2017年9月9日土曜日

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人
2004年10月20日の夜、台風23号に依る大雨で兵庫県や京都府の北部を中心に、被害が広がりました。
京都府の舞鶴市では由良川が氾濫し、国道175号で立ち往生した大型観光バスは完全に水没、乗客はこのバスの屋根の上に登って救助を待ち翌朝全員が救助されました。
乗っていたのは兵庫県豊岡市の公務員の退職者グループの35人と引率者、運転手、乗客の平均年齢は67歳、福井県内の温泉に泊まって永平寺を回って帰って来る1泊2日の帰り道での出来事でした。
この日のNHKニュースは、夜10時過ぎ、川からあふれた水が入り込みお年寄りを含む30人が救助を待っていると伝えました。
その後バスの中で人が立った状態で腰から胸の高さまで水が迫っている、乗客乗員全員がバスの屋根に上がって救助を待っているが、屋根まで水につかっている。
そして午前1時半ごろには膝の高さまで水が来ていてまだ増えていると報じました。
37人は台風の夜、濁流の水かさが増す中、バスの屋根の上でどのようにしてこの危機的な状況を乗り越えたのか、乗客の一人で手記を出版した元看護師の中島さんに伺いました。

このバスツアーは兵庫県市町村職員年金者連盟の豊岡市部が主催する恒例の行事だった。
私達病院から13名参加しましたが、看護師の資格を持っている人が9人いました。
市役所の職員、消防署の職員の3つの団体でした。
10月19日に出発、台風が来ている情報はありましたが、中止との情報はきませんでした。(台風のコースは違っていた)
芦原温泉に泊って帰路に着くときは、台風のコースが変わってきて早く帰りたいと話し合っていました。
短縮しながら帰ろうとしましたが、なかなかそうはいきませんでした。
夕方5時にトイレ休憩があり、バスに乗ろうとしたときに、台風接近のために5時半を持って閉店しますとの放送があり、その直後に出発しましたが、なかなか進みませんでした。
道は冠水しかかっておりましたが、バスは車高が高かったので大丈夫でした。
渋滞がすごくて、峠を越えてから由良川を渡って後から車の動きが益々遅くなってしまった。
水かさも増してきました。

今晩帰れなくなるかもしれないとの電話をしました。
175号に入って、乗用車の人達が車を捨てて避難していました。
動けない状態になりました。
9時ごろにキャーッという声が聞こえてきて、波が来るように水が流れ込んできました。
膝のあたりまでがずぶ濡れになりました。
非難するということで、非常口からまず女性、お年寄りから出ようということになり、足が付かないという声が聞こえました。
ロープはないかとの声がありましたが、ありませんでした。
窓のカーテンを使おうということになり、ハサミで切ってロープ状にしました。
水かさがさらに増してきて屋根の上に登ろうという結論になりました。
窓を開けて身を乗り出し、非常口を開けてちょうつがいに足をかけて屋根に登り始めました。
先に登った人達が協力して引き揚げたり、車内から押し上げたりして屋根に全員が昇って行きました。

その間に窓を閉めろとの声がありましたが、窓を閉めてしまうとバスが浮いてしまう可能性があるので「ヤメテ」と大声で言いました。
私が出ようとした時には首に辺りまで水が来るところでした。
携帯電話があるのでバッグを水につからないように苦労して、引っ張り上げてもらいました。
風がひどいので身を低くするようにとの元看護師長の声があり、坐っていました。
最期の人が水に潜る様にして上がって来ました。
屋根のところまであと5cmぐらいになってしまいました。
屋根の上で点呼を取りましたが、30過ぎたらごちゃごちゃになってしまいました。
逆からやってみたら37名いたことが確認できました。(全員を確認できる)
益々水が増してきて坐っていられなくなり立つようになりました。
午後10時20分ごろバスは水没して、膝のあたりを越えて更に上昇する。
バスの屋根は狭く、幅2.5m、長さ12mの細長いスペース。
カーテンのロープを最後部の座席に括りつけて屋根に上げ、対角線状にしてロープを握り屋根から転落しないように支え合いました。

その頃は風速20mを越えて、雨量が15mmの強い雨でした。
みなさん携帯電話で色々なところに電話するが、自分は大丈夫との声が聞こえたりしました。
10時57分ごろに119番をするが、「頑張ってください」とのことでした。
携帯電話の電池も尽きてしまいました。
午前0時前後に竹の棒が流れてくる。
竹を数本拾うことが出来ました。(一番長いのが5m以上ありました)
午前0時過ぎに2人の男性が相次いで濁流に飛び込み近くの街路樹に泳ぎ着き、バスと街路樹の間に竹の棒を渡して、一方は木の上の男性達がつかみ、一方はバスの上の人達が握ってバスが流れないようにつなぎとめていました。
横転していたら一人も助からなかったと思います。

並んで停まっていたトラックの運転手が落ちたのを見た人もいました。(後で聞いた話だと亡くなってしまったそうです)
水に浸かって下半身は感覚が無くなってしまいました。
過呼吸の人がいたが、近くにいた看護師が抱きかかえてやっていました。
身体がふらふらとなった人もいて同じように近くの人が背中に覆うようにしていました。
ある女性に異変が起きて、「なんで助けに来ないのか」と盛んに言いだして、「あのばばあ、静かにさせろ」と声が聞こえてきましたが、「少し静かにしなさい」と私がいって、それから冷静になってゆきました。
由良川の川を挟んだ処からサーチライトが見えて、助けに来てくれると思ったっら消えてしまい、駄目だったとがっかりしました。

元市役所職員の携帯電話が突然鳴りだしました。
「流れが厳しくて行けないので、夜明けを見て直ぐ救助に向かうので頑張ってください、多分6時ごろになるでしょう」、との連絡を受けました。(3時頃の時)
3時から4時は一番眠たい時間で、居眠りしてしまいそうな人もいましたので、眠らないようにしようと思って、誰かが呼吸をするためには歌を歌いましょうということになりました。
歌は苦手だったが賛成しました。
何を歌ったらいいかいろいろ考えて「上を向いて歩こう」を歌おうという事になったが、なかなか歌い出さないので、まずは小さい声で歌い出したら、次のフレーズからは皆がワーッと歌ってくれました。
歌詞の替え歌を歌ったら誰かがクスッと笑ってくれて、それが又元気を貰いました。

5時には完全に屋根には水が無くなってしゃがんでいました。
ヘリコプターが来てくれて、みんなワーワーと言いました。
一番年齢が高く弱っていた人(88歳)から釣り上げることになりましたが、4~5m上がった時に手が上がってしまってベルトが外れて落ちてしまって、レスキュー隊の人が受け止めようとしたが、一緒にドボーンと入ってしまったが、助け上げて今度はレスキュー隊の人と一緒につりあがって行きました。
8時頃に私たちが最後に救出されました。
しばらく水が怖かったです、夜寝るときに天井の木目が渦を巻いているようで厭でした。
バスは車高が高いからという安心感がどこかで有って気が付くのが遅かったと思います。
屋根の上での連帯感があったように思います。
その場で持っているみんなの一番いい知恵を採用しようという決断もありました。
いつどこで何があるかわからないということを、常に頭に入れながら行動しないといけないと感じています。