高田正人(テノール歌手) ・【夜明けのオペラ】オペラ歌手逆転人生
東京芸術大学大学院でオペラを学びイタリアとニューヨークに留学、帰国後はオペラの舞台で活躍、このラジオ深夜便でも5年間ミッドナイトオペラに出演、豊富な経験に裏打ちされた軽妙なお話しぶりが大好評でした。 現在はオペラやミュージカルの舞台を務める一方洗足学園音楽大学、昭和音楽大学、平成音楽大学などで後進の指導にもあたっています。 今日のテーマはオペラ歌手逆転人生。
日本では40か所、声楽コースのある大学があります。 東京近郊でも500名ぐらいのオペラ歌手の卵が世の中に送り出されています。 全国では1000名程度になります。 世界でいうと数万人がめざしているとおもわれます。
1.イタリアのバリトン歌手レオ・ヌッチ
*『セビリアの理髪師』 レオ・ヌッチ 歌ってい居るがしゃべるように無理のない、溌剌とした声。
小さいころからブラスバンドで 楽器を吹いていました。 ボローニャ近郊のカスティリオーネ・デイ・ペーポリに生まれる。 オペラを聞くのが盛んな地域だったといわれる。 15歳の時に車の整備工場でカンツオーネを歌いながら仕事をしていたら、声楽教師がそれを聞いて「歌の勉強をしなさい。 君の口の中には黄金があるよ。」と言われて音楽の勉強を始める事になる。 23歳の時に最初に受けたコンクールで見事に優勝。 いろいろなコンクールに出てその年に受けたすべてのコンクールで優勝する。 25歳の時に優勝したコンクールでオペラ歌手への道に進み『セビリアの理髪師』でデビュー。
当時のイタリアはオペラの全盛期で素晴らしいバリトン歌手がたくさんいたので,端役はきたが大きい仕事は回ってこなかった。 オーストリアへ行くためにお金を稼ごうと思って、レストランで流しバンドのような感じで何人かとやっていたら、人気が出てお金がたまってきた。 スカラ座の合唱団に入ればお金ももらえるという事で試験を受けて合格して、スカラ座の合唱団員を始める。 ソプラノ歌手アドリアーナと出会って結婚して、オーストリア行はやめる。 1973年にリニャーゴというところのリゴレットで大成功を収めって、(リゴレット役がレオ・ヌッチ 奥さんのアドリアーナがジルダ役で歌った) イタリアでレオ・ヌッチが知られるようになる。 1975年スカラ座の合唱団を辞める。 1977年スカラ座へ『セビリアの理髪師』フィガロ役でソリストとして帰って来る。
イギリスでの公演でバリトン歌手が急に出場できなくなり、そこのソプラノ歌手がレオ・ヌッチを知っていて、本番でも歌ってもらう事になり、すばらしい出来で大喝采だった。 これで世界中で有名になった。(当時36歳) ソプラノ歌手に推薦され、逆転人生にはそこには人がどこかにいるんですね。 歌と人柄ですね。
*リゴレット 「悪魔め、鬼め」 レオ・ヌッチが350回以上歌ったといわれる当たり役
2.イタリアの女性歌手 ジュリエッタ・シミオナート
小さいころから歌がうまくて、20歳のころには小さな劇場で歌うような感じでした。 23歳の時にフィレンツェの大きなコンクールを受けて、審査員は大指揮者セラフィンはじめそうそうたるメンバーで決勝まで行きそこで歌ったら会場は割れんばかりの拍手で優勝しました。 セラフィン自らスカラ座へのオーディションを推薦し、受かる。 25歳でスカラ座に入って契約を結ぶ。(1935年) 戦前のスカラ座では、ファシスト党シンパの歌手が重用されたため、シミオナートはその実力を認められながらも、なかなか主役としての芽が出ない時期を過ごした。(補欠的な歌手でしかなかった。) シミオナートはそんな状況の中12年間過ごす。 セラフィンがスカラ座の指揮者となり、覚えているかどうかセラフィンに聞いて見ると「あなたのような声を忘れるわけがない、昨日のことのように覚えています。」と言われた。 1948年のスカラ座での『ミニョン』の題名役で大成功を収め、名実ともにスター歌手としての道を歩み始める。 イタリア文学者の武谷なおみさんは、1959年小学生の時に来日したシミオナートを聴いて感激し、文通を始め、15歳の時来日したシミオナートに会い、京大大学院でイタリア文学を学んだのちイタリアへ留学した。 その経緯は武谷の『カルメンの白いスカーフ 歌姫シミオナートとの40年』という本にまとめた。
*『カルメン』の中から「ハバネラ」 歌:ジュリエッタ・シミオナート