若松英輔(批評家・随筆家) ・読む・書くを通して言葉の力を取り戻す
若松さんは1968年新潟県糸川市生まれ、慶應義塾大学文学部仏文学科に入学し、雑誌三田文学に参加しました。
卒業後会社員や会社経営を経て2007年中断していた文学活動を再開し、活動論文や著作物で三田文学新人賞や西脇順三郎学術賞を受賞しました。
2007年に刊行した「小林秀雄 美しい花」は去年角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
著書にはほかにも『魂にふれる 大震災と、生きている死者』、『悲しみの秘義 若松英輔エッセイ集』、『言葉の贈り物』、『詩集 見えない涙』など20冊を越えます。
「読むと書く」と名付けた少人数の講座を東京都内で開いています。
若松さんは著書や講演の中で自分の不完全さを認識させてくれる、書く事は自分が何者であるかを知る行為だと述べています。
書くタイミングがあり、自分が空になってゆくようなときに書けるんです。
朝起きたときには大変書きやすい、夜はご飯を食べた後数時間後に書けるといった感じです。
心の中にあるものがスーッと浮かんでくるような感じなんです。
書くという行為は頭の中にあるものを書くというよりも、書くことで自分が何をもってるのかを知るという事です。
東京工業大学は2年目になります。
人間文化論、人とは何かというところからは離れない、という様な教え方をしています。
全員理科系なのでやってこなかった文科、哲学などを教師として提示することが僕の仕事だと思っています。
苦手で早くこの時間が終わってほしいと思っているようなことに、まっすぐ向き合ったら、これからいろんな道が増えてくるんだと言っています。
学校は安心して失敗できるところだと思います。
「小林秀雄 美しい花」 角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
評論はこれはよかったとか悪かったとかですが、批評は隠れたものを明らかにしてゆくのが批評です。
語る事で彼は何を伝えてきたかというと、自分がいかに多くのものから影響を受けたかという事なんです。
多くの小林秀雄論は小林秀雄がいかに多くの人に影響を与えたのかという書き方をしていて、逆だと思いました。
それを書いてみたかった。
小林秀雄はいろんな人から光を受けてそれを照らし返した人だと思います。
美しいは「かなしい」とも読みます。
美しい花が一つしかないように、あなたのかなしみも又ただ一つなんだという事です。
小林秀雄は自分の中に繊細なものを持っていた。
読むという事が深まってくると文字面は多くの人が読んでるが、意味としては個人への手紙だと読めてくるときに本当の出会いがあると思います。
30年以上かかってその返事を書いたという本です。
『本を読めなくなった人のための読書論』
今は本を読む人が少なくなった。
読まないのではなくて、読めなくなったと思ったんです。
本は全部読まなくてもいいと思います。
心を揺るがすような言葉に出会ったら、本を一度閉じてもいい、もう一度開きたくなったら読む、その間が数年間あってもいいと思います。
答えを見つける風に本を読みがちですが、本当に出会った本は問いかけられていく様な感じがします。
石牟礼道子さんの『苦海浄土』の本は高校生の時に読み始めましたが、読み終わったのは43歳です、読もうとしますが何度も突き返されました。
今も謎の本です、そういう本に出合ってもらいたいです。
本というのは文字を追うだけが本との付き合い方ではないと思います。
父は目は殆ど読めない状態でしたが、毎月4,5万円分本代にかけていて、本は積みあがってゆくが、本が読めないんだったら本はもういいんじゃないかと、母を通していってもらいたかったが、母はできないといいました。
友人から「お父さんは本を読めないからその分だけ余計に本が大事なんじゃないの、買う事が」と言われました。
眼からうろこで、文字を追うだけでなくて、その存在と付き合ってゆく事が大事だと気が付きました。
上手く書くという時には必ず人は誰かに似てきてしまいます。
文章を深く読めると人の話も深く聞けるようになります。
文章をちゃんとその人らしく書けるようになると、たどたどしいがその人の声でちゃんと喋れるようになります。
書くという事は本当のその人と出会う事と同じことなので、うまく書いては駄目でうまく書けないことの中に何か意味を見つけていくことが大事だと思います。
何を書こうかと思わないで書くのがいいと思います。
浮かび上がってきたことをそのまま言葉にするんです。
実は我々はそれを話す事でやっているんです。
打ち合わせと対話は違います。
対話と打ち合わせが一番違うのは、対話は偶然があった方がいい、対話は意識だけではなくて、心の深いところが動き始める。
打ち合わせの時にはそれがない方がいい。
読書も打ち合わせするみたいに読むような傾向があると思います。
もっと自由に読んでいいと思います。
読むと書くは、食べるという事と置き換えた方が判り易いと思います。
我々は料理人で料理を作るが食べていただかないと作った意味がない。
美味しいと言って食べてくれたら報われたことになり、読まれることによって命を帯びるんだと思います。
料理と違うのはその人が亡くなっても、書いておけば100年後に読んでくれるかもしれない。
「志樹逸馬詩集」、文学に深く刻まれる詩人だと思いますが、自分はそんな人間だと思わないで亡くなったと思います。
志樹逸馬さんは大変豊かな大きな仕事をした方ですが、知られていない。
神谷美恵子さんの「生き甲斐について」に複数回でてきて、神谷美恵子さんに決定的な影響を与えた人です。
「かなしい」は漢字にすると5つあります。
悲、哀、愛、美、愁 かなしいとひらがなで書くとこの5つが折り重なっている。
愛のないところにかなしみはない。
かなしみが深まっていくとかなしみは忘れられることはないが姿を変えて行く。
不完全さを受け入れてみると亡くなっている人というものは、自分の中で本当に声も聞けず手に触れることもできないが、存在するんじゃないかという事が何となくわかってきました。
物を書くときに亡くなった人たちに誠実に尽くすように書きたいと思ています。
やり損ねたこと、感じ損ねたことというものを人は取り戻すことはできると思う、過ぎてしまったことはどうしようもないと思いがちですが、過去の意味を変えるべく今日を生きることができる。
初老の人が茫然と泣いていた時に声をかけたことがありました。
俺は伴侶と一緒にいたときには、何故このことを感じたことができなかったんだろうとその人は言っていました。
人は一人でいる時にしかわからないことがあると思う。
大事な人と今日も逢えた、明日も逢えたら嬉しい、やっぱり今日も逢えたという様なことをもっと噛みしめていいと思っていて、今を愛しむという事を兎に角深めていきたいと思っています。
出来うればそういう人たちの幸せに、少し自分が関与できたらいいなという感じになってきました。