2017年9月19日火曜日

池永康晟(日本画家)           ・新たな美人画をめざして

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして
1965年大分生まれ51歳、独学で日本画の画法を研究し、独自の画風を確立しました。
画家としてのデビューは遅く本格的な個展は40歳のときだそうです。
インターネットで徐々に評判が広がって2014年に出された第一画集、画集としては異例の1万2000部以上を売り上げてロングセラーを続けています。
日本の近代美人画と言うと上村 松園鏑木清方が2大巨頭で昭和では伊東 深水を最後に衰退をしてきました。
この途絶えていた美人画というジャンルの復興を目指して描き続けている池永さんです。

モデルの女性は清楚さと妖艶さを持つ複雑な表情で、服装は洋服であったり和服であったりするが、花や植物の柄が多く使われていて装飾性に富んでいる。
顔や肌の色が特徴で背景は褐色。
肌の色を出すのに25歳~35歳まで10年ぐらいかかってしまいました。
その間作品らしいものは描けなかったです。
美人画としては、書かれている女性に見た人が恋が出来るかどうかということが大事だと思います。
モデルが変わっても共通する、好みが半分入っているんだと思います。
僕の理想の造形的な女性もありますが、理想的な顔、振る舞いが私の中に有ります。
観ている人が自分の経験でその絵にかぶせてみることが多いので、内面は見る人の経験なんです。

美人画のジャンルが廃れたのは、美人画を思い浮かべるのは着物を着て、日本髪を結って、うなじを見せながらしどけなくたたずむ女性と言うイメージがあると思うが、戦後はそのような人は居なくなってしまう。
それを描き続けると嘘を描くと言うことになってしまうので、段々描く人が居なくなってしまった。
その後に現代的な女性を描くべきだったんですが、それを続けなかったということです。
グラビア的な役割、写真やグラビア雑誌の発達と同時に写真、グラビアに役割が取って替わってしまって、段々無くなっていったと思います。
今、女性が人物画を描いている人が凄く多くなってきて、男性の作家が少なくなってきた。
昔は写真は男の道具だった。
男性が女性を撮ることが主流だったが、女性の道具になり、女性が自分の暮らしを写真に撮り始めたら男性はなかなかかなわなくなる。
絵画でもそういうことが起こっているのかなあと、今思っています。

私は身の回りの女性を描き始めたが、美人画という意識はなかったです。
絵描きになりたいと強く思った事はなくて、3歳ぐらいの時に自分は絵描きだと思ってしまったんです。
自分の外の世界に気が付くと言うのが自我の目覚めだと思うんですが、その時に自分と言うものがこの世に有るんだなあと思ったときに、自分は絵を描く人なんだなあと思いこんでしまったんです。
3人兄弟の末っ子だったので、放っておかれて、鉛筆と紙だけを渡しておけば静かにしていた子だったようです。
父は絵を描いていて、母親も描いていたみたいです。
親は兄を絵描きにして私を小説家にさせたかったようです。
高校は大分芸術緑丘高校、音楽と美術のクラスだけの芸術の高校です。
日本画をやりたいと思って入ったが、サルバドール・ダリの自伝にはまってしまって、絵描きは普通じゃいけないんだと思ってしまって、絵の具を叩きつけるように人物画を描いていたら、情熱家だねと油絵の先生から言われて油絵を専攻しました。

卒業制作を2人だけ県展に出していいと言われたが、県展には人物画を100号で取り組み、卒業制作の50号には、黄土色、黒、白だけあればどんな絵も描けると言われてやってみようと思って、黄土色のコンクリートの流し台にかぼちゃを置いて蛇口を描いて、卒業制作にしました。
黄土色、黒、白は今思うと、今使っている3色なんです。
今も学校には飾ってあるようです。
美大に行くと言うのは大変だと思って、東京に行きたくて写真専門学校に行きました。
前田信三さんの写真が大好きで写真の勉強をしたいと思いました。
1年通ったが辞めて、国分寺に武蔵野美大があるが、美大にいっていた人たちの高校時代の人達のコミュニティーが出来ていて、そこに転がり込んで点々として油絵を描いていました。
しばらく風景画を描いていました。
岡田 有希子さんのファンだったが、(歌手)自殺して、それがショックで、彼女のために霞草の花束を50号に描こうと思いました。
枝が細く油絵ではどうしてもうまくいかず、友達から日本画で描くものだと言われて、日本画の絵の具をそろえ始めました。
綺麗な女性が好きで岡田さんは理想に近かったですね。
後藤久美子さんが一番の理想で、美意識の原点であり頂点ですね。

絵具の接着のし方から判らなくて、日本画は岩を細かく砕いた絵の具をゼラチンをといで描くが、紙かシルクの上に石をゼラチンで定着させる訳ですが、磨り込むというよりは置くと言う感じで、最初どうしても擦ってしまうんです。
くっつくようになるまで1年ぐらいかかりました。
絵具の分量、ニカワの濃さ、ニカワをとぐ時の温度、絵具を何回擦ったかなど、全部数字でデータを取って、どうしたらくっつくんだろうと言うことばっかりやっていました。
その間アルバイトをしたり、前田信三先生のところで仕事をさせてもらって、そこで構図のきり方の勉強になって、必要なところだけ切り取っても全体が判るんだと言うことが
判るようになり、その後の構図の取り方には随分影響があったと思います。

母の具合が悪くなり故郷に戻り、人物画を描き始め、肌色を探し続けたがどうにもうまくいかなかった。
家の前の蜜柑畑の土をニカワでミキサーにかけてキャンバスに塗り込んだが、失敗したと思ってお湯で洗い流そうと思って、お湯で洗い流した途端にぱっと肌色に発色して吃驚しました。
1年後東京に戻り、再現する事がなかなかうまくいかない。
段々肌色が再現できるようになり、作品を描き始められるようになりました。
キャンバスにまず褐色の土の絵の具を磨り込んで何度か洗って、染まったような形になりその上に肌色の土の絵の具を塗って何度も洗って、地の褐色と上の肌色と糸が織物のような表情が出るんです。
褐色と肌色の織り目があることで、見た人が織り目の表情を拾って、質感に替えてみるんです、それがとっても大事でそれが特徴だと思います。

2003年に青山のカフェで個展を開くが1枚も売れなかった。
人に見てもらえたという満足感はあったが、人物画は売れないんだなと思いました。
2005年 40歳で本格的な個展を開く。(京都のホール)
この時は作品は完売しました。
そのころホームページを始めて、作品を発表できるようになり、人物画を普通に描く人がやっと出てきたねと言う評価でした。
日本国内よりは海外からの作品の画像を使いたいと言う問い合わせが早かったです。

2014年画集「君想ふ百夜の幸福」を出す。
2015年 AKB48の総監督 横山由依さんのファースト写真集が出たが、その中に4枚の絵が入っている。
秋元さんから横山由依さんは京都美人なので日本画の美人画を是非入れたいと言うことで話を頂きました。
安心して絵で生活できるようになったのは、ここ3年ぐらいでしょうか。
貧乏で大変でしたが、自分でやったことなので楽しかったです。
2016年若い女流画家の美人画を集めた画集が出版されたが、この編集にも携わりました。
こんなに人物画を描いていると言うことを世間に見て貰わないといけないので、この本を出すと言うのは、この10年来の目標でした。
嬉しい、満足しています。
若い人は今人物画を描いています、沢山います。
ぼくらが子供のころは、絵画が生活の中に有りました、本の表紙、挿絵、お菓子のパッケージ、ポスターとかに絵画が使われていたので、又そうした時代が来るといいなあ、そうしたいと思っています。