神田松鯉(講釈師) ・"男の美学"を語る
昭和17年生まれ、昭和36年新劇俳優としてデビュー、歌舞伎界を経て昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。
これまでに第一回講談奨励賞、第六回放送演芸大賞ホープ賞、第43回文化庁芸術祭賞受賞。
「赤穂義士伝」、「祐天吉松」、「村井長庵」など数々の古典の連続物などを中心に幅広く活躍されています。
松鯉さんがこだわりを見せるのは連続ものと男の美学です。
講釈師の声帯ではないと講釈ができにくいところがある。
昔は綺麗な声だと言われました。
新劇の役者の時に声学もやっていますが、講釈は作り上げた声です。
空気の出入りが時速300km/hと言われます。
擦すれて傷ができそのうち固まってきて声帯が一面たこになり、講釈の声帯になります。
腹式呼吸でズーとやっていたら高い声がでなくなってしまったが。
この声になったのは10~20年前ですかね。
身体の力が抜けたからかもしれないが高い声も出るようになりました。
昭和20年8月15日未明に大空襲がありました。(3歳の時の伊勢崎大空襲)
日本最後の本土大空襲、家が焼けてしまって前橋に引っ越しました。
4人兄弟の長男で、惣領の甚六でした。
中、高校時代に役者になりたいと思いました。
文学少年で詩を書いて本も読みました。
水戸黄門記など読んでいました。
言葉を矯正しようと思ってアナウンス学校に行きました。
その後劇団文化座の研究所に入り勉強しました。
2年で卒業して俳優集団民衆舞台(桑山正一さんが創設)に入りました。
旗揚げ公演に出演しました。
或る人が紹介してくれて、歌舞伎をやらないかと言われました。
2代目中村歌門先生に入門して1年位いました。
楽屋を肌で感じたことは大きかったです。
昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。(27歳)
演劇の朗読は基本なので喋ると、桑山さんがお前は講談だと言われ続けて来ました。
何処がそうなのか本物の講談を聞いたが判らず、いっそ講釈師になろうと思ったのかもしれない。
当時二代目神田山陽師匠はとっつきやすさがありました。
師匠の芸は明快で軽いんで、だから受けます。
私はいくらやっても軽さはでなくて重いんです、或る時点からそうなりました。
「ゆうた」(お面をかぶって幽霊の役をやってお客さんの周りを回る)をひと夏で120回位やったことがあります。(師匠が怪談を120高座をやっているという事)
昭和52年真打ちになる。(7年でなりましたが、いまは13~15年かかります。)
講釈師の世界では当時分裂していたりしていました。
昭和63年度の第43回文化庁芸術祭賞受賞
平成4年「3代目神田松鯉」を襲名。
2代目神田松鯉師匠に対してうちの師匠は「おやじ」と呼んでいて親しみを持っていたようで、その師匠から神田松鯉を継がないかと言われていて、まだまだと思っていました。
2代目神田松鯉師匠のご遺族まで紹介されて、松鯉を襲名することになりました。
2代目神田松鯉師匠とは芸風が違うが、自分なりの松鯉を作っていこうと思いました。
ネタはだいたい500席はあります。
講談には連続物と一席物があります。
徳川天一坊は20席の連続物になります。
連続物のいいところだけ取る、いいとこ読みが多いですが、連続物にこだわっています。
連続物は山場とだれ場もありますが、だれ場をどうやって工夫してお客さんに聞いてもらうか、これが勉強になります、講釈師の技量にもつながってきます。
明治時代は一人の講釈師が1カ月2カ月かけて連続物をやっていました。
戦後になって連続物をやる場所がなくて、一席物をやることになっただけですから。
本来の形を継承しておきたい。
最初「三方ヶ原」から教えます。
全6巻ある、これが基本なのでまずこれから教えます。
その後武芸物を教えます。(宮本武蔵伝など)
もう一つが男の美学、わたしの人生のテーマです、義侠心が最大のテーマです。
それぞれの立場で男の美学がある。
保身に走らない、自己犠牲・・・敬天愛人に近いのではないか。
こうありたいと柱を立てると無意識に近づいてゆくと思う。
芸はお客様と一緒に作り上げるものだと思う。
シャボン玉理論、シャボン玉のなかにお客さんと一緒に入りその呼吸がお客さんと一緒になり、薄いシャボン玉の皮が破れない。
そういうことは数年に一度あればいい方だと思います。
困っている人に黙って情けを掛ける、掛けられた恩を忘れない、これが男気だと思います。
講談教室を17,8年やっています。
盛況で小学6年生も入ってきました。