郡司盛夫(郡司浩平選手の父) 。【アスリート誕生物語】
郡司盛夫さんは1982年21歳で競輪選手としてデビュー、2018年57歳で現役を退きました。 いまは川崎競輪場で開催指導員をされています。
開催指導員は運営者と選手の中立的立場、信頼関係を結び開催と厚生の安全を実施して、参加選手の適切な走行、規則違反の指導とかをしています。 選手の相談の対応、レースの指導等を行っています。 川崎競輪場で2月に行われた第36回全日本選抜競輪で郡司浩平選手が優勝しました。 G1連覇となる。
賞金ランキングは上位でこの間まではトップだった。 A級からS級に上がるのには相当厳しいです。 S級のS1は最上級になっています。 選手は約2200人いますが、その中の9人は力だけでは無理ですね。 S1は努力、才能、運も全部兼ね備えていないといけない。
1990年9月に次男の浩平が生まれました。 2か月後の11月には平塚S級シリーズで私としてはS級で初優勝を飾りました。 うまくめぐりあわせもあるのかなと感じました。
浩平は高校3年生の時に進路については、警察官か競輪の選手になりたいと言ってました。 それまでは野球をやっていました。 競輪の選手になるという事になって嬉しかったが相当覚悟を決めないといけないとは思いました。
小さいころは控えめな子でした。 親子というよりも友達のような形でいました。 運動神経は悪くはなかった。 小さいころは勉強はやれとかは言わないで一緒に付き合いました。 競輪選手としては宿舎に3泊4日が月に2,3回あります。 朝4時過ぎには朝練で出って行ってしまうので、朝は一緒に食べたことはないです。 夜は競走のないときは食事と勉強は一緒にしていました。 妻が肉や魚が嫌いなので、そうならないように店に連れて行って肉や魚を食べさせて嫌いにならないように気を付けました。 叱ったことはほとんどないです。
警察官か競輪の選手になりたいと相談された時に、心のなかでは「よし」と思って強い選手に育てなければいけないと思って、覚悟を決めました。 3か月乗って見て駄目ならやめろとは言いました。 結果的に1か月で目途のタイムは出せました。 今までの関係を断ちたいと子供には誓約書を書いてもらいまいた。 これからは父としてではなく師匠として何があっても従いますという事を書けと言って誓約書を書いてもらいました。 浩平はその時に涙をポロポロ流していました。 私もつい涙が出てきてしまいました。 生活面でも厳しくしないと大成しないと思って、浩平には覚悟を決めてもらいました。
競輪学校に受かって、そこを出た時に、それ以後は選手として、個人競技なので自分でやっていかなくてはいけないので、選手になってからはほとんど言いませんでした。 ポイントとなるような助言はしました。 3年で芽が出なかったらやめてもらうような覚悟はしていました。 デビューして1年後に膝のお皿を割ってけがをして、手術をした翌日からリハビリをはじめて、そこを乗り越えて次の目標をどうするのか、目標を立てていきました。 新人同士のレースがありそこで2位になり、一人で努力できる人間だなと思って何とかやっていけるだろうと思いました。
自分では鎖骨の骨折はしたことがありましたが、膝のけがはなかったので、どうなるか非常に心配はしました。 浩平は先頭を切って風を受けるレースで私とは全然違います。 レースを作れるので面白くなっていくし、やる気も出てくると思います。
トップ選手になれたのは人一倍練習したからだと思います。 平常心で理性的なところもあると思います。 現状に満足しないで上を目指してやって行ってもらえればいいのかなあと思います。 師匠と弟子という誓約書が分岐点になっていたのかなという気がします。