2017年9月22日金曜日

富丘太美子(画家)            ・鋳物工場の“美しさ”を描く

富丘太美子(画家)        ・鋳物工場の“美しさ”を描く
江戸時代から鋳物の町と知られる川口市で鋳物職人や工場の様子を描いている画家。
高度経済成長期に鋳物産業が最盛期を迎えた川口市は、映画「キューポラのある町」の舞台になるなど鋳物の町として全国に知られるようになりました。
一方、都心へのアクセスが良いことから、宅地化が進み今では鋳物工場の数は全盛期の1/10程に減っています。
富丘さんは15年ほど前から鋳物工場の様子や「湯」と呼ばれるおよそ1400度の溶けた鉄に挑む職人の姿などを描き続けています。
81歳になった今も地元の産業を残していきたいと、キャンバスに向き合う冨丘さんに伺いました。

私が鋳物工場を描くようになったのは、主人がキューポラの煙突部分とか工場を描いていたのがきっかけとなりました。
40年間教師をやっていましたが、私は趣味を何にも持っていませんでした。
子供の頃、戦後になって、絵の本があってそれを写すことなどをしていました。
中学になって同級生の顔を描いたのは覚えています。
高校は選択で書道をやっていて、大学では茶碗を描いた位です。
退職して、仕事が無くなったらどうなるんだろうと思いました。
主人が絵の教室のところに行っていたので、行ってみようかなと思いした。
主人は私が絵を描き初めて1年で急性心筋梗塞で亡くなってしまいました。
主人が亡くなってから、絵がたくさん残っていて、木枠から外して丸くなっていて、沢山あるとは知りませんでした。
息子夫婦と家族展をやろうかということで、主人の絵を調べ出したら、鋳物工場の絵が一杯あることに気が付きました。

その後遺作展をすることになり、100点ぐらい出しました。
私には何処の工場を描いたのか分からなくて、探して工場の中に入ったら物凄く湯の色がきれいでそれに魅かれました。
こんな美しいものがあるかと言うぐらい綺麗に見えて、自分も工場を描いてみようと思いました。
湯の色を中心にして働いている人を描こうと思いました。
鋳物職人がとっても鋳物と言う仕事に愛着を持っていることを感じました。
湯の美しさと、鋳物師が真剣に鋳物と向き合っている姿を描きたいと思って描き始めました。
鋳物工場で描くことは、危ないし、邪魔してしまいそうで、「吹き湯」も神聖であるし、写真を100枚位デジカメ、アイパッドなどで撮ってきて描いています。

工場は冷房が利くわけではなく扇風機で、塩をなめなめやっています。
キューポラの街と言うけど、鋳物工場は少なくなってしまってしまいましたので、鋳物師の真剣な態度、湯の色とかを残したいと思いました。
川口は鋳物の街で鋳物に関係している人達は多いです、そういう人たちがいろいろ教えてくれるんです。
絵を見に来てくれた人たちが、感想を書いてくれて、又是非見たいとか書いてくれました。
鋳物工場を描き始めてから15年ぐらいになります。
こないだの個展の時も、鋳物工場をやっていたんだとか、言ってくれたりして懐かしんでくれました。
息子の友達が来て感動してくれたりして嬉しかったです。
絵を見て小さい子が「アチチ」といったりして、私自信が描いていて熱さを感じることがあります。

回り中が鋳物工場だった時には、みんなが同じ環境にいるのでやりやすかったが、回り中が住宅になってしまって、1軒だけだと苦情が来る、臭い、粉じん、音だとかが周りの人にはやりきれないと言うことでクレームが来て、やれなくなってくる。
鋳物師は誰にでもできるものではなく、ちょっとした加減でうまく行ったり行かなかったりする。
その人は出来ないことはないといっていましたが、自信を持ってやっていた人も歳で辞めて行ってしまいました。
その人が湯を注ぐ時に力を入れては駄目だと言っていました。
父親が漆職人だったので、一徹な気風と言うのには魅かれるところがあって、そういう方がこれからは少なくなり、いなくなってしまうのではないかと思います。
描かれた人達も観にきてくれましたが、小学校の教え子の人達も観に来てくれました。
もっと実感のこもった絵を描きたいと思います。(今は50点ぐらいか)
80歳になって終活と言うことを思って100号の絵をずらっと並べたが、みなさんに凄く褒められたのでもう少し続けて行きたいと思います。
主人とは1年程絵を一緒にやったのみで、主人は亡くなってしまって、本当に残念で落ち込みました。
仲間の人に描きにおいでよと言われて、最初のころは泣きながら通いました。
癒えると言う事はなかなかないが、絵を描くことに没頭できることがよかったと思います。