土屋政雄(翻訳家) ・カズオ・イシグロの世界を流麗に訳す
2017年にノーベル文学賞を受賞した長崎県出身のイギリスの作家カズオ・イシグロさんの受賞後初めてとなる長編小説が今年3月に発売されました。 子供の遊び相手になるロボットが主人公です。 人とAI、人工知能の関わり方や心の在り方などを問う作品です。 イシグロさんは貴族に使える執事を主人公にした『日の名残り』で世界的に権威のある文学賞ブッカー賞を受賞、一躍注目を集めました。 その『日の名残り』を始め今回の『クララとお日さま』などの翻訳を手掛けてきたのが翻訳家土屋政雄さんです。 土屋政雄さんは1944年長野県松本市の出身で、大手コンピューター会社のマニュアルを日本語に訳す技術翻訳からスタートし、雑誌に掲載される外国論文の翻訳、その後『日の名残り』と出会いました。 一見平易な語り口で、記憶の不確かさ、人間心理の複雑さを浮き彫りにするイシグロさんの世界、土屋さんは作者の思惑よりも自身の理解を優先させるという翻訳スタイルで流麗な日本語となって読者を魅了します。 土屋さんにその翻訳スタイルや、翻訳家としての生き甲斐について伺いました。
装丁は非常にきれいです。 タイトルは「クララと太陽」でという話でしたが、私が考えていた『クララとお日様』をメールしたら、『クララとお日さま』になっていて直しますという事だったが、ひらがなのほうが断然いいと思い『クララとお日さま』になりました。
イシグロさんは一昨年の春先には完成していたといっていました。 まず奥さんが目を通して、次に娘さんが読んで二人のOKが出ないとダメな感じです。 半年後にOKとなって、貰って眺めていたら病気で入院してしまって3月に退院して、翻訳OKになったのが4月ぐらいで翻訳を開始しました。 『忘れられた巨人』は10年前ぐらいでした。
イシグロさんはとうとうとしゃべる方ではなくてひょうきんなとこともあります。 AIを搭載したロボットという事で、完成品という感じで見ていました。 クララだけに判る言葉がいくつかあり列挙されていて、一度使ったら全編を通して使ってほしいというような要望がありました。 私らにはわからないものもあり、その中に「RPO」がありますが、イシグロさんなりに何か意味があるのかなと思います。
原文を受け取って翻訳して日本語の版を出す、そこまでは翻訳者の仕事だと思っています。作者には聞かないようにしています。 イシグロさんからもこれはおかしいというような指摘も特にないです。 翻訳に不信感を抱いたことがあったようで、翻訳の時に誤解しないような文章にしようと思ったようで、イシグロさんの文章は翻訳しやすいです。
1964年のオリンピックの後、海外との交流が一気に膨らみ、翻訳会社が出来たりして、大学生でしたが、翻訳の仕事も始めました。 大型コンピューターのマニュアルの翻訳の仕事をして、生活は安定しました。 論文の翻訳も手掛けるようになりました。
文学作品の翻訳を始めた時は、一日分を翻訳して、翌日も翻訳した同じ部分を読み直して違和感があったら直して翻訳し、新しい部分も翻訳します。 三日目も最初から読んで、ちょっと違和感があると直し、時間があると先に進みます。 四日目も最初からやり始めて連日やるわけですが、なかなか進まない。 一章が終わって二章に入って、一章がしっくりこないと思うと又一章をやり直したりします。 これを1か月、2か月毎日繰り返すわけです。 こうやってゆくと作品に入り込めます。 原文から内容的に離れて行くという事はないです。 理屈に合わないことは理解できない、読者も戸惑うと思います。 きっちり因果関係が判るように心がけています。 論理を踏み外さないようにすることが第一です。 作者の言いたいことはこうだから、こういうべきではないかと思う時がありますが、その思いを通してしまう場合などもあります。
多言語の世界を日本語に変えられるという事がなかなか面白い作業だと思います。 『日の名残り』を30年振りに読み直す機会がありましたが、「翻訳というのはこうやって古びてゆくんだなあ」と思いました。 違和感を感じる部分があり、今の女性と当時の女性の立場というのがずいぶん違う、古臭い女性に感じてしまいます。 言葉使いも含めて。
1989年 フィンランド愛好の会があり、福引があり私が一等賞になってフィンランドまでの航空券で帰ってきてから『日の名残り』を読んで見てくれないかと渡されました。 前作の『浮世の画家』は中央大学の富田先生が翻訳していて、事情がありできないという事で私のほうに『日の名残り』の翻訳が回ってきました。 文学作品は初めてなので、慎重になりました。 77歳でもう先の時間が少ないので、2つだけ翻訳したいものがあります。『白鯨』(アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称される)とウエールズ語の本で原作ができて40年後に英訳されたもので、これをやってみたいと思っています。