2017年6月23日金曜日

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ
島袋さんは17歳のとき、ひめゆり学徒隊員に動員されました。
アメリカ軍の上陸で激しい戦闘となった時、悲惨な光景に出会い戦争のひどさ、虚しさを感じたと言います。
島袋さん達元ひめゆり学徒隊員は28年前ひめゆり平和祈念資料館を立ち上げて平和の大切さを訴え続けて居ます。

現在89歳、車も運転しています。
私たちは語り部とは言わないで、証言員と言っていて体験したことをそのまま伝える。
1989年、資料館が出来る。(61歳の時)
その前は自分たちの体験を二度とこのような戦争があってはだめだと云うことで、北海道から鹿児島まで行って、学校、一般の方に話をしたりしていました。
70歳過ぎてからは無理をしないようにと言うことで、資料館に来て下さった方に話をしています。
55歳のときに先生を退職して、それから資料館を建てるために頑張りました。
亡くなった友達の何かが見つかるかと、何でもいいからと思って、各壕に入って櫛、下敷き(名前が書いてある。)とか持っていったものが見つかり、みんな泣きながら集めました。
資料館を作るときに、それを綺麗にして展示しようとしました。

学徒隊として行った、先輩、同級生とかが学校に勤めて居ましたが、一斉に55歳で依願退職しました。
亡くなった友達、先生方の事をみんなに知らせようと、相談して、資料館を建てようと云うことになり、そのことに必死になって頑張りました。
壕に何か一つでもあればと、探し集めました。
6つの壕には一般の人が入っていましたが、軍が追い出してそこに入ったと云うことを後で聞きました。
6月18日に1kmさきまで敵が来て、解散命令が出されました。
病院が解散だから、これからは自分の自由にということで、皆一緒に死んだ方がいいと云うことで、壕から出ないと云ったがそれを軍が許しませんでした。
19日の朝までにでていかなくてはいけなくなって、何時、何処で、どんなふうにして死んだのかさえもわからない状況でした。

主に那覇、糸満など南部にいる人たちが、相談して27人が証言員として活躍していたが、28年たった今は8人になってしまいました。
建てたらこれで終わりと思っていたが、開館日が6月23日で御遺族に会わす顔がないと言う思いがあり、御遺族に生きて居てすみませんと言ったら、御遺族があなた方が生きてい
たからこれが出来たんでしょう、何処で亡くなったか、どうして亡くなったのかあなた方がいたから判ったので有難う、と言われました。
私達も生きて居ていいんだと思うようになりました。
私たちも時々ここに来て話をしようと言うことになり当番を決めて、辛いけれども話すようにしました。
まずは自分の体験のことでした。(亡くなった友達のことなど)
沖縄戦のことを段々判っていただけるようになりました。
70歳になった時に後継者を集めるようになりました。

終戦後翌年1月、先生になるための文教学校が出来て、そこに行くことにしました。
私は重症を負って右手、右足が不自由だったので、体育は持たなくていいよと言われたが、戸惑うこともありましたが受け持ってやりました。
最初受け持った子供達はみんなそれぞれ家族を亡くしていて、戦争をよく知っていた子供たちでした。
資料館での話すことは、まずは自分の体験してきたことから始まって、段々友達、戦争の事などに広がっていきました。
後継者に対しては話をして聞かせて、正しく伝える様にしました。
後継者としては学芸員が3名、説明員が3名で6名の人がやっています。
28年前の立ち上げ時からの人たちは、私を含めて8人です。

学校によって事前に勉強してくるところと、そうでもないところがありますが、今は私たちはフォローをしっかりやっています。
10年ほど前、生きていく事に悩んだ内科の女医さんが資料館を訪れて、入ったら自分の悩みは何でもないことだと判って、よし生きようと言って、自分の思いを書き残して行きました、人助けにもなっていると思いました。
戦争は災害と違って人が起こすものなので、止めることが出来ると思います。
戦争のこと、広島、長崎の事をもっと深く理解して、戦争はだめですと、言ってほしいと思います。