2018年6月24日日曜日

紫舟(書家)               ・【私の“がむしゃら”時代】

紫舟(書家)               ・【私の“がむしゃら”時代】
NHK、2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字や美術番組「美の壺」の題字や番組内の文字を手掛けています。
2010年には書道界の芥川賞と言われるて 手島右卿賞を受賞、伝統的な所から三次元の立体的な書、アニメーションのように文字が動くデジタル作品等新しい作品を手掛け、世界各地の展覧会でも人気を博しています。
書道を始めたのは6歳の時、小学校を卒業する時には八段になっていたと言います。
大学卒業後は神戸のアパレルメーカーで広報の仕事をしますが、3年で退職、将来やりたいことは何なのかを考え続けた結果、書家の道を選びます。
半年後には個展を開くなど自ら活動の場を切り開いて行った紫舟さんですが、書を世界にと意気込んで参加したイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで挫折を味わったと言います。
書家の道を選ぶまでの悩み抜いた日々、世界の舞台で味わった挫折から何が生まれたのか、伺いました。

祖母が孫全員に日本舞踊と習字を学ばせたいという願いがあり、日本舞踊を3歳から始めて6歳から習字を始めるのがルールでした。
祖母も京都から家元を呼んで自分自身も学んでいました。
私の書の先生はスパルタで夕方から24時を回っても帰らせてくれないし、泣いてみても出来るまで通用しなくて帰らしてくれなかった。
好き嫌いというよりも自分ではしなければならないと思っていました。
才能もセンスもないと思っていました。
先生の熱心さ、費やした時間の長さなどにより周りよりも早く上達したか、位ですね。
上から下に真っ直ぐな線を描くと言うことは今でもできないです。
小学校を卒業する時には八段になっていました。
高校生まで続けていました。(大学に行くために一時辞める)
子供のころから絵を描くことが好きで絵描きになりたいと思っていました。
自分にどんなセンスがあるか、いろんな習いごとをしてみたがどれもダメだった。
やればできると言う自信があったのは結局書だけだった。

書は手放すことはできなかった。(我慢と忍耐を学ぶ)
大学時代に色々考えたが何を選択していいかわからなかった。
大学卒業後、住みたい街に住みたいと思って、神戸で好きな合気道をしようと思いました。
広報の仕事を担当することになり、海外でイベントをするとか、色々と華々しい仕事をしましたが、別に自分がクリエーティブな仕事をする訳ではなかった。
葛藤があり3年は続けようと思っていたが、リセットしないと始まらないと思って、全てを手離してみようと思いました。
会社を辞めるのが初めての自分自身での選択でした。
それまではレールに乗っているだけだと言う思いがありました。
職を探すのにどうしたらいいかわからない時に、合気道の先生から言われた「自分の内面をもっとちゃんと見なくてはいけない」という事を思いだして、3か月は何も決めず自分に聞いてみよう思いました。
自分に問いつづけました。
会社にいるころは会社をバックになんでもできるようにおもっていたが、今は何もできない自分に気づきました。

朝起きると顔が涙で濡れている、そんな日々の中で或る日お腹の奥底に残っていたのが書家でした。
書は好きではないし楽しくもないし才能も無いと思っていて、そこに蓋をしてしまっていたのかもしれません。
小学生のころは書にコンプレックスを持っていたが、年賀状のあて名書きにはオリジナルな字を書いていて褒められたりはしていました。
25歳の時に振り返った時にはそのようなことを思い出したりしました。
書家になると決めて心が軽くなるという経験をして、これを信じようと思ってコンビニで書道道具を買って、書いたものを大阪のギャラリーにいって伊部?さんに見ていただいて、書家になります、個展をさせて下さいと言いました。(半年後に個展をしました。)
お酒のラベルに書が使われたら素敵だなあと思いました。
映画の題字が書けたらいいなあと、書いた字がTVに映ったらどんなに凄いんだろうと、この3つが出来たらいいなあと思いました。

エネルギーを感じさせるような書体で書いたものを1000通以上出しました。
1ヶ月後に依頼をいただいて、最初がVシネマの映画の題字でした。
竹内 力さん主演の「無間地獄」です。
それぞれを生かす為の書を書くことを教えていただきました。
浜崎あゆみさんのミュージックDVD、映画にもなった「月に沈む」の題字も書かせてもらいました。
最初の3か月で願っていた3つのことができました。
最初の個展はさんざんでした。
良い作品だとは思っていましたが、未熟者が書いた未熟な作品だったんでしょうね。
一生やらないと思いましたが、恩人がいて「表現者というものは人に見てもらう事でしか成長しない。・・・」と言われて、発奮することにしました。
2005年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品(審査員枠で出す)
通用していないと実感していて、まざまざと見せつけられて飛行機で泣きながら帰って来たというような感じでした。
世界に通用する表現者になりたいと思って、招待状が来るまでは世界には出ないでいようと思いました。

紙の中に閉じ込められている限り伝わらないのではないかと思って、紙から解放して立体的にしました。
立体造形にすること、文字の歴史をたどってみると紙は最近の技術、紙の誕生よりも前から文字は生まれていて、竹、骨などに書かれていたりしていた。
甲骨文字の彫られていた感じは今も残っている。
文字の歴史を遡ることで立体にすると言う事が誕生しました。
文字は元々立体だった。
「寂」という書、三次元、人の抱えている寂しさを表現するために影だけが異様な雰囲気で揺らめいているという作品です。(内容をよく理解できず)
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書く。
コンペだったので私は本命でないことは重々承知していて、本を読んだりしました。「龍」は横の線が多くふとったどっしりしたものになりやすいので、福山さんのようなすらっとして龍馬のエネルギッシュな若々しいものにしたいと思って書きました。
海外からも招待されるようになり感謝しています。
フランスは日本の文化を憧れていて、フランスで展示出来て嬉しかったです。
日本語を彫刻にしたが、日本語が判らない筈なのに限りなく近い感想を言い当てて来たりします。
ミラノではこれまでの立体的な作品や最新作なども展示しました。
デジタルも使って文字や絵が動いてゆく作品がある。