樋口純一(老舗折詰弁当店八代目当主) ・江戸から続く味を守って
かつては江戸で働く人々を支え、現代でも当時の食文化を伝えるものとして親しまれている老舗の味、そのお弁当への思いやコロナ禍での奮闘を伺いました。
日本橋で江戸時代後期に生まれた折詰弁当店の8代目。 創業171年、特徴が木の折箱に詰めた折詰弁当。 店の名前が染め抜かれた半纏には魚マークに市場と書かれているが、今は豊洲、そのまえは築地でしたが、もともとは日本橋で魚河岸で発祥したんです。 その名残で魚河岸の意匠が入っています。 最初は樋口屋という食堂でした。 大盛が特徴だったが食べ残してしまったりして、もったいないと思った初代が、残ったものを竹の皮とか経木(木を薄くスライスしたもの)にくるんで、持ち帰っていただくという事を始めました。 そのサービスが非常に好評で、最初から持ち帰り用の要望が出てきて、3代目の時には持ち帰りのほうの需要のほうが多くなっていた。 3代目の樋口松次郎の時に食堂から「弁松」という名前の弁当屋になった。
去年2月ごろからコロナ禍の影響を受け始めました。 お弁当は木で出来た折箱でいい香りがします。 卵焼き、野菜の煮物(タケノコ、レンコン、絹さや、ゴボウ、里いも、シイタケ)、四隅にメカジキの照り焼き、しょうがのから煮、豆きんとん、かまぼこ、つとぶ(つと(すだれ)で巻いた麩だからつとぶという) 濃い甘辛い味。 里いもが一番長く煮ていて2時間から2時間半煮ます。 全体的におかずそれぞれファンが出来ていて、卵焼き、メカジキの照り焼き、つとぶ(関東でも珍しい食材)などはファンが多いです。
深夜0時から0時半ぐらいから作業を始めます。 忙しい時は前日の22時ぐらいからの時もあります。 濃い甘辛い味付は日持ちを良くしたかったことと、肉体労働でカロリーを高くしたかったのではないかと思います。 砂糖は高価だったので見栄の部分もあったのかもしれません。 関東は硬水なので鰹節、煮干しを使っても魚臭さが残ってしまうので濃い口醤油を使ったので味も濃くなってしまう。
小さいころは下が工場になっていて、上が住居で朝は匂いや作業する音がよく漏れていました。 大学に入って自分の家の価値がだんだん判ってきました。 新潟の親戚の料亭で修業をして、その後世界旅行に出かけてしまいます。(7か月) 矢張り日本の食が一番だと思いました。 25歳で実家に就職。 卵焼きを3つの鍋で練習するとかしましたが、半年後に父が突然亡くなってしまい、急遽社長を引き継ぐことになりました。 最初何から手をつけていいのかわからない状態した。 前の人たちの店の方向を示す設計図を理解することから始めなくてはいけなかった。 老舗の会合などにも参加しますが、最初は全然わからなくて、段々と顔見知りになっていきました。 店を繋いでゆくことが一番大事なことというふうに考えると気持ちが楽になっていきました。
就業規則、給与体系、有休とかあまりしっかりしていなかった。 そういった部分の整理をして行きました。 それまでは職人の世界でした。 工場の設備も徐々に新しく導入していきました。 人間が働きやすい環境つくりをしています。 ツイッターでの発信も始めました。 コロナの影響でお客さんとの繋がりを考えて始めました。 2021年2月2日に大きなキャンセルがありキャンセル料もいただけず、廃棄処分も大変です、何とか助けてくださいといった内容のツイッターを発信しました。 「いいね」ボタンがおよそ5万回押されました。 家だけでなく関わっている業者さんなども死活問題になるわけで、応援してくれていた方たちへの発信だったんですが、拡散してゆきました。
キャンセルした材料を使ってお惣菜セットの通販という事でした。 それがものすごい反響でした。 木の折箱も好評でした。 食べる事だけが楽しみではなく、全く別の部分の体験というのが知らないところで生まれて、それをお客様が楽しんでいるという事になりました。 日本のいろんなところにファンがあるんだなという実感と広める余地もまだあるんだなという事が判りました。 味は変えることはなく、調理しているところの見せ方ができるようになったので、アピールしていきたい、価値をもっと伝えたいと思います。