泰川恵吾(医師) ・南の島でいのちを診る
泰川さんは東京女子医大の救急医療センターの医長時代、高齢者の患者があまりにも多い事から高齢者のための在宅医療の必要性を感じて、故郷宮古島に在宅診療所 ドクターゴンを開院、そして13年前に古都鎌倉にも同じような医院を開院しました。
宮古島は沖縄本島とは300km離れて居ます。
20年ほど前に宮古島でドクターゴンを開院しました。
泰川恵吾という名前で、「けいご」ですがゴンちゃんと呼ばれていましたので、ゴンになりました。
3歳まで宮古島にいて、父が医院をしていたので、その後行ったり来たりしていました。
小学校のころから東京にいましたが、医者に成ってからすぐに救急医療センターの外科医を10年ぐらいやっていました。
その頃から高齢化が問題になりはじめて、高齢者、障害を持った人、末期の患者さんとか、本来の救急の人たちではない人が入ってきてしまって、そこから動かない状況になってしまった。(高齢者の増加)
患者を依り分けるところがなかった。
20歳ぐらいの子が大けがをしても受け入れられない状況が生じてしまった。
状況別に助ける人と助けない人を分ける必要があると云うことだが、みんな心臓は止まっていて分けることはできない、そうすると決めようが出来ない、家庭までいかないと出来ない、家の中で見て行くしかない。
医療の大概の事は出来ると思っていたので、在宅医療しかないと思いました。
当時在宅医療は日本には内科医で数人しかいなくて、外科としてやろうと救急医療の出来る在宅医療をやろうとしました。
最初新宿にと思いましたが、どうせやるなら故郷の宮古島でやろうと思いました。
宮古島は20年前も高齢化率は21%で、今でも21%で変わっていなくて、日本が10%ぐらいの時もすでに超高齢化地域でした。
団塊の世代が居ない地域が僻地になるが、宮古島はよくわかっていてモデルケースとして宮古島にし開院したが、最初全く反響は無かった。
3歳までは宮古島で、那覇に引っ越して、ロンドン、スコットランドエジンバラにいて、後は東京育ちでした。
小学校に入ってイギリスに行って国籍がなく3年生になるまで学校には行っていませんでした。
本土復帰のころに日本人としての国籍登録をしました。
日本で学校に入った時は言葉が通じないので大変でした。(沖縄弁、英語)
救命救急センターは当時本当に3Kの仕事でやり手がなかった。
救命救急医だと言うと、廊下のはじっこを歩けといわれて、外科医、内科医、整形外科医
でもないから、一緒じゃないと言うふうに言われました。
後からマスコミなどで評価されるようになってから初めて今に到ります。
在宅医療をやると云った時にはもっと大変でした。
部下もたくさんいて、医長に成っているのに何だと云う風な状況でした。
TV番組で救急医療の番組があり、救命救急に人気が出てきて、むしろふるい落とすような状況になって来ました。
自分では一通り出来るので後進に道を譲った方がいいと思ったし、次のことをやろうと思いました。
自分しかできないことをやろうと云うのが姿勢としては基本にあります。
看取り医療をやっていますが、「専門は命です」と言っています。
宮古島に開業して最初は患者がいなくて2週間ぐらいは電話もなにもなかった。
現在両方合わせて職員が70名ぐらいいますが、取り巻く人たちも何百人、何千人と居ますが、そういうのを自分で作って行くのが得意ですが、苦労は多いです。
宮古島の周りにある大神島は当時80人(現在は30人ぐらい)いたが島には医者がずーっといなくて医者はどういうことをやるのか説明して歩きました。
本屋はないし文化圏が全然違っています。
まずは直接話をして信頼を得てからのことです。
小学校の時に言葉を矯正して、今は沖縄弁は全然しゃべれませんので、地元の人は違和感を感じたと思います。
東京にいたころは当時給与を貰ったら後輩におごって翌朝は無かったです。
開院する時には妻が貯蓄型の生命保険をやってくれていたので、生命保険を解約して何百万円か切り崩してそれを使いました。
医長だったら、2000万円のベンツ買うのだったら銀行としては貸すが、宮古島で開院するのだったらびた一文貸さないと銀行から言われました。
宮古島で3年も出来たら成功だなと思っていました。
3年たったら忙しかった、100人ぐらい患者さんを抱えていました。
宮古島の周りには5島あり、全部行きます。(橋で渡れるところもあり)
フェリーで行ったり、ジェットスキーでいったりしますが、ジェットスキーが便利です。(水上オートバイ)
医療道具はさまざま用意しています、超小型のもの、外科手術用とかいろいろです。
今はバリエーションがあって、普通の病院入院並みの装備を持って患者さんの所にいけます。
ほとんど全部の機械を工夫して居て、メーカーと一緒に開発したものもあります。
宮古島発の工夫と云うのはいろんなところで出ています。
不便な場所でも使える、電源がないところ(リチウム電池でとかで動く)でもいいとか、振動に強い、条件が悪くても使えるとかの工夫をしています。
血液検査もその場でできますし、心電図も出来るし、ちょっとしたことはできます。
宮古島では安定してきたが看護学校はないし、医学部もないし、スタッフを養成しようとしても難しい。
日本の高齢化の問題、私たちの10年下の子供は一番多い、団塊世代の子供より多い、そのあとは人口が減っている。
団塊ジュニアの世代の人たちが死んでゆくまでやらないと意味がないので、どこに作ろうかと考えたが、神奈川の100歳のおじいさんがいて、私の話を聞いて宮古島まで見に来て気に入って、そのおじいさんが診療所を作ったとのことで、お前にやらすからこちらに来いと言うことで、宮古島は代わりの医者を探して任せて、鎌倉で新たに始めました。
今は患者さんの数は鎌倉の方が多いです。
こちらの中核スタッフは宮古島から来ています。
宮古島20年、鎌倉13年、こういうやり方があってスタッフ自身が、幸せにやれるよと言うモデルケースを作りたい、こういう考え方だよと言うことを真似してもらいたい。
環境、文化全然違いますが、宮古島も鎌倉も、どちらも人を疑わないのが本質的に同じです。
東京の人は疑います。
ハイテク機械はできれば使いたくない、お年寄りだったら注射一本、検査一つしないで、最期を看取るまでただ行って手を握って話をするだけと言うのが一番、これは最高の技術ですが、これが出来るまでには時間がかかります。
これは教えて出来るものではなくて、雰囲気を自分の中に入れなければだめです。
医療の教育はエビデンス(効果があることを示す証拠や検証結果・臨床結果を指す)といわれるが、それはそれで正しいが、高齢者を看取るにはエビデンスも必要だが、エクスペリエンス(経験)も非常に必要で、ほとんどの人が望んでいるのは静かにふっと息を引き取って死にたいと望んでいるが、望みを叶えるのであれば、何にもしない方が良いに決まっているが。
しかし、ほとんどの医者はできないと思う。
家族が後で心の底から有難うございましたと言えるような、亡くなったときに思いっきり泣いて泣いてとか、笑ってよかったねと言えるような、そういった環境作りは大事で、できたら良いなと思っています。