柳家喬太郎(落語家) ・論ずるより稽古
1963年(昭和38年)世田谷歩まれの53歳。
古典も新作もやる人気落語家です。
日本大学の落語研究会で活躍し、学生時代落研の学生チャンピオンになりますが、卒業後落語の世界に入らず、会社員になりました。
しかし1988年に退社、その翌年に柳家さん嬌さんに入門し、落語の世界に入りました。
2000年に先輩、同期12人を抜いて真打ちに昇進しました。
少年時代からウルトラマンシリーズや怪獣映画などをこよなく愛し、落語界きってのウルトラマンフリークとして知られていて、ここ数年はウルトラマン落語に取り組んでいます。
そんな喬太郎さんが53歳にして映画初主演を果たしました。
タイトルは「スプリング ハズ カム」大学に進学する娘を持つシングルファーザー役、なかなか好評だったと云うことです。
親子の温かさと切なさ、優しい映画だと思います。
一番普通のお父さんを主役にしたかったと監督が言っていました。
我々は何時も一人で仕事をしているので一役になりきるのが苦手なんですね。
相手と絡んで芝居をしないので難しいのと、動く事の難しさ、反応が良かったのか悪かったのか判らないので難しかったですね。
ただ経験としてはおもしろかったです。
今度もしお話があれば特撮に出たい怪獣映画に出たいと思います。
ウルトラマン落語、自作の新作落語、これは自分が楽しけれればいいと思ってやらせてもらっています。
ダダによる座布団返し、本来これはあり得ないことですが。
1963年(昭和38年)世田谷歩まれの53歳。
ほとんど白髪なので老けて見られます。
真打ち昇進披露の時だけは黒く染めました。(真打ちの口上の時、師匠よりも老けて見られてしまうので)
老けて見られることは全然厭ではないですね。
子供時代は地味な子でした。
漫画が好きで、怪獣ごっこ、ウルトラマンごっこでした。
落語が好きになったのは中学時代からです。
友達からの影響もあったし、ラジオを聞いたときにふっと興味を持ちました。
演劇クラブで、ラジオで聞いた落語を台本貸して文化祭で上演したことがあります。
高校では落研には入らず、映画研究同好会に入りました。
高校では落語とお芝居が好きでした。。
日本大学に入って落語研究会に入りましたが、自分から入ってきたということで吃驚されました。
普段から落語口調になてしまったような先輩は一人もいませんでした、これが健全に見えました。
民放のTV番組で落研の大会があり4年生の時に優勝しました。
他の民放のラジオ番組でも優勝させてもらいました。
1987年(昭和62年)日大を卒業。
留年したら、父親から怒られて、学校辞めるか、落研辞めるかどっちかにしろと言われてしまいました。
落語家にはなろうとは思わず、書店員の道に行きました。
いくらうまくてもプロの方には勝てないと思っていました。
1年ぐらいで辞めて、落語家になろうと思いました。
1年間フリーターをやりながら、素人落語をやって入門しました。
柳家さん喬師匠は4月に紫綬褒章を頂きました。
1989年10月に入門、師匠が好きだったので入りました。
2000年に真打ち昇進しました。
真打ちの披露興行の時よりも一般興行に真打ちとして公演した時は本当に緊張ました。
芸論と云うよりも馬鹿っぱなしをしていたりする方が、身になるかもしれない。
「論ずるより稽古」と云うよりも「論ずるよりも実践」ですかね。
ぐずぐず言う前にお客さんの前で恥を掻いてこい、そういうことじゃないですかね。
新作も古典(本寸法)もやらせてもらっています。
改作などもやって行きたいと思っています。
今の時代にこそ合うと云うようなものもあるので,そういった作業も面白いです。
もう少し余裕がないと新しいものが出来ないかなあと思っています。
わくわくしながら古典を覚え、新作を作りたい、今それが一番やりたいです。