山本彩香(琉球料理家) ・命をつなぐ知恵を伝えたい
20万人を超える方が亡くなった沖縄戦から今年で77年、沖縄は今月23日慰霊の日を迎えます。 山本さんは琉球王朝から受け継がれた琉球料理を知る数少ない一人で、86歳になった現在も沖縄の人の料理の知恵を伝え続けています。 料理を教えてくれたのは山本さんを育ての親の母ちゃん、貧しさの中、山本さんの姉二人は病気で亡くなり、両親はしかたなく叔母のもとに養子に出しました。 山本さんが64歳の時に那覇市に開いた琉球料理の店は予約が取れない伝説の店と評判になりました。 どんな思いで伝統的な琉球料理を残そうとしているのか伺いました。
今は部屋ごもりの状態でどうにもならないす。 6月23日慰霊の日を迎えます。 私の母ちゃんは生みの親の姉になります。 慰霊の日というと母ちゃんのことしか思い出さないんです。 戦争中で火が焚けないので木のくずに水に黒糖を入れて、それを飲ますんです。 リュックの中には黒糖、木のくず、ニンニクそういうものは必ず入れてありました。 戦争中で火が焚けないので、火が焚けなくても食べられるようなものものです。
2歳の時に母ちゃんのところに行きました。 那覇の遊郭の一番の芸者でした。 父親は人力車をひいてきました。 父親を助けるために芸者になりました。 踊りも三線も駄目でしたが琉球料理は得意でした。 琉球料理は繊維を全部体の中に入れてしまう。 体のためにいいです。 野菜も切るという事はなくて全部手でちぎるんです。 沖縄には油を使って炒めるのに3つ言葉があります。 豆腐が入ってはじめてチャンプルなんです。 (その後の説明はよく聞き取りにくく沖縄の言葉もありよく理解できず) 母ちゃんは料理は口で覚えなさいというのが口癖でした。 花街はまったくなくなり、芸者はやめて結婚しましたが、離婚することになりました。 私は踊り子として生計を立てました。 5歳からお踊りをやっています。 50歳の時に料理屋を始めて生活に落ち着きがでてきました。 踊りも一人前になりました。 「とうふよう」という料理がお店の看板メニューになりました。豆腐を紅麹で発酵させて、5か月間は寝かせます。 そのまま出したり、枝豆を和えたり,イカを和えたりします。 塩加減としっかり5か月間は寝かせることは厳しく言われました。
64歳の時に琉球料理の店を出しました。 野球の川上 哲治さんもおいでになりました。ほかの芸能人の方が結構来ました。 運動をした人にはちょっと塩を多めにしたり、冷房の中で仕事をしてきた人にはちょっと薄めにするとか、そういう事では努力しました。
「疑心暗鬼 対面千里」 「流行う追わずに伝統を追え」とかを母ちゃんから学びました。とにかくおいしいものを、いいものをあげようと思っていました。 お金は追っかけたら逃げますよ。
77歳で店を閉じました。 琉球料理を絶やしてはいけないという思いがあり、80歳の時にロサンゼルスとサンフランシスコに琉球料理を教えに行きました。 琉球舞踊も三線も沖縄の言葉もよろしくねと、いつもそう思っています。 「これ以上にしあわせはありません」という沖縄の言葉は好きです。(聞き取れず)
私の生みの親はハワイで100歳で亡くなりました。 80歳の時にお墓参りができるとは思っていなかったです。 母ちゃんは97歳で亡くなりました。 最後に「心配するなよ」という意味の沖縄の言葉でした。 今母ちゃんに言葉をかけるとしたら「これ以上にしあわせはありません」という沖縄の言葉と「ありがとうございます。」という言葉です。