河野博文(元プロ野球選手・農業) ・セカンドキャリアは農業で
高知県出身56歳、駒沢大学に進んだ河野さんは1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
先発とリリーフ兼任で最優秀防御率を獲得します。
1994年に巨人に移籍して、1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞、1999年に自由契約になり 2000年に引退しました。
引退後はプロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスのコーチになり群馬県へ。
ここで玉ねぎ農家を紹介されたのがきっかけとなり、農業を一から勉強して農家に転身しました。
現在、農家として1年に180トンの玉ねぎを生産しているほか、玉ねぎを使った居酒屋を経営しています。
華々しい現役を経て次のステップに進むのに苦労するプロ野球選手が多い中で、農家に転身した河野さんに伺いました。
玉ねぎ料理は珍しいので評判はいいです。
巨人時代に「ゲン」ちゃんと呼ばれていました。
長嶋選手にもそう呼ばれていて、周りからも河野と呼ばれたことは一度も無いです。
小学校の時はソフトから始めて、中学では軟式野球をやりました。
高知明徳高校の校長先生が家まで来て、来てほしいということで明徳高校に進みました。
寮生活で規則も厳しかったです。
高校3年生の時には7球団ぐらいがプロのスカウトが来ましたが、まだ自分には実力が無いと思っていました。
高校の先輩が駒沢大学にいたので駒沢大学に進みました。
1年生はほとんど奴隷みたいな感じで自分のことはできなかったですね。
3年生から試合に出られるようになり、優秀選手とか、日米の試合にも出さしてもらいました。
セリーグに入りたかったが、監督には何も言えなかった。
1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
最初のころは先発を任されて、1年目は8勝11敗でした。
1年目は無我夢中でした、レベルが全然違っていました。
練習の厳しさも違っていました。
日本ハムでは先発、中継ぎ、押さえもやりました。
1994年にFAで巨人に移籍しました。(34歳)
色んな面で巨人が凄いと思いました。
観客、マスコミが多いのにはびっくりしました。
1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞しました。
年齢とか、怪我とかもあり、球団の若返りかもあり、1999年に自由契約となりました。
2000年に呼ばれて引退することになり、頭が真っ白になりました。
膝が炎症を起こしていてそれが致命傷だったと思います。
親戚の建設会社にいって営業の仕事などをすることになりました。
頭を切り替えてこなしてゆきました。
プロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスから誘いがあり、ピッチングコーチをやることになりました。
初めてピッチャーを教えると言うことで経験をもとにやって行きました。
シーズン中に妻が病気になり、余命1ケ月ぐらいしかないと病院から電話がかかってきて、それから病院につきっきりで、乳がんで1ケ月で亡くなってしまいました。(42歳)
子供が二人いて高校生だったので、小さくなくてまだ良かったです。
子供も一とき元気が無かったです。
元西武・駒崎幸一さんからの薦めもあり、出来るだけ農薬を使わないで有機農業で安心安全でおいしい野菜を作らないかということで、農業も高齢化になっていて、農業をやることに決心しました。
玉ねぎの農家に研修に2年間行きました。
先ずは肥料の入れ方、マルチ(ビニール)の掛け方、植え方など教えてもらいました。
自分の作ったものを売ると言うことは、農業に関する許可が必要で認定されるのが大変でした。(認定まで1年かかりました)
法人になる為には5反の面積が必要で畑を借りるのが大変でした。
農業を志してから4年目で40トンの玉ねぎが出来ました。
種から育てて苗を11月ごろに植えて、新玉ねぎが5月ごろになります。
有機肥料を2週間に一回散布するが、手押し車で1町歩をやるので結構大変です。
一人でなく手伝ってもらいながらやっています。
収穫の時には感動しました。
野球と農業を比べたら農業の方が大変かもしれません。
今年で8年になりますが、最初は販路がなくて20トンぐらいは捨ててしまいました。
販路の開拓を怠っていて翌年からは販路を決めて売れるようになりました。
知り合いを通じてスーパーさんとかにいって、自分の作ったものと味を比べてもらって開拓していきました。
玉ねぎを加工して売るというような多角化を進めて行きました。
社員は3人います。
農家はなかなか儲からないので、有機でやるとか、野菜に付加価値を付けることが必要かと思います
野球選手は毎年100人位は引退して行きます。
次は何しようと言うことは多分考えていないと思います。
スポーツ界全体でと思うが、セカンドキャリアをもっと考えてもらいたいと思います。
来月ぐらいで高崎の店は閉めてしまって、6月位から東京に事務所を移転して東京で動こうと思っています。
インドネシアに行ったが、海外でも人を雇って農業が出来ればと思っています。
インドネシアは人口が2億5000万人ぐらいなので、色んな商売できるものが一杯あるので日本に輸入すると言うようなことも考えています。