2017年6月25日日曜日

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル
森田さんは現在69歳、北海道生まれ、東京日大鶴ケ丘高校でバレーを始めました。
日本体育大学、日本鋼管時代は194cmの長身で全日本のセンタープレーヤーとして活躍して、日本男子バレー全盛期の中心のメンバーでした。
メキシコオリンピックで銀、ミュンヘンオリンピック準決勝のブルガリア戦、決勝の東ドイツ戦でいずれも奇跡の逆転勝ちで金メダルを獲得しました。
現役引退後は、森田さんが考案した一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたされました。
日本バレーボール協会の協会委員長も務められ、現在は母校日体大特任教授です。

車はドイツでナンバープレートは8、金メダルを取った時の背番号8です。
1972年ミュンヘンオリンピック大会
12カ国が出場、A,Bに分かれて日本はBで5戦して一つもセットを落とさずに、トップ。
決勝ラウンド、A組はソビエト(優勝候補)、ブルガリア B組は日本と東ドイツ。
ブルガリアと対戦 最初2セット連取される。
(その前に日本に来て3-0、3-0で勝ったが、その時に日本の研究をしてクイック、時間差をマークされた)
松平監督が指示を出すが、「後2時間コートに立っていろ、そうすれば勝てるから」と普通に話すように語っただけでした。
(2年前にブルガリアと世界選手権で戦って、逆に日本が2セットとってそのあと逆転されて、銅メダルだったが、その時の事も言われた)

第3セットも4-7とリードされる。
松平監督がメンバーを変えて中村祐造(30歳)、南将之(31歳)ベテランを使う。
第3セットは15-9、第4セットは15-9を取り、最終セット3-9とリードされる。
ブロックをしてその後ブルガリアのバレーが変わった。(勝ちたいと云う意識)
5-9になり、5連続ポイントなどもあり12-11に逆転、14-12 マッチポイント。
私がサーバーで、来たボールを左手一本で受けたボールが嶋岡健治の所に飛んで行って、彼が後ろにジャンプしながらアタックした。
大逆転で破る。
決勝の相手はオリンプック2連覇を狙っていたソビエトを破った東ドイツ。
第1セットを11-15で落とす。
松平監督は試合前「昨日お前たちは一度死んだんだ、もうこれ以上悪いことはないから今日は思い切って行こう」と話した。
その後日本は第2、3、4セットを連続してとって、セットカウント3-2で金メダルを取る。

45年前のことですが、鮮明に覚えています。
それまでには8年計画があり、松平さんの妥協しない厳しい練習をしました。
徹底したレシーブ練習でした。
松平監督がいたから金メダルを取れたと思っています。
選手を上手くする、チームを強くするのは、①良い指導者、②良い練習をする環境、③一緒に目標を同じにする仲間、この3つだと思います。
松平さんからは、選手から良い監督と言われるようでは駄目だ、選手から徹底的に嫌われるほどの監督になってみろと言われました。
南さんはレシーブが苦手だったが先輩に対して、コーチに言われて思いっきり大古誠司らとともにアタックして練習したりしました。

北海道北見市でお姉さん4人、お兄さん一人の末っ子として生まれる。
中学は東京の狛江市で野球、陸上を、バレーと出会ったのは日大鶴ケ丘高校に入ってからです。
中学の時はハイジャンプだったので、つい身体をひねってしまい最初のスパイクは空振りでした。
2年の夏、東京都の選抜チームの合宿に選ばれ、日本の高校選抜にも選ばれる。
高校卒業直前、全日本合宿にいくように言われ、松平監督と出会う。
日体大に行くことになり、1年からレギュラーで使われて、バレーを始めて3年目で全日本12人のメンバーに選ばれて、1966年世界選手権に出場。
まだまだバレーの右も左もわからないような状況でした。
得意技、ドライブサーブ、一人時間差攻撃。
1967年ポーランドで大会があり、ドライブサーブの練習があり打っていたら松平監督から試合で使ってみるように言われました。
サインに従ってドライブサーブを打ったら、相手ははじいてしまって、それからドライブサーブをするようになりました。

ロシアでは一人時間差のことを「モリタ」と言っているようです。
メキシコオリンピックが終わって、松平さんがミュンヘンに向かってどんなことでもいいから技を開発しろと言って、ブロックを分散する方法はないかを考えた。
或る時にクイックの時にセッターが間違えて私の真上に1mぐらいの時間差のトスを上げてしまって、落ちてくるのを待って打ったらブロックがなかった。
ジャンプするふりをすることによって相手もジャンプさせておいて、もう一回ジャンプして打つ、それを改良していって、一人で時間差をつけて打つやり方を5種類ぐらい作り上げました。
一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたす事が出来ました。
33歳で現役引退、監督として日体大で大学日本一に4回なる。

バレーから得たもの「プライド」
メキシコオリンピックの前にプラハにいて、プラハの春(チェコにワルシャワ軍が侵入)があり、明けに4時ぐらいのドアを叩かれた。
オーストリアへの南の国境でチェコの国旗が立っていれば安全にスルー出来ると言う事で
、乗合バスに乗ったがチェコの選手も一緒に乗ってきて、日本の選手たちは僕らのお客さんだから、お客さんが安全な場所に行ける所まで見届ける義務がる、と云うんです。
ナショナルチームの選手は国旗を背負って、バレーボールが強くてそれだけやっていればいいんじゃないんだなあと強く思いました。
色んなことに配慮することがないと、一流のメンバーではないんだなあと思いました。

バレーから得たもの「我慢」
当時はサーブ権がないと得点にならなかったので、とにかく我慢が必要だった、松平さんから我慢しろということは強く言われました。(人生に通じる言葉です)

ここのところ日本はオリンピックへの出場が出来て居ない。
2020年は開催地で出ることはできるが、メダルを狙えるような力を付けてもらいたいと思っていますが、もう間に合わないかもしれないが。
やはりスターを作らないといけないと思います。