秋山竜子(秋山リナの母) ・アスリート誕生物語
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会で100m背泳ぎで金メダルを獲得しました。
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会後に現役を引退されました。
里奈は今は一人暮らしでOLをしています。
料理を覚えレパートリーもたくさん増えました。
部屋もきれいに掃除が行き届いています。
水泳から引退後は泳いではいません。
生後2か月ぐらいで網膜剥離を医師から伝えられました。
意味が分からず直さなければいけないと思いました。
これから先まず視覚障碍者としての育て方をした方がいいといわれましたが、1年ぐらいは病院をいろいろ探して直す事にかけていました。
その後視覚障碍者の小さな子が行く「ひよこ教室」のところに行きました。
ピアノ、水泳も習い始めました。
成長してゆくにしたがって普通の子と同じようには育っていきました。
水泳は3歳の時から姉が始めたので一緒に始めました。
水を怖がらない子でした。
コースロープを使うようになったのは小学校に上がってからなので、そういったことはコーチに任せました。
自分からもっと行きたいという様になりました。
小学校5年生の時に、河合純一さん(全盲のパラリンピックのメダリスト)が「夢を繋ぐ」という本を出して、パラリンピックというものがあるという事を知ったんだと思います。
学校の先生が読書感想文を書くように言われたときにパラリンピックを目指そうという考えを書いたようです。
本人が目標をもってやる事はいいことだと思って応援したいと思いました。
兎に角本人が楽しめればいいと思いました。
眼が見えないという事は家族の中では禁句にしていました。
自然と自分が判ってゆく事だと思いました。
幼稚園に通い始めて周りとは違うという事が判り始めました。
見えないと普通に言えるようになったのはある程度大人になってからでした。
何倍も時間が掛かりましが縄跳びとか自転車にも乗れるようになりました。
姉と何でも同じようにさせました。
当時は一般の小学校に入るのは難しいので、週に一回交流という事で地域の小学校に通うという形を取らせてもらいました。
人数も多いし遊びも全然違うのですごく生き生きしていました。
私が好き嫌いが多かったもので、里奈も好き嫌いが多いので里奈が何か好きなものを沢山食べてもらえればいいと思いました。
素材を生かしたシンプルなものが多いです。
中学からは親元を離れて筑波大学付属視覚特別支援学校に進学します。
本人が友達が欲しいから人数の多いが校に行きたいといいました。
私は無理だと思って諭すように言いましたが、「私の人生だから私が決める」というので了解することに至りました。
12歳なので何から何まで一人でするので私としては大反対でしたが。
週末は必ず帰ってくることを約束しました。
お稽古事、英語、ピアノ、水泳を週末に稽古をしました。
寮の料理はなかなか食べれないので痩せて帰ってくるので、家では目いっぱい好きなものを食べさせて送り出しました。
高校卒業後明治大学の法学部に進学しました。
大学院にも行きましたが、すべて当人が決めていきました。
最初のパラリンピックはアテネで16歳で代表になりました。
当時TVなどでの放送が無かったので、パラリンピックはあまり理解していませんでした。
近所のかた、親戚、私の友達とか24,5人で応援にアテネに行きました。
100m背泳ぎで銀メダルを獲得することになり、素晴らしいことだと思い私たちは涙涙でした。
本人は金メダルが欲しかったようで私たちと会った時には笑顔はありませんでした。
北京では視覚障害の背泳ぎは実施種目から外され、自由形50mに出場8位入賞でした。
決勝に出場できたのはメダル取ったときよりも、里奈は喜んでいました。
ロンドン大会では100m背泳ぎが復活して金メダルを獲得しました。
里奈が苦しんで苦しんだ一年間で、兎に角金メダルを取って引退をするというのが目標でした。
私としては嬉しい反面寂しい一面がありました。
周りの50人以上の応援団の人たちは大喜びでした。
ロンドンの直前は当人は絶不調でしたので私も眠れない日々でした。
里奈は引退することになり一人暮らしに向かって用意を始めました。
自分が立てた目標に向かってコツコツやる負けず嫌いな娘です。
私としてはただ里奈についてゆくだけでした。
外資系の会社に入り、一人暮らしを始めました。
今度は本当にまるっきりの一人暮らしになるので心配で心配でしょうがなかったです。
私はめそめそ泣いて体重が3,4kg痩せました。
コンビニへ一緒に行ったり簡単な料理を教えたりして、この子だったら大丈夫だと自分で納得しました。
親孝行という意味では健康第一、よく食べよく寝ること、もう少し気楽になってまわりにも甘えて、自分に自信をもってこれからもいろんなことに挑戦してほしいです。