアへ行くためにお金を稼ごうと思って、レストランで流しバンドのような感じで何人かとやっていたら、人気が出てお金がたまってきた。  スカラ座の合唱団に入ればお金ももらえるという事で試験を受けて合格して、スカラ座の合唱団員を始める。   ソプラノ歌手アドリアーナと出会って結婚して、オーストリア行はやめる。  1973年にリニャーゴというところのリゴレットで大成功を収めって、(リゴレット役がレオ・ヌッチ 奥さんのアドリアーナがジルダ役で歌った) イタリアでレオ・ヌッチが知られるようになる。  1975年スカラ座の合唱団を辞める。  1977年スカラ座へセビリアの理髪師』フィガロ役でソリストとして帰って来る。

イギリスでの公演でバリトン歌手が急に出場できなくなり、そこのソプラノ歌手がレオ・ヌッチを知っていて、本番でも歌ってもらう事になり、すばらしい出来で大喝采だった。 これで世界中で有名になった。(当時36歳)   ソプラノ歌手に推薦され、逆転人生にはそこには人がどこかにいるんですね。  歌と人柄ですね。

*リゴレット 「悪魔め、鬼め」  レオ・ヌッチが350回以上歌ったといわれる当たり役

2.イタリアの女性歌手 ジュリエッタ・シミオナート

小さいころから歌がうまくて、20歳のころには小さな劇場で歌うような感じでした。    23歳の時にフィレンツェの大きなコンクールを受けて、審査員は大指揮者セラフィンはじめそうそうたるメンバーで決勝まで行きそこで歌ったら会場は割れんばかりの拍手で優勝しました。  セラフィン自らスカラ座へのオーディションを推薦し、受かる。  25歳でスカラ座に入って契約を結ぶ。(1935年)  戦前のスカラ座では、ファシスト党シンパの歌手が重用されたため、シミオナートはその実力を認められながらも、なかなか主役としての芽が出ない時期を過ごした。(補欠的な歌手でしかなかった。)   シミオナートはそんな状況の中12年間過ごす。  セラフィンがスカラ座の指揮者となり、覚えているかどうかセラフィンに聞いて見ると「あなたのような声を忘れるわけがない、昨日のことのように覚えています。」と言われた。  1948年のスカラ座での『ミニョン』の題名役で大成功を収め、名実ともにスター歌手としての道を歩み始める。  イタリア文学者の武谷なおみさんは、1959年小学生の時に来日したシミオナートを聴いて感激し、文通を始め、15歳の時来日したシミオナートに会い、京大大学院でイタリア文学を学んだのちイタリアへ留学した。  その経緯は武谷の『カルメンの白いスカーフ 歌姫シミオナートとの40年』という本にまとめた。

『カルメン』の中から「ハバネラ」  歌:ジュリエッタ・シミオナート











2021年6月26日土曜日

矢満田篤二(社会福祉士)          ・親なき赤ちゃんの幸せを願って

 矢満田篤二(社会福祉士)          ・親なき赤ちゃんの幸せを願って

深刻化する子供の虐待、毎日の様に子供の虐待や虐待死の悲しいニュースが報じられています。   虐待で死亡する子供の年齢は0歳0か月0日つまり生まれたその日に命を絶たれるというのが一番多いというのはご存じでしょうか。  こうした子供の虐待死を防ぐ切り札の一つとして注目されているのが、赤ちゃん縁組です。   愛知県の児童相談所が全国に先駆けて30年以上前から取り組んできました。   愛知方式とも呼ばれています。  愛知方式は予期しない妊娠、出産によって育てられない赤ちゃんを産院から乳児院を経ずに直接養父母に託すのが特徴です。   里親制度を活用し、新生児を特別養護縁組する前提で里親に委託します。  出産後生みの親の承諾が得られれば、縁組の手続きを進めます。  この場合戸籍上も親子となります。   このプロセスは愛知県の児童相談所ではノウハウが明文化されていて、一般的なケースワークとして行われています。  国は2016年に児童福祉法を改正し、すべての子供の生活の場として家庭を優先することを法律ではっきりと示しました。    愛知方式はまさに赤ちゃんを家庭に託すという取り組みです。  この愛知方式、実は当時愛知県職員だったたった一人の奮闘から始まりました。  社会福祉士で元愛知県児童相談所児童福祉士の 矢満田篤二さん87歳です。  

愛知方式は生んだ人が育てられない赤ちゃんを、従来は乳児院に保護していますが、特に置き去り赤ちゃんなどは親がいないわけですが、夫婦と養子縁組しますから一般の家庭のように親の愛情を受けて育てられることができるという素晴らしいことなんです。  私が担当した女の子は中学1年生の2学期に出産しています。  小学校6年生の3学期ぐらいに受胎しているわけです。  通り魔のような事件だったようで、親も気づかずお腹が痛いという事で救急搬送された病院で産婦人科に回されるというケースでした。  女性のは被害者として妊娠させられてしまう。  是非育てたいという人も待機していますが、育てるほうの人も育てられる側の人も産院で両方涙を流しているんです。  親子の結びを最初からきっちり結んでいくように努めているのが愛知方式の特徴の一つです。   

ほかの例で、高校生が性的被害で妊娠してしまって、自殺を企てましたが、未遂に終わって、東京の学会で報告したのが全国誌に掲載されて、電話があり愛知県以外からも養子縁組がありました。   母子手帳が必要になるが、作戦を立てて生む側の住所がわからないようなやり方で連携を取って高校生、養子縁組側の人の受け入れる体制を整えました。  予定していた産院に入って無事女の子を出産して、名前を養子縁組側の人が考えてその名前を出生届けに書き込むという事になり、養子縁組先の長女として戸籍に入ることができました。   当時の赤ちゃんは今では結婚して40代近くなって、幸せなお母さんになっています。  

血は繋がっていなくても、男の子はお父さんに、女の子はお母さんに似てくるんですね。しゃべり方、仕草も似てきます。  子供は安心して寄りかかって育てられるのが大事だという事です。  赤ちゃんは母親に抱かれて守られていなければいけなかったという古い歴史があり愛着形成となります。  すべての子供は家庭で育てられる権利を持っているはずです。   

児童相談所では転勤があるので、連絡を取れなくなってしまう場合が多々あり、そういった養子縁組の人たちで交流会を作ったらどうかと提案しました。   愛知県では交流会が出来て、そこに行けば堂々と会いに行けて、自分の仕事の結果を確認できるわけです。   みんな子煩悩で自分の子供が一番と自慢してくれています。  嬉しかったですね。 今でも愛知県では続いています。

児童相談所に転勤になって、大人本位で子供本位でないやり方にびっくりしました。   産婦人科医会(3000人以上親子結をしていた)を訪ねました。  素敵なことだが医師はあまりPRしていない。  通って聞いたらいろいろなノウハウを教えてもらいました。  一番いいのは子供の名付け親になってもらいなさいと言われました。  自分で名前を付けると責任感を負わなければならないと感じます。    子供本位の考え方をするようにという事も教えてもらいました。

産婦人科医会の会長の山原秀さんが、キリスト系の教会の宣教師が子供たちをたくさん引き取って育てているのを見て、産婦人科医会としても何かできないかということで養子縁組を考えました。  それを児童相談所に取り入れました。  経験してきたことを見ると間違がっていないという事が判りました。

私は満州で生まれて、ソ連軍に侵攻されて、中には父親はシベリアに連れていかれて、母親と兄弟たちは逃げまどって、食べ物もなく餓死していったりして悲惨でした。  幸い両親とともに周りにお世話になって日本に引き上げることが出来ました。  その恩返しをしないといけないと思いました。  せめて親の愛情を求めている赤ちゃんに、子供として可愛がってあげられる環境を、と願いました。  子供は幸せになる権利を持って居ます。  それを大人が保証しなければいけないと思います。 

矢満田さんによって27年前赤ちゃん縁組をされた静岡県の方からお便りをいただきました。「娘と初めて会ったのは生母さんのお腹の中でした。 ・・・出産まえのお産教室に生母さんと一緒に通い出産にも立ち会い、生母さん、娘、私と3人で入院するなどまさに自分が妊娠出産するなどしているかのような体験をさせていただきました。  生まれた瞬間「私の子供が生まれた」と思いました。  「へそのおを切ってください」と生母さんから言われ、へそのおをきって、今でもその感触を覚えて居ます。・・・娘への最後のプレゼントがおっぱいでした。  私たちから最初のプレゼントは名前です。・・・ 生母さんから安心して手放せるという内容の手紙を頂きました。・・・  養子であるという事は意識したことはありません。  他人の子を育てているという感覚は全くありません。  ・・・娘が成人した時に生母さんから預かっていた娘宛の手紙と生母さんの写真を渡しました。 ・・・会ったとしても知らない人だしと、意外な返事でした。 ・・・  一緒に過ごしてきた歴史こそが親子の絆なのだと思っています。・・・今は孫にも恵まれ、娘とは違うかわいらしさを味あわせてもらっています。 ・・・娘と出会えた矢満田さんに感謝。 娘を生んでくれた生母さんに感謝。 そして私たちの娘になってくれた娘に感謝しています。」




2021年6月25日金曜日

内田也哉子(エッセイスト)        ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】それでも、面白がって生きていく

内田也哉子(エッセイスト) ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】それでも、面白がって生きていく 

1976年(昭和51年)東京都生まれ、俳優の樹木希林さんとミュージシャンの内田裕也さんの一人娘です。  日本、アメリカ、スイス、フランスで学び、19歳で俳優の本木雅弘さんと結婚、3人の子供を育てながらエッセーの執筆や翻訳、作詞、ナレーション、音楽活動など多方面で活躍されています。  家族団欒を知らずに育った子供時代、若くして結婚3児の母として生きる日々、家族とは夫婦とはなにかを考え続けて今思うことなど伺いました。

育った家庭環境が普通ではなかった環境だったので、その影響が大きいと思いますが、一人っ子で両親は離婚はしていないんですが、母が女手一つで育ててくれたので、孤独な子供時代で、小学校低学年のころから鍵っ子で、夜ご飯も母がある程度用意はしてくれますが、最後のひと手間自分で作って食べました。   テレビもなかったし、おもちゃもなくてあったのは数冊の絵本でした。   自分で発想して遊びを生み出してゆくというような感じでした。  母は明治の女のような気丈でメッセージだけ伝えたらあとはドライな感じの母でした。   厳しかったので甘えたいとは思いませんでした。   あれをやっては駄目これをやっては駄目とかは一切言われず、勉強しなさいとかも言われませんでした。    大きな自由を授けられた代わりに、その重みを小さいうちから知ってしまったので、或る意味自由さを苦しんでいました。  小さいころから大人と話すような語り口で何でも話してくれました。

19歳で結婚、21歳で長男が生まれる。  大学中途で結婚したので社会でもまれることもなく新しい家庭を作ることになりました。  戸惑いの連続でした。 その2年後に長女が生まれにぎやかになってきました。  長男・雅樂(うた)は23歳、長女・伽羅(きゃら)は21歳、次男・玄兎(げんと)は小学校5年生です。   たわいもない日常の一コマはいとおしく感じます。  

「なんで家族を続けるの」を出版。 脳科学者の中野信子さんとの対談をまとめた本。   普通の家庭ってないんだなと、それぞれが違う家族で正解も間違いもないという事がより明確に判った。  

15歳で本木さんと知り合いました。  結婚という話が出たのは17歳の時でした。  母に話したら「そういうのもありね」といわれました。  結婚とか人との出会いは計画してできるものではないから、と言いう事で母は非常に柔軟な考えの持ち主でした。    結婚してみて、或る意味カルチャーショックでした。  言葉と文通の世界でお互い繋がっていたのが、その後結婚して夫は忙しくてほとんど家にはいないし、どういう共同作業なのかという事で行き詰ってしまって、つまらないことでもめてみたりして、私としては夫と共感したいタイプでしたが、夫は人はそれぞれ違うというような感覚でいたので、リズムを合わせてゆくのに、今でも揉めたりしていますから。   私の両親は見た目は違いますが、魂の部分ではすごく似ていて、だからぶつかって離れて行ってしまったという夫婦です。 

夫の、それぞれ違うという考え方はすごく新鮮に感じました。   社会に出てもそういう考え方でいればいいんだなという事は学びました。   子育てではいろいろ苦労がありましたが、夫は時間がある時には手伝ってくれて、その後二世帯住宅になりましたが、母からの提案でした。   若い世代から年配まで混ざっているという事はとても豊なことだという事を身をもって体験しました。

家族というものを振り返ってみることで、いろんな自分自身が見えてくるという事だと思います。  家族といっても隣りを歩いている人と変わらない、親だから、兄弟だからというような肩書を一回外して、家族という風に構えるのではなく、それぞれに違う距離感、ここち良さがあるから、いい距離感を作ってゆくというのは、それはまさに人生そのもので血縁でない人にもそれは繋がってゆく。   いろんな角度から見て見るというのもいいかもしれません。   

「大切なこと」 アメリカの絵本作家マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本。  内田也哉子:訳   日本では2001年に出版。  1949年にアメリカで出版。  とてもシンプルにひとつひとつのことを気づかせてくれる。  絵本は私の小さいころからの心のオアシスで、私が選んだ本と子供たちが選んだ本を読み聞かせをしていました。

一口に絵本と言ってもいろんなかかわり方があり深い世界だなあと思います。   訳すとき日本語の言葉の響きを大切にしています。  絵本も詩に通じるものがあると思っています。  簡素化された文章のなかにいろんな人生の心理が詰まっているように思います。

2021年出版 「ママン-世界中の母のきもち」 エレーヌ・デルフォルジュ (著), カンタン・グレバン (イラスト), 内田 也哉子 (翻訳)  世界中のいいろんな立場の女性が子供を育てる、育てられないという事も含めって詩的に描かれていて大人向けの絵本ではないかと思います。

*「ママン-世界中の母のきもち」 朗読:内田也哉子

「子供はお前たちのものではなく、生命の源から生まれた存在。  彼らはお前たちが迎えた閃光なのだ。  世代から世代へスー族の母たちはこのメッセージを受け継いできた。  でも私にとってそれは全く新しいことだった。  やがてあなたたちが私の息子でも私の娘でもないことに気づいたの。  あなたたちはそれぞれにれっきとした一人の人間よ。  でももしあなた達さえよければ私はずっとあなた達のお母さんでいたいな。」

*あとがき  朗読:内田也哉子

「初めからお母さんである女性は誰一人いません。 血のつながりがあろうとなかろうとこの世に生まれてきた子供と何かを共有し、心を通わせるところから母親ははじめの一歩を踏みだします。・・・世の女性たちは転んだりぶつかったり試行錯誤して、いつしか母になるのでしょう。  私自身母親だという自信が持てません。 ・・・この絵本はあらゆる立場や状況にいる世界中の女性たちが、その自ら抱く母親像へのあこがれや迷い、希望や苦悩をありのままに映し出しています。・・・お母さんと呼ばれる温かくしなやかな女性像と現実に一人一人が抱える子育てのもどかしさには多かれ少なかれギャップがあると思いす。・・・折り合いをつけようと母親として自問自答しながら前に進むのです。 ・・・世界中の母親が一人一人違っていてそのどれもがお母さんなのだと、誰一人同じ人間がこの世に存在しないように、母親だってそれぞれに色彩があります。 ・・・ 違いこそが世の中が面白くなる醍醐味ではないでしょうか。 ・・・世界中のお母さんあなたがあなたでありがとう・・・世界中のお父さん、あなたがあなたでありがとう。」

2021年6月24日木曜日

蔵屋美香(横浜美術館館長)       ・【私のアート交遊録】地域や時代に応える美術館めざして

 蔵屋美香(横浜美術館館長)  ・【私のアート交遊録】地域や時代に応える美術館めざして

蔵屋さんは子供のころから両親に連れられて美術館に通い、絵が好きな子供として自然に美術の世界に入っていったといわれます。  女子美術大学卒業後、千葉大学大学院で美術作品を言葉で説明、研究する分野を学びます。  その後25年以上にわたり東京国立近代美術館でキュレーターとして美術と経営、労務管理という3つのジャンルで経験を積んでいきます。 横浜という地域に根差す一方で、世界有数のコレクションとビエンナーレbiennaleという世界から注目される企画を持つ横浜美術館館長に就任した50代前半の若い館長の蔵屋さんが考える新しい時代の美術館像などについて伺いました。

横浜美術館は今リニューアル中です。  美術作品は1万3000点ありますが、空調がなくなってしまうので、専門の倉庫を借りて、そこに2年半以上預ける事になります。   どこか傷んでいないか一点一点チェックして、修復する必要があるかどうかなどをやって、状態を記録して丁寧に梱包して送り出すという作業をやっています。   20分程度で点検梱包が終わるものもあれば、巨大な彫刻を半日かかってようやく梱包というような有様です。   学芸員が10数人いますが、総出で交代交代でやっています。   リニューアルオープンが23年度中になっているので、そこから新しい活動をどう作りあげてゆくか、構想作業も同時にやっています。   2年前に開館30周年を迎えて、30年前に掲げた理想もいま見直しをしなければいけない時期になっています。 この変革期に第六代の館長として来てしまいました。 

東京国立近代美術館では展覧会をやるではなくて、所蔵品をどう集めるかとか、どう管理するのか、所蔵品を新しい視点でどう面白く見せられるか、コレクションのことに関して長く仕事をしてきました。   50代を過ぎて学芸畑でやってきましたが、人事、会計とか全体を含めた組織を回して、そんなことでお客さんに楽しんでいただく、全体を切り回すことを後の10年でできないかという事を思いかけて居たところに、丁度声をかけていただきました。   たたき上げの館長が出てきたのはこの10年ぐらいです。  この2,3年は女性の館長がものすごく増えました。   館長のイメージが違うような時に差し掛かっています。  学芸員の現場は女性ばっかりです。  館長は男性でしたが、ここの所変化してきています。   学芸員も男性女性半分づつぐらいがいいかなとは思っています。   

東京国立近代美術館では創立70年になりますが、70年にやった個展の男女比は男性20に対して女性は1で、横浜美術館では30年間で男性10で女性1です。  今後是正されてゆくと思います。   そこを今後30年で頑張っていきたいと思っています。

日本では国とか地方とかの行政が美術館を運営する場合が多いので、行政の人たちとどう付き合ってゆくかがとても重要です。

美術館でもカラーの違いに気が付くのに半年かかりました。   東京国立近代美術館では唯一明治から現代までを見せますという役割を持っていて、歴史に照らし合わせてものを考える癖があります。  日本がメインの館なので日本の問題を深く考えます。   横浜美術館はヨーロッパ美術の作品がありまして、周りもにぎやかで、華やかに楽しんでいただくような感じです。   

横浜ビエンナーレという催しを切り回していて、10年前から横浜がメイン会場として使われるようになりました。  現代美術を楽しんでいただけるという特徴を持っています。 東京国立近代美術館では50~80代が多いですが、横浜美術館は30,40代の人がお子さんを連れてきてというような方がメインになっています。  

私は1月生まれですが、その年の4月に東京国立近代美術館の前で撮った写真が残っています。   父親は歴史が好きで博物館、、母親は美術が好きで美術館という事で、気が付くと美術の好きな子になっていました。  高校の受験あたりは漫画家になりたかったんですが。   絵は好きだったので美術大学に進学しました。   油絵の学科でしたが油絵はあまり描かず、漫画を描いたり本を読んでいました。   大学卒業後、おもちゃ会社のパッケージデザイナーとして就職しました。  1年足らずで退職して、大学院に行こうと思って、千葉大学の大学院に進学しました。    ここでは他人の作品を研究するということを教わりました。   自分で作るよりも作品を言葉で人に説明する方が得意だという事に気づきました。  東京国立近代美術館の試験を受けて、20数年いることになりました。

レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」  色とか形を隅から隅まで観ていると、一冊の本を読むような感じになります。  キリストの頭の上には従来描かれていたような輪っかはなくて、キリストの丁度後ろに窓があって、輪っかの替わりに光がキリストを浮かび上がらせています。 両脇には6人づついるが、3人一組になっていて、3人が三角形に収まるようにポーズが決められている。  キリストを中心に脇への時間の経過なども見えてくるわけです。  いろいろ工夫して描かれています。   

リアルなものを見るときには、オンラインとは違う様々な情報が含まれているので、それを受け取るように神経が回ると思います。  例えば何が違うかと言えば大きさです。  細部を見るのには実はネットのほうがいいですね。   どちらでも、よいところ得意なところをとってそこを見るように自分をならしていけば、美術の見方も倍に面白さが広がるのではないかと思います。  ボッティチェリの「春」、「 ヴィーナスの誕生」を描いたイタリアのフィレンツェの時代にも死の病、伝染病がものすごくはやって、そのなかでああした作品が生まれて来てます。  美術作品のいいところは、500年前に作られたものがそのままあるので、それを手掛かりに500年前の世界に戻ることもできるわけです。  病気と闘いながらこう言った美しい世界を作ったんだなあと思う事で、今回も何とかなるんではとか、今回もいい作品ができるのではないかとか、何かいいことの一つに思えるわけです。

おすすめの一点は横浜美術館からピカソの「ひじかけ椅子で眠る女」(1973年の作品)


2021年6月23日水曜日

木村智子(コミュニティーガーデンコーディネーター)   ・【心に花を咲かせて】ガーデンから始まる理想の社会を夢見て

 木村智子(コミュニティーガーデンコーディネーター)   ・【心に花を咲かせて】ガーデンから始まる理想の社会を夢見て

小さいころから花に親しんできた木村智子さんは千葉大学の園芸学部に進み、造園コンサルタント事務所に就職、結婚後東京近郊に住みながらも実家の浜松で花屋の手伝いをしたことで、花が人と人を結ぶ力があることを実感したといいます。  現在コミュニティーガーデンコーディネーターとして仕事をされてますが、その活動の基にあるのは、花や緑を通して作りたい社会があるんだそうです。  

日本のかなり初期にオープンガーデンを立ち上げ、その後シンガポールに行って熱帯雨林に熱中、戻ってきた今はコミュニティーガーデンコーディネーターとして仕事をしている。   コミュニティーガーデンコーディネーターは資格とかではなくて、シンガポールから帰ってきてひょんなことからコミュニティーガーデンに関わることになりました。   コミュニティーガーデンは公園とか施設の外側の道路に面したところを一人ではなく何人かで、花の手入れをしてみんなに見てねという事になればそこがコミュニティーガーデンと考えています。   

コミュニティーガーデンコーディネーターを名乗り始めたのが7,8年前ぐらいからです。  あまりいないです。  造園コンサルタントと言って公園とかを設計する会社にいました。   コミュニティーガーデンコーディネーターとしては意見をまとめてアドバイスだけではなくて設計もします。   最初の仕事は小さな児童公園を改修したいという事があり、住民からお話を聞くという事があり、話し合いの結果そこを地域の公園にしたいという事で、話し合いのなかで自分たちがしたいことが形として見えてきて、花を植えるぐらい自分たちでやるという風に変わっていきました。  工事後に花を植えて花の維持管理をするようになったという事がありました。  それから10何年たちます。  今でも綺麗に管理して集っておしゃべりなどをしています。

父が花が好きで会社を辞めて花屋を始めました。   お客様とのお茶会をやっていまして、花が好きというだけですぐに仲良しになりました。   それぞれの庭を見に行くという事もありました。  それをきっかけに浜松のオープンガーデンを1977年に立ちあげました。   花は人をつないで街を明るくする効果があるなと思いました。 

2002年、仕事の中途で主人の関係でシンガポールに行くことになり、仕事もないので引きこもりの日々を過ごしたこともありました。(37歳ごろ)   熱帯の植物を知って帰ろうと思って、或るグループに参加したら熱帯雨林が壮大なドラマを背負った緑の塊という事、それぞれが絡み合って複雑に生きている、という事にびっくりしました。  生物多様性という事をようやく知りました。  シンガポールには熱帯雨林はほとんどなくてそれでも160ヘクタールぐらいありました。  二次林が広く残されています。 熱帯雨林に関する趣味が高じてガイド資格を取ってガイドするようになりました。  マレーシア、インドネシアに行く機会があり、あまりのすさまじい勢いで熱帯雨林がなくなってゆくのを見てショックを受けました。(油ヤシのプランテーションに置き変わってしまう)

日本に戻ってきて熱帯雨林のことを話そうとしたが、日本の森にも興味があまりない中で、熱帯雨林に興味を持つ人などいないという事に気が付きました。   目の前の花とかがきれいだという人たちを一人でも多く作れたらいいのではないかと思いました。  園芸に戻ってくるきっかけになりました。  みんなが集うという事に加えて、自然を守りたいという人を増やす意味があってその活動をしています。 

清瀬では高齢者施設の前庭をお手伝いしています。   予算もない、人もいないという状態だったので、助成金もあるうということで申請書を書いて50万円の助成金を頂き、30人が2回集まって改修作業をして素敵なガーデンを作って、月に一回近所の方たちが集まって手入れをすることで素敵な前庭になっています。 30m×1~3mという面積です。  植物を持ち寄ったりもしていました。  人を集めるような仕組みを作ったり、仕組みを作れるようにアドバイスするといった感じです。   

コミュニティーガーデンをやって地域が花で綺麗になって明るくなると、犯罪が起きにくくなるといわれています。  安全安心の町にコミュニティーガーデンは貢献しているんじゃないかなと思います。   

国立市にある滝乃川学園でコミュニティーガーデンをやっています。   2016年から始めています。  滝乃川学園は日本で一番古い知的障害者施設なんです。(120年を超える)   建て替えで空き地が出来て、どうしよかとの相談がありました。   交流が出来たり理解し合えるような場所にしたいという意見が出てきました。   相模原の津久井やまゆり山事件が起きて、あまりにもショックでこの場所を開くという事はもうできないんじゃないかと思いましたが、会合の時に理事長以下地域関係者などを含めて集まっていましたが、理事長からセキュリティーは上げるが門は開いておくという話をしていただき、やることになりガーデンを作ることになりボランティアの協力を得て進めていきました。   今は月に一回のガーデン作業をしています。   知的障害の方を含めいろんな人たちがいることでバランスが取れて行く社会だと思うので、受け入れて一緒に暮らしてゆくという事はとっても大事なことだと思います。   一緒にいられる空間としてのコミュニティーガーデンというのはとっても貴重な場所だと思います。

生きづらさ感じて居る人たちが外へ出るちょっとした一歩というのに、コミュニティーガーデンがとっても役に立つなあと思っています。  しゃべらなくてもそこでお手伝いの作業をするだけでも行くことはできる。   みんなが幸せを感じて笑顔でいられるような、そんな町を花とか緑を通して作っていけたらいいなあと思っていて、私自身はそのためのお手伝い、サポートする存在に成れたらいいなあと思っています。





2021年6月22日火曜日

佐々木利子(ガーデンカフェ経営)    ・いのちを紡ぐ〝秋田のターシャの庭"

 佐々木利子(ガーデンカフェ経営)    ・いのちを紡ぐ〝秋田のターシャの庭"

佐々木さんの庭は秋田県鳥海山のふもとにあり、全国各地からガーデニングの愛好家も訪れるほど美しい庭で、アメリカの絵本作家でガーデナーのターシャ・チューダーの庭になぞらえ、「秋田のターシャの庭」とも呼ばれているそうです。   庭に咲く花を通して命の大切さを伝えたいと丹精込めて庭作りをする佐々木さんに見ごろを迎えている花や、ガーデンカフェを始めたきっかけなどを伺いました。

秋田県でも南のほうにあり、海に車で5分と海に近いので、雪は降るがあまり長引くという事はないです。  雪下ろしはしないし、3月にはフクジュソウが咲きます。  

今はラベンダーとか、ベロニカとかいろいろあります。  バラはハルガスミが薄いピンク色ですごく好きです。  バラは100種類ほどあります。  バラはあまり丁寧にはやっていないです。  竹酢液で虫を殺すのでではなく逃がすようにしています。  雨上がりにぬきやすいので草むしりをします。  雨の時期はバラを挿し木にしたりしています。    年間500種類の花が楽しめるようになっています。   敷地は約1000坪あります。

庭を見てもらってランチとか、お茶を飲んでもらって居ます。 庭がメインディッシュです。 夏は野菜サラダのトマト、冬はイチジクのフルコース、肉の替わりにイチジクにしていて、食感がまるで肉です。   

全体が自然に美しく見えるように心がけています。   色合わせ、植物の高さ、花の形、葉っぱの形などお互いが引き立つように考えています。  全国ガーデンコンテストがあり、最優秀賞を頂きました。  世話をしていて「咲いてくれてありがとう」ですね。  みんなそれぞれ綺麗に見えます。

風が強いのでご先祖が家の裏に竹を植えて、竹やぶになっていました。   200,300年前に噴火があり掘ると石がでてきて、それを使う事にしました。  手伝ってもらう事もありますが、基本的には一人でやりました。

ガーデンカフェをオープンしたのは2004年です。   若いころから花は好きで、妹も花が好きで、この土地を二人で開墾して小さなカフェでも出来たらいいなあと思っていました。   妹も亡くなってしまって、すぐに母も亡くなってしまって、その1年前に父も亡くして3人を一気になくしてしまい、これ以上涙が出ないというぐらい泣きました。  その時には世界中で一番自分は不幸に思えました。  妹は3人の子供を残して逝ってしまいましたので、これは絶対に無駄には生きられないと思いました。 妹が44歳で、私が47歳の時でした。  11月に亡くなって翌年の半年後にオープンしました。  竹藪を除き、石を除いて前からやっていた植物を植えこんできました。  庭作りはやりながら、やりながらです。 

 父が亡くなってプツンと糸が切れてしまったようで、何もやる気がなくて、何が好きなのと思った時に料理よりも花が好きだった。  ガーデニングの資格を取って教室から始めました。  生徒も一杯来るようになって、妹も一緒にやれたらいいなあという事になったわけです。   二人の間の約束に変わっていきました。  そうしたら妹と母がほとんど同時に亡くなってしまいました。   命よりも大事なものはないという事を経験したので、妹のためにもやらなくてはいけないと思って、開墾をスタートさせました。  妹が私を突き動かしてくれました。  泣いていてもしょうがない、元気でいることが供養になると思いました。   

コロナ禍前は年間5000人以上の方が見に来てくれました。  この辺の道路が狭くて車がすれ違うのに苦労するところです。  「いくぞ」と思わないとたどり着けないところです。   「よく来てくださいました」という思いが一番かなと思います。 

17年目になりますが、来客のノートがあり14冊目になります。   感想文を書いていただいたり、悩み事を書いてくださる人もいます。  宝物だなあと思っています。  「帰りたくない」と書いてあったりして、庭の中に身を置くだけでいいと、ピュアになって自然と素直になれて、人生を見つめ直すことができるとまでしゃべっていくんです。  花が一杯お客さんたちに話しかけているんだと思います。  花は力を持っていると信じているんです。  「ここにきて力が湧いた」と言ってくれることがうれしいです。  お客さんと話をしたりしていると、話の中からお客さんから元気をもらえるという事があります。  いろんな人生を学べるのでありがたいなあと思います。    

アメリカの絵本作家でガーデナーのターシャ・チューダーの庭に似ているとお客さんからいわれ、ターシャという人がいるんだと初めて気が付きました。  BSで観て似ていると思いました。  アップダウンがあって石を積んでいて、植えている花がほとんど家にもありました。   一番似ていると思ったのは考え方、いい意味悪い意味を含めてわがまま。 自分の思いを貫きたいそのためには努力を惜しまないところを感じました。    庭仕事をしないことがストレスになります。  ターシャを観た時には90歳だったので、90歳までは絶対に生きたいと思います。



  

2021年6月21日月曜日

杵屋佐喜(長唄 唄方)         ・【にっぽんの音】

 杵屋佐喜(長唄 唄方)         ・【にっぽんの音】

進行役:能楽師狂言方 大蔵基誠

江戸時代から長唄を演奏する家に生まれる。  1983年東京都出身。 38歳。     父親は七代目杵屋佐吉 兄は三味線方の杵屋浅吉  代々三味線の家。

五代目杵屋佐吉さん(祖父)から三味線を、唄を人間国宝杵屋佐登代さんから手ほどきを受ける。  初舞台は6歳。 

長唄は江戸時代に歌舞伎の伴奏音楽として成立したもので、三味線音楽の中の一つです。   大学では声楽を学びました。  母がジャズピアニストだったのでその影響で洋も和もなくて、歌の基礎を学ばなければいけないと思いクラシックの声楽科に行きました。  ホセカレーラスに傾倒しました。  外国の音楽を学べば学ぶほど自分の国の音楽を知らないことに気づきました。 

2002年に3代目杵屋佐喜を襲名、演奏会、歌舞伎公演、日本舞踊界で活躍中。

子供たちに向けて長唄を発信している。

「カレーライスの歌」を動画配信している。  2018年 子供たちにわかりやすい言葉と共感できるようなテーマで新しい曲を作ったらどうかと思って作りました。

*「カレーライスの歌」 三味線:杵屋 五助ほか 歌:杵屋佐喜

この曲は作詞作曲まで固めて、作調の望月左太寿郎さんとアレンジをして、どこにどういう音楽を入れるという事を固めたうえで、レコーディングの日だけみんなが集まりました。   4代目の杵屋佐吉は約400曲強作りました。  三味線を発展させようとして、歌のない基楽曲を始めて作ったり、音域を広げるための低音の三味線を作ったり、エレキ三味線の開発にかかわったりしました。  三味線による童謡も作って33曲ほどあります。

「子供と楽しむ長唄童謡」 楽譜を整して本を出版しました。  学校ではピアノなどに最初に触れるが、最初に日本の楽器に触れてもらいたいですね。 

*「慌て床屋」 三味線バージョン  作詞:北原白秋  山田耕作:作曲  

学生時代は野球少年で甲子園を目指していました。  中学ではお稽古から逃げるために部活で野球をやっていました。   長唄へのきっかけは外国の文化を学んだからこそ日本の文化を見直したという事です。   長唄の魅力は間とか、息合い、人と人とが息がぶつかり合うのがジャズと通じるものがあって、譜面では表せない間の魅力はあると思います。  グループでやるので喜びも10人でやったら10倍の楽しさがあります。  

*「夢の玉菊」 作曲:4代目杵屋佐吉 唄:杵屋佐登代  三味線演奏:4代目杵屋佐吉

玉菊は江戸時代に吉原に実在した女性の名前で、25歳で亡くなってしまうがその人を忍んで作った灯篭が風物詩になって玉菊灯籠と呼ばれた。  死生観を感じる曲です。

日本の音とは「除夜の鐘」です。






2021年6月20日日曜日

成田重行(地域開発プロデューサー)   ・新宿にとうがらし畑を

 成田重行(地域開発プロデューサー)   ・新宿にとうがらし畑を

江戸時代、新宿一帯は唐辛子の産地でした。   江戸っ子のファーストフードとしてブームになった蕎麦の調味料として唐辛子が大人気となりました。  当時の地名内藤新宿から 内藤とうがらしと呼ばれていました。   しかしその後の環境の変化や人々の嗜好の変化で絶滅してしまいます。  2010年内藤新宿の歴史を調査していた市民グループがそのことを知って、かつての地域ブランドを復活させようとプロジェクトをスタートさせました。  それは内藤とうがらしを現代に復活させるだけではなくて、大都会新宿の地域社会の再生にもつながりました。  

内藤というのは、今の新宿一帯を内藤家が所有していた土地で内藤新宿という地名になっていました。  在来種のとうがらしが人気になって内藤の敷地内で採れた内藤とうがらしという事で、宿場町の周辺で盛んに生産されて、江戸中に人気だった。   担ぎ屋のぶっかけ蕎麦が庶民の間ですごい人気になりました。  一味,七味のとうがらしをかけてかっこむわけです。 蕎麦の利用が増えるととうがらしの利用も増える。  元禄時代に新しい宿場町ができて、内藤新宿という事になりました。  野菜などが生産され、とうがらしも広がっていって秋になると真っ赤になったといわれる。   段々畑が宅地化されて人が住むようになり、問屋、小さな工場が出来て畑がなくなってゆく。(明治中期)   辛いとうがらしが売れるようになって、中途半端な辛さの内藤とうがらしを作る人がいなくなった。  この二つの理由で内藤とうがらしは消えていってしまった。

新宿の元気つくりをやってほしいといわれていたが、大都会では地域活性化の対象ではないと思っていた。   新宿には40万人ぐらいの生活者がいますが、新宿はグローバルな光り輝く都市だと思っていたが、新宿もローカルな一つではないかと考えたんです。   それまで全国30か所余りの村などの地域開発をしてきましたが、同じような地域開発をしたらどうかなと思いました。   2008年からまず歴史を調べようという事から始まりました。   そうしたなかでとうがらしの真っ赤な景色を思いい浮かべました。   2010年に現実に作ろうという話になり内藤とうがらし復活プロジェクトが出来ました。   

平賀源内が全国のとうがらしを集めて一冊の本にしています。  52種類のとうがらしを克明に描いたスケッチがあります。  内藤とうがらしの原型の八房というものが克明に描いてあります。それを1年かかっていろんなところを回ったらあったんです。  種を数粒いただいてきて、撒いて3年かけて作りました。   それを2013年にJA東京中央会に出して、江戸東京の野菜ですという認定が出来ました。  2013年以降普及に力を注いで、第50回日本農業賞 食の架け橋部門で優秀賞を受賞しました。   

小学校4年生を中心にして1年間総合学習があり、歴史、とうがらしの授業を1年間やります。 歴史とか、実際に栽培してその実を給食に使ったり、クッキー、おせんべいを作ったりして、地域のお祭りに出して、学校と地域の連携をやっていて、7年続けていて7000人ぐらいの人が出ました。   企業、デパート、街のお店屋さんなどが地域で作ったとうがらしの料理とか、そういったことを始めました。   蕎麦、ラーメン、ピザ、カレーライス、団子、せんべい、うどんなどあらゆるところに内藤とうがらしを入れたレストラン、メニューが出来、街の活性にもつながっています。   一軒に一本内藤とうがらしを植えましょうという普及活動をしています。   ビルの屋上緑化という事であるところでやったら非常にうまくいきました。  今は20軒軒ぐらいとうがらし栽培をやっています。  将来ビルの屋上に内藤とうがらしの畑が再現できるかもしれません。   戸山公園にも内藤とうがらしガーデンを作りつつあります。 

1970年大手電機メーカーに就職してサラリーマン生活を送っていて、常務取締役まで行って、仕事をしている間も蕎麦打ちとか、趣味を楽しんでいました。  大学の講師もしていてライフワークバランス、仕事と趣味を一体にして生活をするという仕組みですが、30歳ぐらいから仕事と趣味を同一でやっています。  朝早く2時間前に入ったり何倍も生産性の上がる仕事の仕方をして6時以降は自分の趣味の時間に当てました。   NHKの「趣味悠々」で蕎麦打ちのほかに中国茶の講師もやりました。  若いころからやることによって趣味も仕事にも影響してきます。  60歳で定年になった後、どういう風に過ごすか。  小さな村、街を開発するという事に携わりました。   そうすると新しい面白いことが一杯あるんですね。   これしかない、ここしかない、今しかないという限定型がものの極みなんです。  そこの地域にしかない資源を今何を求めているかという事に符合させ商品化する。   知るだけではだめでどうしてこうなったの、という理解が必要で、なぜうれるのか、ストーリーをつないでゆく。   そうすることによって第三者に共感が生まれてくる。   これが村おこし、街おこしの大事なことだと思います。  おいしいもの仕掛け人みたいな事をやっています。


2021年6月19日土曜日

2021年6月18日金曜日

山本彩香(琉球料理家)         ・命をつなぐ知恵を伝えたい

 山本彩香(琉球料理家)         ・命をつなぐ知恵を伝えたい

20万人を超える方が亡くなった沖縄戦から今年で77年、沖縄は今月23日慰霊の日を迎えます。 山本さんは琉球王朝から受け継がれた琉球料理を知る数少ない一人で、86歳になった現在も沖縄の人の料理の知恵を伝え続けています。    料理を教えてくれたのは山本さんを育ての親の母ちゃん、貧しさの中、山本さんの姉二人は病気で亡くなり、両親はしかたなく叔母のもとに養子に出しました。   山本さんが64歳の時に那覇市に開いた琉球料理の店は予約が取れない伝説の店と評判になりました。  どんな思いで伝統的な琉球料理を残そうとしているのか伺いました。

今は部屋ごもりの状態でどうにもならないす。   6月23日慰霊の日を迎えます。  私の母ちゃんは生みの親の姉になります。  慰霊の日というと母ちゃんのことしか思い出さないんです。  戦争中で火が焚けないので木のくずに水に黒糖を入れて、それを飲ますんです。 リュックの中には黒糖、木のくず、ニンニクそういうものは必ず入れてありました。   戦争中で火が焚けないので、火が焚けなくても食べられるようなものものです。

2歳の時に母ちゃんのところに行きました。  那覇の遊郭の一番の芸者でした。  父親は人力車をひいてきました。  父親を助けるために芸者になりました。  踊りも三線も駄目でしたが琉球料理は得意でした。   琉球料理は繊維を全部体の中に入れてしまう。  体のためにいいです。  野菜も切るという事はなくて全部手でちぎるんです。   沖縄には油を使って炒めるのに3つ言葉があります。  豆腐が入ってはじめてチャンプルなんです。 (その後の説明はよく聞き取りにくく沖縄の言葉もありよく理解できず)    母ちゃんは料理は口で覚えなさいというのが口癖でした。  花街はまったくなくなり、芸者はやめて結婚しましたが、離婚することになりました。   私は踊り子として生計を立てました。  5歳からお踊りをやっています。  50歳の時に料理屋を始めて生活に落ち着きがでてきました。 踊りも一人前になりました。  「とうふよう」という料理がお店の看板メニューになりました。豆腐を紅麹で発酵させて、5か月間は寝かせます。  そのまま出したり、枝豆を和えたり,イカを和えたりします。   塩加減としっかり5か月間は寝かせることは厳しく言われました。   

64歳の時に琉球料理の店を出しました。   野球の川上 哲治さんもおいでになりました。ほかの芸能人の方が結構来ました。   運動をした人にはちょっと塩を多めにしたり、冷房の中で仕事をしてきた人にはちょっと薄めにするとか、そういう事では努力しました。 

「疑心暗鬼 対面千里」 「流行う追わずに伝統を追え」とかを母ちゃんから学びました。とにかくおいしいものを、いいものをあげようと思っていました。  お金は追っかけたら逃げますよ。  

77歳で店を閉じました。   琉球料理を絶やしてはいけないという思いがあり、80歳の時にロサンゼルスとサンフランシスコに琉球料理を教えに行きました。  琉球舞踊も三線も沖縄の言葉もよろしくねと、いつもそう思っています。  「これ以上にしあわせはありません」という沖縄の言葉は好きです。(聞き取れず)   

私の生みの親はハワイで100歳で亡くなりました。  80歳の時にお墓参りができるとは思っていなかったです。   母ちゃんは97歳で亡くなりました。   最後に「心配するなよ」という意味の沖縄の言葉でした。  今母ちゃんに言葉をかけるとしたら「これ以上にしあわせはありません」という沖縄の言葉と「ありがとうございます。」という言葉です。  



 

2021年6月17日木曜日

鯉沼廣行(横笛奏者)          ・笛との出会い、人との出会い

 鯉沼廣行(横笛奏者)          ・笛との出会い、人との出会い

1943年 横浜生まれ。 中学時代TVから流れるフルートの音色に魅せられて、1963年国立音楽大学フルート科に入学、卒業後はリコーダーの演奏と指導に当たりました。   ヨーロッパ音楽一筋の鯉沼さんでしたけれど、故横山勝也さんの尺八や、女性琵琶奏者の琵琶の演奏に深く影響を受けて、日本の伝統楽器の演奏者に転身しました。   国内外で幅広く演奏活動を続けている横笛奏者の鯉沼さんに伺いました。

*「蘭(あららぎ)」  横笛奏者:鯉沼廣行

篠笛は竹のなかでも竹質が柔らかくて細くて一節が長い篠竹という竹で必ず一節で作るのが原則です。  日本の楽器はほとんどが中国、韓国、沖縄から入ってきていますが、日本人の生み育てた唯一の楽器が篠笛だといわれています。  雅楽の笛(龍笛,神楽笛、高麗笛)お能に使う能管、こんなところが日本の横笛の種類です。 

龍笛、能管などは真竹を使います。  頭の部分はバランスを取るために鉛が入っていたり石ます。   中は漆と石の粉で塗り固めています。   篠笛は温かいところほど一節が長い。  九州とか四国が多いが私のは千葉の竹を使っています。  福島が北限になって居ます。   楽器は高いが篠笛だけは安いので、商売にする人がなかなか出てこないんです。 フルートは元々木でできていて、くりぬいて、指孔が6つでバロック時代に小指にキーが一つ付いて、段々キーが増えてきて金属になっていまの楽器になりました。  

西洋の音楽は音程がきちんとしています。  日本の音楽にはハーモニーがありませんから、音色を大事にします。   

去年も駄目で今年の演奏会は計画していません。  お稽古はしています。  海外は一昨年春にシチリア、秋にポルトガル、ニューヨークに演奏会で行ってきました。   所沢に自宅,稽古場があり、山梨県にアトリエがあります。  

子供のころお祭りの神社に行ったら笛を吹いて売っているおじさんがいました。  いい音だなあと思って自分の小遣いで買いました。(安かったと思う)   2,3曲吹いたがあきてしまいました。    中学時代にフルートの音色に魅了され、国立音楽大学のフルート科に入学しました。   バロックの音楽に興味を持ってリコーダーという楽器を知って、大学を卒業後リコーダーの演奏家として、踏み出して、母校の講師も務めました。   

横山勝也先生の尺八を聞くチャンスがあり、大変なショックを受けました。  美しいという事だけでは言い表せない人生を深く見つめ直すような音楽でした。   大島の旅館で枇杷の演奏を聴きました。  その時も大変感動しました。  スイスのバーテル音楽院に行ってリコーダーを極めようと思って、多少日本の音楽も知っておかなければと思って、家内がお琴を始めて私が能管を始めました。  どんどん面白くてのめりこんでいきました。 

*「 篠の音取り」  横笛奏者:鯉沼廣行

音取りは雅楽で用いる前奏曲。 「禰取」とも書く。  比較的短い無拍節の曲で、これから演奏する曲(これを「当曲」という)の調子を知らせる。  各楽器の主奏者によって奏され、楽器の音合わせの役割も兼ねる。

子供のころ祭りの神社で出会った笛作りで笛を吹いてくれたおじさんは、笛作りの名人の朗童さんでした。   京都に笛を求めに行って話しているうちに川崎の神社の祭りで出会ったことがわかりました。   注文の笛を要望しましたが最初は首を縦に振ってくれませんでしたが、私の理論が勝ったようで以後、どんどん作ってくれるようになりました。  秋山ちえ子先生の講演の時に笛を吹いてといわれて吹かせていただきました。   秋山先生はいろんな方との出会いをくださいました。

武満 徹さんとも黒澤明監督の「乱」で篠笛の場面で演奏したり演技指導もしました。   話が来た時にはとても喜びました。  大河ドラマ1994年の「花の乱」 1997年の「毛利元就」で笛の演奏と指導を担当をしました。  

高田三郎先生からは作曲を学びました。  怖い先生でした。  音楽の教育科を立て直せと言って先生の鶴の一声で講師になってしまいました。  25歳から50歳まで25年間勤めました。 

演奏旅行で全国を回るようになって、写真を撮るようになり、仏像に関心がり、全国の石仏を撮るようになりました。  「出会いの時」写真集を去年の秋に出しました。  エストニアでの演奏では「悲しみ」がわかりましたといわれて感動しました。





2021年6月16日水曜日

近江俊哉(元WSLジャパン代表)    ・【スポーツ明日への伝言】大海原に飛べ ~サーフィンの魅力を語る

 近江俊哉(元WSLジャパン代表)    ・【スポーツ明日への伝言】大海原に飛べ ~サーフィンの魅力を語る

今度のオリンピックから新しい競技として採用されるサーフィン、オリンピックでは人間の背丈ほどの長さのボードを使います。   ショートボードというカテゴリーで行われます。 このサーフィンの魅力、競技としてのサーフィンの見方などについて元WSLジャパンの近江俊哉さんに伺います。

ハワイから帰国したばかりです。  街には思ったよりも人がいました。  観光客がたくさんいました。   海ではサーフィンをやる方が増えて居ました。  

WSL(World Surf League)は世界中のプロサーフィンを統括する世界の団体です。  世界中から集まって試合をしてゆきます。  起源は1976年で当時はIPS(International Professional Surfers.)と言う団体で、7つの海を世界中に存在するプロのサーファーを集めてリーグ戦にして賞金を出して活動できるようにしようという風に始まったものが、現在に至っています。  

サーフィンはアドベンチャースポーツでしたが、しっかりとしたアスリートスポーツに変化して東京オリンピックに選ばれたことは非常に喜ばしいことです。  

近江さんは1962年、神奈川県湘南の鵠沼の生まれ。  1980年代から国内外のプロサーフィンツアーで活躍、世界中のサーフスポットを訪ねて回りました。  その後サーフィンの専門誌を監修し、ワールドサーフリーグなどサーフィン競技の運営などにも携わってきました。

サーフィンとの出会いは12,3歳のころでした。  頬に流れる風の快感が今でも忘れられません。  一本目でボードに乗れてしまい長続きしそうだなあという実感がありました。    友達がサーフボードを持っていまして、二人でやっていました。  それからはほとんど毎日海に行くようになりました。   サーフィンの映画があり観に行きました。  それを観たら今まで自分の中にあったサーフィンとは全く違って、世界のサーフィンはこんなに違うのかと思いました。  プロサーファーになって世界の海を回りたいなあと純粋に思いました。    大先輩のところに弟子入りするみたいな感じで、門をたたきました。   1979年に一つ上の先輩がハワイに留学することになり、自分も行こうと思って、現地のプロのサーファーに教えてもらいました。  翌年また行ったときにホームステーして、ビザが許される限り6か月間いました。(18歳)  

プロのサーファーとしてできるようになったのは20歳過ぎてからです。  1980年代前半にオーストラリアに行くことが出来て、大会に参加して、車であちこちに行きました。  ハワイのノースショワ 世界で一番の力のある波で、10kmぐらいのところにサーフスポットがあり、海の底が岩でできていてその地形によって、右、左に乗りやすいとかいろいろな波があります。  波のサイズも大きいです。

東京オリンピックでは千葉県の一宮町釣ヶ崎海岸が舞台。  海の底が砂でできていて、砂の地形ができやすい場所で、九十九里浜の波を受けやすい場所にあります。   

競技は4人一組のグループ(1ヒートという)を作って、1ヒートごとに50%が勝ち上がるうというトーナメント方式です。   1ヒートは20分間で構成されます。  優先順位のルールがあり、波が崩れる時に白波になるが、そのピークに近い人から優先的に波を捕まえ ることが許されている。  色付きのジャージを着て、赤、白、黄色、青になります。  5人の審査員が居て、波のサイズ、やっているときのスピード、難易度の高い技、それをミスのないように出来るか、その技の組み入れたバリエーションの豊かなサーフィンに対して高い点が与えられる。  波の様子を自分なりに計算して、来る波に山を張って波に乗る、その駆け引きがあります。   頭の中にイメージしておいたことを来た波に乗って、常に修正しながら行います。  バリエーションを変えてきた選手には高い点が出ます。  

競技だけでなくても一本一本違って来る波を捉えて、自分が考えているイメージ通りにサーフィンが出来た時には至福の時間が一番楽しい時だと思います。   これがサーフィンの魅力の原点だと思います。  

世界のランキングでは男子ではブラジル、アメリカ、南アフリカ、ポルトガル、女子はハワイ、フランス、アメリカ、ブラジルなどが強いですね。 オーストラリアもあります。 

ハワイはアメリカ国旗ではなくてハワイの旗です。  サーフィン界だけの特別なことです。  ハワイの場所に対しての敬意です。  船から島に向かう時に王様だけが長いサーフボードで波に乗って岸に上がるという神秘的な儀式があったらしいです。  それが進化して近代サーフィンになりました。 

五十嵐カノア選手には期待しています。  彼が10歳未満のころに湘南の子供の大会で彼を見ました。   2010年 NSSA全米ナショナルチャンピオンになりました。  彼はスタイルのいいサーフィンをします。  一つ一つが精密な機械のように、彼はそれが出来て居ます。







2021年6月15日火曜日

土屋政雄(翻訳家)            ・カズオ・イシグロの世界を流麗に訳す

 土屋政雄(翻訳家)            ・カズオ・イシグロの世界を流麗に訳す

2017年にノーベル文学賞を受賞した長崎県出身のイギリスの作家カズオ・イシグロさんの受賞後初めてとなる長編小説が今年3月に発売されました。  子供の遊び相手になるロボットが主人公です。  人とAI、人工知能の関わり方や心の在り方などを問う作品です。    イシグロさんは貴族に使える執事を主人公にした日の名残りで世界的に権威のある文学賞ブッカー賞を受賞、一躍注目を集めました。   その日の名残り』を始め今回の『クララとお日さま』などの翻訳を手掛けてきたのが翻訳家土屋政雄さんです。   土屋政雄さんは1944年長野県松本市の出身で、大手コンピューター会社のマニュアルを日本語に訳す技術翻訳からスタートし、雑誌に掲載される外国論文の翻訳、その後日の名残り』と出会いました。   一見平易な語り口で、記憶の不確かさ、人間心理の複雑さを浮き彫りにするイシグロさんの世界、土屋さんは作者の思惑よりも自身の理解を優先させるという翻訳スタイルで流麗な日本語となって読者を魅了します。   土屋さんにその翻訳スタイルや、翻訳家としての生き甲斐について伺いました。

装丁は非常にきれいです。  タイトルは「クララと太陽」でという話でしたが、私が考えていた『クララとお日様』をメールしたら、『クララとお日さま』になっていて直しますという事だったが、ひらがなのほうが断然いいと思い『クララとお日さま』になりました。  

イシグロさんは一昨年の春先には完成していたといっていました。  まず奥さんが目を通して、次に娘さんが読んで二人のOKが出ないとダメな感じです。  半年後にOKとなって、貰って眺めていたら病気で入院してしまって3月に退院して、翻訳OKになったのが4月ぐらいで翻訳を開始しました。  『忘れられた巨人』は10年前ぐらいでした。 

イシグロさんはとうとうとしゃべる方ではなくてひょうきんなとこともあります。  AIを搭載したロボットという事で、完成品という感じで見ていました。  クララだけに判る言葉がいくつかあり列挙されていて、一度使ったら全編を通して使ってほしいというような要望がありました。  私らにはわからないものもあり、その中に「RPO」がありますが、イシグロさんなりに何か意味があるのかなと思います。  

原文を受け取って翻訳して日本語の版を出す、そこまでは翻訳者の仕事だと思っています。作者には聞かないようにしています。   イシグロさんからもこれはおかしいというような指摘も特にないです。    翻訳に不信感を抱いたことがあったようで、翻訳の時に誤解しないような文章にしようと思ったようで、イシグロさんの文章は翻訳しやすいです。

1964年のオリンピックの後、海外との交流が一気に膨らみ、翻訳会社が出来たりして、大学生でしたが、翻訳の仕事も始めました。  大型コンピューターのマニュアルの翻訳の仕事をして、生活は安定しました。  論文の翻訳も手掛けるようになりました。    

文学作品の翻訳を始めた時は、一日分を翻訳して、翌日も翻訳した同じ部分を読み直して違和感があったら直して翻訳し、新しい部分も翻訳します。  三日目も最初から読んで、ちょっと違和感があると直し、時間があると先に進みます。   四日目も最初からやり始めて連日やるわけですが、なかなか進まない。   一章が終わって二章に入って、一章がしっくりこないと思うと又一章をやり直したりします。  これを1か月、2か月毎日繰り返すわけです。  こうやってゆくと作品に入り込めます。  原文から内容的に離れて行くという事はないです。   理屈に合わないことは理解できない、読者も戸惑うと思います。  きっちり因果関係が判るように心がけています。  論理を踏み外さないようにすることが第一です。  作者の言いたいことはこうだから、こういうべきではないかと思う時がありますが、その思いを通してしまう場合などもあります。 

多言語の世界を日本語に変えられるという事がなかなか面白い作業だと思います。   日の名残り』を30年振りに読み直す機会がありましたが、「翻訳というのはこうやって古びてゆくんだなあ」と思いました。    違和感を感じる部分があり、今の女性と当時の女性の立場というのがずいぶん違う、古臭い女性に感じてしまいます。  言葉使いも含めて。  

1989年 フィンランド愛好の会があり、福引があり私が一等賞になってフィンランドまでの航空券で帰ってきてから日の名残り』を読んで見てくれないかと渡されました。  前作の『浮世の画家』は中央大学の富田先生が翻訳していて、事情がありできないという事で私のほうに日の名残り』の翻訳が回ってきました。   文学作品は初めてなので、慎重になりました。  77歳でもう先の時間が少ないので、2つだけ翻訳したいものがあります。『白鯨』(アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称される)とウエールズ語の本で原作ができて40年後に英訳されたもので、これをやってみたいと思っています。


2021年6月14日月曜日

郡司盛夫(郡司浩平選手の父)       ・【アスリート誕生物語】

郡司盛夫(郡司浩平選手の父)       。【アスリート誕生物語】

郡司盛夫さんは1982年21歳で競輪選手としてデビュー、2018年57歳で現役を退きました。   いまは川崎競輪場で開催指導員をされています。  

 開催指導員は運営者と選手の中立的立場、信頼関係を結び開催と厚生の安全を実施して、参加選手の適切な走行、規則違反の指導とかをしています。  選手の相談の対応、レースの指導等を行っています。   川崎競輪場で2月に行われた第36回全日本選抜競輪で郡司浩平選手が優勝しました。  G1連覇となる。  

賞金ランキングは上位でこの間まではトップだった。  A級からS級に上がるのには相当厳しいです。  S級のS1は最上級になっています。  選手は約2200人いますが、その中の9人は力だけでは無理ですね。   S1は努力、才能、運も全部兼ね備えていないといけない。

1990年9月に次男の浩平が生まれました。  2か月後の11月には平塚S級シリーズで私としてはS級で初優勝を飾りました。  うまくめぐりあわせもあるのかなと感じました。   

浩平は高校3年生の時に進路については、警察官か競輪の選手になりたいと言ってました。  それまでは野球をやっていました。  競輪の選手になるという事になって嬉しかったが相当覚悟を決めないといけないとは思いました。  

小さいころは控えめな子でした。  親子というよりも友達のような形でいました。  運動神経は悪くはなかった。  小さいころは勉強はやれとかは言わないで一緒に付き合いました。    競輪選手としては宿舎に3泊4日が月に2,3回あります。  朝4時過ぎには朝練で出って行ってしまうので、朝は一緒に食べたことはないです。    夜は競走のないときは食事と勉強は一緒にしていました。   妻が肉や魚が嫌いなので、そうならないように店に連れて行って肉や魚を食べさせて嫌いにならないように気を付けました。   叱ったことはほとんどないです。  

警察官か競輪の選手になりたいと相談された時に、心のなかでは「よし」と思って強い選手に育てなければいけないと思って、覚悟を決めました。   3か月乗って見て駄目ならやめろとは言いました。  結果的に1か月で目途のタイムは出せました。  今までの関係を断ちたいと子供には誓約書を書いてもらいまいた。  これからは父としてではなく師匠として何があっても従いますという事を書けと言って誓約書を書いてもらいました。  浩平はその時に涙をポロポロ流していました。  私もつい涙が出てきてしまいました。  生活面でも厳しくしないと大成しないと思って、浩平には覚悟を決めてもらいました。

競輪学校に受かって、そこを出た時に、それ以後は選手として、個人競技なので自分でやっていかなくてはいけないので、選手になってからはほとんど言いませんでした。  ポイントとなるような助言はしました。   3年で芽が出なかったらやめてもらうような覚悟はしていました。  デビューして1年後に膝のお皿を割ってけがをして、手術をした翌日からリハビリをはじめて、そこを乗り越えて次の目標をどうするのか、目標を立てていきました。  新人同士のレースがありそこで2位になり、一人で努力できる人間だなと思って何とかやっていけるだろうと思いました。   

自分では鎖骨の骨折はしたことがありましたが、膝のけがはなかったので、どうなるか非常に心配はしました。  浩平は先頭を切って風を受けるレースで私とは全然違います。 レースを作れるので面白くなっていくし、やる気も出てくると思います。    

トップ選手になれたのは人一倍練習したからだと思います。  平常心で理性的なところもあると思います。   現状に満足しないで上を目指してやって行ってもらえればいいのかなあと思います。   師匠と弟子という誓約書が分岐点になっていたのかなという気がします。
















2021年6月13日日曜日

綾小路きみまろ(漫談家)        ・【私のがむしゃら時代】

 綾小路きみまろ(漫談家)        ・【私のがむしゃら時代】

去年古稀を迎えた綾小路きみまろのお話です。   長い下積み生活を経て50歳を過ぎて中高年漫談でブレークしたきみまろさん、鹿児島県の農村地帯で過ごした子供のころからおもしろいことを言っては人を笑わせていたといいます。  当時の夢は司会者で高校卒業後夢をかなえるべく単身上京、新聞配達をしながら大学生活を始めますが、或る出会いからキャバレーのボーイになります。   そこからキャバレーの司会者、さらに森進一さんや小林幸子さんの歌謡ショーや各地の祭りの司会者などをしているうちに漫談家を目指す様になります。   しかし50歳になってもテレビや寄席など大きな活躍の場のなかったきみまろさんは最後の勝負に出ました。  きみまろさんの30年の潜伏期間にやってきたことは無駄なことは一つもなかったといいます。   どんな出会いとどんな努力の日々があったのでしょうか。

去年の2月20日に宮古島でやってからコロナでずーっとできなくて、9月に次が出来ました  。   それまでは年間100回ぐらいあちこちを回っていましたが、自分は必要がないんじゃないかと思ったりして苦しかったです。   河口湖に家があるので、そこで農作業をしていました。

コロナのない時には3分ぐらいでお客をつかんでいましたが、マスク姿のお客さんに対しては10分から15分かかったような気がします。   

去年の12月に古希を迎えました。  52歳でブレークしたのでそれから17,8年になります。  体力が落ちましたね。  スポーツジムに行ってましたが、そこにも行けなくなりましたが、畑で体は鍛えられました。  

小学生のころからとんちの効いた話をしていたと親が話していました。   父親には「男はそんなににやにやして笑うものではない」と言われていました。   小、中、高と先生の物まねやったりしていました。   父親は農業や農耕馬を増やすための種付け師をしていました。  学校では恥ずかしかったです。  耕運機、トラクターが出てきて馬が必要なくなり馬喰などをやっていました。  畑の仕事は高校卒業まで手伝っていました。

TVでは当時NHKとTBSの2局だけで、TBSで「ロッテ歌のアルバム」という番組があり、玉置宏さんが司会をやっていまして、こういう仕事は面白そうだと思って司会をやりたいと思うようになりました。   父親に「東京に行きたい」と言ったら、「これからは農業の時代ではないので行ってもいい」と、意外とあっさり賛成してくれました。  1万円もらって27時間かかってゆきました。   新聞配達をしながら、翌年拓殖大学商学部に入りました。  余った新聞をどうぞと言って渡していったら、その人がキャバレーの営業部長で宮崎の人で奥さんが鹿児島出身でした。   キャバレーでボーイの仕事をするようになりました。 一日2回ステージがありました。    出会いで自分の人生が変わったみたいなところはありました。  或る日司会者の人が休んでやってみて、なかなかうまいといわれてそれが始まりでした。(玉置宏さんの司会の真似などはずーっとやっていました)  

そこで雰囲気、度胸などを培ったと思います。   だんだん漫談を考えてやるようになりました。   いわゆる客いじりをやっていました。   28歳ぐらいの時にあん摩マッサージ指圧師国家資格取りましたが、この世界ではずーっと生きていけないと思って取りました。   日劇で猪俣公章先生のリサイタルがあり、森進一さんの育ての親だったので、森さんがゲストで出ていて、猪俣 公章先生のマネージャーから漫談でゲストで出てほしいといわれていて、その時に森さんから僕の司会をやってみないかと言われました。

森さんとは同じ鹿児島で、その後10年間お世話になりました。  漫談ができるので着替えなどの空きの15分程度のつなぎが出来たので重宝されました。  段々漫談をやりたいと思うようになりました。   漫談の仕事をしていたら小林幸子さんの司会を依頼されて4年半ぐらい司会の仕事をしました。  そのあと伍代夏子さんが7年やりました。   漫才ブームがありそのころはお呼びがありませんでした。  ビートたけしさんなどが世に出る前に一緒に呑んだりしていましたが、みんな世に出て雲の上の人になってしまって、一人小さくなっていました。    ピン芸を扱ってくれるところはありませんでした。   司会をやっていると中高年の方がおおくて、中高年の話をしようと思って切り替えて、そういう場所を歌手の方々が与えてくれました。

司会をやっているころからネタ帳に書き込んでいました。  今でもやっています。   受けたネタは財産になっていきました。  それで私の漫談が徐々に出来上っていきました。  52歳でブレークしましたが、その前に作った漫談を真剣に漫談を聞いてくれる人が居なくて、売れなくってもいいからこういう人間がいたんだという事を残そうと思って、カセットテープで作っていろいろ考えた挙句にバスだと思いつきました。  バスが何十台も停まるようような駐車場に行って、ガイドさん、添乗員さんなどに無料で毎日配りに行きました。

そのうちに2000円でお届けしますというようにして、電話が掛かってくるようになりました。  51歳のころでこれで駄目だったら田舎に帰ろうというような気持でしたが、売れてきてこれで潮目が変わったなと思いました。  一日10本が目標でしたが、最終的には一日400本になりました。  レコード会社からCDを出さないかと言わたのが、メジャーになれる入口みたいなところでした。  「爆笑スーパーライブ第1集中高年愛をこめて」のCDが出る事になりました。 一枚2500円で飛ぶように売れました。  累計約180万枚売れました。  

毎回ライブを録音して聞き直しています。  不安なんですね。  自分を守ろうとすると面白くなくなるんですね、無難に行こうとするんですね。  今でも夜に聞いています。  最高のパフォーマンスをしたいと思っているので、一生懸命やって失敗してもいいかなと思っています。  客さんが笑ってくれることが私の幸せです。





2021年6月12日土曜日

2021年6月11日金曜日

長野ヒデ子(絵本作家)         ・【人生の道しるべ】コドモの力を信じターイ!

長野ヒデ子(絵本作家)         ・【人生の道しるべ】コドモの力を信じターイ! 

長野さんは昭和16年愛媛県今治市生まれ、79歳。  長野さんの代表作「せとうちたいこさん」の本は26年続く人気シリーズです。   好奇心旺盛の魚のタイのお母さんが陸の世界でいろんなことに挑戦するのですが、最後は慌てて海に戻ってホッとする姿は瀬戸内海で育った長野さんご自身と重なる絵本です。   今年は長野さんが絵本作家として「とうさん、かあさん」でデビューしてから45年、長野さんは子育てや文庫活動の経験、出会った人々との交流の中で一つ一つ代表作を生み出してきました。  

現在鎌倉に住んでいて、朝ラジオ体操から始まります。  家の周りの動植物を観察したりします。   日常生活の中に琴線に触れるようなことがあったらこれを絵本にしていったらなあとか思っています。   「せとうちたいこさん」の本は26年続いています。  海外でも翻訳されて出版されています。   最新刊がせとうちたいこさんが富士山に登るという、富士山とお友達になるという話です。   瀬戸内で育って魚にはなじみがあるし、タイを食べて育ったし、でも今の子は肉であまり魚はたべないので、もっと魚に興味を持ってもらいたいと思って魚を主人公にして作ってみたらと思いました。   「たいのたいこさん」という歌もできました。  作詞:長野ヒデ子  作曲:中川博隆  歌:長野ヒデ子

子供のころはよく忘れ物をする子でした。  小学校3年の時にレントゲンを取ったら影があって、一学期休むことになりました。  そうすうると余計ぼーっとして、何かを眺めて想像したり、そういうのが癖になりました。   物語を作る癖がついた感じでした。  子供のころは図書館もなく近くには本屋もなくて本には出会えませんでした。   絵本は絵がきれいだし読みやすいので、絵本を買ってしました。(1960年代)   子供たちが家に来て本を読んだりしているうちに子供とも親御さんともだんだん親しくなっていきました。   引っ越しを何度もしましたが、地域地域でいろんな友達が出来ました。  夫が転勤族だったので引っ越しは13回になります。  文庫活動をやりたいと思いました。

昭和51年に「とうさん かあさん」という絵本で 作家デビュー。  手作りで、広告の紙の裏とかに落書きを書いて、 子供のリクエストのまま描いたりしたものをホチキスでとめただけのいい加減なものでした。   そうしたらたまたま九州の出版社の福本満さんという方が、面白いからこの本を出したいという事で、出すことになり賞をもらったりしました。  第一回日本絵本賞の文部大臣奨励賞を受賞。  いい編集者に出会えてよかったなあと思います。   どうしていいのか自分でもわからなくって絵本作家の人に聞いてみたら、「絵本を作るうえで大事なものが全部入っている」と言われました。  「子供のどんなくだらない質問にも馬鹿にしないで、対等に向き合って作る、子供の絵本を作る時に一番なくてはならないものだ」という事でした。   「人間と人間として向き合って伝え合う、話し合う、そのことがないと子供の本にはなりません」と言われました。

児童文学作家の今西 祐行さんと出会う事がありました。  国語の教科書に載っている「太郎コオロギ」、「一つの花」とかを書かれた方です。   食育教育のようなことを今西先生のところでやっていてそこに通う事になりました。   「創作も野菜つくりも全くおんなじだ」といわれました。   「雨とか、おひさまとか、目に見えない自分ではない力をもらって育って収穫する、アイデアが浮かぶのはそれは種だ、だから野菜とおんなじだ」と言われました。   

おかあさんもこうして生まれたんだという事を視点を広げて「おかあさんがおかあさんになった日」が出来あがりました。  産経児童出版文化賞を受賞。

新美 南吉 「きつね」という作品に絵を描いて作品にしています。  新美 南吉は4歳で母親が亡くなり養子に出されます。  新美 南吉に出会えてよかったなあという作品です。 29歳で亡くなる直前に書いた作品。  私の父と新美 南吉が亡くなった歳と同じぐらいなんです。  私の歳でいうなら結婚して希望のあるころに自分で命を絶ったんです、4歳のころでした。   

戦争体験談の文章 「1945年5月8日 4歳  病弱の父に赤紙が来た。・・・1945年8月5日 国策によりタオル工場は飛行機の部品を作る工場になっていたところもあった。  深夜B29襲来。 ・・・焼夷弾が落とされた。  ・・・防空壕では危ないという事で防空壕を出た。  ・・・祖母は私にかぶさり芋畑に伏せる。  空襲で市街地は焦土化し、454人が亡くなった。 ・・・夜が明けて8月6日 対岸の広島に原爆が投下された。   1945年8月15日終戦。  その秋4歳。 死んだような廃人になって父が帰ってきた。 ・・・父はぼーっと日向ぼっこか読書だけの日々。  私はそんな父が好きで背中に乗った。」

井戸の中に自分がいるといっていて、父が井戸に飛び込んで、医者が来たりして人工呼吸をやっていたが、その姿を私は目の当たりに見ていて、可愛そうで涙も出なくて、その時にお父さんを守ってあげなければいけないと思ったの。  しばらくして西田幾多郎の記念館に講演を頼まれていったんですが、パネルがあって西田幾多郎の言葉がありました。  「井戸の中にあなたがいる。」と書いてありました。   うちの父は読んでいたんだろうなあと思ったりしました。   

子供でも判るが、子供は人に伝えるすべが判っていない、でも人は生まれながらにして感じる事とか思う事とか関係なく同じだと思います。   子供から大人まで判ってもらえるようなものを書きたいし、楽しい嬉しいことがあると元気になるので、その中に大事なものが自然と入れたらいいなあと思います。  日常の生き方が問われるという感じです。



2021年6月10日木曜日

井上鑑(作曲家)            ・葉っぱのフレディ、今だから伝えたいこと

井上鑑(作曲家)            ・葉っぱのフレディ、今だから伝えたいこと 

井上鑑さんは1953年(昭和28年)チェロ奏者の井上頼豊さんの長男として、東京都で生まれました。  桐朋学園大学音楽学部作曲科で三善晃氏に師事します。  大学入学前後からCM音楽の作曲やスタジオワークを始めました。  1980年スーパーバンドPARACHUTE(パラシュート)に参加、3枚のアルバムを出します。  1981年ソロデビューの後に井上さんが編曲を手掛けた寺尾聰の『ルビーの指環』が日本レコード大賞を受賞、その後も大瀧詠一さん、福山雅治さん、佐野元春さん吉田兄弟など多くのアーティストのプロジェクト、ヒット作品に参加します。    2013年から「連歌・鳥の歌プロジェクトを主催し、スペイン、ウクライナでもコンサートを開催しています。

4月にNHKで放送された「我が心の大瀧詠一」では編曲とサウンドプロデューサーを担当。40年近く仕事をしていますが、大瀧さんとは最初のころからかかわってきていて、大事な人でした。  超一流のアマチュアリズムを持っていて、音楽はメインで詳しいんですが、それ以外のことに関しても非常に視野が広くて、ものすごい知識人なんです。  深く多方面にといった感じです。   刺激を与えてくれるという事という意味では非常に影響が大きかったです。  野球とか相撲とかも知識の幅が半端ではないんです。   自分の仕事を選ぶ人というのは、或る意味では究極のアマチュア精神を持っているんじゃないかと思います。 

1999年に森繁久弥さんの朗読によって生まれた『葉っぱのフレディ』に東儀秀樹さんと一緒に音楽を担当。   (『葉っぱのフレディ』は、アメリカの教育者レオ・バスカーリア(1924~1998)が、不治の病におかされていた子どもに「死」の意味を伝えようと書かれ、1982年に出版されました。)  『葉っぱのフレディ』に関しては共感ポイものは自分としてはそんなに好きではないです。  誰がかかわるかという事でそれがものすごく変わるんだなという事がこの時に思いました。    森繁久弥さんの朗読は上手なのかよくわからないかもしれないけれども、人に伝わる熱量がすごい、さすがだなあと思いました。  当時森繁さんは長男を亡くして失意のどん底にあったようです。  

20年ぶりに『葉っぱのフレディ』の音楽を担当。 (宇崎竜童を語りに、井上鑑、キーボード、德川眞弓がピアノ)  長生きする作品というものは元々力があるんだなという事は一番最初に感じました。  音楽も命を長く保つことが難しい時代になってきて、一つの作品、曲が長い間受け渡されてゆくことは奇跡ですよね。  その事にかかわれているというのはすごくうれしいです。  一個の曲とか言葉にどれだけのエネルギーを吹き込むかという事が精神的なことも必要ですが、同時に技術も必要で、客観性というか自分だけ熱くなってもその熱さは伝わらないという事を知っている人が仕事をしないと伝わらないという気がします。  森繁さんと宇崎竜童さんではエネルギーの質は違うがエネルギー量とか熱とかは同じものを匠の技として表現していると思います。

今回新曲を作りましたが、楽器の要素が減るという事は大まかにいうと、鋭さが増すというメッセージになると思いますし、逆にいろんな変化はつけたくなるので、演奏、編曲とかも持っている役割は増える。  ピアノ、シンセサイザー、朗読という3人だけでできる3人だけでできるという事は身動きが軽くなります。    生きている生物みんなにとっての問いかけだと思うので、それが判りやすく書いてあるというのがこの話の特徴だと思います。  

父はチェロ奏者の井上頼豊、生徒が演奏したりする音楽のすぐ横にはいたんですが、人を楽しませるための音楽ではなかった。  ビートルズとかサイモンとガーファンクルとか聞いていいなあとは思って友達とまねごとをしてみたりしました。  ヴァイオリンとピアノを習いましたが、2か月ぐらいしか続かなかったです。   小さいころ縫いぐるみ人形がいっぱいあり配役を当てはめてオペラみたいに一人でやっていました。  高校時代、学園紛争の時代で都立青山高校に入ったんですが、学校が封鎖されて授業がなかったんです。  周りは東大に一杯いって、この先どうしようかと考えました。 友人がジャズにはまったり自分でも音楽を楽しんだりはしていました。  音楽に対して充実感を感じていました。

1981年編曲した寺尾聰さんの『ルビーの指環』が大ヒット、レコード大賞を受賞。    時代との出会いのタイミングが良かったのかなと思います。  ジャズとロックが近づいた時代ですが、ラテンの感じがあってそのコンビネーションが、今を感じるバランスにうまくまとまったんだと思います。

長くやってこられたのは、周りの人との出会いがすべてだと思いますが、お互いの周波数があったときにいい仕事が生まれると思います。  「生まれた時にすぐに消えてゆくのが音楽の宿命」というのは、演奏しているとその場からどんどん減衰して消えて行ってしまう、そこが音楽の魅力で、作る側にとってみては消えてしまってゆくからこそ、毎時間、毎秒音を出しているという事が音楽の本質なんだという風に感じることができると感じるんで、同じ録音されたものを聞くのでも、晴れた日と雨の日でも違うし、特に『葉っぱのフレディ』のような作品の場合には聞かれる方の置かれている気持ちのありようで、すごく変わって聞こえたり違うものになると思う。  作ってる側の出している音にはメッセージがあるのでおなじものを含めて伝わる。  それが素敵だなあと思います。  コロナの時代で難しいが、生の演奏の良さをたくさんの人が改めて楽しめる時代になってほしいと思います。  消えるのは音で音楽は消えない、伝わってゆくと思います。  






    

2021年6月9日水曜日

柏耕一(警備員・ライター)       ・交通誘導員卒業

 柏耕一(警備員・ライター)       ・交通誘導員卒業

今年の4月から改正高年齢者雇用安定法が施行され、希望者に70歳までは働ける機会を確保する事が企業の努力義務になりました。  とはいうものの65歳を過ぎてからの仕事は極めて少ないのが現状です。   そんな中70歳以上の就労が増え続けている職種があります。  それは警備員です。   道路工事などで車両や通行人の安全に気を配りながら案内する交通誘導が代表的な仕事となっています。  柏さんは75歳、交通誘導警備員の体験を本にまとめて2年前に出版、今も版を重ねています。  

交通誘導員を去年の7月まで出ていましたが、その前に出した「交通誘導員ヨレヨレ日記」という本が少し売れて余裕が出来たので、本業だった出版、編集の仕事に戻って頑張ってみたいなあと思っていて、完全にやめるというわけではなくて、休業中という事にしています。 外での仕事なので顔が黒くなるのはしょうがないところですね。 

交通誘導員が1号から4号まであり、1号は市役所、大きな商業ビル、空港などで施設警備というのをやっている業務を言います。   3号などは現金輸送の車で現金をもらったり運んだりする業務についている人たちです。(若い警備員が多い)  4号警備は要人(首相、皇族など)のボディーガードの業務を言います。  2号警備は、交通誘導警備や雑踏警備を総称した区分です。   警備員は2019年度では約57万人、交通誘導員は40%ぐらいを占めます。  

現場に出る前に3日間研修を受けます。  67歳で警備員になりましたが、ハローワークでの仕事はあまりなく警備員が手っ取り早いと思いました。   交通誘導員の場合は主として道路工事、水道、ガス、電気など屋外の仕事が大部分なのでコロナの影響はないよと言われたことはあります。  今所属している警備員会社は規模は小さくて250名ぐらい登録していますが、8割は70代以上と言っていました。  大手の警備会社は別として多くの警備会社はどうしても年齢が高くなります。  85歳という人もいました。

元映画監督、元医者という方もいましたし、鉄鋼プロデューサーをやって銀座でバブルのころ交際費を1億円使っていたという人もいましたし、先ほど話した85歳の人は20年前は左官をやっていて250万円は稼いでいて、60人ぐらいの部下を使っていたという事でした。  矢張りそれぞれ理由があり、その85歳の人は同業者2人の3億円の連帯保証人になって一人は自殺、一人はパンクして債務が全部その方にかぶさってきて、豪邸を売却したり相当苦労してお金を返済したと聞いています。

中高年の女性も2割ぐらいいます。  ホステスがどうも合わないのでという若い女性も居ました。  夫婦で警備員という方々もいました。 

工事個所の片側相互通行をスムースに車を誘導したり、歩行者の安全確保、誘導などを行います。  判断の悪い人がいると工事もスムースにいかないので、警備会社にもう来ないでくれとかクレームを入れるわけです。  9時間働く中で1時間は休憩をとることができますので、コンビニで弁当を買って食べたりしています。  台風の中で業務をこなしたことがありましたが、それが一番きつかったですね。  猛暑の中での業務も疲れてしまって大変でした。  寒さも大変です。  私は一日9000円でした。  早く終わっても同額出してくれます。  

なかには自販機から冷たいものを買ってきてくれて、感じのいい業者さんがいたりすると一日ストレスなく仕事ができますし、周りの方から「大変ですね、お疲れ様でした」と言われると気持ちが違います。  文句をつける人もいます。

30歳ぐらいの時に出版社に入社することになり、親会社がゴルフ場経営で失敗して、あおりを食って倒産してしまいました。   仲間と出版プロダクションを始め25年以上やってきました。  いい時期もあり酒を飲んだりギャンブルに相当お金もつぎ込んで、どうしようもなくなりました。  浪費とギャンブルで税務署に差し押さえられるようになりました。そこで警備員になって稼ぐことにしました。  警備員で稼いだお金は差し押さえすることがなかった。

出版の仕事は30年以上やっていたので300冊ぐらいは出しました。  エッセーとかハウツーの本が多かったです。  ベストセラーの本を扱ったこともあります。  小説などは大手出版会社以外は無理だと思います。  

2年前に会社は清算しました。  私は4回警備会社が変わっています。  トータルで4年警備員をしました。  ちょっと余裕ができると出版のほうの仕事に戻って、お金が無くなると警備会社に入ってという風に繰り返していました。   やめて10か月ぐらいですが、いろいろ企画も増えてきていて、1年後には大分状況が変わると思っています。   自分で書いたもので「14歳の武士道」というテーマで書きおろしたもので、武士道は新渡戸稲造が明治32年に英文で欧米向けに書いた武士道の本ですが、私は武士道を解説しつつそこに女子中学3年生の剣道部副主将という主人公を立てて物語風にして武士道を解説するスタイルをとりました。  

どんな仕事でもどんな経験でも全く無駄という事はあり得ないので、警備員のいろいろな方と付き合って来たなかで合わせ鏡のように自分のことを判ってくる部分もあるわけです。  いろいろ考えさせられてちょっとやそっとではへこたれないという、そういう気持ちにはなりました。








2021年6月8日火曜日

佐々木愛(俳優・劇団代表)       ・俳優・劇団代表

佐々木愛(俳優・劇団代表)       ・俳優・劇団代表 

1943年演出家の佐佐木隆さんと、女優の鈴木 光枝さんの長女として東京に生まれました。  高校在学中にご両親が創設された劇団文化座の研究生となり、17歳で舞台に立ちました。  以来60年舞台を中心に活躍しています。   代表作の一つ越後つついし親不知の演技で紀伊国屋演劇賞主演女優賞を受賞しています。  1987年からは劇団の代表も務めています。中国地方公演中の佐々木さんに伺いました。

いつもお客席の半分から1/3ぐらいのお客様を相手にお芝居をさせていただいていますが、ものすごく集中してみていただけるのと、最後の拍手がすごいんです。  

高校2年の時に文化座に入りまして、高校3年生の時に荷車の歌』で初舞台を経験しました。  母が主演で孫の役をやりました。  母は厳しかったです。  特に結婚して子供が生まれて、主演をやるころはきびしかったです。  我孫子駅に着くのが午前1時でした。 その間子供は親戚だとかみんなの手を借りて育てました。   

当時は若い俳優が少なくてNHKの番組などにもいろいろださせてもらいました。  舞台とTV、映画の話が来たのですごく忙しい思いをしました。   掛け持ちをしていましたが、危ないこともあり舞台を中心にするようになりました。   舞台では独り芝居にも挑戦しました。  越後つついし親不知の演技で紀伊国屋演劇賞をもらったりしましたが、それは40人ぐらいでやっていましたが、それを一人でやってみろと言われ、引き受けてしまいました。  水上勉先生からはもっともっといろんな面を発揮してほしいという思いはあったようです。   女優というのは40歳を過ぎたら人間の醜いところ、ずるいところ、いやらしいところも全部出せるようにならないと本当の演技は演じれれないよと言われました。   原稿用紙55枚 2万語だといわれました。  9人の役をこなしました。

水上勉先生は演出もされました。  怒鳴られて凄かったです。   初演の時には一睡もできなかったので、一升瓶があったのでそれを飲んで白々と明るくなってから寝付いたことを思い出します。  起こしに来た先生は一升瓶を見てびっくりしたのを覚えて居ます。 以来越後つついし親不知』の独り芝居を16年間、168回上演しました。  先生と母が見てくれた幸せなラストステージでした。(59歳)    

私が小さいころは母(鈴木光枝)はNHKのラジオ番組によく出かけて行ってました。  人形劇「ひょっこりひょうたん島」でど根性ばあさんで歌も歌っていました。  新劇では齢を取った人が居なくてよく母は年寄り役をやっていました。  母は88歳で亡くなりました。   父(佐佐木隆)は58歳で亡くなりました。   父が文化座を作ったのが1942年で、11人でした。   築地小劇場(当時は国民新劇場)で第一回の旗揚げをしました。  文化座は満洲にわたって、8月6日のソ連軍の侵入があり、九死に一生を得て1年ぐらい抑留生活を送ることになりました。  戦争の悲惨さを見てきたので、ひきあげてきてからも、そのことは絶対忘れまいという事を私たちも聞かされて受け継いでいます。

いかにお芝居の中で皆さんに感じていただけるようなお芝居を作ろうと思って今までやってきています。  今は劇団の代表を務めていて劇団員は53名になります。  来年は創立80年になります。   生きるという事はただ生息するという事だけではなく、ほかの動物とは違うところの真意というか、そこのところを今回のコロナ禍ではいろいろな意味で、みんなが考えたりする時期ではなかったのかなと思っています。  早く収束して皆さんが安心してお芝居なり、コンサートなり来ていただいたり、当たり前な生活ができる事を願っています。

2021年6月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】名久井直子

穂村弘(歌人)          ・【ほむほむのふむふむ】ブックデザイナー名久井直子 

伝説の歌集「シンジケート」31年の時を経てヒグチ ユウコさんの絵と名久井直子さんの装丁で新装版が刊行されています。  

穂村:1990年に「シンジケート」を自費出版して、当時会社員で入社して3年目ぐらいでした。   溜めていたお金をすっからかんにしてしまったのを覚えています。  

名久井:新装版を手掛けることは緊張しますが、時代時代に合わせて外側が変わってゆくという事は必要なことだとは思います。

穂村:著者も何十年もたつと、これも久しぶりに読み直してみるといろいろやばかったんですよ。  いまはなくなったものとかがいっぱい出てきたりしています。  受話器とかダイヤル、それはまだしょうがないんですが、今の倫理観ではだめなものが結構あるので直したいが、読者だった自分のことを考えると、作者だという特権で直すことがあるんですが、それを喜んだ記憶が一回もなくて、せめてここまでは直したいというものもありますが。   今回は絵は画家のヒグチ ユウコさんになっていますが。

名久井:彼女とは友人でもあるんで、心強いです。  彼女とは3日合宿して単語を書き出して、その空気感を出していこうと模索していきました。  半透明なものに印刷されています。

穂村:もう一つびっくりしたのはキャンディーの紙がどこかのページに重なっている。 これはなに?

名久井:最初に穂村さんが「シンジケート」を作ったときの話を前に聞いていて、装丁というものがよくわからなかったから、飴の包み紙とか紙くずを一杯持って行ったという話が心に残っていって、誰かが挟んだ自分の好きな包み紙みたいな感じでヒグチさんが描いた飴の包み紙が入っています。

穂村:今回リクエストはしていませんが、一つだけお願いしたのは31年前に出した時に真ん中の帯に大島弓子さんの推薦文を頂いていますが、それだけは生かして消さないでいてほしいと編集者にお願いしました。  「水滴が雪になるように言葉が結晶化して歌になる、そして降り積もって雪野原のような本になった。   今年初めて積もった雪、穂村弘の初めての歌集  大島弓子」  これを読んでしくしく泣いた覚えがあります。

名久井:もともと短歌には親しみがありました。  紫式部の歌が好きで子供のころ必至に覚えていたりしました。  穂村さんの作品に触れて衝撃を受けて、私も書こうと思ってしまいました。(20年近く前)

穂村:名久井さんとの間で推敲をする機会がありました

*「きのくにやしょてんをろくじに きのくにやしょてんをろくじに くりかえすよる」     名久井直子

穂村:紀伊国屋書店は待ち合わせの定番で、主人公は大事な待ち合わせがある。  これで直すところは全然ないんだけれど、ひらがなで書かれているものを全部カタカナにしたらどうかという事になりました。 

*「キノ クニ ヤ ショテン ロクジニ キノ クニ ヤ ショテン ロクジニ クリ カエス ヨル」 呪文のようになって見た目にもリズム的にもこの人が待ち合わせにとらわれている感じが出たんじゃないかと思います。  今読んでもとてもいい歌ですよね。

海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」 「シンジケート」から  穂村弘

蛸といえば吸盤冬といえば雪夜の散歩といえば私たち」  穂村弘

名久井:今回選んだものはヒグチさんの絵で選んで見ました。     


水準器。あの中に入れられる水はすごいね水の運命として」   穂村弘

名久井:水が永遠にあの中に閉じ込められているというのがすごいです。

穂村:ある意味恐ろしい運命ですよね。  自分が水だったら木の中にある水がいいかな。

どちらかといえば現実の地図ほうが美しいということ」   穂村弘

名久井:本当に一番好きな穂村さんの歌です。 雪が降って街が白い街になり、現実は白い凹凸の世界になっている。  

*「愛し合う夢を見ました 水中でリボンのようなウミヘビに会う」  穂村弘

穂村:本当にカラフルなウミヘビがいます。

穂村:名久井さんが選んだものは水に関するものが多いですね。 私も雪国の生まれで親しくなる人が北の人が多かったりします。

リスナーの作品

*「階段を 配達員がたったったっ 母が喜ぶ一段飛ばし」

穂村:母が喜ぶというところが面白いですね。

*「ニュースより 最後に名乗るその声が やけに気になるラジオの不思議」

穂村:ラジオだと声しか情報がないのでその名前が重要な情報のように、イメージが出来てしまう。

*「コロナという 嵐の中を行く聖火は 聖火にあらず鬼火となりて」

穂村:社会的批評性のある歌かなと思います。

*「家を出たら 七人の敵なら 50名の敵か 七人の侍は」

穂村:背景は慣用句があり、面白いのは突っ込まずにはいられない、四十九人だろうって、読んだ人は思わずにはいられない。

*印は 正しい文字で記載されていない可能性があります。

2021年6月6日日曜日

岡本茉利(女優・声優)         ・【時代を創った声】

岡本茉利(女優・声優)         ・【時代を創った声】 

小学生の時に『喜劇・団地親分』という映画を見学していて、その場で声をかけられて、出演したのが女優、声優を目指すきっかけになったといいます。

アニメでの代表作には『ヤッターマン』のアイちゃん(ヤッターマン2号)、いなかっぺ大将』のキクちゃん、花の子ルンルン』のルンルン・フラワー役など数多くのアニメや、映画の吹き替えなど、現在も舞台でも活躍中です。  

現在は待機状態で、7月に名古屋のほうで公演予定があります。  旅芝居という事で半月おきに劇場をかえて、旅回り芝居をやってきましたが、最長で2か月半家を空けます。  北海道で旅芝居をやっていて代役を立てていただいて飛行機で東京に戻ってとんぼ返りをして仕事をこなすようなこともありました。   

大阪の大きな団地に住んでいた時に、『喜劇・団地親分』ロケーションで日曜日に撮影していました。   小学校の1年生の時でしたが、撮影が珍しいので母親と一緒に行きましたが、黒山の人だかりで見えないんです。  うろうろしていたら助監督から声をかけられて、即その場で幼稚園児として撮影の中に入れていただきました。   集合写真がありますが、渥美清さん、森繁久彌さん、伴淳三郎さん、大村崑さん、ミヤコ蝶々さんなど東西の喜劇人のそうそうたる方たちがそろって写っていました。

それがきっかけで京都の児童劇団、NHK大阪児童劇団で活動してラジオドラマなどに出ました。  東京に移ったのが中学3年生の時でした。  1971年に『男はつらいよ』シリーズ第8作『寅次郎恋歌』に旅役者の娘・大空小百合役で出演。  渥美清さんからは衣装のことでいろいろと指示を頂いて、私が29年生まれだと言ったら、僕も29年なんだよというんですが、意味がよくわからなかった。   実は片肺の手術をして生死をさまようようなことになり、29年に元気になって生まれ変わったから29年生まれだという事でした。   温かい言葉をかけていただきました。 大空小百合役で何回か出演させていただきました。

声優としてのデビューは1970年のアニメ『昆虫物語 みなしごハッチ』へのゲスト出演。  初レギュラーは同年放送のアニメ『いなかっぺ大将』の大柿キク子役。  アニメーションに出させていただくようになりました。     

回りにはそうそうたる方たちの声優さんがいましたので、それだけで衝撃でした。    やればやるほど自分の駄目なところが気付いてきました。  ヤッターマン』のアイちゃん役では自分自身うまくいっていないような感じで、暗中模索でいました。   アニメが一杯放映されるようになり、いろんなジャンルの人が参加されるような時期になりましたので焦りました。  声優は大好きでしたが、このままではだめだと思いました。   勉強しなおさないといけないと思ったのが20歳ぐらいの時でした。  山田洋次監督に相談して、いろいろな立場の人たちのことを含めて勉強させてもらいました。

アニメ『いなかっぺ大将』での愛川欽也さんと野沢雅子さん、渥美清さんと倍賞千恵子さんらの阿吽の呼吸の面白い演技、声の出し方とか見せていただき、間についても学びました。

沢竜二さんに紹介していただく機会があり、お芝居に出ないかという事で出させていただきました。  いろんなジャンルの人が出たので面白かったです。  時代劇の化粧の仕方、かつらの付け方、衣装、木刀を使っての演技の仕方など身に付くまでやりました。   

声優の魅力は、自分ではないキャラクターとか、動物とか、全く違う表現の幅がありますが、それがすごく楽しいです。    

これからやる人、今声優をやっている人は、やっぱり後に続く人がいるんだという事をちょっと意識していただいて、健康に留意して、いつかはチャンスがあるので努力して頑張っていただきたいと思います。

生活の中に笑いがあると元気になるので是非日々笑いを取り入れていくと変わってくると思います。

2021年6月5日土曜日

松村真宏(大阪大学大学院 経済学研究科 教授)・おもわず行動してしまう! <仕掛学>が社会を動かす

松村真宏(大阪大学大学院 経済学研究科 教授)・おもわず行動してしまう! <仕掛学>が社会を動かす 

世の中には人の心にスイッチを入れる仕掛けがあちらこちらにあるといいます。   みんなが思わず行動してそれが社会をよくすることに繋がればそんないいことはありません。    松村さんが提唱する仕掛け学とはどんなものなんでしょうか。   

実験室にはいろいろなものがありますが、映画「ローマの休日」に出てくる「真実の口」のレプリカもあります。  手を突っ込んで嘘をついた人は噛まれるという伝説のあるものです。  実験に使ったものですが、これを見ると多くの人が口に手を入れたくなるんです。   入れると消毒液がかかるようになっています。   面白がってつい手を入れたくなる。

男子トイレの的、そこに入るとつい狙いたくなる習性があるので、一番跳ね返りの少ないポイントに的が貼られています。  トイレをきれいに使うという行動と一緒になるわけです。  阪神電車の駅にあるものは的が炎になっていて、的に当たると炎が消えるんですね。(温度に反応する。)   正論を言っても人の行動はそんなに変わらない。   正論ではない方法として仕掛け学が使えるんじゃないかと思います。   

廊下に扇形の絵が描いてあって、扉が開くという事を暗示しているマーキングがありますが、仕掛けというよりも情報提供をしているだけですね。    仕掛け学では客観的な証拠がないと説得力もないし、本当かどうかわからないので、実験をしてデータを取って検証をして何倍の効果があるとか、効果がなかったというような時には条件を変えたら効果が出たとか、行うわけです。   小さな鳥居を塀の下などに設置することで、ゴミ除け、立小便禁止などに効果があるという事でよく使われています。   実際にゴミが捨てられることが多い場所に鳥居を設置して確認したら、効果がある場所とない場所がありました。  管理している人がいるんだという事を知らせるために、その横に日捲りカレンダーを付けました。   その人が見に来ているという事を暗に伝えるようにしました。   そうするとすごい効果がありました。  

パン屋さんが新作を作るがなかなか試食してもらえないので、試食をすると買わなければいけないような暗黙のプレシャーがあって、遠慮する人が多いのかなあと思いました。  使った爪楊枝をおいしかったもののほうに投票してもらうということにして、ただ食べたという事ではなくて、情報提供するという事で罪悪感みたいなものが払しょくできるのではないかと思いました。   仕掛けがない時には来店者の11%が試食をしていましたが、仕掛けを設置すると20%に上がりました。  

仕掛けの定義としては、①公平性(人をだまさない)  ②誘因性(興味ある切りくちで) ③目的の二重性(仕掛ける側と仕掛けられる側で目的が違う)  

仕掛けもどきは、立って待って行ってくださいという足のマークがありますが、綺麗な手書きであるために悪いと思っていてよけて立っていた。  そういった例がありました。

人工知能の研究をしてドクターまできましたが、限界があるなあと感じ始めて、2006年ごろに仕掛け学の研究テーマを思いつきました。  人工知能はデータをもとにしているのでデータのないところにはアプローチできない。  将来性のある分野は自動運転だとか、医療分野とかはあるが、研究する人たちは一杯いるので違う分野を考えました。  ほとんどは人間の行動が創り出しているなと思いました。  それを解決するためには装置とかを作り出すことはなくて、それを解決するためには各自の行動をちょっと変えるだけでも解決することが多い。   仕掛けの価値もあると思いました。  

或る時、遊びに行った動物園で筒があり、覗くと象のフンがみえるという単なる筒でした。これがブレークスルーとなりました。  行動を変えさせることによって発見を導いてあげるという、大きなヒントになりました。   一般の人たちに興味を持ってもらえるように仕掛け学という風にしました。    

3年前に大阪駅で行った実験では、エスカレーターは混み過ぎては危ないので、階段のほうに分散させるという仕掛けをやったことがあります。  階段に行く先の自分の好きなほうに上ってもらうようにしました。   階段が7%増えました。  密回避に成功しました。いい方向へのきっかけも悪い方向へのきっかけも両方あると思いますが、いい方向へのきっかけを増やしていければすごくいいなあとは思います。

空いているスペースに住民が花壇を作るという活動をしているところがありますが、街に花があふれるようになるので景観がよくなり気持ちがよくなるという事がありますが、交流が生まれて地域つくりにもなります。  見知らぬ人が入ってくるとどんな人だろうかと思われたりして、そうなると泥棒が入りずらくなり、治安が良くなるといわれています。

最近、中高生からの問い合わせも増えています。  皆さんにどんどんやってもらったらいいなあと思います。


2021年6月4日金曜日

高杉良(作家)            ・破天荒な生き方を貫いて

 高杉良(作家)            ・破天荒な生き方を貫いて

1939年東京生まれ、石油化学専門誌の記者の傍ら、1975年「虚構の城」で作家ビューしました。  以後、綿密な取材に基づいた企業小説、経済小説を次々に発表、なかでも 日本銀行の頭取だった中山素平や、ビール会社社長であった樋口廣太郎など財界のーリーダーを取り上げた作品や、会社の中間管理職、ミドル層の葛藤や活躍を描いた作品に定評があります。  これまでに80作以上の作品を刊行され、発行部数は累計およそ500万部、文庫本は出版社を変え2度、3度と文庫化されまして、1500万部を超えています。   最近は自伝的小説に取り組み2017年に発表した「めぐみ園の夏」で小学生のころ預けられた児童養護施設での日々を語り、その続編ともいえる高杉さんの青年期の日々を描いた「破天荒」が今年の春出版されました。   80歳になるころから肝臓がんや眼底出血など相次いで病気に見舞われ、これが最後の小説になるかもしれないとの覚悟で臨んだ作品です。 

「破天荒」という作品を今年の春出版、大手の出版社の方から「高杉さんは破天荒ですね」と言われました。    自分のことは自分で作っておこうと思いました。    吉川英治先生にしても山本周五郎先生にしてもなくなった後、家族が大変な思いをされてます。    そういう事はしたくないなあと思いました。  メモとか日記などはありません。 記憶です、昔のことは鮮明に覚えています。  情報は深かったです。  出入り禁止と言われた時もありましたが、そういわれても当時は入れるんです。  牧野 力さんは通商産業省の事務次官で言いたいことは言える、年も同じです。   

たまたま幸運な人に出会えたと思います。  いろいろな人と人との出会い、それが本当にラッキーでした。  19歳で業界紙の『石油化学新聞』に入社、その後2足の草鞋をはいて、その時代が長いです。  日本興業銀行の中興の祖といわれた中山素平さんとは深い付き合いがありました。    中間層の悲哀、喜びといったものも書きました。

80冊以上書いてきましたが、題材はその時にパッと気が付きます。  好奇心が普通の人よりも3倍ぐらいあります。  そするうとどうして、どうしてという事になるんです。  

めぐみ園の夏」 児童養護施設での日々を語っていますが、家族、子供にも話してはいませんでした。   やはり一番つらいことでつらいから頭の中から忘れたい排除したんです。やはりあの時の1年半があったからこそ作家になれたんだという思いがあります。  3歳のころのことも明確に言えるんです。  母が離婚することになり施設に預けられることになりました。   小学6年から中学までの1年半めぐみ園に通うわけです。  養護施設の子はつらいし、自分でも思い出したくなかった。  でも動機は家族には迷惑かけたくない、自分のことは自分で始末しておこうと、そんな思いです。

めぐみ園では酷いことがいっぱいありましたが、負けん気の強さはありました。  それは母親譲りだと思います。   母は旧家の生まれで、女学校を出ていて誇り高く、やさしさがありましたね。  作家になりたいという、文才はあったと思います。 

めぐみ園の夏」には方向音痴な母親のこと兄弟のことなども描かれています。   母親は大好きです、何冊も読んでくれました。  文章の良し悪しなど指摘してくれて、今でも母のことを思うと涙が出できます。   「男は強くなければ生きっていけない、優しくなければ生きて行く資格がない。」(文庫本の後書き)

女性はもっともっと世の中に出ていかないとおかしいと思います。  本当は母親は一番強いんですよ。

リーダー不在、つらいですね、政治が痛んでますね。  もっと「あるべき論」があってしかるべきです。  リーダーの素質は人がついてきてくれるかどうか、が一番大きいでしょう。   人間性、人間力、政治家のリーダーはもっと頑張らないといけないと思います。樋口太郎さんはみんなに伝えたがった。  鬱陶しいと思われることもあるかもしれない。

一番気にして書いているのがリアリティーです、他人の作品も読みますが、取材していないなあと思う作品があります、もっと取材してもらいたいと思います。  そのためには訪問するしかないです、断られたら次はいつかという風なしつこさがないといけないです。  いじわるされ たこともありますが、それにも負けない。    日本人の寄り添う、寄り合う事はいいことなんで、本当はもっとある筈だと思って居ます。   活字の社会が衰えてきているという事がつらいです。

書きたいことはいっぱいありますが、取材に対して思うようにできないという事のネックがあります。  せっかちなタイプで遅刻するという事はないです。   孫は全部で7人いますが、進路のことについてなどは一切言わないです。  一人ぐらいは作家が出てきてくれればいいなあとは思っています。  あとにつづくものに伝えたいことは、優しさがもっとあってもいいなあとか、もうちょっと頑張ってもいいんじゃないのかなあとか、もう少し前進しようよとか、ですが、足りないところは学ぶしかないんです。  経済小説という分野はもっと出てきてもらいたいんですが。




2021年6月3日木曜日

森山まり子(自然保護団体前会長)    ・森のクマが教えてくれたこと

 森山まり子(自然保護団体前会長)    ・森のクマが教えてくれたこと

24年前大学生になった教え子たちと自然保護団体「日本熊森協会」を結成しました。   熊の住める奥山、水源の森の再生活動に人生をかけています。   森山さんを自然保護活動に結びつけたのは、中学校の理科教員の時、絶滅しそうなツキノワグマを救いたいという中学生たちの思いがきっかけでした。  そしてツキノワグマを守りたいという思いがたどりついたのが、豊かな水を生み出す奥山の森がいかに大切なものかという事でした。   森とツキノワグマと人々の生活にはどのようなかかわりがあるのか、「森のクマが教えてくれたこと」いう事で伺いました。

今から30年前になりますが、教え子が新聞記事を持ってきました。  がりがりに痩せたツキノワグマが出てきて撃ち殺されて、写真が大きく出ていました。   新聞記事を最後まで読んで大きな衝撃を受けました。   日本の森や動物たちが大変なことになっているという事がそれまで全く知りませんでした。   原生林を大規模伐採して儲かりそうな、スギ、ヒノキだけ植えて人工林に変わっていった。    秋になっても動物が食べられる実がならない。  針葉樹は日光を通さないので下草が消えてしまった。   生き物がいない死の森になってしまっている。  クマなどが生きられなくなって出てくると、撃ち殺して駆除してしまう。  冬眠するためのうろもなくなってきてしまった。  ツキノワグマが絶滅寸前ですと書いてありました。    生物の多様性を守ることが最も大事という事を教えていたので、日本文明の存続にかかわる大変な事態だと思いました。   自然保護団体は日本では育っていないことが調べてわかりました。 

クマの住んでる森は水源と関係があることがわかりました。   1997年に「日本熊森協会」を設立し調査を始めました。   最初は人工林に入りましたが、薄暗くて、水路が干上がっていました。   兵庫県と鳥取県の間の氷ノ山(ひょうのせん)というあたりに原生林が残っていたので調査をしようと思って入りました。   ブナ、ミズナラの落葉広葉樹の森でした。 光を通して下まで明るくて草などいろんな種類がびっしり生えていました。  虫がいて、鳥の声も聞こえました。  動物たちが草を食べた痕跡なども見られました。  自然の森は生き物たちが森を作っているんだなあと思いました。    クマは年間に200種類ぐらいを食べるそうです。   

西洋では生き物を次々に絶滅させてきてしまっていました。  里山の奥に江戸幕府が木を切ってはならぬという聖域を作ったので、動物たちは奥山でひっそりと生き抜くことができた。  仏教の影響などで明治政府になるまでは1200年間殺生禁止が続いていた。    広大な原生林が残っていた。  

岡山県と兵庫県の境にある原生林に調査に行ったときに、大雨の中を見ていましたが、葉っぱが雨を受けて枝から幹に集まってくるんです。  幹が川のようになっていました。 下には落ち葉があり水が流れない。  原生林の保水力にびっくりしました。  晴れている日でも落ち葉が濡れていて裏側には菌類が付着しています。  数十年かけて水が湧き出してきて栄養分豊かな水が出てくるわけです。   

温暖化の影響なのかミズナラが多いところでは9割枯れて仕舞いました。   ブナの実は中が空っぽで食べられません。   原生林が変わってきてしまっていて、保水力もなくなってきて、年ごとに変わってきています。   

自然のなかで生きてきたあるおばあさんが「私たちは妻さんが棲んでおられるあの山から水をもろうて生きてきた。」というんです。  21世紀は水で戦争が引き起こされるかもしれないとある先生が講義をしたところ、或る生徒が「水道があるから大丈夫です。」と答えたということで、全然理解していないことに唖然としたそうです。

初は少人数だった会員も今では全国に約1万9000人を数えるまでになり、行政の方々に意見を言っていますが、なかなか取り上げてもらえない。  生徒が言った言葉が今も忘れられません。『大人は子どもに愛情なんてないんと違う? 自然も資源も自分たちの代で使い果たして、ぼくらに何も置いとこうとしてくれないんやな』  私たちもこの言葉をしっかり受け止めて、大人は未来の子ども達に何をすべきか今一度考えていきたいものです。

自然は人間が思うようには何一つならないですね。  苗木を植えても翌年に行くと枯れていて、横に違う木が生えてすくすくと育っていました。  自然にまかすのが一番いいと思うようになりました。  場所によっては実のなる木を植えたりしています。  

「日本熊森協会」の大学生たちが くまもりソング「豊かな森をとりもどそう」という歌を作って子供たちに歌ってもらって、森や動物を守ろうという運動をを知らせるという事をやってもらっています。













  

2021年6月2日水曜日

小池妙子(看護師)           ・話し相手のいない高齢者を無くしたい

小池妙子(看護師)           ・話し相手のいない高齢者を無くしたい 

長年看護教育の専門家として数多くの看護師を世に送り出してきた小池さん、83歳の今も横浜の看護専門学校で教鞭をとられています。   看護師時代は都立病院で初めて院内保育園を立ち上げ、感染病棟等で学んだ感染予防対策は現在のコロナ禍の中で、地域の人たちの健康管理に大いに役立っています。   地域に少しでも恩返しをしたいと、自宅を改造して2年前からスタートした子供食堂と高齢者健康体操教室は子供からお年寄りまで、世代を超えて笑顔が絶えません。  人の喜ぶ顔を見るのが何よりも生き甲斐という小池さんに、老年介護、感染症予防のエキスパートの立場から、コロナ禍のいま、高齢者の健康管理に何が大切か、伺いました。

9人兄弟で、兄が2人、姉が2人、妹2人、弟2人でちょうど真ん中でした。   昭和13年生まれで、経済的は厳しかったです。   ようやく高校には入れましたが、制服が買えないのでかえって目立ちました。  4kmの道を歩いて通いました。   経済的な関係で全寮制の看護学校(豊島看護専門学校)に入ろうという事で入学しました。  おかげ様で看護師の資格が取れました。   豊島病院に就職しました。   豊島病院は伝染病院で当時は500人ぐらい患者さんが居ましたが、2割ぐらいは伝染病の患者さんでした。   法定伝染病で感染力の強い病気で、チフス、コレラ、猩紅熱(しょうこうねつ)、日本脳炎など12種類を法律で症状がなくても保菌者は隔離する。  12年間感染症病棟にいました。  コロナの時代に非常に役立ったのが感染症の知識と技術でした。   

結婚も早くて子供もすぐにできて、その後も働こうと考えていました。  立て続けに2人子供ができて、当時は保育園がなかったので、空き病棟ができてきたので組合の人と一緒に院長さんのところに行って、建物だけ貸してほしいという事で、同僚等の子供たち5人でスタートしました。  院内保育の第一号という事になりました。  その後保育所がだんだんできて、東京都としても保育士を専門に雇ってという事になりました。  

その後看護師を育てる看護学校の仕事に変わりました。  母が教員だったせいもあり、人に伝えることは嫌いではありませんでした。   一生涯教育に身をささげようと決心しました。   都立の看護学校は60歳の定年まで、最後は校長職になりました。  送り出した生徒は2400~2500人ぐらいになると思います。(クラス80人ぐらいとして30年間)  大学の教員になりたいと思っていたら、大妻女子大学,多摩にできた人間工学部に採用していただきました。   大妻女子大学では10年勤務しました。(70歳で定年)   今度青森に看護の大学を作るから立ち上げからやってくれないかという話があり、弘前に行きました。(79歳まで勤務)  戻ってきたら老年看護学の教師としてやってくれないかという話があり、横浜に週に一回行っています。  90分授業を10分休んで2コマ、立ったまま講義をしています。 

母が認知症になり3年間面倒を見ましたが、母が亡くなり部屋が空きましたので、回覧番に子供食堂をしませんかというチラシが入ってきて、講習会、情報を仕入れたりして一階を子供食堂に改築しました。  板橋区では子供食堂は20数か所ありますが、コロナ禍で現在開いているところは数か所しかないと聞いています。  高齢者の独居に関して気になっていました。  高齢者の方々にも来ていただきました。  最初は10人ぐらいでしたが、今は月2回で40食、ボランティアさんも7,8人来てくれます。  全部で50~60食作ります。    バランスのいい食事を考えています。   半分は大人、半分は子供といった感じです。  

玄関を入る時にスプレーで手の周り、身体,バックとかの持ち物に散布します。 その後熱を測って、洗面所で手を洗ってもらいます。  ボランティアの方も同様に行います。  子供の身体を観察して怠らないようにしています。   テーブルはアルコールで拭きます。    マスクと換気、ソーシャルディスタンス、を守っています。  最も大切なことは顔に手をもっていかない事だと思います。  病原体といわれるものはほとんど鼻と口から入ります。

高齢者のための体操とそのあとの講義、お茶を飲みながらのおしゃべり、を一つのセットにして2時間の健やかヘルス不死身になるように月2回土曜日に始めました。   1年たちますが、部屋の限界が15人ぐらいで、12~15名が来て、さっきお話した体調確認をしてマスクをしたまま体操します。(40~60分)  講義はそれぞれ専門職の方々なので交代で講義をします。  ほかにもいろんなものを取り混ぜてやっています。  コロナになってからは飲食はしていなくてお土産に持って帰ってもたって、お話はしてもらいます。  最後は笑顔で帰ります。  或る空間さえあれば運動できるというのが私の発想で、私は60歳ぐらいから始めました。   寝たまんまの患者さんも足を上げるだけで運動になります。 継続させることが大事です。

残気、高齢者になると二酸化炭素が肺の中に残ってしまう。  体が前かがみになってくる。  肋間筋、横隔膜,腹腸筋、腹斜筋、腹横筋これらが全部肺を囲んでいる筋肉で、筋肉を刺激することで呼吸器を丈夫にする。  これらを叩くことことによって刺激することができる。  深呼吸が一番体にはいいです。  残気が出ていくように肺の周りの筋肉をたたきながら呼吸する。   口からの唾液と喉の刺激がコロナ予防には大切だと考えています。  

人が喜ぶことが生き甲斐です。  笑顔で帰ってくれる、それを望んでいるような気がします。  今回聖火ランナーに選ばれました。  7月18日に200m走る予定ですが、身体を鍛えています。








2021年6月1日火曜日

白土慎太郎(日本民藝館学芸員)     ・【わが心の人】柳宗悦

 白土慎太郎(日本民藝館学芸員)     ・【わが心の人】柳宗悦 

柳宗悦は1889年(明治22年)東京に生まれました。   民芸運動をおこし、芸術、哲学、宗教学など幅広い分野に渡り大きな足跡を残しました。   1961年(昭和36年)5月3日亡くなりました。(72歳)   

同人雑誌白樺』は文芸雑誌ですが、美術的な側面も強い雑誌で、志賀直哉、武者小路実篤とかがいますが、柳宗悦も白樺』の創刊号の時から参加して、美術面のほうで活躍した人です。 ゴッホ、セザンヌとかは当時の最新の美術家で、美術雑誌とか、複製画を見て感激していました。   白樺派主催で複製画の展覧会などもしていました。  その後実物も展覧されるようになりました。   ロダンのブロンズ像というのは白樺』の特集でロダンを扱ったことがあり、交流の中からロダンから3体日本に送られてきました。    

白樺』では後半になると東洋の仏像も紹介するようなりました。  柳宗悦が朝鮮の工芸に興味を持つようになったのは、浅川伯教さんがロダンの像を見に訪れますが、浅川さんが手土産に持参した朝鮮陶磁器「染付秋草文面取壺」を見て感銘を受けて、朝鮮の工芸品に心魅かれる。 最初に朝鮮に行ったのが1916年(大正5年)だが、当時は日本の支配下にあった。   初めて行ってから21回昭和20年までに訪ねていますが、骨董屋、古道具屋にいき、気に入ったものをたくさん安く買えたようです。  それらを手元に置いて自分の思想体系に生かしてゆくような活動をしていったと思われます。   素晴らしいものだが誰にも評価されていないという事もあり、美術館をつくる活動をするわけです。  白樺』誌上で募金を募ったり、奥さんが東京音楽学校声楽科を卒業しているので音楽会を開いて、それを資金に充てたりしました。   

山梨県に朝鮮陶磁器を見に訪ねた時に2体の木喰の仏像に出会い興味を惹かれる。  木喰の仏像は高さが1mぐらいのものが多いです。  特徴は柔らかい微笑を浮かべていて、微笑仏とも言われています。  木喰の仏像を調査することを始めます。   

1923年(大正12年)の関東大震災を機に京都へ転居し暮らし始める。 京都で木喰の研究を続ける。    木喰の仏像は山奥の小さなお寺などに多く残っているためあまり知られていなかった。  柳宗悦は木喰の仏像を発見してゆくことになる。  身近にある仏さんだった。   親しみやすさと同時に神々しさをも兼ね備えていた。  

柳宗悦はすべてにおいて徹底的に調査したりする人でした。  「民芸」という言葉を最初に使った人が柳宗悦でした。  民芸運動を展開してゆく。  民衆的工芸を短くして民芸としています。  身の回りにある工芸品の中にも非常に美しいものがあるという事です。柳宗悦が集めたものは見どころのあるものがたくさん集められています。  柳宗悦は宗教哲学論などを発表していましたが、「健康」とか「清浄」とかは一つのキーワードにはなっていると思います。  特殊な美ではなくて普通の美を極めたみたいな感じでしょうか。

民芸運動には陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎らが共鳴して運動を展開してゆく。 四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。日本民芸館が作られる。   収集したものを国立博物館に寄贈して展示してもらうように動いたがうやむやになってしまって、自分たちでやろうという事になり美術館を作った。 

昭和11年東京駒場に日本民芸館が完成する。  設計にも関わり、基本的には木造建築、大谷石を床に使ったりした設計をしています。 家庭的な温かい雰囲気にしています。  作品には文章の説明は何にもないです。 作品の名前、どこでいつ作られたか、ぐらいです。

読んだだけで作品を理解したつもりになって、作品をあまり見ないで帰ってしまうのはよく無いという思いがあります。  柳宗悦は知識よりも直感を働かせよと言っています。順路も特にないです。   展示の統一感も大事だと言っています。

違ったもの同士が調和するような、お互いがより輝いて見えるというかそういったものを柳宗悦は目指していたと思います。   ものを見るにはこちらから見る目を純粋にして混じ りけのないものにしておかねばならない、素直に受けとる心を用意すればよい、小さな自分をを持ち出さず、十分受動的な心を養うのがよい、と柳宗悦はいっています。

改修工事を終えて4月から当初の形に近いような形でリニューアルオープンしました。  

柳宗悦は新たな道を作る人みたいな人ですね。