2018年6月20日水曜日

トロック祥子(陶芸家)           ・光になりたい少女

トロック祥子(陶芸家)           ・光になりたい少女
1944年愛知県生まれ、「光になりたい」この言葉は祥子さんが小学生の頃の自分の思いを綴った作文の言葉です。
祥子さんは19歳の時、ハンガリー動乱でアメリカに亡命した青年と東京で知り合い、国際結婚をしアメリカに渡ります。
1960年時代はアメリカはベトナム戦争、反戦運動、それに自由と平等を求めるウーマンリブの運動が盛り上がりを見せていました。
アメリカ社会で祥子さんは女性の自立、人々のとの考え方や生き方の多様性などを学ぶ一方、夫の女性問題、娘の薬物中毒など様々な悩みを抱え込みます。
その時人生の支えになったのが焼き物つくり、陶芸でした。
陶芸で身を立てる決心をし、35年前備前市に工房を作ります。
備前焼は土作り、窯焚き、窯出しなど様々な手間と時間がかかる仕事です。
中でも祥子さんが取り組んだ作品に裸婦像がります。
細工物を作る教えを受け工夫を凝らして焼き上げましたが、納得できる作品を作りあげるにはとても苦労が有ったといいます。

工房を作って35年になります。
1956年(54年前)にハンガリー動乱で大学生の3/4が亡命しました。
夫の場合はオーストリアに出てマルセイユでアメリカの貨物船に乗せてもらってニューヨークに渡りました。
アメリカではキリスト教のベースの国でとっても親切で、夫はモンタナ大学に奨学金をもらっていきました。
カトリックの家庭で息子のように可愛がられて学業を終わりました。
修士課程、博士課程を修了しています。
その後夫は日本に来ました。
私は名古屋ではなく東京の女子大に行きたいと思って東京に出て来ました。
夫に見染められて強引に結婚ということになりました。
彼は25歳で私は19歳でした。
結婚して2カ月で妊娠しました。
彼は難民だったので子供はどうするかというのが問題になりました。
アメリカに行って市民権をとってから私を呼び寄せると言うことでした。

ハワイで市民権を得ることができて電報をアメリカ大使館に送ってくれ、私はビザをいただいてアメリカに飛びました。(1963年)
東京オリンピックの前年で自由に旅ができない時代だった。
片道切符を買うために父は田んぼを一枚売ってお金を作ってくれました。
彼の叔父の家にいって、みんなハンガリー人で英語は話せずどうしようかと思いました。
夫がアメリカンドリームを求めるためにコロンビア大学のネービス研究所?に入って、大学院の勉強をさせてもらいということで通っていました。
私は家で辞書を使って英語の勉強をしました。
中学校卒業の時の文集。
「光のある間に光のことなるために光を信じなさいと教えられたことが有りました。
女学校時代に希望に満ちていた人が、歳をとるにつれて生活の喜びを感じなくなることは、本当に悲しいことです。
次々におこることに心を奪われていつの間にか希望をうしなって居たのです。
人生に明るい希望を持ったらその希望を信じて生き続けたいと思います。」

とにかく一歩でも前に進まなければというような生活でした。(子育て、英語、夫との会話など)
私が23歳の時に夫がスタンフォード大学に就職して近くにあるカルフォリニア大学の一部の大学に英文科に入って私は英語の勉強をしました。
美術の単位も取らなければいけないということで陶芸が有り、入ったら楽しくてしょうがなかった。
ベンソン先生が褒め方が上手な先生でした。
ニューヨークに住んでいた時にウーマンリブ運動活動が広がって行きました。
私は夫に付いていくしかないという様な生活をしていました。
アメリカはお金は全部夫が握っていて、彼の収入とか、どう使っていたのか全く知りませんでした。
娘は大学を奨学金を貰って卒業しましたが、フルタイムで働いて私立大学に行かせない限りは二人の子供を育て自分でやっていけるだけの給料は取るようになりました。
コカイン中毒でぼろぼろになって帰っていた娘がそこまで成長しているとなると、わたしたちがやってきたウーマンリブ運動も間違っていなかったという気がします。

日本の陶芸は外国にはない美術としての価値が有ります。
祖父がお茶をしていて小さいころから見ていました。
有るデパートで備前焼の個展をやっていて、いっぱい色々作品があり素敵な色でした。
物凄く新鮮に見え感動ました。
武蔵野美術大学に行って勉強したいのですがどこか紹介して欲しいと頼んだら、その先生は備前焼だったら紹介出来る人がいると言うことで、行きました。
山本陶秀先生のお宅でした。
武蔵野美術大学を卒業した息子さんが3人の子持ちの女は弟子に取ることはできないといって、窯業試験場を紹介してくれました。
金重陶陽先生の息子さんの金重道明さんから良い備前焼の土を触らしてもらうと、本当に素晴らしい土でした。
アメリカでの土とは雲泥の差でした。
アメリカの土は粉の土に水を入れて機械で撹袢して粘土にするのでぱさぱさな感じです。
ロンドン大学の陶芸科にも行ったことが有りますが、アメリカと同様なものでした。
備前の土は田んぼから掘り出した土を庭で乾燥させて癖を取ってから、砂とか石を外して細かく叩いてそれを水に戻すが、丁寧にかき混ぜて沈殿させます。
土にかける手間が凄いです。

備前焼は1~2週間窯で焼きしめます。(3人で8時間交代)
若いころは20kg位粘土を練りましたが今は3kg練れないと思います。
夫は女性にもてる人で家族を苦しめました。
ロンドン大学の2番目の娘がマリファナになりいつの間にかコカイン中毒になってしまいました。
窯出しの手伝いに日本に呼んで連れて来た時には、ふっくらとしていた娘が骨と皮だけのようになっていてショックでした。
暴れ出すようになって精神科に入れて、薬が切れてきて手紙が書けるようになって、広島に良い先生がいると言うことで、連れて行きました。
玄米食、野菜、魚などを工夫をして食べさせて段々戻ってきて、1年半ぐらいすると自転車で走れるようになりました。
娘は友人の工房に通うようになって行きました。
娘が2年後にアメリカで勉強したいと言い出して、友人が受け入れてくれてサンフランシスコの私立大学に入学できて勉強しました。(24,5歳)
経済の勉強をして、その後大学院をどうするかという時にスタンフォード大学から全額給付の奨学金が貰える話が有りそのままでいれば博士課程を修了できたが、価値観が合わなくて2年で辞めてしまいました。
就職したが、その後資格を取ってカウンセラーになっています。(次女)
長女も感染症の医者になって自分で稼いでいます。

観音像は粘土の紐を積み重ねて行って大体の形を作って、潰れないような硬さになった時に衣のひだとか仕あげて行きます。
金井 春山先生が細工物を作っていて横で見よう見まねで作っていましたが、友人の父親が京人形師原孝洲先生で観音像を持っていって見せたら骨が出来ていないと言われました。
夫がロンドンに転勤になりロンドン大学の陶芸科にはいって、デッサン、人体のスケッチなどの勉強をしていたが、上手くいかず基本的な骨格をしっかり備えた人骨像と人体とを並べて描いて勉強していきました。
その後裸婦像も作る様になりました。
展示会を開いてその像も買っていただきました。