2021年6月8日火曜日

佐々木愛(俳優・劇団代表)       ・俳優・劇団代表

佐々木愛(俳優・劇団代表)       ・俳優・劇団代表 

1943年演出家の佐佐木隆さんと、女優の鈴木 光枝さんの長女として東京に生まれました。  高校在学中にご両親が創設された劇団文化座の研究生となり、17歳で舞台に立ちました。  以来60年舞台を中心に活躍しています。   代表作の一つ越後つついし親不知の演技で紀伊国屋演劇賞主演女優賞を受賞しています。  1987年からは劇団の代表も務めています。中国地方公演中の佐々木さんに伺いました。

いつもお客席の半分から1/3ぐらいのお客様を相手にお芝居をさせていただいていますが、ものすごく集中してみていただけるのと、最後の拍手がすごいんです。  

高校2年の時に文化座に入りまして、高校3年生の時に荷車の歌』で初舞台を経験しました。  母が主演で孫の役をやりました。  母は厳しかったです。  特に結婚して子供が生まれて、主演をやるころはきびしかったです。  我孫子駅に着くのが午前1時でした。 その間子供は親戚だとかみんなの手を借りて育てました。   

当時は若い俳優が少なくてNHKの番組などにもいろいろださせてもらいました。  舞台とTV、映画の話が来たのですごく忙しい思いをしました。   掛け持ちをしていましたが、危ないこともあり舞台を中心にするようになりました。   舞台では独り芝居にも挑戦しました。  越後つついし親不知の演技で紀伊国屋演劇賞をもらったりしましたが、それは40人ぐらいでやっていましたが、それを一人でやってみろと言われ、引き受けてしまいました。  水上勉先生からはもっともっといろんな面を発揮してほしいという思いはあったようです。   女優というのは40歳を過ぎたら人間の醜いところ、ずるいところ、いやらしいところも全部出せるようにならないと本当の演技は演じれれないよと言われました。   原稿用紙55枚 2万語だといわれました。  9人の役をこなしました。

水上勉先生は演出もされました。  怒鳴られて凄かったです。   初演の時には一睡もできなかったので、一升瓶があったのでそれを飲んで白々と明るくなってから寝付いたことを思い出します。  起こしに来た先生は一升瓶を見てびっくりしたのを覚えて居ます。 以来越後つついし親不知』の独り芝居を16年間、168回上演しました。  先生と母が見てくれた幸せなラストステージでした。(59歳)    

私が小さいころは母(鈴木光枝)はNHKのラジオ番組によく出かけて行ってました。  人形劇「ひょっこりひょうたん島」でど根性ばあさんで歌も歌っていました。  新劇では齢を取った人が居なくてよく母は年寄り役をやっていました。  母は88歳で亡くなりました。   父(佐佐木隆)は58歳で亡くなりました。   父が文化座を作ったのが1942年で、11人でした。   築地小劇場(当時は国民新劇場)で第一回の旗揚げをしました。  文化座は満洲にわたって、8月6日のソ連軍の侵入があり、九死に一生を得て1年ぐらい抑留生活を送ることになりました。  戦争の悲惨さを見てきたので、ひきあげてきてからも、そのことは絶対忘れまいという事を私たちも聞かされて受け継いでいます。

いかにお芝居の中で皆さんに感じていただけるようなお芝居を作ろうと思って今までやってきています。  今は劇団の代表を務めていて劇団員は53名になります。  来年は創立80年になります。   生きるという事はただ生息するという事だけではなく、ほかの動物とは違うところの真意というか、そこのところを今回のコロナ禍ではいろいろな意味で、みんなが考えたりする時期ではなかったのかなと思っています。  早く収束して皆さんが安心してお芝居なり、コンサートなり来ていただいたり、当たり前な生活ができる事を願っています。