南杏子(医師・作家) ・人生最期を穏やかに
厚生労働省の推計では2025年には年間死亡者数が150万を越える多死社会が到来すると予想されています。
南さんは自らの経験をもとに如何にして穏やかな終末期を迎えるかというテーマを医師、患者、家族の立場から丁寧に小説を描き注目を集めています。
内科医として日々高齢者の診察に当たる南さんに患者や家族が最後に幸せと感じる医療とはどういうものか、人生最後の医療の在り方について伺います。
子供が2歳の時に医学部に入学しました。
大学を卒業した後、出版社に勤務して育児雑誌を担当して、医師の仕事はいいなあと思っていました。
産休育児休暇を取った時にイギリスに住んだんですが、アロマセラピーを勉強したり、解剖生理学を勉強する機会が有り医学が面白いと更に感じました。
イギリスから帰国する時に新聞を読んで、医学部の学士入学の制度があることを知りました。
受験をして合格して33歳になって医学部に入り、卒業が38歳でした。
研修医時代も睡眠が数時間で毎日耐えられたのも勉強できる喜びの方が勝っていました。
老年内科が中心になり、最初大学病院で3年間専門の内科をまわって勉強させてもらいました。
その後市立の病院に行き色々な科を回りながら勉強しました。
今の病院は入院患者の平均年齢は89歳で、高齢者が中心になっている終末期医療の病院です。
日々診療している時に色んな言葉を患者さんから聞きますが、ぎりぎりの状況の中から発せられる言葉は深いものがあり、ハッとするようなものがたくさんあります。
私だけの感動にしておきたくはなかった。
御家族との話し合う時間も多くありました。
迷いとか、預けたことに後悔している方とか、皆さんの気持ちが揺れている、特に食べられなくなった時にはどんな医療方針にするかを話をする時に、終末期どんなふうに過ごしますかという時に私自身が勉強になると言うか、真剣に話をしてきた中で考えてきたことを残したいと言うことが溜まっていって、他の人の為に役に立つのではないかと言うことでそれを聞いていただければいいなあと思いました。
10年前に小説教室のカルチャーセンターに行きました。
今の病院に移って仕事が規則的になり、自分の時間が持てるようになって対応できるようになりました。
娘は大学生で医学部に行っていますが、小説に関してアドバイスなどもしてくれます。
デビュー作「サイレント・ブレス」 無理な延命医療、ばたばたした終末期医療、そういった時間ではなくて、最後に静かな看取りの時を迎える様な医療ということを言いたいと思いました。
小説では若い女性の医師が在宅医療専門の訪問診療クリニックに移動を命じられて、死を待つばかりの患者と一緒に人生最後の日を迎えるまでの6つの短編になっている。
「サイレント・ブレス」の1作目 末期乳がんの45歳の女性で一見気丈にふるまっているが、死を受け入れる心を安らかにする時間について臨床宗教師(坊さん)に接する。
社会的な痛み、精神的な痛み、魂の痛みなどがあるが、魂の痛みに対してしっかり向き合ってあげられるようなのはやっぱり宗教家の方だと思います。
東日本大震災の後に東北大学では臨床宗教師の養成講座を作って、広まったようです。
主人公は自分は死ぬために自宅に戻ったと言っているが、後で担当医師はあの人は人生の最後を生きるために自分の家に戻ったんだと言っています。
慣れ親しんできた場所はその人の人生の中で凄く大事な場所だと思うし、食べ物を味わうとか、庭がみたいとか、最後に過ごしたい場所はそれまで過ごしてきたところなんだろうなと感ずることが多かった。
私も在宅医療は経験がありますが、素人が簡単にやれるものではないと言うのが実感です。
祖父を介護する祖母のお手伝いをした経験がありますが、辛かったことも多くありました。
まずマンパワーが足りない。(24時間の介護となると限界が来てしまう)
色んな技術、設備もそろって初めて在宅介護ができると言う現実があるので最後は施設、病院でとか、ということになってしまうのではないかと思います。
今のように介護保険があると社会の問題だという、そういうふうに考えられるようになりそういうふうに思えるだけで救いになる制度だと思います。
「サイレント・ブレス」の3作目 高級住宅街に娘の介護を受けながら住んでいる老衰気味の老婦人、胃ろうの問題がクローズアップされている、ケースバイケースだと思ってはいるが。
この方は胃ろうを作っても誤嚥は防げないとか、いろいろケースがあるので、胃ろうに向いている人と向いていない人がいるので見極めながらやっています。
家族からの凄く要望があると医師が拒否できるかというと、そういう訳にも行かなくて話をしても諦めきれないようであると、胃ろうを作って経過をもつということも無いわけではありません。
胃ろうはお断りしますと言うことは、元気なうちに意思表示が必要な時代になってきたのかなあと思います。
小説の中の文章 「終末医療では医療者も家族も逆算の思考が必要だ」と言っているが、
後何カ月生きられるかということになったら、10年、20年後肺がんにならないように禁煙することに意味があるのか、そういう意味合いです。
そうなった時に残された人生を楽しみたいから、塩分制限ではなくしっかり味の付いた美味しい食べ物を食べたいし、酒煙草も楽しみたいし、リハビリで苦しむのではなく、のんびり寝て暮らしたいというのであれば、それも半年の命だったら私はいいと思いますが、一方家族は真逆だったりする訳です。
逆算をしていけば少しでも心地良く過ごせるように医師も家族も考えてあげると思います。
5作目 消化器がんの権威の名誉教授だが膵臓の末期がんになり、自分の余命も判っていて、延命治療をするなと拒否をして点滴も拒否して自然に最期を迎えて行く。
「食べられなくなったら自分は死ぬんだ、自分は死ぬために自宅に戻ったので治療は要らない。」と話す。
老衰って苦しくないんです。
食べなくなるということは生命活動を閉じて行く当たり前のプロセスの一つで食べたくなくなる。
からだの持っている蓄えを使いきって、最後蝋燭が消えるように楽な感じで穏やかな表情で亡くなる。
医療には限界があるとこの老教授は言っていて、医師は治療の戦いを辞めることが敗北と勘違いしている。
死なせてしまうことは負けと言うふうに医師は勘違いしているのではないかとこの教授は言っている。
どういうふうにゴールに向かっていい状態で最期を迎えられるか、ということを言いたかった。
1分1秒でも命を長くするのは当たり前の医師としての務めだったが、そこにこだわり続けていると、点滴、管だらけというような、ちょっと過剰な医療をすることによって却って命を縮めたりするそういった印象はあります。
寄りそうような医療が必要だと思います。
老教授は医者には二つのタイプがあると言っている、死んでゆく患者に関心を持つ医師と関心を持たない医師がいる、関心を持って温かく見守ってあげてよ、ということを後輩の若い医師に伝えている。
「人は必ず死ぬ、死を負けと思わない死が必要だ。」と老教授は言っている。
6作目 主人公の女性医師の父親が誤嚥性肺炎で入院して最後は自宅に戻って最期を看取る。
最後は「点滴を外して」と、母が決断する。
最後の章を書くには勇気がいりました。
安楽死のような感じだったりとか、死なせてしまうようなそんな感じに受け取られて、物凄く嫌な気持ちで読む方もいるのではないかなあという風に怖かったです。
延命ばっかりにとらわれ過ぎていると大切な最後の時間が苦しい時間になってしまう。
自分の医療をやるうえでも自戒を込めて書きました。
苦しいのに耐えるばっかりの治療ではなくて、心地良さを優先する医療と言うのが患者さんが求めていることだし、家族の方も求めていることじゃないかと思うので、幸せそうな顔をしているかどうかが問題で、そこを大事にする医療をこれからも探していかなければいけないと思っています。