本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・伊藤博文【近代日本150年 明治の群像】
神田蘭(講談師)
伊藤博文は大日本帝国憲法を作り、初代内閣総理大臣になった。
一方色好みで巧みな世渡りで出世した軽佻浮薄な人物と云うような見方もある。
本郷:現場の人、仕事をしながら自分で自分を教育して 才覚を伸ばしていったというイメージです。
伊藤博文を見て居ると学歴はいらないのではないかと思ってしまう。
本当の意味で人間に必要なのは地頭の良さ、伊藤さんを見て居るとそう思います。
神田:私の知っている人で親が付けた名前で博文という人が2人います、やっぱり英雄なのかなあと思います。
光とともに深い闇も感じる人だと思います。
講談で伊藤博文を披露
近代日本の礎を作った偉い方。
44歳2カ月で初代総理大臣、その後5,7,10代と4度にわたって総理大臣を歴任
大日本帝国憲法の立案、国民を政治に参加させようとしたアジア初の立憲政治の生みの親でもある。
女子教育の重要性を説いて東京女学館を建てた。
円という貨幣制度を作った。
山口県の貧しい農民の子として生まれ、17歳のときに松下村塾入門、吉田松陰のもとで学ぶ、尊王攘夷運動に身をささげて居た時に藩の命令でイギリスに留学。
西洋文明を目の当たりにして大きな衝撃を受け、開国論者になる。
命を狙われるようになるが刺客から博文を救ったのが、お梅、後の梅子夫人でした。
英雄色を好むごとく、女遊びが激しくなる。
政ごとに関してはだれにも話さなかったが、梅子夫人だけには打ち明けて居たそうです。
梅子夫人の写真が残っているが綺麗、下関の芸者だった。
木戸孝允の奥さん松子 、(幾松) も芸者だった。(当時の元勲たちは芸者を妻にしている人は多い)
ランドセルの原形も考案した。
ふぐ食の解禁なども行った。
イギリスに留学することによって、もの凄く大きな衝撃を受けたと思う。
教育の重要性を感じて官僚育成のための帝国大学、東京大学、女子教育も大事だと言って
東京女学館を建てた。
津田塾大学を創設した津田梅子さんとも交流があった。
伊藤博文は若い頃、テロリストだった。(人殺しもやっている)
尊王 孝明天皇(明治天皇の父親)を攘夷させるということで、塙保己一の息子の塙次郎が先例を調べて居ると云うことで暗殺してしまったと云うことである。
桂小五郎が親分だったが、大久保利通がでかい人間だと云うことになると、桂さんから離れて大久保に近づいてゆく。
明治政府の第一人者としての地位を自ら切りひらいて行った。
現実主義者だったようである。
明治10年木戸が死亡、明治11年に大久保が暗殺されて、伊藤博文がトップの方に上がってきてしまう。
大久保よりは一段下のレベルではあったようだ。
大隈重信とはライバル関係。
明治14年の政変、大隈一派を排斥する。
ここから伊藤の天下となる。
全国の各藩の優秀な人物が官僚として力をふるっており、面白いと思う。(能力主義)
明治18年近代的な内閣制度が出来て、初代内閣総理大臣になる。(44歳2カ月)
海外の憲法を学んで、憲法を作る。
明治を作った人たちは武士で何かあったら腹を切る、失敗は死であると、命を惜しまず働く覚悟があったと思う。
明治22年2月11日に大日本帝国憲法を発布する。
評価は色々あるようだが、今の学会の評価としては民権を配慮していると思う。
天皇の権利には一定の歯止めがあって、国民の権利にも目配りがされていると、学会の主流派の考えではないかと思います。
政党政治に道を開いた。
立憲政友会を自ら立ち上げる。
民主主義の第一歩にも手を貸している。
伊藤は日露戦争に関しては消極的だったといわれる。
軍部の台頭には慎重だった。
韓国統監に就任して、任期が終わったとハルビンで安重根に暗殺された。
朝鮮半島に関して宥和的な姿勢を示していたが、テロリスト(韓国では義士と呼ばれるが)に暗殺されてしまう。
女性遍歴の事に関する本などもある。
女優第一号になった川上貞奴を芸者時代に水揚げしたのが、伊藤博文だった。
(内閣総理大臣の時)
岩倉具視の娘の戸田極子さん 鹿鳴館の美人として有名だったがこの人とも浮名を流した。
下田歌子さん 当時の女性教育の第一人者とも浮名を流す。
「近代政治家評伝」の著作者阿部 眞之助 NHKの第9代の会長(かつての政治記者)の伊藤博文評価。
理想がなくて無思想の権謀術数の政治家として終始生きてきた。
あらゆる職分において初物喰いだった。(内閣総理大臣、貴族院議長、枢密院議長の初代についている)
天皇家の権勢持続のためを考えて居て、民主化と云う事はあんまり考えて居なかったのではないかと評価している。
この評価は厳しすぎるのではないかと思うが。