小嶋希恵(元宝塚歌劇団) ・未来のミュージカルスターを育てる
長野県佐久市の出身、1981年に宝塚音楽学校を卒業後、雪組男役として 5年間舞台に立ちました。
しかし病気の母の看病をするため、故郷に戻ることに決めました。
25歳の時のことでした。
故郷で開いた小さなダンス教室、そこに未来のタカラジェンヌを目指して二人の生徒が入ってきた事が、プロとしてミュージカルの舞台に立つ子供たちを育てるミュージカルスクールを開くきっかけになりました。
姿勢を悪くしていると、腰も痛くなるし足も太くなる。
立ったその瞬間に、立ち姿が美しくなければ宝塚は駄目です。
宝塚に入りたいと言う子供たちが全国から来て居ます。
宝塚は30~50倍と狭き門で、そこをくりぬけて宝塚音楽学校に入学して、2年間心身ともに鍛えられ卒業した子だけが宝塚に入れます。
スクールからは月影瞳さんはじめ多くのスターが誕生。
私は5年間、雪組男役をして舞台にたっていました。
汀夏子さんに憧れて入りたいと思って、雪組に入れてたんですが、直前に退団されてしまいました。
母が宝塚が大好きで、娘を宝塚に入れたくて、背の高い父を選んで、母から耳元で宝塚に行くのよとずーっと言われて、私自身宝塚に行くものだと思っていました。
3歳からピアノをやったんですが、いまだに上手くはありませんが生徒のためには役に立っています。
小学校4年生の時にベルサイユのばらを見たときに、物凄く感動してここしかないと思いました。
宝塚音楽学校の1年目は掃除の連続でした。
そのほか廊下の歩き方、一般常識を厳しく学びました。
スターであっても上級生が優先です。
25歳のときに母が倒れてしまって、辞めて長野県佐久市に戻りました、
辞める最期の稽古の日にはずーっと泣いていました。
最期の舞台では男役としてかっこよくやりたかった。
黒木瞳さん真矢ミキさんなどが同期でこんな美人とやっていけるのかと思いました。
地元の新聞社でモデルをやりながら、取材などしていたときに町からせっかくタカラジェンヌが来たんだからということで町で教えていたら、編集長から教えることに生きていきなさいと言ってくれて、小さいダンススクールを立ち上げました。
たくさんきてくれて教えるようになりましたが、或る時、月影瞳、麻世さくらが宝塚に入りたいと言ってきて、見たらこの二人なら入ってくれるのではないかと思いました。
厳しく指導して半年後、二人とも宝塚に合格しました。
その後、宝塚に他にも送り込んでいきました。
群馬、埼玉その後東京からも来るようになって、この世界で日本一になれるのではないかと思って、1993年から長野から東京に移動しました。
プロになりたい子だけを対象に厳しく指導しました。
宝塚に入れさせたいと言う思いで怒りますが、感情では決して怒らないです。
生徒の事は自分の子供のように思っています。
この子が今何を思って何を考えているかということを、その子の立場に立って怒ることが私の一番の長所かと思っています。(その子の目線で見れる)
たとえば歌が歌えないと悔しいが、悔しいよねと言ってあげると、自分を出せる、泣いて自分を出せると、本番に強くなれる。
普段から自分を発揮できる人が、本番に強いと私は思っている。
目標を持った人は自分に悔しがる、他人へは悔しがらない。
お互いが判りあえないと私の言っていること気持ちを生徒は受け止めてくれない。
大人は悲しみ、苦しみの思いだしで泣くが、子供たちは出来なくて悔しくて感情を出すことによって泣くので成長する。
三重県亀山市で文化大使、、栃木県足利市で芸術監督をやっているが、ミュージカルをやるが、プロを加えてもらってやっています。
最初は声を出せないような子でも最後には大きな声を出せるようになります。
プロセスを大事にしていきたいと思っています。
宝塚に合格することは目標であって、大切なことは一生懸命宝塚の受験まで頑張り通すことが大事だと思っています。
こんなに頑張れることって一生のうちでそうは無いと思います。
宝塚に受からなくても違う世界で頑張れば、ほぼみんな自分の夢はかなう子は多いです。
結果はどうあれ最期までやり抜くと言うことを、子供たちに教えていきたい思います。
辛いことはいっぱいあるけどその日にとどめ、朝起きたら今日は頑張ろうと思います。
「明日は絶対朝日が昇ってくるので、朝になったら頑張ろう」と思ってやっています。
死ぬ瞬間まで目標を持って、頑張ろうかなと思っています。
スクールの50周年記念パーティーを目指して、出身者全員を集めてやりたいと言うのが私の夢です。(後20年弱)
人と居る時は笑っているといい事がいっぱい来るので、笑ってほしいと思います。