2020年1月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】宮城道雄

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】宮城道雄
「私は目で見る力を失った代わりに耳で聞くことがことさら鋭敏になったのである。
普通の人には聞こえぬような遠い音も、又かすかな音も聞き取ることができる。
そしてそこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ寂しさを十分に満足させることができる。
そこに私の住む音の世界を見出して安住しているのである。
昨年の暮れちょっと風邪を引いて欧氏管(鼻咽頭の側壁と鼓室前壁を結ぶ長さ約3.5cmの管)を悪くした。
普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、9つの歳に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して私の心を暗くした。
もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。
音の世界にのみ生きてきた私が今耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。
幸い何のこともなく全治したが、とにかく今の私には耳のあることが一番うれしく又ありがたい。」  宮城道雄

日本の音楽家、作曲家であり琴の名人。
1894年(明治27年)生まれで江戸川乱歩と同じ年の生まれ。
純邦楽を聞く人は少なくなった。
お正月には宮城道雄の「春の海」を聞くことが多かったが。
宮城道雄は当時の文学者から高く評価されていた。
内田百閒が琴の弟子として入門し、親友となる。
内田百閒の勧めで宮城道雄がエッセーを出すようになり、川端康成、佐藤春夫などから高く評価される。
宮城道雄は目が見えないので耳はとっても大切なわけです。
耳まで聞こえなくなると思うと自殺よりほかはないと思ってしまう。
五感の一つを奪われることのつらさを知っているからこそ、二つ目を奪われることは耐えがたかったと思います。
宮城道雄はヘレン・ケラーが来日した時に会っているが物凄く感激して尊敬しています。

「よく人が盲人は真っ暗なように思っているがそれは少しでも見えることで、私には暗いのも見えなくなっているので、結局明るくもなく暗くもなく何にもないことになる。」
宮城道雄
病気、障害に関しても体験者にしかわからないことがある訳で、体験者しかわからないことを聞くという事がもっとあっていいんじゃないかと思います。
耳で声とか音を聞くだけで、相手の人の顔、体つき、性格とか、その時の気分までわかるというんですね。

「世界中で同じ人相がないのと同様に、声も又人々によっても違っている。
その声の調子によってその人の性質、顔の形がわかるのである。
ことに性格はよく声に現れる、そしてその時の表情なども大方は想像できるのである。
同じ人でも心に悩みがある場合はどんなに快活な声を作っていても直ぐに判るものである。
よく「お顔の色が悪いがどうかされましたか」というが、私なら「お声の色が悪いがどうかされましたか」と聞きたいところである。
よく子どもなどが稽古に来た時に行儀を悪くしているのはすぐ判る。
私が「ちゃんと座って」と言うと吃驚して座りなおす。
それで思い出したが、ある夏の暑い日の事であった。
尺八の合奏に来た書生が私にわからぬようにそーっと着物を脱いで吹こうとした。
その時私が「裸で涼しいでしょうな」と言ったら、その書生は驚いて着物を着たことがあった。」 宮城道雄 「音の世界」
目をつぶって食べると味が判る様になってよりおいしい、視覚の情報がなくなる分、味覚の情報に敏感になると思うので、目が見えないと聴覚に集中するようになって、通常ではありえないほどいろんなことが判るようになるんでしょうね。

「私は7,8歳の頃少しまだ目が見えていたが、そのころなによりも辛く感じたのは、春が来て4月になると親戚や近所の子が小学校へ上がる事で、私も行きたいが目が治らない。
親たちが気休めに学用品を一揃え買ってくれたが、私はそのカバンをかけて学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。
目を本に付けるようにして字を教えてもらったこともあった。
おばあさんに時々学校の門ヘ遊びに連れてもらったが、中でみんなが元気よく体操をしたり、遊戯をしたり、唱歌を歌いながら遠足に出かけたりするのを聞いていると、急に悲しくなって学校の門を摑まえて泣いたことが幾度もあった。
9歳の時、一番最後に見てもらったお医者様がこの子の目はもうどうしても治らない、今後もよい医者とか薬とか言われても決して迷ってはならないと、私のおばあさんに言われているのを聞いて私はもう胸が一杯になった。
今日こそは目が治ると思って楽しんでいたのに。」 宮城道雄
学校にいけないとなると辛い。
仲間もいなくて校門の前で泣くしかない。
医者が完全に希望を打ち砕いているが、残酷なようですが、小学校に行くのをあきらめて琴の道に進んだわけです。
希望と絶望というのもなんとも不思議なものです。

父親が韓国で雑貨商を営むが、宮城道雄が11歳の時に暴動に巻き込まれて、商品は全部盗まれるし、父は重症を負ってしまう。
仕送りが無くなって11歳で自活しなくてはいけなくなる。
師匠の代稽古をさせてもらって収入を得るようになる。
父親の怪我が治らず逆に父親から助けを求めてきて、13歳で韓国に渡って一家を支えなくてはいけなくなる。
宮城道雄は朝早くから起きて琴の練習をして、昼間は琴を教えて、夜は尺八を教えて生計を立てていた。
15歳の時に伊藤博文が演奏を聴いて、素晴らしいと言って東京に連れて行ってくれると約束したが、3か月後に伊藤博文は暗殺されてしまう。
23歳で日本に戻ってくるが、無名の為生活は苦しい。
25歳で演奏会を開き「水の変態」(満14歳の時に初めて作曲した作品)を演奏する。
「私は学校へ行けなかったが、学問が好きで弟が勉強しているそばにいつもついていて、いろいろ聞き覚えをしていたが、読文の中に水の変態というのがあって、水が霧、雲、雨、露、霜といろいろに変わるという和歌であった。
私はそれを聞いて面白く感じたので16歳(数え歳)の時、この歌によってはじめて水の変態の作曲を試みた。」
*「水の変態」

「目が見えなくなってから私が生きる道は音の世界に限られてしまった。
子どもの頃はそれがどんなに悲しかったか知れない。
しかし 琴を習い始めてから 段々心持が落ち着いてきて目が見えないことをそんなに苦にしなくなった。
今ではもう悲しいどころかむしろ幸いだったと感謝している。
これは決して負け惜しみでも何でもない。
目が見えなかったからこそ、私は琴に親しむようになったので琴を弾いていさえいれば、この世の生活を有難いと思い、しみじみとたのしむことができるのである。
もしなまじ目が開いていたら私は今頃何になっていたか知れない。
目が見えなかったばっかりに私の生きる道を音楽の世界と決め、琴を友としてわき目もふらずこの道を進んでこられたのだと思う。
目の見える人は職業の選択にも私どもよりは自由が与えられている。
自由は与えられているがそれだけに若いうちは、自分の現在ある地位や職業に不満を抱いて迷う事も多いと思う。
その点は私ども盲人は幸せであるといいうる。
私たちはただこの道を行くよりほかはない、迷ったりする余地はない。
ただまっしぐらにこの道を進んでゆく、その一念が私を今日あらしめてくれたともいえるのである。」 宮城道雄
*「瀬音」

宮城道雄は才能があり琴の一つ道を進んできて、宮城道雄のようにうまくいった人の言葉が残るが、これは危険な言葉であるとは思います。
背水の陣で懸命にやってもうまくいかない時もある、そういう時は大変です。
上手くいかない可能性もあるので、思いすぎてしまうのもとっても危険です。

「私にはやっぱり目が必要でした。
私の目は家内でした。
貧乏が酷かったので質屋にもずいぶん通ったり色々な苦労を掛けましたが、30年の月日を通じて生活の面で私はずーっと家内におぶさってばかりです。
家内は若い時分はよく琴を弾きましたが、いつのころからすっかり辞めて私の目となる事だけに生きるようになりました。
そして私の仕事に対するなかなかの大批評家になりました。
母心の適切な批評をしてくれます。
ほかの人と外へ出かけた時でも、何か遠くから家内が見守っていてくれることを私は感じます。
それだけで私は安心して仕事ができます。
手を取ってくれる年月が長くなるにつれて、母という漢字が家内に加わって、私が頼りきって修行を続けています。」 宮城道雄
*「春の訪れ」

しっかりしていても自分だけでは生きられない。
人はお互いに迷惑をかけるのが当たり前、と変えたらそれだけでも随分違うと思います。
ルールの違いというのがあります。
或る車椅子の人の光景を宮古島の病院で見て、送ってきてくれる人はいなくなり、帰りは誰かに送ってもらおうと、人に迷惑をかけるという様な思いはなく、頼みづらいという事はなくて安心しきっていてこれには感動して、こういう社会ができる社会だったらどんなにいいかと思いました。

「人生には不幸を通ってくる幸福がある様に、落ち葉のかなたには春の芽生えが待っている。」 宮城道雄