2018年6月2日土曜日

岡本彰夫(奈良県立大学客員教授)     ・古の大和へ

岡本彰夫(奈良県立大学客員教授)     ・古の大和へ
22歳で奈良県の春日大社に奉職し、長年権宮司として祭りの復興に尽くしました。
長い年月の中で人々が受け継いできたものこそ意味があると考える岡本さんに、古の大和、奈良の歴史が教えてくれた事、未来に伝えたいことを聞きました。

神様との最初の接点、物心付いたころからずーっとお参りしていました。
父とは生き別れですでにいなくて、母親と婆さんに育てられて、家が人に騙されたり財を取られたり悲惨な目に遭って没落していました。
人間が信じられなくなっていました。
神や仏を通して人間を信じると言うことで、祖先と神様を大事にする家に生まれて、母親や婆さんのあとをついてお百度を踏んでいました。
真心込めてお参りしていただけでした。
宇陀郡は神武天皇が菟田下県(うだのしもつあがた)に入ってこられたと記紀に載っているから国の始まりということで非常に誇りを持っています。
祖母からは昔語りを聞いて育ちました。(古事記、日本書紀の物語)
民俗学の宝庫みたいのところでした。

子供のころから続けてやってきたことと、自分の為に生きることはわびしいと思って人様の役に立つことをしたいと思う、この二点があって成就させるためには、神や仏に使える仕事に付きたいと思いました。
大学卒業後、22歳で奈良県の春日大社に奉職しました。
春日大社は天下国家を守ってくれる神様で、国がお社を建立して国家が祭った神社、側面では藤原一門が氏神と崇敬したという多面性を持っている。
1250年前にご鎮座、この場所は大和の霊地、神地なので、その前から神の地としてあがめられていました。
春日 すがすがしい、きよらかの「すが」に「か」という接頭語が付いたんだと言われています。
神様の建御雷命(たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗って柿の木を鞭にして鹿島神宮からきたということで、今その子孫が奈良公園で1200頭ぐらいいて、鹿を呼び捨てにしないで「御神鹿(ごしんろく)」と呼んでいます。

国学院大学に入った時は周りは神主の子弟が多かった。
自分は作法一つしらなかったので、作法のクラブに入りました。
三大勅祭(賀茂神社の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭)のご奉仕をしたいと、勉強させてもらって、春日大社の宮司さんから卒業したら入って来なさいと言われて38年勤めさせた頂きました。
神道は広くて深くて大変です。
神道への入り方はいろいろあるが、私はお祭りに興味があったので祭司から入らせて貰いました。
明治時代になると神仏分離政策の影響で多くの神事が簡略化されたり、廃止されたりしました。
古い時代のものを旧儀と言います。
旧儀の復興に関わってきました。
春日大社の旧儀の復興を行う。
文書、記録が沢山残っていました。
調べると祭りの規模、儀式の数も全然違っていた。
原点に戻らないと判らないことが多いので旧儀の復興を行うことにしました。

春日若宮おん祭の旧儀復興する時に、稚児が興福寺から出てくるが、ひで笠に五色の紙を切った紙垂(しで)を従者がちぎって神前に投ずということがあるが文書では判らず、若松にかけるんだと言うことを或る所から聞いて判った、それから聞き取りが重要だと判った。
記録を読む中で先人が込めた深い思いに気づきます。
大事なものを土の上に置く場面があるが、机に置かなければいけないと思っていたが、清らかな土になるまでの御奉仕を普段から先人はなさっていると言うことで、よっぽど御奉仕されていたことだと思います。
儀式の古い形のものは全て未来へ送る為の大切な手段で全部その中に織り込んである。
儀式はもう一回見直さないといけないということを痛切に思いました。
心を知るためには形から入っていかないと心を知ることはできない。
理屈ではなくて実践する、その中から判って来る。

大和古物、連綿と続く大和の美術工芸品は明治維新の時代の奔流にのみ込まれて、価値観の転倒で放出せざるを得なくなって怒涛のごとく現れて来る。
資料を集めました。
良い作品が一杯あるのに運が悪かったら評価されない、残したかったし検証したかった、いいかえれば職人たちの供養をしたかった。
大和の1300年の歴史は途切れて居ない、美術工芸品も連綿と残っている。
美術工芸品を手にとって居ないと判らないので集めました。
奈良人形、神事人形、素朴に一刀で彫った如く彫ってあり、絵付けは極彩色で、日本の文化を代表するもので、雅(都)とひなび(田舎)が交錯するもの。
神様に捧げるものなので目に見えない足の裏まで彫ってある。
神様に捧げるものなので手抜きはしない。
高度な技術を要する、真心が必要。
何十年、あるいはそれ以上経ってから漆が薄くなってきて、下の模様が見えてきたりする。

詔のなかに「中今」と書いてあるが、かつての歴史があり、今があり未来の布石になる。
「今」という存在は「中」で、前と後ろがあると言うことで、すでに奈良時代の人が考えていた。
後ろを考えると言うことは勉強になる。
伝えられてきた知恵を若い人達に伝えて行くことが役目だと考えています。
人様の役に立とうと考えて神主になったはずが、あの人のお陰で今日あるなといってもらう人が何人いるか聞いてみたら、いないと言うことが50歳で気が付きました。
人間としてするべきことをしていないと思って後進の育成をしようと思って、「利他」、ということをさしていただこうと思いました。
何を土台にした考えるか、止まり木が必要。
死ぬまで必要とされる人生を送りたいと思います。
自分の出来る範疇で役に立つと言う人が一杯増えてくれないと、そういったことをきちっとやりたい。
奈良にいるので奈良を通じて日本人が誇りを取り戻してくださることが大事で、託されたものがあると言うことは何よりの証拠だと思います。
奈良は奥が深い。
奥へ奥へ入らしていただく人生を歩まないとだめだと60歳を過ぎてつくづく思います。
そのためには一杯色んなものを見たり読んだり聞いたりする事だと思います。
詰め込んで、死ぬまで持っていけないので途中で捨てて行くが、大事なものの残りが本物だと思います。