2021年6月1日火曜日

白土慎太郎(日本民藝館学芸員)     ・【わが心の人】柳宗悦

 白土慎太郎(日本民藝館学芸員)     ・【わが心の人】柳宗悦 

柳宗悦は1889年(明治22年)東京に生まれました。   民芸運動をおこし、芸術、哲学、宗教学など幅広い分野に渡り大きな足跡を残しました。   1961年(昭和36年)5月3日亡くなりました。(72歳)   

同人雑誌白樺』は文芸雑誌ですが、美術的な側面も強い雑誌で、志賀直哉、武者小路実篤とかがいますが、柳宗悦も白樺』の創刊号の時から参加して、美術面のほうで活躍した人です。 ゴッホ、セザンヌとかは当時の最新の美術家で、美術雑誌とか、複製画を見て感激していました。   白樺派主催で複製画の展覧会などもしていました。  その後実物も展覧されるようになりました。   ロダンのブロンズ像というのは白樺』の特集でロダンを扱ったことがあり、交流の中からロダンから3体日本に送られてきました。    

白樺』では後半になると東洋の仏像も紹介するようなりました。  柳宗悦が朝鮮の工芸に興味を持つようになったのは、浅川伯教さんがロダンの像を見に訪れますが、浅川さんが手土産に持参した朝鮮陶磁器「染付秋草文面取壺」を見て感銘を受けて、朝鮮の工芸品に心魅かれる。 最初に朝鮮に行ったのが1916年(大正5年)だが、当時は日本の支配下にあった。   初めて行ってから21回昭和20年までに訪ねていますが、骨董屋、古道具屋にいき、気に入ったものをたくさん安く買えたようです。  それらを手元に置いて自分の思想体系に生かしてゆくような活動をしていったと思われます。   素晴らしいものだが誰にも評価されていないという事もあり、美術館をつくる活動をするわけです。  白樺』誌上で募金を募ったり、奥さんが東京音楽学校声楽科を卒業しているので音楽会を開いて、それを資金に充てたりしました。   

山梨県に朝鮮陶磁器を見に訪ねた時に2体の木喰の仏像に出会い興味を惹かれる。  木喰の仏像は高さが1mぐらいのものが多いです。  特徴は柔らかい微笑を浮かべていて、微笑仏とも言われています。  木喰の仏像を調査することを始めます。   

1923年(大正12年)の関東大震災を機に京都へ転居し暮らし始める。 京都で木喰の研究を続ける。    木喰の仏像は山奥の小さなお寺などに多く残っているためあまり知られていなかった。  柳宗悦は木喰の仏像を発見してゆくことになる。  身近にある仏さんだった。   親しみやすさと同時に神々しさをも兼ね備えていた。  

柳宗悦はすべてにおいて徹底的に調査したりする人でした。  「民芸」という言葉を最初に使った人が柳宗悦でした。  民芸運動を展開してゆく。  民衆的工芸を短くして民芸としています。  身の回りにある工芸品の中にも非常に美しいものがあるという事です。柳宗悦が集めたものは見どころのあるものがたくさん集められています。  柳宗悦は宗教哲学論などを発表していましたが、「健康」とか「清浄」とかは一つのキーワードにはなっていると思います。  特殊な美ではなくて普通の美を極めたみたいな感じでしょうか。

民芸運動には陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎らが共鳴して運動を展開してゆく。 四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。日本民芸館が作られる。   収集したものを国立博物館に寄贈して展示してもらうように動いたがうやむやになってしまって、自分たちでやろうという事になり美術館を作った。 

昭和11年東京駒場に日本民芸館が完成する。  設計にも関わり、基本的には木造建築、大谷石を床に使ったりした設計をしています。 家庭的な温かい雰囲気にしています。  作品には文章の説明は何にもないです。 作品の名前、どこでいつ作られたか、ぐらいです。

読んだだけで作品を理解したつもりになって、作品をあまり見ないで帰ってしまうのはよく無いという思いがあります。  柳宗悦は知識よりも直感を働かせよと言っています。順路も特にないです。   展示の統一感も大事だと言っています。

違ったもの同士が調和するような、お互いがより輝いて見えるというかそういったものを柳宗悦は目指していたと思います。   ものを見るにはこちらから見る目を純粋にして混じ りけのないものにしておかねばならない、素直に受けとる心を用意すればよい、小さな自分をを持ち出さず、十分受動的な心を養うのがよい、と柳宗悦はいっています。

改修工事を終えて4月から当初の形に近いような形でリニューアルオープンしました。  

柳宗悦は新たな道を作る人みたいな人ですね。